屋上屋の規制強化が進む不動産業界

国土交通省では時代を逆行する様な必要以上の規制を不動産業界に課してきている。交通事故と同様な強い者が悪いと言う発想で全ての制度を改悪されたのでは不動産業者は堪らない。当社も不動産の管理を行なっているが、最近話題になっている賃料延滞の強引な立退きは賃料保証会社の存在が大きい。賃料保証会社と不動産管理会社を混同する様な屋上屋を重ねる規制は自由な競争を阻害して百害合って一利なしと言える。賃料保証会社は不動産管理会社とは本質的に異なる。もちろん、不動産管理業務と賃料保証業務の両方を行なっている会社があるかもしれないが、その様なケースが全体の1%にも満たない筈である。賃料保証会社が生まれる迄は、賃料の滞納によって賃借人が強引に立退きを求められる事もなかったのである。もし、規制するとすれば保証会社の方であり、これまで問題なかった不動産管理会社に対してまで枠を広げて規制する必要はないのである。なお、賃借人に関しても滞納しても連絡が付かないケースが多く、何も業者の対応ばかりが責められる問題ではないのである。一方的に賃借人だけを保護すれば滞納しても平然と居直る不誠実の輩を増やすだけである。不誠実でない滞納者に対しては強引な立退きなど不動産業界は行なってきていないのである。現場を知らない政治家や行政が必要以上に賃借人を弱者として過剰に保護する姿勢は社会の健全化に逆行する措置である。更に、格差社会を作り出した国家が引き起こした政策のツケを不動産業界に押し付けるなと言いたい。賃料も払えない人達に対しては空いている公団住宅に優先的に入居させるなどの措置が重要な事で、民民の事に必要以上に介入しないのが経済を発展させることである。規制だけでは良い社会が生まれない。そもそも論から言えば、賃料保証会社など今回の金融危機の経済不況に耐えられる事業モデルではないのである。

個人情報保護法に意識過剰な社会

格差社会とともに治安が悪くなり、更に情報化社会が到来して個人情報が悪用される恐れが出てきたことから「個人情報保護法」が成立したとされている。しかし、実際には政治家や行政が自己保全するために作った法律とも言われているが、諸外国とことなり「馬鹿のひとつ覚え」の日本国民には害もある法律となっている面もある。以前、TVにITで資産を形成した人がコメンテーターとして出たが、この人は死亡した人の情報まで個人情報違反ではないかと司会者に注意をしていた。何かで成功した人は謙虚さがなくなると同時に自らの無知にさえ気づかずにTVに出て「個人情報保護法」を金科玉条の様に振り回している姿は滑稽のひと言であった。最近特に思うのは有名人でもなく、お金持ちでもない人達が、何を恐れてマンションの郵便受けにまで名前を出さないのか分からない。私が住んでいるマンションの住人、特にデザイナーズマンションにリフォームされて新たに入居してきた若い人達は殆んど郵便受けに名前を表示していない。郵便局員も部屋番号が記載していなかったら配達する事が出来ないと思われ、本人にとっても良くない事だと思うが、この様な考え方は時代に合わないのかもしれない。ひとつ言える事は、何を怖がっているのかと言う事である。夜逃げでもしてきたり、多重債務者ならいざ知らず、普通の人達が正々堂々と生きられない社会など存在しない筈である。「個人情報保護法」に対する意識過剰で損をしている場合もあると思われ、若い人にはもっと自信を持った生き方を勧めたい。そう言えば、引越した時には左右上下には引越しの挨拶をする習慣があったが、この習慣も今は昔になった様だ。私の住まいは3階建の3階なので左右と下の階だけが挨拶の対象だが、先日に今度結婚して入居する階下の方が珍しくご挨拶に見えられた。多分、ご両親とお二人とも「個人情報」より人間関係を重視した生き方をしている方々なのと思い、久し振りに清清しい気分になった。

マンション建築確認の違法判決は乱開発に歯止め

東京都新宿区が条例の例外規定によって建築確認を下ろしたマンション建設計画に違法の判決が出された。判決内容からすれば至極妥当の判決だが、一方の新宿区役所は住民よりマンション業者の建設計画を優先したような確認認可には疑問が生じる。2000年以降の建築関係の規制緩和の悪影響が不動産開発の過剰性を生じさせてきたが、今回の判決は今後の乱開発の歯止めになれば良いと考える。尤も、私は地域住民のエゴを支持するつもりはない。今回の建築確認が8mの避難道路が必要なのを条例の特例で4mで認可した問題に規制緩和の悪影響だけでなく不正の臭いを感じるからである。欧米諸国の様な成熟社会の景気対策には住宅建設が効果的とされ、日本も例外なく住宅に関する多くの税制優遇措置等が取られて来ている。この様な政策を意識してか地方自冶体もデベロッパーや建設会社の住宅建設には寛容的となっており、地域住民の声は全てエゴとして片付けられる風潮があった。しかし、米国のサブプライム問題で露見した様に、景気対策のための無理な需要に基づいた仮想需要を誤魔化すための証券化が金融危機を引き起こすなど悪影響が出てきている。日本でも平成ミニバブルによりマンション価格が仮想需要で上昇し、金融危機後は実需との乖離でマンション業者が苦しんでいる。この10年を振り返ると都内に残っていた企業や個人が所有していた緑の林が住宅の再開発などで消失してしまった。私有地であるので売却や有効利用は仕方がないが、企業や個人に土地を従前の姿で残せない様に改正されてきた税制にも問題がある。縦割り行政の弊害が低成長の時代になって一挙に噴出したものと考えられる。以前から指摘されてきたが、日本人に頭の中には都市計画の概念がなく、場当たり的に処理してきたために行政の無駄も多いのである。少子高齢化や貧富の格差の拡大なども街づくりのプランには欠かせないのであるが、現行の法律では違法でなければ需要やインフラを無視した建築計画でも許可が下りる制度が問題でもある。しかし、この様な議論をすれば必ず規制が利権を生んで自由競争や市場原理の伴わない事業の高価格化を理由に反対意見が出ると思われる。自由競争や市場原理主義の理論は現在の様は複雑した社会経済システムでは仮想需要によるバブルを生む機会が増える事を考慮していないと思われる。尤も、市場原理主義者は崩壊と再生によって利益を生み出すことを考えているので、議論しても意味がないかもしれない。何れにしても、行過ぎた規制緩和は百害合って一利なしであるので、通常の規制を大幅に緩和されて成り立つような土地売買だけは行なわせない行政や住民の姿勢は大事である。不動産開発は単なる金儲けだけでなく準公共的な仕事として認識した者だけが行なえる事業であり、金儲けだけを考えた会社は淘汰されることを知るべきである。

不動産中古市場の問題点

平成ミニバブルが崩壊してから不動産中古市場が活発化している。中古市場の取引が増加したと言う事はバブル経済崩壊後漸く不動産市場が健全になった証拠でもある。不動産市場は長い間、中古物件より新築物件の方が「見た目」、「設備面」、「機能面」で中古物件とは比較にならないほど改善され、然も価格的に安いと言う逆転現象が続いてきたのである。それが平成ミニバブルのここ2~3年で新築物件の価格が急騰し、中古物件が価格的に割り感が出てきたことと、リノベーション工事費が下がったことなどから欧州の様に中古物件をリフォームして使用する考え方が増えてきた。しかし、戦後の日本の家屋は資源を海外に依存しているので建築費が高かったこととインフレを前提としていたために安普請の建物が多いので、欧州の様に室内だけをリフォームして長年建物を使用できるとは思えない。勿論、昔の田舎の木造建築家屋には立派な木材を使用しているので、建て替えなどには今でも使える部材が多いが、戦後作られた一般的な木造家屋ではリフォームするなら建替えた方が安く付くと思われる。マンションも造られた年代で耐久性(劣化度合い)や設備・性能が大きく異なるので要注意である。尤も、日本においては住宅は海外と比較して今でも割高と思えるので、不動産市場が健全化して新築より中古の方が安くなった今、マスコミや不動産会社・設計会社に踊らされるのではなく、中古物件の本来の価値を見出して購入するならば面白い物件もあると思われる。

鳩山首相で懸念する留学生の受け入れ方

鳩山首相ばかりではないが、米国など海外に留学した日本人は2種類に分かれるらしい。1種類は留学先に愛着を持って生涯その国と国民を好きになる人達、もう1種類は留学先の国と国民を嫌いになった人達である。最近、私のパートナーの姪と結婚式であったのだが、彼女も米国の大学に留学していた女性の一人であった。今は日本に帰国して外資系の会社に勤務しているが、彼女の母親から彼女は米国に留学して米国人が嫌いに成ったことを聞いた。米国に憧れて留学した彼女も又米国が嫌いに成った事に関しては、他山の石とは思えない気がした。特に、日本及び日本人の欧米化はアジアから日本に留学した人達が日本と日本人に「反感を持って帰国しているのではないかと危惧してしまう。欧米への日本人留学生が差別を受けて欧米人を嫌いに成った話はフランスに留学した人から17年前に聞いていたが、留学経験のない私は差別を受けた屈辱に対して理解できない事であった。しかし、鳩山首相を見ていると、米国のスタンフォード大学留学時代は決して良い思いでにはなっていないような気がして来た。この記憶が今後の日米関係や極端なアジア重視の政策に向かわせる事になれば、日米とも不運な事といえる。既に遅いかもしれないが、日本に留学しているアジアの学生達に暖く接しなければと思う。しかし、現状の日本社会は殺伐とした雰囲気で日本人同士でさえ思い遣りが失われているので、留学生達にとっては欧米以上に日本社会に反感を持つのではないかと心配する。

国益を度外視した来夏の参院選挙だけの民主党と前言を忘れたマスコミの国益論

沖縄の普天間基地移設問題で日本式先送りを決め込む民主党政権とそれに対する前言を翻した様な国益論を展開するマスコミの論調には、何れも国家を危うくするものと言わざるを得ない。従来のマスコミは日本の外交が対米追従主義と批判してきたのだが、沖縄・普天間基地移設問題を巡っては耳を疑うような対米追従の日本を肯定している。勿論、外交の継続性と言う観点からは民主党政権の対応は非難されるのであろうが、良く考えると普天間基地移設の問題位で日米の信頼関係が崩壊するなら従来の様な日米同盟の必要性がなくなったか、若しくは日本の今後のアジア重視にとっては阻害要因になるということであろう。日米同盟は朝鮮戦争を切っ掛けに生まれたもので、本質的には冷戦時代の遺物と言えるものである。今から10数年前に冷戦体制が終了し、本来ならばそれと伴に日米の基地問題は発展的に縮小するとともに、現在の様な米兵の犯罪に関して属国の様な協定を改善するべきであった。それが利権集団の自民党政権が基本的な問題を放置して来たのである。日米同盟と言いながら最新鋭のジェット機の購入を認めない米国には日本に対する信頼があるとは思えず、日本を相変わらず中国やロシアの極東の盾に利用しているだけである。そうは言っても、今の民主党政権が米国に対して国益を重視した対応を行なってるとは思えず、来夏の参院選だけを重視した党利党略で国家を危うくする様な姿勢は非難されるべきである。一方、日本のマスコミは不要不急の普天間基地移設にも拘らず、必要以上に米国との信頼関係を壊し国益を損なうとの論調に関しては疑念を持たざるを得ない。特に腹が立つには米国の大手マスコミの「日本が欧米諸国以外で唯一民主主義が成功した国」と言う目上からの表現である。植民地時代はキリスト教の普及度を他国侵略の大義名分にし、今は民主化と言う言葉で他国を侵略する欧米諸国など信頼に値するものではない。従って、来夏の参院選挙は民主党に単独数を与えるのではなく、況して自民党政権の復活でもなく、第三の政党として相応しい政党に投票することが重要となり、21世紀の日本の将来を決める選挙になる可能性が高いと思われる、。

