非正規労働者の犠牲の上に成り立った砂上の楼閣

工場や建築現場の季節労働者は昔から存在し、彼らには帰る故郷があったから悲壮感は少なかった。しかし、昨今の工場の非正規労働者の存在は全く性格が違う。正規労働者の豊かさを維持するために安い給料で犠牲を強いられているだけの存在である。今回の金融不安から全世界的な需要の落ち込みを想定した非正規労働者の雇用打ち切りが相次いで通告されている。企業論理としては必要なくなった非正規労働者の雇用を打ち切るのは、今回の様な需要調整の社員としての位置づけとして当然と看做すであろう。非正規労働者が何故生まれたのかを考えると、バブル経済崩壊後に資産デフレとなり企業はバランスシートを改善するために経費を削減する必要に迫られたことが主たる原因と思える。尤も、このモデルは長く景気低迷していた欧米の企業が採用していた雇用方法でもあった。このモデルの長所は、従来の様に好不況によって正規労働者の人員整理を行う必要はなくなり、労働組合との対立も少なくなると言うことの様に思える。同時に、輸出に対して為替の変動によるコストを非正規労働者の雇用で調整できるメリットもあった様に思える。しかし、非正規労働者の出現は、正規労働者との間で格差を産み、秋葉原事件も引き起こしたのである。同じ仕事を強いられて給料が違う理不尽さが何を社会にもたらすか企業経営者も官僚も政治家も考えていないに違いない。極端に言えば、雇用を保全された正規労働者が怠けて非正規労働者に必要以上に労働を強いた会社もあったに違いないと推測する。為替変動と正規労働者の給料を保全するために犠牲を強いる社会に未来の展望はない。マスメディアも矛盾に満ちた報道姿勢を続けている。日本には既に競争力がある技術の工場しか残っていないのにである。一方で、非正規労働者に利益還元しないで株主優先とする配当率を引き上げていたが、今回の金融危機で分かったことは幾ら高配当をしても株主は状況によっては株を売却して避難してしまうと言う事である。今回の金融危機で分かった様に欧米の社会経済システムの方が優れているなどと言うのは幻想である。心の豊かさを追求したアジア文明に戻って再度社会経済システムの構築を目指すべきである。

非常事態の財政出動にも財政健全化を主張する恵まれた者達

世論に多くの意見があるのは健全な民主主義の証かもしれないが、非常事態に遭遇しようとしている経済に対して財政出動に対する懸念を表明する者達は、不景気に関係ない官僚や政治家、そして金持ちだけだろう。中国の古典に確か似たような比喩があるのを思い出した。記憶では、洪水で道路の水溜りに残された魚が、通行人に川へ戻してくれる様に頼んだら、その通行人は今は急いでいるので、3日後の帰りに川に戻してあげると言った話である。イソップ童話の中国版と言った所である。昔からこの様な比喩があると言う事は人間は成長してないか、自分の問題しか理解できない人間の宿命と言える。先の話は蛇足となるが、3日後には魚は日干しになっていたと言う落ちが付いている。バブル経済崩壊後の対応が悪くて失わなくても良い国富が多く失われた。結果的に、景気回復に財政を小出しにしたため余計に赤字国債を増大させてしまった。諺に"二兎を追うもの一兎を得ず"があるのは承知の事実である。景気回復と財政健全化が両立しないことは自明である。それなのにそれを唱える輩は景気回復より財政健全化を優先していると言う事である。この意見を言えるのは生活に困らない官僚と2世・3世の政治家だけである。財政難なら、「政党助成金の廃止」、「公設秘書の廃止」、「公務員の給与を中小企業の社員の平均給料にダウン」を断行すべきである。少なくても、健全財政論を主張するなら自ら痛みを受けるべきである。来年は確実に30%の経済ダウンが予想され、未曾有の不景気が起きようとしている中で「政党助成金制度」に保護された政治家の党利党略の政争で貴重な時間を失っている。政治の浄化を得た代わりに、国民の声が聞こえなくなった政治家が多くなった。やはり中国の諺「水清ければ魚住まず」を思い出した。