高速道路無料化とETCカード処理費用の負担問題

カード会社の人なら誰でも知っているが、ETCカード利用者は殆んど知らないのがカード会社の利用における採算性であろう。私もカード会社の方から聞くまでは知らなかったのだが、ETCカード利用に対するカード会社の処理費用は1回の利用が2500円以上でなければ赤字になると言うことである。この利用から言えば、私位の利用ではカード会社に損を与えていることになる。ちなみに、1回2500円の料金は100km以上の距離を走ったときであり、早朝や深夜料金の利用ならば2500円の使用は100km走行どころではない。自民党政権時代に期間限定で土・日・祭日を全国一律1000円の料金にしたことはカード会社の処理費用はどうなっているのか聞きたいと思うが、多分カード会社の泣き寝入りと推定できる。民主党政権がマニフェストで公約した高速道路無料化は財政難から九州や北海道に限定する様な雲行きだが、それでもカード会社の処理費用はどうなるのか気になることである。政治家は、いや日本に政治家などいないので政治屋と言うことにするが、消費者金融に対するグレーゾーン金利の過払いの分の時効無き払い戻しも片手落ちの政策である。本来ならば、過払い分の変換に対しては過去の決算に対する納税払い過ぎ分の税還付が当然にあって然るべきである。そうでなければ会社は潰れることになる。消費者金融が鬼っ子と言ってもそこで働く社員の数は大きいのである。政治屋は鬼の首を取ったかの様に世間にアピールするが、多重債務者の自己責任は何処に言ったのかと考える。又、消費者金融のCM解禁や消費者金融会社に多額の貸付を行なって儲けた保険会社や金融機関の責任はどうなったのかを問い質したい。昨今の日本は魔女狩りの様に為政者の責任を転嫁させたような行為が多く見受けられる。ETCカードから話が飛躍してしまったが、子供でも分かるように世の中の仕組みは善悪では決められない複雑なので、一方的な意見を聞いて判断すると間違うかもしれないことを肝に銘じるべきであると思う。

土地・建物には科学的思考では理解できない現象が生じる

神社が建てられている場所には過去の出来事に対する鎮魂や願いの意味があると思うようになったのは埼玉県の深谷市の利根川沿いの集落の地図を見たときであった。その地図には、愛宕神社、熊野神社、諏訪神社の名称で数え切れないほど建立されていた。勿論、殆んどの神社は小さく無人であるのであろうが、その多さには驚いたのである。そう言えば、私の実家でも氏神様の祠が作ってあり、家族の安全を祈願している。土地に係る仕事を生業としている会社も同様に何かを行う時には必ず安全を祈願して行なう風習が残されている。神道は日本人が自然との調和のために生まれた原始宗教と言ううことは理解するが、現代でも神社を作って鎮魂した方が良いのではないかと思われる再開発地域もある。その代表的なものは六本木ヒルズであろう。私の知る限り、六本木再開発地域のビル・マンションで事件が起きた様な例はない。六本木ヒルズの高層ビルだけでも回転ドア死亡事故、エレベータ火災など、又最近世間を賑わしている押尾事件も同エリアのマンションで起きたものである。私の故郷の話だが、良く曾祖母に聞かされたのは土地に関する話である。良い土地だが、その土地を所有した人は必ず子供が出来なかったりして再度更地になると言う不思議な事である。逆に、ある土地を取得してから会社が発展した様な話もある。過去の開発ではこの種の話が結構あり、再開発に参加させるのは大変であった思い出がある。当社が再開発した大型ビルでも完成後に水の災害で苦労した記憶がある。この大型ビルは完成後から考えられない水の事故が相次ぎ、近くの神社の神主を呼んで御祓いを行なったことがあった。勿論、水の事故はその後も続いたが、竣工後15年を過ぎてその種の事故は聞かれなくなった。土地を変えてから10年以上経過して漸く納まったのである。余談だが、近くの神社は偶然にも水を鎮める神様を奉っている事を聞いてその偶然に驚いた。このblogでは書き切れない程の話が土地についてはあるので、取得に際しては土地・建物の履歴は大事であることを言いたい。私も若い頃は祖母にきいたことなどは迷信と考えて一笑に付していたが、今では世の中には科学的思考では考えられない不思議な現象があることが分かりすぎるくらい経験した。

グローバル化はアジア文明の真骨頂

グローバル化と言った言葉が一般的になって久しいが、グローバルを進めた米国はグローバル経済を他国に押し付けただけであったので失敗した。真のグローバルを考えると、正にアジア的な文明の発展形態だが、特に日本が世界の中で最も実践してきた民族であると思われる。米国と同様に欧州各国もキリスト教と言う一神教の国々はグローバルに不向きであることは自明の理である。グローバル化は植民市時代にもあったことであるが、この時にはキリスト教の布教で植民地と言うグローバル化を進めたのである。しかし、1929年の金融大恐慌が当時のグローバル経済を崩壊させたのだが、今回のグローバル化は情報社会がキリスト教の布教の代わりとなって役割を果たしたが、今度も金融危機によってグローバル経済の先行きが危ぶまれている。尤も、前回と違って今回のグローバル化は情報と言う世界の共通価値観で以って浸透した現象であるので、グローバル化が衰退する事はないだろうが、今後主導権を握れるのは他国の文化を排斥するのではなく、多神教的な文化を有するアジア、特に日本がリーダーになるのは歴史から見て相応しいと考えられる。欧米人にとって日本人を理解出来難いのは日本は神仏習合の様な全てのものを混同する文化であり、欧米の一神教の様に他者を敵対関係として滅失する文化とは異なるからである。グローバル化が本当に根付くのは経済だけでなく文化も融合することであり、その見本は日本にあるのである。最近の日本及び日本人は米国を真似したグローバル化が正しい考え方と思っているが、真のグローバル化は経済だけでなく文化の融合が必要だと言う事を忘れている。もちろん、この様な考え方は日本だけではないが、このためにグローバル化と言いながら反対に民族意識は高まり紛争が絶えないのは何かを考えるべきである。

民主党の予算仕分け作業は枝葉末節の対応であり効果がない!

自民党政権と違いを見せるために民主党は予算の仕分け作業で無駄をなくす事をアピールしているが、この様な仕分け作業は予算の仕組みを抜本的に変えることにはならないので大して効果がない。何故、国家財政が膨大な赤字に到ったのかは、現行の中央集権的な予算計上の仕組み自体に問題があるので、本体の構造を抜本的に変えないとサラ金財政から脱却する事は出来ない。国家財政が膨大な赤字なのに公務員や国会議員の宿舎の建設の予算計上などしている自体が話しにならないのである。民間企業ならば借金で利払いや元本償還が厳しいなら社宅の建設など行なわない。今の行政は何かを行うとする時には既存施設で遣り繰りする考えはなく、直ぐに新しい施設を求めて予算計上するなど危機感が薄い。此れは民間企業と異なり、自分達の報酬と関係なく予算が計上され使われるからである。このため、国家予算の無駄をなくすには税収と連動して公務員や議員報酬、更には政党助成金や議員定数を決めるシステムを決めることが先決である。今の日本に欠けているのはお金ではなく、予算編成に携わる人達の意識の問題である。民主党の女性議員などは仕分け作業において鬼の首を取ったかの様な尊大な態度で仕分け作業を行なっているが、基本的には何も分かっていない。税収に匹敵する国債の元利返済などは通常ならば考えならない緊急事態なのに枝葉末節な対応で国民を騙すなどもっての他である。予算を縮小するには、国と地方自冶体の施設や機能の統合を行う他、各省庁の総ての事業に対して優先順位を付けて不要不急な事業は先送りすべきである。勿論、現在は未曾有の世界的な経済不況なので、景気浮揚に対する事業や制度は期間限定で集中的に行なう必要があるのは当然である。問題は有効需要に結びつく政策の実施である。規制緩和の後に問題が出て消費者庁を新設するなどの政策は百害あって一利なしである。JALを潰せない民主党政権などは国家の改造など出来ない相談なので、新しい第三の政党の出現を期待したい。

環境税の導入反対

ガソリン税の暫定税率の廃止の代わりに税収入不足分を環境税の導入で議論されているが、導入絶対反対である。反対は小さな政府や大きな政府などの議論ではなく、行政改革は税収に従った支出でしか行なえないからである。勿論、膨大な赤字国債の利払い等で多くの支出分が発生し、多額な赤字国債の発行で財政を遣り繰りしている現状は理解しているが、サラ金財政化した責任を誰も取らない現状では増税などもっての他である。民主党政権になって初めての予算編成では90兆円を超える予算要求となっているが、それを仕分け作業と言うビジュアルで国民に無駄使いをなくすパフォーマンスを民主党が行なっているが、この作業などは全くナンセンスである。先ず必要な事は国会議員を初めとする議員報酬や政党助成金、更には議員定数のなどを削減から作業を開始し、公務員の報酬体系の見直しも行なうのが筋である。更に、税収不足が分かっている段階で各省庁に対して一律的に減収分に対する減額率を設定して予算要求させれば90兆円になることはないのである。パフォーマンスを見せて本音の増税の遣り方は国民を騙す手法である。そう言えば細川政権の時にも福祉税などを持ち出したが、今回は環境税などと見た目で誤魔化す手法は相変わらずである。グランドデザインを持たない民主党政権に参議院まで過半数を取らせると危険であることが分かったので、来年の夏の参議院選挙は重要と思える。

オランダに学べ

NYの友人からメールが転送されてきた。転送メールはNYに40年以上住んでいる方がオランダを訪問して清潔感と笑顔で応対してくれる親切さに感激した内容であった。欧米諸国はチップが常識だが、オランダはデナーでは10%のチップが必要だが、昼のランチやその他のサービスに対してはチップがいらないのにも驚いた様だ。翻って、米国社会はサービスが悪い上に街は汚く、地下鉄車両の損壊部分の修繕などは放置されたままであり、これで世界で一番豊かな国家と言えるのかと改めて考えさせられた様だ。日本から見たオランダは日本の鎖国時代にも唯一貿易の相手として交流が継続した国であった。継続できた理由は宗教を持ち込まなかったとか色々な説があるが、他の欧米諸国と違ってオランダは自分の遣り方を相手国に対して押し付けなかったからかもしれないと今回の転送メールで考えるようになった。その点からすれば米国主導のグローバル経済社会などは富豊層中心で評価に値しないと思われる。日本では不況で米国流の雇用切りが増加しているが、一部の企業ではオランダが導入した時短による雇用確保も行なっているのが救いである。米国流では競争社会が経済の発展を促し豊かになる道と宣伝するが、過度の競争は"百害合って一利なし"である。欧米社会でもオランダの様な精神的に豊かな社会があると言う事実にホッとさせられる。NHKでは「坂の上の雲」で明治期の日本を国民に見せて鼓舞しようとしているが、貧しくても精神的な豊かさがあった明治期以前に目を向ける事が重要かもしれないと思える。オランダの現代社会の感想から長きに渡った鎖国時代のオランダとの貿易に思いを馳せた。

明治神宮建設を自然再生手法で行なった明治人の叡智を思う

明治時代の日本人は現代人と比較して何故こんなに質が違うのかと考えさせられる。戦前の教育や社会が良かったのかと言えば大正時代の日本人や昭和初期生まれの日本人を見る限りそうでない事は一目瞭然である。この様に考えると、近代以前の日本人の生き方が再考に値するのではないかと思われる。最近、財界人でありながら民俗学の研究を行なった渋沢敬三(渋沢栄一の孫)と市井の民俗学者であった宮本常一の交わりの本を読んだが、宮本常一によれば日本の社会には貧しさの中に相互互助の精神や皆で決める民主主義的なルールが存在していたとのことであった。現代人の我々が考える以上に明治時代以前の人々は人間として質が高かったと思われる。最近、行政の予算の無駄使いが指摘され、民主党政権になって無駄を是正する事業の仕分け作業などを進めているが、本当に生きた予算を考えるならば明治神宮の建設時に明治時代の行政マンが常に考えていた建設後に維持費を掛けない思想を学ぶべきと思われる。驚くべき事だが、明治神宮の建設に際して自然再生で失った森を復活させようとしていたドイツに学者を2人留学させてその技法を修得させたことである。私の記憶違いでなければ、明治神宮は建設後の維持に最低限の費用で行なえる自然再生の技法で代々木の一角に作られた鎮守の森なのである。商品経済が発達すれば貨幣経済となりお金の重要性が高まるが、少なくても税金で構築する施設に関しては建設後の維持費用が掛からないように配慮するのが当然の義務である。しかし、資本主義の隆盛と伴に行政に携わる人々も何を勘違いしたのか企業の経営者の様な発想で税金の無駄使いや外郭団体が民間企業と競合する事業を展開してきたのである。その結果が膨大な赤字国債を生み出した訳である。血税の意味も風化してしまったのかもしれないが、行政の堕落と相俟って国民も倫理観を喪失してしまい、大阪府の様に100人1人が生活保護者と言う驚くべき状況を現出させている。この様な状況が生じた一番の責任は政治家であることは自明であり、二番目は行政に携わる公務員であろう。勿論、最悪な政治家を選挙で選んだ国民も責任はあるが、今の選挙制度では候補者を選ばない権利がないので20~30未満の投票率で然もその内の50%も満たない候補者が議員になる仕組みそのものが議論されるべきと考える。明治以降は豊かさを求めて中国大陸に進出し太平洋戦争に突入し、戦後は再度豊かさを求めて経済活動に邁進し人間としての尊厳と倫理観を喪失してしまった。明治と言う年号は、「明るく治める」の字義であるが、現代の日本人にも明るさを取り戻す様に叡智を期待したい。

民主党の予算の仕分け作業が財務省主計局指導では予算が生きない!

民主党は90兆円に膨れ上がった各省庁から上がってきた来年度予算要求に関して無駄をなくす事を大義名分にして仕分け作業なるものを公開したが、この短時間の聞き取り調査で予算に対する必要や不必要が理解できるのかと言う疑問が誰しも持つと思う。確かに、予算の無駄を解消する事は重要な事だが、問題は仕分け作業にあたった民主党の議員の多くが予算の使われる先に対して何を根拠に削減してるのかであろう。どうも漏れ伝わったところに依れば、財務省の主計局が予算切りのマニュアルを作成して指導していたということである。日本の予算の使われ方が駄目になった張本人の一人が財務省主計局にあったことを民主党政権は忘れているらしい。鳩山首相は仕分け作業は今年限りのパフォーマンスと正直に答えたらしいが、民主党は野党時代に予算の無駄使いの追跡調査作業を行なっていなかった証が今回の仕分け作業なのである。私は財務省主計局の予算に対する従来の削減方法が誤っている考え方に基づいているために財務省の指導を受けた仕分け作業では本当に必要な予算もカットされると考えるからである。財務省主計局の何が駄目かと言うと先ず目先の数字しか見ていないことと、帳尻合わせの削減に終始してきたからである。財務省主計局の担当者は必要以上にエリート扱いされたために誰しも分かる事が理解出来ないと言う弊害をもっている。各省庁の予算を見るのに配属されている人数を見れば幾ら頭が良くても現場を見ないで担当官庁の全事業の是非が分かる筈がないのにである。私が中央官庁の役人と話した経験から言えば財務省役人は人を馬鹿にした様な言い方をする輩が多かった。連中からすれば私の質問に対してもっと勉強してから出直して来いかもしれないが、私から言わせれば民間の業務と異なり、百年一日の如くの業務を行なっている財務省の仕事など分かっていて当たり前なのが理解していないのに驚いた。特に、昔と違って偏差値教育で高学歴となった今の世代では知識があっても知恵がないので尚更である。国民は予算の無駄をなくす事と同時に生きた予算編成を望んでいることを忘れたのでは政治家でないことを民主党は肝に銘じるべきである。

政府税調が"私立為業"を阻害している

民主党政権になっても自民党時代と政府税調は変わらない様だ。尤も、私は政府税調の発足経緯を知らないので、その役割を省みないでの意見であることを前提としている。今般、民主党がマニフェストに書いた中小企業に対する減税措置の実現について税調が噛み付いたのである。税調の減税反対の理由は景気悪化で税収が40兆円規模に減少する可能性が高いためである。基本的に税調に係る委員は無知の集りであるとしか言い表せない。そもそも、行政の無駄使いは何故起きたのか委員連中は知らないらしい。税収が多いから無駄使いに走ったのである。自民党から民主党が政策転換を図るには、日本は発展途上国とは異なるから官で行なう役割や事業を最低限まで縮小すると同時に、税金を大幅に減らして民の活性化を促すことが必要なのである。それが、税調如きが"私立為業"を阻害する様な発言を行うとは言語道断である。赤字国債の返済のために現状の税体系を維持したり増税を行なうのは本末転倒である。何故、赤字国債が膨大になったかは一目瞭然である。国民に富があり、税金でその富を吐き出させれば国家財政の破綻が防げると思っていることに問題があるのである。税収を減らせば自ずから行政組織も簡素化するし、議員定数なども削減するか報酬を引き下げなくてはならなくなるのである。それが税調の見解は財政再建を理由に増税であり、民間の経済活動を圧迫する各種制度の強化を促し、「私立為業」を邪魔しているのである。民主党は改革で色々行なっているが、何故税調など残しているのか気がしれない。それより大事なのは、行政組織と議会を縮小して経費節減を図る事である。今回の予算の仕分け作業にさして財務省の役人が馬鹿の一つ覚えで事業の是非を赤字かどうかを基準にして判断していたらしいが、黒字の事業を行政組織が行なう必要はないのである。黒字の事業なら民間に委ねるべきなのである。行政が行なうのは事業を行なう必要があるが、民間企業では採算が取れない事業に対してだけで良いのである。行政にも民間企業と同様に貸借対照表と損益計算書が必要と指摘され、全てにその考えを導入しているが、必要なのは全体の収支に対してだけで、個々の事業に適用する話ではないのである。個々の事業に適用し、赤字事業なら行なわないなら民間と行政の役割が一緒になってしまう。そのような考えなら行政のすべての業務を民間に委託すれば良く、その方が断然税金が安くなるのである。そう言えば行政の一番の無駄は御用学者や御用経営者が名を連ねている各種委員会であるので、先ずこれらの委員会を廃止すべきである。

大きな曲がり角に来た日本のもの造りの考え方

日本のもの造りは岐路に立たされてている。私はドメステックな分野で見ているだけなので必ずしも的を得ていないかもしれないが、全ては消費サイクルと消費者の低価格指向に起因していると思われる。確かに、日本の製品や建築物はフル装備が当然とされてきた歴史があり、反面価格が高い難点もあった。大分前になるが、液晶TV画面を日本で販売していた韓国の業者と日本製品より安い秘訣について聞いたことがあった。その答えは、韓国の液晶画面は正面から見るだけに機能を限定してコストを下げている事であった。韓国の家電メーカーはこの考え方で価格を下げて日本家電メーカーを圧倒している様だ。確かに、日本の電気製品類などは消費者の要望以上に機能がついており、不必要と思われる機能も多い。勿論、フル装備が欲しいと言う需要とのバランスなのであろうが、生産ライン的には少量多品種製造はコストが掛かることになり、どちらかに決めなければならないのも真実である。一歩進んでオプション部分をどれだけ増やすかが消費者のニーズを考えた物づくりかもしれないが、これは口で言うほど製造ライン的には難問なのであろうと思う。翻って、当社の分野の建築・不動産に関しては、極端に言えばマンションなどは中国の様にスケルトン仕様にして内装・付帯設備工事を完全にオプションにすることは可能である。然し、問題は工事や設備機器類は個々に発注するより一緒にした方が安くなると言う現実である。更に、マンションなどは水周りなどは騒音の関係から自由に設定する訳には行かない事である。販売の面から見るとオプション制は必ずしも業者にとっては不利ではない。逆に、購入者はオプションによってはフル装備のマンションより高く付く可能性もある。長々と纏まりの無いblogを書いたが、結論から言えば、安くて良いものはないし、オプションは自分で決めた満足感は持てるが、必ずしも安く出来る訳ではないことも考える必要がある。また、余程マニアでない限りは経験を有した専門家のアドバイスを受ける必要があることも認識すべきである。インフレの時代には価値が上がったのでフル装備でも良かったが、グローバル経済で商品類のデフレが進行する過程では、先ずコストあり気であり、付加価値はオプション制で求める事が主流となってきている。この様な世界では完璧主義の日本人の性格は災いとなり、世界のマーケットから取り残されてしまう可能性がある。建築・不動産業界などは真面目に行なってきた技術者や会社は高コストの悪玉と思われ排除されてきているので、現代の社会では気をつけないと整形美人で喜んでしまう結果になりかねない。

情けない日本人

NHKが年末に司馬遼太郎の作品「坂の上の雲」を放送する。何故今再び、この作品を国民に見せるのかは言うまでもないと思われる。明治時代と言う貧しき時代に頑張った明治人の生き方を今の日本人に再認識させることが必要と感じたからであろう。勿論、明治時代にも清清しい出来事ばかりでなく現代と同様に卑劣な日本人はいたと思われるが、問題は明治人の方は現代の日本人より遥かに崇高な意思と目的を持って存在していた事は事実である。私の母方の祖父も明治人であったが、現代の様に孫を馬鹿可愛がりする人ではなかった。私にとって祖父は親以上に厳しい存在であったが、この年になってもその教えは生きている。確かに、現代の日本人は豊かになったと思うが、教養と言う尺度からすれば最低レベルで生きている。米国資本主義を信奉した似非学者や評論家が跳梁跋扈して馬鹿の一つ覚えで「選択と集中」や「短期的な利益の追求」などを鸚鵡返しに叫んでいる。英語が話せるだけで無能な連中が高額な報酬を取ったり、パソコンを使えるだけで実務能力が無い者が実績を上げて来た者を馬鹿にする図式は呆れてものが言えない。PCが入り込んできたためにデータ重視の社会となり、恰も実務経験など必要がない様に思われてきているが、その延長線上に人間も必要ないことを忘れるべきでない。データなど採用の仕方で如何なるものにもなることを忘れているし、データは過去を語っているに過ぎないことも忘れている。実務経験軽視くらいは許せるとしても、企業のリストラ推進のために行なっている"虐め"は本当に情けないの一言に尽きる。日本経済バブルが崩壊してから日本人は自信を失って米国に盲従して来ているが、当の米国の政治経済を見ると何も学ぶべき事はないことに気づいた。米国経済は人を大事にする社会ではないからである。資本家の利益を確保するために実務経験者を切り捨てて安い未経験者と交代させるために経験を重視しないデータ中心の社会を築いてきたのである。米国が日本に持ち込んだのは格差社会と犯罪増加、更に人間不信である。尤も、米国でもGEの様な企業もあるので学ぶ企業や人を間違えた結果と思われる。嘘を言っても騙しても平然としている金融業界などのシステムを金科玉条として受け入れた企業とその経営者が日本を駄目にした輩である。

未来のOFFICEとは?