個人の金融資産が投資に向かわない理由

政治家、官僚、更に企業経営者までが1500兆円の個人金融資産の活用と言う馬鹿の一つ覚えで日本再生を唱えている。小泉政権時の竹中平蔵が日本が良くならないのは改革を中断したからと性懲りもなく又出てきた。国民が何故投資に資金を投じないのか、これ等の者達は考えた事があるのだろうか。バブル経済崩壊後の政治家、官僚、企業経営者の行動によって国民は日本の指導者達を信用しなくなったからである。政策の失敗を企業や民衆に転化した姿勢や、バブル経済崩壊後の企業経営者の人情味のないリストラや意味のない成果主義の推進で日本の良い社会システムが破壊されたからである。極めつけは、小泉内閣のインチキ改革であろう。米国と財務省の筋書き通りに踊った小泉改革が一層人間不信の社会を構築したのである。日本道路公団の民営化に何故首都高速道路公団や阪神高速道路公団が合併して民営化を行わなかったのか不思議であろう。効率よい道路システムを考えるならば、日本道路公団と首都高速道路公団と阪神高速道路公団の一括民営化は不可欠であった。この道路公団民営化一つとっても小泉改革は全て本当に日本を良くするために行ったものではないことが良く分かる。しかし、この小泉が国民の首相にしたい人物として最も多くの支持率を得ている新聞報道があった。この支持率の調査自体信用出来るかどうか分からないが、百歩譲ったとして国民が真の改革を期待していることは間違いない。政治家も官僚も企業経営者の輩も国民の金融資産の活用を望むなら、日本国の大改造計画を立案し、将来的に国民が安心して暮らせる社会を作るために私欲を捨てろと言いたい。先頃、米国の自動車産業のビックスリーの経営者が、公的支援を仰ぐのに自家用ジェット機でワシントンに乗り込んで顰蹙を買ったと言うニュースを目にした。米英流の資本主義の無責任さが今の日本にも入り込んで、多くの企業経営者は自己保身ばかりである。この様な会社の株を買える訳がないことにも気づくべきである。

国民のために何も行っていない政治家ばかり

私の故郷に国会の政治活動に熱意を燃やした政治家がいた。その名前は"大森創造"と言い、旧社会党の参議院議員であった。年配の方なら記憶している方がいると思うが、昭和41年(1966年)に起きた共和製糖事件を綿密な調査で不正を国会で暴いた事件である。この他に、この年は色々な政治家が関係した不正事件が起き、国会の解散となった。何故今頃になってこの事件を取り上げたかと言うと、今の政治家は当時と比べて国から遥かに潤沢な政治資金を税金で得ているにも拘わらず、週刊誌記事から援用した材料位しか持たず、またインチキな材料に踊らされて政治生命を失っている情けない姿を見るからである。大森創造と言う人物は、地主の長男として生まれ、学歴は旧制中学から日本国が中国大陸に設立した難関の東亜同文書院大学(中国・上海)を卒業し、戦後は20代の若さで村長になり、30歳で県議会議員、40歳で国会議員(旧社会党参議院)となった故郷では立志伝中の人物であった。私の父も地方議員であり、思想的にも大森氏と近かったので支援者の1人であった。大森氏は不正を特捜するチームを設立して証拠となる材料を見つけて国会で爆弾発言を行ったのである。この特捜チームに参加したスタッフの中にはその後週刊誌の記者として活躍した者達もいた。この捜査は身銭を切って行ったと言う事を聞いた。また、事件を追及する過程で同じ旧社会党に所属する国会議員の加担も明らかになり、党から捜査の中止を求める圧力もあったと言う事であった。大森氏はこの様な圧力にも屈せず、事件を糾弾したのだが、これには後日談がある。大森氏は天才肌の人だったので、行動には常人離れした所があった。地元では誰もが理解している事で何等問題がなかったが、当時某週刊誌の記者が悪意で以って大森氏の行動の一部分を取り上げて狂人扱いにしたのであった。また、旧社会党からはこの狂人扱いの記事を利用して党の指導に従わなかった大森氏を次期の参議院選挙において公認しなかったのである。この様に、与野党とも国会議員は腐りきっていたのである。大森氏のその後ついてはブログに書き切れない程の話があるが、私の亡父が大森氏の政治家としての能力を惜しんで水戸市の市長選に担ぎ上げたことがあった。この時の水戸市の市長選は茨城国体を控え、水戸市長が水戸駅に天皇陛下を迎える役目と言うことで、自民党が負ける訳には行かないと言う背水の陣で臨んできたため僅かな票で届かなかった。実に惜しい結果であった。この様な故郷の政治家を思うにつけ、最近の政治家には失望するばかりである。作家のように本を出版する政治家も多いが、理想を語る前に政治生命を掛けて政治の場に臨めと言いたい。出来ないのを官僚や国民を言い訳に使う政治家は必要ないと思う。世界が金融危機で非常事態で臨んでいるのに、国民不在の党利党略に終始している国会議員を見ると、株価が下がる理由が分かる。株価下落は企業の問題でなく政治の問題である。麻生総理も棚からぼた餅的に総理になったのだから思い切って政治を行うのかと思ったら早くも官僚に丸め込まれてしまった。尤も、国税調査権を持つ財務官僚に麻生グループの件で恫喝されたのかも知れないが。それにしても胆力のない政治家と自己中の政治家ばかりであることに嫌気がさす。

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