先月末に森ビルが自社オフィスに実験場「MORI WORKING LAB」を開設し、「働きやすさ、業務効率、環境対策など」を追求したワークスペースの提案を行なって行く事を発表した。オフィスの利用の仕方は業種によって大分異なるので一概にモデル化出来るものでもないが、確かに当社もPM業務や内装工事業を通してオフィス内の利用の仕方や省エネ、更にはリラックスルームの確保など貸し手と借り手の境界、更には貸し手側のサービスの拡大を考える時期に来ていると思う。未来のOFFICEの姿を想像する事は出来るが、現実的には理想のOFFICEは経済コストが絡んでくるので貸し手と借り手のコラボレーションがないと難しい。PCのクラウドコンピューティングについてもコスト削減や社内の情報管理において導入する会社が増えてくると考えられ、現在のサーバー室のスペースが減少することになるが、全ての情報管理を外部に依存する事は不具合の出た時の回復時間を危惧すると万一の場合のバックアップ機能が求められる。勿論、このバックアップ機能まで外部に依存すれば良い事だが、後はコストとスピードの問題となる。何れにしても、現在の様に会社側が大小に拘わらず社内に一通りのOA設備やリラックスルーム、会議室を設けているには無駄を省くと言う観点からすれば他社と共有した方が安上がりである。ソフト面では既に多くの業務が外注化され、PCを通して遠隔地の業者に委託している。その様に考えると、未来のOFFICEとは、ハード関係に関して共有化や統計的に算出した在席率によるデスク予約管理システムの導入などの姿が見えてくる。この様に考えてくると、過っての貸ビル業界においては大型ビルに必ず貸し会議室を設置していた事を思い出した。高度経済成長を遂げて会社の規模も利益率も増加してくる過程で、会議室スペースは社内に置けるようになり、大型ビル内の貸し会議室の需要は減少した。しかし、ここ数年を見ると事務所の需要減少による空きスペースを利用した貸し会議室専門業者が現れてきており、グローバル経済とは先祖帰りの面もあるのかと驚かされる。尤も、若い世代からすれば新鮮なビジネスに写るのかも知れないが。此れまではビルはオペレーションに関しては金食い虫の様な面があったが、省エネを考えると地域とのビルとのコラボレーション、周辺環境を変化させることによるエネルギーのコントロール、自然エネルギーの利用は最低限取り入れる必要が出てくる。森ビルなどは大規模開発の自己完結型の街づくりだが、当社では大型規模以下のビルが林立するエリアに快適な空間を作り出し、自然エネルギーの利用なども複数のビルがコラボレーションする未来都市を創造するプロジェクトを行ないたいと思う。農業と街づくりは同様で農業の様に一種類の作物しか作らないと害虫が押し寄せてくるが、同じエリアに多種類の存在こそが益虫と害虫のバランスが取れた空間が出来るのである。未来のOFFICEに対する街づくりは自然に則った形で配置するビルが理想的と考える。荘氏の"無用の用"を忘れてる様な街づくりに未来はない。

米国で起きたトヨタのレクサス暴走事件を思う

米国でレクサスのフロアマットがアクセルに引っかかって起きた暴走事件があり、一時はレクサス車の欠陥を指摘されたがこの程設備的には問題ないことの判定が下された記事を読んだ。運転席のフロアマットが原因でアクセルに負荷がかかることは世界的な自動車メーカーとなる前のトヨタの車に起きていた事であった。私はこの記事で思い出したのは、古い話だが亡父が当時乗っていたクラウンでフロアマットが重すぎこともあり、フロアマットがずれるとアクセルが足で踏み込んだ状態になったことであった。今回のレクサス車が全く同じ問題であったかどうかは不明だが、当時のクラウンは車種的にはセンチュリーに次ぐ高級車であった。今のレクサスはトヨタのイメージと言うより、トヨタブランドでも特に高級車として位置づけた販売戦略をとっている様だが、高級感を出す事に拘りすぎてクラウンと同じ様な仕様を採用してしまったのかもしれない。経験知は大分時間が経過すると忘れられて再度同じ様な考え方で物事が選択されると言う典型的な見本を見た思いである。時代は常に変わるので新しい考え方や流れに乗る事は大事だが、PCの発達でデータの保存料が飛躍的に増えた現代こそ過去の教訓を活かせるようにデータベースすることが必要と思える。勿論、DBしても省みなければ何にもならないが、トヨタも海外展開で成功して過去の技術などを省みなくなった弊害も出たのかもしれない。過大な成功は技術者に慢心を生み、過去の失敗から学ぶ姿勢がなくなり、会社の衰退に繋がる危険性がある。そう言えば、トヨタの新社長は社員訓示で会社は衰退期に入っていると警告を発したと言う記事を読んだ。私が感じたような事をトヨタの新社長も別な次元で感じているのかもしれない。謙虚さは成長の不可欠な要素である。

沖縄は独立せよ!

沖縄の今後の発展を考えたら日本に属するより独立を考えた方が良いのではないか。沖縄は薩摩藩に侵略される前は琉球国と言う一つの民族文化を有した独立国であった。石垣島に旅行した時に驚いたことだが、日本の歴史に翻弄されたにも拘らず、沖縄諸島の人々は既に本土では失われた日本国民の意識を持った健気さには驚いた。日本政府も政治家も口には出さない占領時代の米国の横暴に沖縄諸島の人達は苦しんだのである。太平洋戦争の沖縄戦で指揮を執った牛島中将の遺言を戦後の日本は殆んど省みていない。しかし、沖縄諸島の人達は日本返還を喜び本土並みの公共事業だけで感謝している姿には日本人として忸怩たる思いである。民主党政権になって基地問題で米国と新たな関係を構築する方向で動いているが、民主党政権の行動は沖縄県民の意思を本当に斟酌しているのか疑問を呈せざるを得ない。米国は日本は米軍駐留のお陰で防衛費が少なく経済繁栄を遂げたと言っているが、正にお為ごかしも甚だしい。自分達の国の防衛線を遠隔地に設けたに過ぎないのに何が感謝か。それならばもう日本には米軍の基地など沖縄に必要ないから退去要請に従ってグアムに全部移転すれば良いのである。北朝鮮問題でクリントンの時の様に日本の意思を無視されるようなら日本の安全を確保するために米軍基地を日本から退去させるべきである。それと同時に沖縄県民はアジアで中立な国家として経済繁栄を遂げるために琉球国として独立することを考える時期に来ている。地方切捨ての時代に沖縄諸島が日本に属している価値はなくなることは間違いなく、今後は台湾・中国などと交流を深めて行く事を応援したいと思う。私の義兄の父親の故郷の沖縄諸島であるから尚更である。

公共投資のスマート化とは!

スマート化はIT技術を駆使して効率の良いサービスを提供する事だが、公共投資のスマート化になると意味合いが違ってくる。小泉・竹中時代の構造改革は民営化や規制緩和を通して公共サービスの効率化と財政健全化を達成する意図があったようだが、財務官僚達が小泉・竹中を利用して行なおうとした事は公共サービスや公共投資を効率よくするために国民を主要都市部に集中させる狙いがあったと思えてならない。確かに、山間僻地や離島などに国民が生活していたのでは、インフラ整備に金が掛かって仕方ないのは誰でも分かる事である。しかし、公共投資を削減し、医療制度を改悪し、地方自治体の補助金を削減して納屋に鶏を囲い込むような行為は社会を数字でしか見ない頭でっかちの考え方であろう。今年度の税収が20兆円減少して30兆円であったのは如何に小泉・竹中時代の構造改革が先祖返りの様な輸出依存型の経済構造になっていたかの証明でもある。竹中如きは今でもTVに出て構造改革を中断したからだと自己弁護に終始しているが、自分の不動産投資に失敗した様な似非経済学者に国政を任せた小泉の無能さを忘れてはならない。今再び、財務官僚は鳩山政権で日本の構造改革を進めようとしているが、人間不在の政策など成功しない事は明らかである。真の改革とは、国民の自助を促す規制緩和であり、縦割り行政の弊害を廃止した公共投資の実現であり、税率の引き下げである。膨大な赤字のために消費税を上げなければならないと言う詭弁を信用しない事が大事である。税収が多いから行政は無駄を作るのである。税率を下げ、「私立為業」の精神で構造改革を進めれば自ずから国の赤字は消えるのである。政治家などにお金を与えると浪費するばかりで財政が窮地に陥る。税収が大きくなければ身の丈にあった政策となるのである。明治時代はお金が無かったから無駄も出来なかったことを肝に銘じるべきである。

JALは必要か

JALの再建問題で世間は騒々しいが、この問題に関心があるのはJALの社員と政治家位であろう。尤も、ライバルの全日空や海外の航空会社もシェアや競争力と関係してくるので、多少感心はあるのであろうが。それにしても前原国交省大臣のJAL救済の発言は自民党より酷いと思われる。民主党の支援団体が労働組合であるから仕方ないと言えばそれまでだが、救済する価値が無い企業を存続させる事は八ツ場ダムの無駄より大きい事を知っているのかと問いたい。JALが日本のフラッグである時代は既に昔の話である。プライドだけ高くてサービスの悪いJALだが、国会議員にとっては海外に行くのに威張って乗れるから好ましいのであろう。前原大臣は日本航空の再建のために調査チームを派遣したが、このチームは財政面だけの調査だけで、存在の必要性に関しては何等の作業を行なっていないのである。今後公的支援を必要とするなら、先ず日本航空の存在意義を質す事から始めるべきである。日本には全日空があるのであるから、何も金食い虫の日本航空を救済する必要はないのである。前原大臣は誰かの入れ知恵で、JALは国内の飛行場建設による皺寄せを受けているなどと言う戯言を信じているらしいが、潰されない意識を持った社員の好き勝手な振る舞いが会社を駄目にした事を白日の下に晒すべきである。国会議員が海外に行くのに都合が良いからの理由で駄目会社を救済する事は国民を愚弄する事であり、経済不況で苦しんでいる多くの企業に対する冒涜である。前原大臣は、ダム建設と道路建設と日本航空の無駄がどの様に違うか答える義務がある。日本航空を救済しなければ国内航空の路線は壊滅すると思っている様だが、日本航空が存在するから日本ではベンチャー航空会社が育たない事を知るべきである。前原大臣の議員以外の活動履歴は知らないが、企業に勤務して汗をかいた経験が余りないような人間が偉そうなことを言うなと国民は反論するべきである。日本航空を税金で救済する事には断固反対である。

安易な見積り依頼

事務所の原状回復工事や住居の小規模な改修工事などの見積りに関して殆んどの人が営業の延長だから受けるのは当たり前で、依頼すれば直ぐに提出してくれるものと思っている。現調なしで見積りを出せるケースが少ないので、先ず現場を見てどの程度の工事内容かを聞いてから見積り作成を行なうのである。最近は随意契約はないので殆んどが競合見積りと考えられるので、見積りの手間を考えると過去に取引実績がないと断るケースも出てくる。特に、近年は利幅が少ないので、取れないと分かる工事の見積りには応じなくなって来ている傾向が強い。一般消費者は、依頼しても直ぐに応じない業者や断る業者に対して憤りを持って消費者センターなどに抗議する人もいるらしいが、安易な見積り依頼に関しては業者は迷惑を受けていることにも留意して欲しいと思われる。この様なblogを書いている私の家でもパートナーが小額の工事に業者が見積りに来ないと怒っていたのを諌めたら口を利いてもらえなくなった。余裕がなくなった社会と利幅が少なくなったデフレ社会の認識が一般の人々には少ない様に思え、競合見積り作成依頼なら営業の延長でなく作成費用を要求することも必要でないかと考える。現代の様な社会になると人間関係が大事な要素であることを痛感するが、日本国内で行なう限りユニクロ的な価格で工事が提供できない事も理解して欲しいと思う。人件費が安くなってきていると言っても移動時間もあり時間単位で工事を請ける事が出来ないのである。愚痴としか聞こえないと思うが、日本社会も米国社会と同様にいい加減な仕事しか出来ない状況になりつつある。PCにデータを蓄積しても現場は動かないのが現実である。現場を見ないで見積りするケースも多く、トラブルの原因にもなってきている。人が動くと言う事はお金が掛かることを認識して依頼するのが優しさとミスを防ぐことができることを知るべきである。

政治家の責任すり替えの官僚批判

今日の政治家は予算を含め政策の実行に際しては国会の決議を経る事が必要なのを忘れている様だ。官僚が政策を立案したと言っても勝手に執行は出来ないのである。政治家が碌に勉強もしないで官僚に政策立案を任せておきながら、「官僚が行政を壟断していた」批判はお門違いであろう。民主党議員が政権を取る前に、役人に資料提供を求めたら拒否されたとかの記事を目にした事がある。此れも良く考えると不思議な話で国会議員の身分は与野党を問わず同じであり、当然に各省庁に対して問題があれば資料提出を求める事が出来、万一拒否された場合には法律に従って然るべき手続きを経て断固として提出させるべきである。実際には、与野党馴れ合いの政治を行なってきたために、一人の国会議員として責任を果たさないで来たに過ぎないのである。民主党が官僚から政治を取り戻すと言う事を盛んに言っているが、本来の目的は従来の公共投資の利権が財政難で喪失寸前であるために、官僚が築いてきた多くの補助金団体の利権を奪う事を目的としているに他ならない。政治家が民間人や民間企業と連携した利権の獲得は国を危うくするものである。立派な民間人や企業なら時の政権に近づく事はなく、政治家の周りを徘徊する学者や企業人は胡散臭い者ばかりだからである。民主党政権が打ち出した役人に発言させない方針は政治家の無能さと利権収奪行為を国民に知らせないためであり、この様な政権は国民に取っては危険極まりないことをしるべきである。これまでの政策は議会で承認決議されて来たので、最終責任者は国会議員自身という事を忘れるべきでなく、野党だから何も出来なかったことは責任逃れに過ぎない。税金の無駄使いをなくすなら、先ず国会議員の定数削減を断行するべきであり、それが出来ない政党など所詮権力欲に群がった似非政治家の集団にすぎない。

関西新空港の問題点

今回の空港問題で前原国土交通省大臣が決断しなければならないのは関西新空港の問題である。なぜ問題なのかは建設の経緯と建設後の問題点を再検証する必要がある。前原国交省大臣は、大阪府知事の関西新空港のハブ化の要請を受け流したが、大臣は関西新空港の真の問題点を把握しているかどうかである。もし、把握していて受け流したとすれば評価に値し、今後の関西新空港の対応に関して期待が持てるが、今後はお手並み拝見である。関西新空港計画の建設経緯を知らないとこれから説明する関西新空港の廃止論を理解できないと思うので、先ず建設経緯から入る事にする。当初、関西新空港の建設候補地は神戸沖であった。神戸沖は地盤が良く工事費も安く出来るので、当時の運輸省では兵庫県と神戸市に建設計画の同意を求めたのである。これに対して、神戸市は騒音などの理由で反対し、その結果地盤の悪く潮流の激しい泉州沖を建設地として選択するしかなかったのである。関西新空港の建設に際しては埋立地の軟弱地盤の地盤沈下に対して新たに地盤改良技術工法を開発して望んだが、結果的には色々な誤算があり、膨大な建設費の投入が強いられ、現在でも維持費として相当の金額が必要となっている。なお、関西新空港の建設後には大阪空港の廃止が前提であったが、何故か現在も残っているし、神戸沖の新空港計画が神戸市の反対で出来なかったので、当時の運輸官僚は絶対に神戸沖に空港は造らせないと言っていたが、不思議な事にその後神戸空港が建設されている。その結果、3空港が乗客を奪い合って膨大な建設コストが掛かった関西新空港の経営は厳しいものとなっている。以上が簡単に纏めた経緯だが、遠くて不便な上に地盤沈下や激流で維持費が掛かる関西新空港に関しては今後とも経営が成り立つ見込みはないのであるから、政権交代を機に関西新空港を廃止し、更に大阪空港も廃止し、神戸沖空港を拡張して国際空港にして採算性の取れる空港の姿にするべきである。関西新空港の建設は関西財界の要請であったが、運輸省の当初の神戸沖という考え方は間違っていなかったのである。残念なのは神戸沖に固執していれば良かったのを早々と将来に問題が出そうな泉州沖に建設地を決定して今日の問題を生じさせた事である。この泉州沖の決定は政治家と関西財界の圧力に屈した官僚の姿が見える。今日では官僚が悪者になっているが、行政の判断を歪めているのは何時の時代でも政治家と産業界の連中なのを忘れると国民は痛い目を見ることになる。前原国交省大臣は羽田沖をハブ化する考えの様だが、首都圏に国際空港は2つも必要としないので、遠い成田空港の利用客は減少することになることは目に見えている。国際空港が中心地より離れているのは何も日本に限ったことではないので、なぜ前原国交省大臣は羽田に固執しているのか不明である。大して知識もなく、回りの仲間の海外に行くのが羽田が近くて便利だからと言う意見で決められては迷惑である。然も、日本航空の再建と絡んでのことなら尚更である。政治家として遣るべき優先度は、羽田でなく関西新空港の問題である。日本航空は民間企業であるので、再建に国が口を挿むべきではない。

民主党の政策転換不況の直撃に備える必要有り

民主党政権は金融危機の経済低迷や消費不況の中で走りながら政策変更を行なうのではなく、自民党政権時代の景気対策用の補正予算を削って来年度の通常予算に振り返る作業だけを優先しているため、今後は政策転換による需要減少の消費不況が直撃する可能性が高く、企業はその直撃に耐えうる備えが必要となる。民主党政権が発足して分かった事は財務官僚主導の財政再建を優先する緊縮財政内閣になるということである。また、民主党は特別会計を財務省主導で改革し、事業の是非を判断する事になると思うが、問題は事業の是非の判断を的確に判断できるブレインがいるのかと言う疑問である。鳩山政権は内需によって景気回復させると表明しているが、円高によるデフレと株安で何が内需拡大かどうも分からない。勿論、自民党政権と異なる政策は大歓迎だが、補正予算を削減して来年度に振り返るだけでは時間経過のマイナス効果しか生じない事を認識しているかどうかである。何れにしても、中・長期的には政策変更の効果が出るかもしれないが、短期的には政策変更による需要減の消費不況が直撃すると思われるので、中小企業はその政策転換不況に備える必要があると思われる。

民主党の「子供手当て」と「高校授業料負担」の問題点

民主党政権のマニフェストである①子供手当てと②高校授業料負担については単にお金を出すだけでは自民党政権と出す先が変わるだけで社会改革にはならない。「子供手当て」に関しては余り経過を知らないので一概には言えないかも知れないが、マスメディアが報じている塾・予備校の費用に回される代物なら必要ないのである。「子供手当て」と言っても子供のいる全家庭に支給するのでは1人当りの金額が少ないので、少子化の歯止めには役に立たないと思われる。この手当ては所詮、子供の居ない家庭は対象でない不公平な手当てであるので、一歩踏み込んで所得制限と2人以上子供が居る家庭、更には3人目以上の子供に対して手当てを厚くすれば少子化や所得の低い家庭支援と言う本来の手当て支給の趣旨に合うと思われる。今の様な子供が居る家庭一律に1人当りの支給では、選挙目当てのマニフェストと言われても仕方ない。次に、「高校の授業料負担」に関しては高校の入学率が90数パーセントで実態が義務教育であるとの理由だが、戦後に作られた教育制度の見直しが先であり、高校の義務教育化が必要かどうかの議論が必要と思われる。学ぶ場所は学校だけとの思い込みが、親に子供を無理矢理に義務教育以上の教育を受けさせて家庭崩壊に到っていることを知るべきである。総花式の学校教育など社会に出て意味がないのである。民主党政権が選挙目当てのマニフェストを掲げ、根本的な問題を避けた政策を実行するならばばら撒き政策を実行した自民党政権と何等変わらないのである。尤も、日教組を支援団体としているので枝葉末節の政策しか出来ないとするならば、日本の教育は永久に子供にとって有用な教育制度にならないと思われる。お金があるから先にお金で物事を考えてしまうが、明治時代が脚光を浴びるのは官民ともお金が無い中で有用な制度を構築したからである。民主党政権も自民党政権と異なる政策を実行したいならば、お金を使う事でなく、最低限の使い方で社会が良くなることを考えるべきである。

健常者用高級老人ホーム

昨日、郊外に造られた健常者用の高級老人ホームを内見してきた。残念ながら同ホームは本格的立ち上がりを前に会社の不祥事が発覚してオペレーションを断念したために現在は稼動していない。事業を立案した会社は、介護付き老人ホームなどを複数のスタイルで運営している会社なのだが、内見した高級老人ホームは飽くまで健常者用のものであり、お金持ち夫婦が最長15年程度過ごす館をコンセプトにしており、レストラン・クリニック施設・スポーツジム施設・趣味施設など建物の共用部分は約50%を占めている。ここに住むには多額な入居保証金が必要な上に夫婦で月額50万~60万円掛かるシステムであった様だ。私からすれば何故この場所なのかがイマイチ理解できなかったが、当初は社員もオーナーの指示が分からなかったと言う。会社を一代で大きくした様な人物の考え方は匹夫には理解できないのは当たり前だが、多分モデルは海外なのだろうと思われた。この種の老人ホームは2箇所事業化を進めたのだが、面白い事に別な場所の請負会社は社内のホテルチームが担当し、内見した方の請負会社は高級マンションチームが担当したと説明を受けた。確かに、高級老人ホームの建設にはホテルと高級マンションの知識が必要なのであろうが、私から言わせれば、それに比べてオペレーションは非常にアンバランスであり、日本の本当のお金持ちは入居しないと思われた。日本の何代も続くお金持ちが求めるものは見かけ上の豪華さとは違う事を知らなければこの様な事業は旨くゆかない。尤も、小泉政権で中流家庭に育った俄か成金が大分増加したので、その種のお金持ちは見た目の豪華さを好むかもしれないが。案内者の話では、オーナーはこの施設で儲けを考えてなく、会社の象徴としての存在感を求めていたとのことであったが、残念ながら子供の時から恵まれた環境で育った者しか分からない贅沢を多くの日本人は知りようもないので、見た目の豪華さだけでオペレーションが付いてゆかない事業計画の荒さが目立った。

高速道路の無料化に必要な事項と阻害要因

高速道路の無料化は高速道路の当初計画に記載されたことであり、小泉内閣で道路公団の民営化で反古にされそうになったのだが、民主党政権の発足で実現する見通しとなった。私が以前のblogで書いた通り、高速道路の無料化など本当に考えていたかどうか疑わしいのは、先ず「出入口の問題」である。現在の様な出入口ならば無料化した時の渋滞解消は難しいと言う事である。しかし、問題は高速道路内に設置している休憩施設である。米国の様に高速道路を無料化し、出入口を沢山設置すると休憩施設の利用客は減少し経営が困難になるのではないかという懸念が起きる事である。これが高速道路の利用を限定する阻害要因となる可能性がある。民主党は高速道路の利用の観点から詳細に調査して無料化を考えているとは思えず、現況のシステムのままで無料化を行なう可能性が高く、逆に多くのマイナス要因を生じさせる懸念がある。自民党が景気対策で行なった1000円に関しても同様である。1000円料金を往復1回しか利用できないので途中下車による経済効果が見込めず、目的地到達による交通渋滞を引き起こしたり、競合交通の輸送会社を経営難に陥らせたマイナス効果を生じさせている。然も、利用日を限定したので必要以上の交通渋滞まで引き起こす結果となった。高速道路の無料化は人的物的の移動が活発化し、景気対策にもなるので結構な事だが、無料化に際しては現行システムを変更して利用の増大と渋滞を回避できる出入口の増設など綿密に調査して断行する必要があることを認識して欲しいと思われる。休憩所有りきでは無料化の効果は限定されてしまう。

友人から贈られたジャック・ウェルチ(元GEのCEO)の英語本を読み始めて

数年前に、友人からジャック・ウェルチについて書かれた英語の本を頂いた。日本語に翻訳された本も出版されていたが、友人は敢えて私に英語で書かれた原本をNYのお土産として持ってきたのである。彼の真意は、もう少し英語を勉強した方が良いと言う暗示と経営者として素晴らしい事が書かれているので私の成長を促すためと思われた。然し、当時の私は英語で読む苦労を嫌がり、そのまま書棚に積んでおいたのである。それが書棚を整理する必要が有ったので思い切って読み出したのである。勿論、私の英語力なので遅々として進まないが、読み始めて後悔したのは友人から贈られた時点で読んでればと言うことであった。日本の多くの人達はジャックの本を読んで感化されたと思われたが、読んで参考にしたのはメーカーに勤務する人達であり、金融や不動産の業種の人達には余り読まれなかったのであろうと思った。日本人は特にコンサバティブな考え方をする人が多く、人事もリスクテーキングを取らないために学力偏重主義で人材を採用するので、GEでジャック・ウェルチが行なったことは出来難いとは実感された。しかし、当社の様な小企業に取っては常に変わらなければ事業継続してゆく事は難しい状況に置かれているので、「現場が最も良いアイデアを提案する」などの言葉は生きてくるし、"バウンダリーレス"や"コアバリュー"の考え方は大いに参考になった。未だ読みはじめて読了するには未だ大分時間を要するが、改めてジャック・ウェルチの本を贈ってくれた友人に感謝する次第である。今回の金融危機後の大不況を乗り切るバイブルと言っても良い本である。

民主党政権の来年の参議院選に向けた脱自民政策の独自色が及ぼす悪影響

民主党政権は急ピッチで来年の参議院選に向け脱自民の独自色を打ち出そうとしているが、此れまでの動きを見ていると自民党が進めてきた構造改革に伴う民間人重視と同じ誤りを繰り返すのではないかと危惧される。自民党時代にも独立行政法人の理事長を民間から登用するなどの改革を進めて来たが、民間企業で過ごしてきた古巣の会社との癒着が断ち切れず、マイナス面も相当あった事に気づいていない。新聞報道によれば、独立行政法人に対する官僚の天下りは許さず今後は民間から公募によって後任者を決めたいとのことであるが、民間人に任せれば全て良くなると言う錯覚が問題である。天下りで問題になっているのは、多額の報酬を貰い短期間で数箇所を渡り歩く一部の高級官僚に関してであるので、何も官僚の天下り自体が悪いわけではない。民間会社を経てきた人物は官僚より利権に目ざといし、仲間同士の癒着がもたらすマイナス面は官僚の比ではない。日本航空(JAL)の再建委員に選ばれた委員の中にも倒産に到った会社の不透明な増資に関わった者や再建出来なかった会社に投資してたファンドのスタッフであった者も選ばれているなど、民主党政権を取り巻く民間人の信頼性に疑問を持たざるを得ない。尤も、小泉政権の時も同様だが、民間人で清廉潔癖な者は国家権力などに近づかないので残念ながら仕方ないのかもしれない。然し、民間人を公募するに際しては少なくても一定期間の間候補者を公告をし、他者から非難が出なかった人物を選ぶべきである。自民党政権の様に国民の目を逸らした人物の起用だけは御免蒙りたい。

エレベーターの事故と認証コストの問題点

エレベーターの事故が多いと言うことで行政が新型エレベーターに対して機能強化を義務付けたが、この機能強化の認証を受けるには多額の費用が掛かるとの事である。エレベーターの事故が最近話題になってきたが、エレベーターは新しい設備でなはない。何故最近事故が起きるのかは保守サービースのコストを削減した事が主たる原因であり、特に設備機器に問題がある訳ではないと考えられる。ところが、行政側は消費者保護かどうか知らないが、必要以上の性能をエレベーターに持たせることにし、その性能検査を当世風の民間委託としたのである。現行のエレベーターに不都合があるとは思えないのに保守サービスのコスト削減を設備機能の向上に転化させた遣り方は中小企業のエレベーター会社を狙い撃ちにした政策であり、昨今見られる全ての強化策が大企業に販売などを集約させる中小企業つぶしと言わざるを得ない。然も、天下り先に認証サービス権限を持たせる一石二丁の知能犯である。政治家も天下り先が補助金を出している所ばかりでなく、不必要な規制強化に伴う権限委譲先にもあることを認識する必要が有る。この様な事例は枚挙に暇がない。

予算書を読めない議員など必要ない

民主党政権になって漸く一般会計と特別会計の事がメディアを通して国民の前に現れてきた。意外と知られていなかった特別会計だが、この予算が諸悪の根源と言っても良く、この予算改革なくして消費税アップの議論はありえない。大分古い話で恐縮だが、勤務会社の命令で中央官庁の予算書を貰いに言った時に、省庁の予算以外に各部局毎で作成された予算があり、その予算書には「一般」の他に丸印の中に「特」、「抽」と書かれたものがあり、不思議に思ったので担当者に質問したら軽くいなされた記憶がある。しかし、執拗に質問したら予算書に関して良く勉強していると評価され、更に詳細な予算書を貰えたのである。その時の担当者にはこの他にも有るのだが渡しても理解できないと思うのでこの予算書レベルで良いのでは言われ、この予算は通常は外部に出さないが貴方はよく勉強をしているので差し上げるのですと褒められた。そして議員などは予算のことなど全然分かっていないと罵倒していたのである。この他、東京都庁のある部署にやはり予算書を貰いに言った時の話だが、貰えた予算の他に丁寧に図で説明した予算書が置かれていたので、その予算書を欲しいと言ったら、この予算書は議会に提出する物だから議会が始まる前には出せないと断られた。その時に、私が担当者に丁寧に説明した予算書を評価したら、その担当者は「議員は小学生の様に説明しないと分からないのだ」と馬鹿にした様な言い方をしたのが印象的であった。更に、この様な予算書を作る費用と手間が無駄と言ったのである。その時に、議員と言う存在は役人に馬鹿にされている程勉強していないのだと理解し呆れたのであった。多分、今日でも一部の議員を除けば大半の議員は予算の中味を理解していないと思われる。然し、勉強すれば予算の仕組みなどは分かるし、役人は理解のレベルに合わして詳細な予算書を出すことが分かれば特別会計の仕組みが複雑で分からないなどとは言えないのである。前原国土交通省大臣が空港整備特別会計に言及していたので、付け焼刃でない予算知識で予算の無駄をなくして欲しいと思うのだが、今後はお手並みを拝見したい。

公共・準公共サービスの殆んどが何故平日だけなのか?

何時も思うのだが、①免許の更新手続き、②住民票等の移動・変更・登録手続き、③ガス供給開始手続き、④その他公共・準公共サービスを受けるには平日だけで、土・日・祭日が行なっていないのかである。尤も、情報化の時代になってITによるPCでの変更・登録・中止手続きなどを行う事が出来る様になり便利になったが、それでも独身者や共稼ぎ夫婦にとっては平日しか手続きが出来ないのは不便極まりない。民間のサービス業ならば土・日・祭日の提供が当たり前なのに、公共・準公共サービスが平日だけとは今日では不適当と謂わざるを得ない。IT化が進んだので、コンビニなどに端末を置けばいろいろな手続きは行なえると思うので至急実施に移すことと、「免許更新手続き」や「ガス供給開始手続き」などは休日に出来る様にすることが当然なことである。民間業界で言えば、理容業は月曜日、美容業は火曜日、不動産販売は水曜日、デパートは木曜日、飲食店は業種やオーナーによって違うが平日の1日など平日が休みである。そう言えば、医院は日・祭日は休みであるが、出来るなら飲食店と同様に別々になると便利であると思う。確か、私の子供の頃は診療所の「医師には休みがなく、何時でも病気の時には往診してくれた記憶がある。今思うと診療所の医師は大変であったと感謝に耐えない。時代と共に組織や制度は変化する必要が有り、専業主婦が少ない時代には公共・準公共サービスを見直すのは当たり前なのだが、需給に合わないのになかなか変わらないのが歯がゆい。

鳩山政権は財務(旧大蔵)官僚依存で国民のための政策転換が出来るのか!

鳩山政権に集う人脈は父親である威一郎の財務(大蔵)官僚に繋がる者達であることが徐々に分かってきた。小泉政権の時にはインチキ構造改革によって財政改革を推し進めて失敗した財務官僚が、今度は"友愛"と言う如何にも庶民の味方の様な仮面を被った鳩山政権の黒子となって登場してきた。確かに、財務官僚からすれば財政改革は急を要するであろうが、この状態を作り出したのは国家の財政である歳入歳出を管理してきた自分達である事を理解していないから財政改革が出来ないのである。国民は小泉政権同様に再度騙されることになる可能性は高い。尤も、財務省は新聞や週刊誌を利用して如何にも鳩山政権の軍門に下り忠誠を誓ったように様な記事を書かせているが、小泉政権の時と同様に国民に非難されないための伏線を張っているのである。鳩山政権は今後、一時的に国民受けする政策の変更を行なうであろうが、最終的には国民に対して税の負担と規制の強化を進め、景気回復は遠のくことは間違いないと思われる。私も政権発足後は修正資本主義による日本国家の秩序回復と景気浮揚に期待を掛けたが、徐々に政権を取り巻く国会議員以外の陣容を見るに付けて財務官僚の姿が現れてきたので、早くも失望するに到った。そう言えば、租税特別措置法の撤廃に手をつけることを民主党議員が言ってた記事を読んだが、この発想も財務官僚の囁きだとしたら景気悪化に繋がる政策転換と考えられる。何れにしても、鳩山政権が打ち出す政策を一つずつ注視し、その是非を論じないと小泉政権以上の裏切りに会うかもしれない。

民主党政権に対する笑止千万な記事他!

日経新聞で123年続いた事務次官会議の廃止について非難していた。理由の一つは、事務次官会議の後の記者会見で過去に政策の問題点を指摘できたことの様だ。しかし、記者クラブ制度の中で碌に取材もしないで発表記事ばかり書いているので、本音は事務次官会議がなくって記者会見がなくなるから困る抗議だと誰でも分かる。マスメディアは経済活動には市場主義が必要で競争原理が働かないと組織は駄目になると報道しながら、自分達のことになると近代以前の発言になる。本来、記者クラブ制度などはマスコミの互助会制度であり、競争を行なわない仲良しクラブである。行政や企業は逆に同制度を利用してマスメディアをコントロールしているのにである。鳩山民主党代表が市場原理主義の批判者というだけで、旧態依然のばら撒き財政を行い、大きな政府を目指しているかの様な報道と小泉インチキ構造改革に対する評価者が、鳩山内閣の布陣や行政に対する対応を見る前に非難ばかりしている。小泉が行なった政策などは構造改革でもなんでもなく、米国流の国際標準基準を無理やり導入し、構造改革に対する国論を混乱させただけなのにである。日本の社会経済システムは、戦後の占領政策でニューディラーの若い米国人達によって修正資本主義の実験として構築されたことを忘れている。勿論、ニューディーラーの若い米国人達の思いは、途中で大分変更されたが、それでも資本主義でもない社会主義でもない修正資本主義がとしてスタートしたのである。この結果、日本の大企業には大きな力を持つ投資家がいないため、企業は中長期的な展望で設備投資を行い、高度経済成長と世界にも稀な経済格差が小さい総中流家庭の社会を実現出来たのである。その社会を苦々しく思っていた欧米の資本家と政治家は国際標準基準なるものを作り上げてきて同じ土俵に日本を引き摺り込んだのである。800兆円を超える国の多大な借金の半分以上はバブル経済崩壊後に増えたものであるが、これは日本が造り上げてきた社会経済システムの失敗とは違う事に気づかなければならない。日本経済バブル崩壊後の政策の失敗によって起きたもので、金融機関の不良債権処理が遅れたことや、企業の資本効率が悪いために起きたものではなかったのである。全ては冷戦体制が崩壊したことによって日本の社会経済システムがグローバル化のターゲットにされたのである。前置きが長くなったが、鳩山民主党政権が今後やらなければならないのは修正資本主義による社会経済システムの回復である。日本国民が将来安心して暮らせる様な社会システムを再構築し、企業が経済のグローバル化に対応できる様な制度を構築すべきである。社会経済の発展には競争原理が必要かもしれないが、過度な競争は環境を破壊し、格差社会によって犯罪やテロを生むので、鳩山政権には戦後にニューーディラーの若い米国人達が日本で行なおうとした修正資本主義の原点に戻って日本の改造計画を進めて欲しいと思う。

オバマ政権もクリントンと同様に日本に対して当面は円高と株安で圧力

米国の民主党政権はケネディから始まって日本と経済問題で対立してきた。特に、クリントン政権はブレーンにウォール街出身者などの金融資本主義者が多かったので、経済バブル崩壊後の日本にとっては不可解な円高に見舞われ、景気回復の芽が摘まれた。それでも円高を克服するためにアジアに工場を移転して迂回輸出で景気回復を図ったところ、又してもアジア金融危機が起きて日本の金融機関は止めを刺された。その後は米国のシナリオ通りの不良債権処理を断行しなければならなくなり、円安と中国経済成長の恩恵も相俟って見せかけ上の景気回復を遂げた。しかし、今回の衆議院選挙で自民党が大敗し、アジア主義を標榜する鳩山政権が誕生するに当り、円高と株安と言う米国民主党政権の常套手段の痛い歓迎を受けている。クリントン時代はソ連が崩壊し冷戦構造が消えたことにより、その時点では地政学的に日本の位置づけは弱くなり、軍事的に勝利を納めた米国が経済的にも勝利するべく日本をターゲットにして円高政策で日本経済をぶち壊した。オバマ政権は金融危機で米国経済を立て直すのに日本を利用する事を考えていたが、日本が自民党から民主党政権に移行することになり、然も米国と対等やアジア主義を打ち出しので、当面は徹底的に円高と株安で鳩山政権を揺さぶる考えと思われる。オバマ政権も日本の民主党政権誕生を見越して米国大使に交渉の達人である腕利きの弁護士を就任させたのである。オバマ政権もクリントン時代と異なり経済的軍事的に巨大化した中国を警戒してきており、本来なら日本を中国の防波堤の役割を求めたいところである。しかし、鳩山政権は東アジア共同体構想を掲げており、オバマ政権の防波堤構想から逸脱しようとしている姿を危険視し、今後は日中韓を離反させる陰謀を仕掛けてくると思われる。何れにしても、当面は鳩山政権を揺さぶるために円高と株安を仕掛けるであろうが、皮肉にもグローバル化によって時代の流れはアジアに向かっているのでオバマ政権と言えども3年後に再選するためには国内の景気回復に注力するしかなく、日本とは妥協の道を探ると思われる。今こそ、日本はアジアの発展に貢献し、各国の経済の発展に貢献するべきである。

八ッ場ダムについて!

民主主義国家であればダム建設計画の実施に要する期間は相当な年月になるのはやむを得ないかもしれない。しかし、八ッ場ダム計画は昭和42年(1967年)に開始され、平成6年(1994年)に漸くダム建設に係る工事用取り付け道路の工事に着手出来た年月に到る過程でダム建設計画の必要性の見直しが行なわれたかが問題であろう。同計画は首都圏に安定した水を供給する目的で立案された利根川水系のダム計画のひとつである。確かに、首都圏では10数年前迄は夏季には毎年水不足の懸念があり、給水制限等の措置が取られていた。然し、暖冬の猛暑の割にはここ数年、水不足の懸念が起きてなく、節水を呼びかける声も聞かれない。2000年以降は高層マンションや超高層の建物の建築が相次いだにも拘らずである。良く考えると、首都圏で大量に水を必要としていた施設は何かと考えると、生活水ではなく、工業用水ではないかと考えてみると当らずも遠からずであろう。首都圏では20年以上前から公害対策で工場の地方移転が進められてきており、その後は日本経済バブル崩壊やグローバル化によって首都圏から工業用水を必要とする工場が急激に減少した事が水不足解消の原因と推定される。勿論、八ッ場ダム計画を中止するにしても首都圏の将来像を考えた上で決断する事が重要だが、八ッ場ダム計画の最大の問題点は、水需要が当初予想と異なるにも関わらず規模や実施時期の見直しが行なわれなかったことである。尤も、インフレ経済的な思考で未だ動いている役所なので全て同様であるが、基本的には縦割り行政の弊害でもある。何れにしても必要性の有無より景気対策の必要性に切り替えられて進められてきた八ッ場ダム計画は一時的に中止し、首都圏のマスタープランにおいて本当に必要かどうか再検討することは重要である。特に、財政難と国の借入金を増やさないためには事業の優先順位を決めて段階的に実施する他、時代に合わなくなった計画を中止することは最優先課題である。

マクドナルドのコーヒーの美味しさ

メタボの私がマクドナルドを利用する事は少ないのだが、用事があって朝早く出たために朝食を取るには取り合えずマクドナルドしかないので入った。何かの雑誌でマクドナルドのコーヒーが美味しくなった記事を読んだが、確かにコーヒー専門店より美味しく感じた。コーヒーだけを注文する人もいるそうで、マクドナルドとしては想定外の評価かもしれないと思った。マクドナルドは以前デフレ経済を見据えた65円バーガーを売り出したが、その販売戦略効果も一時的に終わり、今回のコーヒー販売戦略が急激ではないが口コミで広がり、売上げが伸びている様だ。なお、マクドナルドの携帯電話による店舗情報では夕方の一定時間には無料でコーヒーサービスを行なっている店舗が分かるらしい。安く上手いコーヒーを提供し、今日の情報化時代に併せて携帯電話によって無料サービスなどを提供する販売戦略は一見すると何処でも出来そうだが、実際には社内で議論すると実施に到らないかもしれないと思われる。良く顧客満足度と言う言葉を目にするが、実際は販売戦略においては売り手側や事業者側の押し付けが多い。翻って、当社の様な業界を見た場合、飲食業界とは違った意味で付加価値のあるサービス提供ができるのかと思われる。マクドナルド商法は昔から商売の世界で言われる「損して得取れ」の典型的な原則である。この原則に情報化時代に合わせたサービス提供情報を流しているのである。デフレ戦略を改めて商売の基本原則に戻ったマクドナルドの販売戦略は、不動産業に関してもサービス対価とは何かを考えさえられるものであった。デフレ経済でも顧客満足度が高い商品は価格が高くても売れると言う事と、取得後のメンテナンスによる満足度も必要であることが分かる。事業者側の押し付けでは駄目だと言う事が分かり、重要な情報は現場が持っていると言う事を理解すれば厳しい不況でも乗り切れる可能性はある。

低金利時代の高利回り物件に潜むリスク

金融機関に預金を預けても1%未満の金利しか得られない時代に、不動産の収益物件に関しては金融危機以降個人投資家などは12%~15%以上の利回りを求めてくる。地方の不動産会社なども同様である。金融危機で買い手市場になっているとは言え、この様な利回りで出てくる収益物件は常識的には①テナントの確保が難しいもの、②築年数が経過して修繕費に資金を要するものなどである。個人投資家に低金利なのになぜ高利回りの物件しか対象としないのか聞いたことがあるが、基本的には不動産に関しての知識が少ないことが原因と思われた。更に、金融危機による経済不況で不動産の投売りが出ると何等の根拠もなしに世間でいわれていることを鵜呑みにしているのである。もちろん、これ等の投資家は自分達の専門分野に関してはプロであり、資金調達が厳しい状況で金融機関から融資が受けられる優秀な人達なのである。ファンド運用者の人達とも良く話すのだが、彼等は一様にテナント入居率100%を前提に出口戦略を立てている。この入居率には更に相場以上の賃料を前提にしてである。長年不動産業に関わってきた者からすれば、この様なビルは少なくても「立地が良く」、「ビルのグレード高く」、「省エネも優れており」、「新築ビル」などが前提条件である。これ等の条件が一つ掛けても景気が低調な時には得られない数字である。最近は自分本位の考えに終始し、競合物件に対しての配慮が欠けている人達が多いように思えてならない。数字で作った不動産開発や建築物件が溢れたために平成ミニバブルが起きたのである。翻って、投資家が高収益の物件を求める背景には、定率償却から定額償却に変更になった時点から投資用不動産は借入金が多いと収益があっても税金控除後の利益では元本返済資金が不足することになったことも一因かもしれない。何れにしても低金利時代に本来ならば高利回りの収益物件が出る訳もなく、これ等の物件の殆んど満室想定賃料での価格であることに気をつける必要がある。また、需給バランスが崩れて供給過剰の市場になっていることを認識すべきである。

設備設計一級建築士の資格制度に疑問あり

構造偽装事件後に改正建築士法で一級建築士に対する資格が①一級建築士(意匠)、②構造設計一級建築士(構造)、③設備設計一級建築士(設備)に細分化され、建築確認申請に際してはそれぞれの資格者が責任を持って図面を確認する事になった。専門家以外はこの改正をしごく当然と考えるかもしれないが、この改正の中で実体に合わない資格が「設備設計一級建築士」なのである。改正後は5000㎡以上の建物の確認申請には「設備設計一級建築士」の確認署名が必要になるが、この資格者に該当する者は全国で3000名程度と言われている。賢明な方々は想像が付くかもしれないが、先ず日本の大学の建築学部では「意匠」、「構造」は重点的に学ぶが「設備」に関しては優先度が低い科目である。このため、数十年前の設備のウエイトが低い建物の時代には一級建築士が設備設計の管理も出来たが、近年は設備も「電気」、「給排水」、「空調」と3部門の専門知識が必要になったために、この部門には理工系の「電気工学科」、「機械工学科」などを専攻した人達が従事していた。資格としては業界が制度化した「建築設備士」が設けられていた。今回の改正で問題となるのは、建築学科を出ていない「建築設備士」は幾ら経験があっても「設備設計一級建築士」にはなれないのである。現場を無視した制度の導入は形式主義に陥り、名義貸しを容認する事になる。ちなみに、この資格が得られる一級建築士は既にリタイアしている資格者であり、今の建築設備の設計や管理が出来ない人達が殆んどである。更に、今回の資格制度の改正は大手企業に業務を集約する意図も含まれており、中小設計事務所を淘汰する制度に他ならない。何れにしてもあらゆる制度の改正が現場を無視した監督官庁の責任逃れに終始しているので、この様な社会システムが構築されてゆくと米国の様に日本の建築業界も次第に技術的に衰退してゆくと思われる。現実に、今の若い建築家の大部分が碌に図面も描けない世代になってきており、然も3kの職場として建築学部も敬遠されてきているので、将来が危惧される。構造偽装事件は、小泉政権が行なったインチキ構造改革の結果であり、それを制度改革で監督責任逃れを図った国土交通省の責任は重い。施工技術や職人技の低下を招いているコスト削減の大合唱も将来に大きなツケが回ってくることを自覚した方が良い。

藤井民主党顧問の言葉

財務省OBの藤井民主党顧問がTVの番組で語った言葉は印象的であった。その言葉とは、"民主党の政治を不安視している人がいますが、民主党は自民党の時代に官僚機構の下にあった政治を官僚機構の上に政治を上げるだけです。特に変わった事を遣るわけではありません。"と説明したことであった。官僚機構の下に政治が置かれる様になったターニングポイントは、田中角栄と言う今太閤と持て囃された人物が総理大臣になった以降である。田中角栄は自分自身に学歴がなかったために、逆に学歴を過大評価する所があった。田中角栄は政策は優秀な官僚に任せれば良いが持論であった。その結果、自民党総裁選挙の論功行賞で各省の大臣に政策通でない国会議員を任命するようになって官僚の暴走が始まった。佐藤栄作までは、各省の大臣には論功行賞ではなく、官僚及び組織をコントロール出来る政策通を任命していたのである。藤井民主党顧問が指摘していたのは正に田中角栄の罪であろう。日本の政党は米国の政党の様に政策研究機関を持っていないので、現時点では官僚機構とタイアップしないと政治が行なえないのは現実である。勿論、官僚機構の上に政治を取り戻す事は優秀な政策通の大臣を任命しないと、官僚の意見を聞くだけの大臣になってしまうので今後は民主党がそれを実行できるのかどうかを見極める必要がある。何れにしても話題にもなっていなかった政治の位置づけが民主党政権を迎えるに当って語られた事の意義は大きい。官僚自体も現行の日本社会システムに対して危機感を持っていると思うから、自民党時代のインフレ経済の予算編成をデフレ乃至は低成長時代の予算編成に転換し、未来を展望できる政治を進めることを期待したい。藤井民主党顧問の言葉は政治家が政治を行なう事を意味しているからである。

東アジア共同体構想の意義

日本社会の閉塞感や経済の活性化を推進するには、国内の諸問題を議論しても解決しない事に気づくべきである。世界第二の経済力を有効に使うには、未だ発展の余地が大きいアジアに国富を投資する事が必要なのである。既に日本は企業レベルでは海外への工場移転でアジア各国の経済発展に貢献してきている。しかし、今後はアジア各国のインフラ整備に国・企業・個人が一体化して投資を行い、アジア各国と日本共に経済成長を目指すことが必要である。民主党の鳩山代表の東アジア共同体構想が如何なるものかは知らないが、歴史的に共通の文化的背景を持つアジア人がグローバル経済の中で提携する事の意義は大きい。米国のクリントン時代に日本の東アジア共同体構想に反対したのは当然で、市場原理主義をアジア諸国に蔓延させて金融資本主義による統治を企てていたからである。今回の民主党政権の誕生は米国のアジア支配に暗雲を投げかけるものとして理解するオバマ大統領側近が、鳩山代表と小沢幹事長に対しての失脚工作を仕掛けることは確実である。特に、日本の官僚は親米派で固められているので、その勢力と相俟ってメディアを通してスキャンダルを暴露して人気を落とす戦術や政治献金などの違法性を針小棒大にして騒ぎ立てる戦術を取る事が予想される。日本国民はメディアを使った大衆操作に弱いので、米国のシナリオ通りになる懸念がある。特に、民主党内からユダが出る可能性もあり、今後の政局は目が放せない。何れにしても、日本が向かう道は東アジア共同体によるアジア諸国との連携であり、此れを抜きにして日本経済社会の発展はないのである。ハイエクの新自由主義などの理論は格差社会を拡大し、犯罪を増やす効果しか産まない。紀元前から高い文明を有していたアジアであり、一時的に産業革命で優位に立った欧米諸国に後れを取ったが、漸く屈辱の歴史に終止符を打つ時が来たのである。日本及び日本人の役割は大きい。

新型インフルエンザ(パンデミック)対策

私のインフルエンザ対策としては、外出した時には必ずイソジンのうがい薬で「うがい」することと、石鹸で「手を洗う」ことです。この事は20年以上続けていますが、切っ掛けは悪性な風邪に掛かり1年近く体調が良くなかったためでした。確かに、この効果はあると思いますが、日常生活で無理をして体力を落とすと予防の成果はあがりません。最近、仕事がら新型インフルエンザ対策の知識を得る必要が有り、パンデミックに対する対策のセミナーなどに参加していますが、防予防には手を消毒することと、日の光があたる広い部屋で仕事をする必要があることが分かりました。インフルエンザは紫外線に対して弱いようですね。反対に暗い湿気のある部屋ではインフルエンザに罹る可能性が高くなる様ですので、窓がない狭い部屋での会議などは避けるべきですね。新型インフルエンザの報道でマスクが品切れになるケースが多いですが、マスクは基本的にはインフルエンザに罹らないと言うよりは他者に菌を移さない効果の様ですので、マスクの買い占めは意味がないですね。インフルエンザの流行は急速に広まりますが、一定期間を過ぎると沈静化の方向に動くとのことです。理由は、流行に伴って免疫がない子供たちの通う学校の休校が多くなると伴にインフルエンザの免疫者が防波堤になるための様です。現代はスペイン風邪の時の様な栄養不良の時代ではありませんので、睡眠と栄養を十分に取っていれば万一罹っても大事に到らないで済むと考えられます。なお、当社の現場要員には消毒液を与えて作業時に室内に入る場合には事前に消毒する事を義務付けています。

ヨーロッパ共同体が存在するのに民主・鳩山代表の東アジア共同体構想を非難する欧米マスコミ

語るに落ちたとは欧米の民主・鳩山代表論文記載の「東アジア共同体構想」に対する否定であろう。グローバルに向かっている今、局地的な利益を代表する東アジア共同体に対する批判は一見すると正論な様だが、それならヨーロッパ共同体(EC)は非難しないのかと誰でも疑問符が付く。それを取り上げる日本のメディアも売国奴と言って差し支えない。日本がアジア諸国の発展に貢献し、各国が民主的な国家として経済反映させることが日本の役割である。戦後60年が経過し、漸くアジアで日本以外に韓国、台湾、中国が経済発展を遂げてきて漸くアジアが欧米と対等になれる時代が来たのである。米国のオバマ大統領の周りにはクリントン時代と全く同じ金融資本主義の連中が取り巻いており、アジアの利権のために東アジア共同体構想などには断固反対の姿勢であろう。しかし、アジア経済を発展させる事が日本経済の安定に繋がる事を認識する必要がある。岡倉天心の「アジアは一つなり」は蓋し名言である。アジア各国は何等の障害もなく交流できる体制を構築すれば日本将来に不安はなくなるのである。日本国内に投資するのでなくアジア諸国に投資する事が日本の生きる道と言える。

民主党政権のアキレス腱は参議院

今回の衆議院選挙で民主党は大勝したが、本音は勝ち過ぎた思いが強いと思われる。来年7月には参議院選挙が行なわれるが、それまでは否応なしに社民党と国民新党と連立を組んで参議院の過半数を維持しなければならないと言う問題が横たわる。今回の連立政権には、「われらが党」も参加の意欲を表しているが、参議院の議員を有していない「われらが党」に価値はないので相手にされないであろう。民主党としては来年7月の参議院で単独過半数を得て政権を磐石にしたいと思っているのであろうが、10ヵ月後の来年の参議院選挙に今回の衆議院で大勝しすぎたマイナス面が出るのを避けるために社民党や国民新党が利用される恐れは多分にある。何れにしても、10ヶ月後の参議院選挙まで国民の支持を維持するには、霞ヶ関を悪者にするか、社民党や国民新党を悪者にするしか道はないと思料する。尤も、自民党にしても10ヶ月位で国民の支持を戻すほど変われるとは思わないが、参議院の勢力如何では参議院が引き続き政治の不安定な要素となる可能性が高い。経済の大事な時期に政治が不安定だと国民に取ってはプラスとはならないので、今回以上に来年の参議院選挙は重要になると思われる。

記者クラブ発表でもないのに新聞が歩調を合わせた「民主党300議席超え」記事の不思議さ

タブロイド版の夕刊紙などは日経の記事を踏まえて書いたのもあるが、どの新聞も一斉に「民主党300議席を超える勢い」と報道した。記者クラブの発表記事の如く、各社が全く同じ様なニュースとなるのは首を傾ぎたくなる。確かに、今回の選挙では民主党が強いのは分かるが、各報道機関が実施したアンケート調査に何等のバラツキもないのは、穿った見方をすれば各社とも経費節減のために同じアンケート調査会社を利用したか、そうでなければ何らかの意図によってコントロールされた記事が掲載されたかである。もし、前者とすれば、今後は各報道機関のアンケート調査など信じる気になれない。なお、後者であれば、今回の報道が民主党にプラスに働くか、マイナスに働くかで異なると思われるが、冷静に見れば前の選挙で自民党が圧勝した弊害を国民が考えれば民主党にマイナスとなるかもしれない。この様な報道に関してマスメディアが倫理規定で調査しないと公正中立な立場を自ら放棄する事になり、近い将来の選挙報道に対する規制に繋がる危険性がある。尤も、昨夜のTBSの番組の国際陸上競技「女子マラソン」で、実況放送にも拘わらず、その後に同じ番組で1位の中国選手の名前や3位銅メダリストの国及び氏名を間違えるなど信じられない出来事があった。このため、先の「民主党300議席超えの勢い」のニュースも英米の規制緩和主義者がもたらした過度競争による経費節減の影響で現場の質が落ち、無責任な状況によって生じた結果のニュースとしたら最悪と思える。社会全体で経費節減による質の低下が起きているので、今後は本当の価値に対しての見極めが必要となり、合法的なインチキを見破る目が重要と成って来る。

認証・基準作りの上手い欧米諸国

米国NYでは「グリーンビルディング」と言う言葉が到る所で聞かれるそうだ。日本で未だCASBEE(建築環境総合性能評価システム)による建築物の格付け手法の段階と言うのに、グリーンビルディング「LEED(The Leadership in Energy and Enviroment Design)認証」なるものが生まれている。お金儲けに対する取り組み方が違うと思うのだが、何れ日本でも同様な認証基準が導入され、建築物の格付けが行なわれて賃料や売買価格にも影響が出ることは間違いない。LEED認証を未だ知らない方に説明すると、認証の基準は以下の6つの項目に分かれており、①敷地の持続性可能性(14ポイント)、②水効率(5ポイント)、③エネルギー(17ポイント)、④資材・資源(13ポイント)、⑤屋内環境基準(15ポイント)、⑥革新性と設計プロセス(5ポイント)、更に括弧内のポイントに対する細かい数値基準などが設定されており、認証を受けるだけでも大変な様だ。NYでは市内の自転車走行を奨励するなど都市環境に注力しているが、LEED認証に関してはグリーンビルディング法によって市から1000万ドルあるいは建築コストの50%以上の融資を受ける場合や、市が建築する200万ドル以上の建築・増築するビルはLEED基準に従わなくてはならないそうだ。もちろん、この制度の普及にはグリーンビルを推進したオーナーに対する優遇税制が設けられている。オバマ大統領は21世紀の米国を省エネ・環境立国にする考えで予算編成を行なう考えのようだが、省エネ・環境については日本が先輩格なので、認証・基準作りにに後塵を拝していては何時の間にか遅れを取るのではないかと心配である。特に、日本は民間に大きな負担を強いるような制度を経済環境を無視して行なう傾向があるので、制度が形骸化する恐れもある。何れにしても、省エネ・環境に対して配慮した建築物でないと価値がなくなる時代が来ている事を痛感ささせられる。

イラク・アフガンに見る米国テロ対策の誤り

アフガンは援助景気で一部の支配階級だけが反映を謳歌していると言われる。しかし、90%の国民は極端に貧しく、米国の望む平和など無縁である。米国の間違いはイラクでも同様であったが、貧困さが民衆をイスラム原理主義に走らせているのであり、実体は宗教の対立とは異なる。グローバル経済は確かにフラットな世界を築きつつあり、豊かさとは無縁であった発展途上国の国々に経済成長をもたらしている。しかし、逆に経済成長が格差社会を助長して犯罪も拡大している。犯罪の発生は貧困が原因であることは疑いもない。米国が本当にテロを失くしたいと願うなら軍隊を送るのではなく、経済援助でアフガン国民を豊かにする事である。尤も、米国の覇権主義の背景には軍事産業や宗教団体が存在するので、実際には紛争のための紛争を演出していると考えられる。イランやミャンマーなどは、ポストアフガンだが、北朝鮮に対しては韓国や日本に武器を売るために地政学的に利用している。自由や人権と言う言葉で他国に侵略する行為は、許されるものではない。ベトナムが良い例である。南ベトナムが崩壊しても米国が懸念したような事態には到らなかったのである。南ベトナムの一部の企業家や軍隊の利益のために戦争を続け、その結果、米国内に混乱と経済疲労をもたらしたのである。アフガンの深入りは第二のベトナムになる可能性が強いが、金融危機の経済活性化のために戦争を行なわなければならないのは悲劇である。暴力では人を屈せさせることは出来ないのである。何も知らないでアフガンに深入りするオバマ大統領も何れ後悔すると思われる。

民主党政権で本当に高速道路の無料化が実現できるのか

高速道路は建設当初の計画では無料化する事になっていたと言う事だが、インターチェンジ方式の出入口しか考慮されていない事から考えても国民に嘘を付いていたのではないかと思われる。米国の高速道路を見れば一目瞭然であり、無料化して効率的な運用を考えていれば一般道の整備計画で高速道路との整合性を考慮されていて然るべきだが、日本の高速道路網と一般道網との整合性はインターチェンジ周辺を除けば極めて小さい。推測の域を出ないが、高速道路の建設は半永久的に続ける意図があったと考えれば辻褄が合う。何故、高速道路の無料化の実現に疑問を抱いたかと言うと、石油特別会計の一般財源化の議論の中で高速道路に関する運営上の問題が一度も取り上げられてこなかったからである。確かに建設費は膨大であるが、一般財源から高速道路の建設費に回っている分は少なく、殆んどが受益者負担の石油特別会計の財源であったので、高速道路建設費に係る借入金は一時的に建設をストップするか、スローダウンすれば問題は解決するからである。特に、高速道路の民営化に際して一度も検証されていないのは、高速道路に点在する休憩所及びガソリンスタンドからの収益である。この休憩所の既得権益について少しも触れていないのは異常としか思えない。この様な事を書くと、建設費など比較して無視できるほど小額の収入と反論が出るかも知れないが、それならば使用料の仕組みを開示して透明性を高める必要がある。標題のタイトルは民主党ができるのかと言う事で、高速道路の無料化が出来ないと言うことではない。高速道路を無料化するに際しては一般道路との整合性が鍵を握ると思うからである。高速道路の無料化は現在の様なインターチェンジ方式の出入口では使用効率と一般道路の補完には成り難いので、多くの出入口を造る事が必要だが、一見して現行の高速道路は一般道路との整合性が悪いため、新たに出入口を建設するには多額の費用が掛かってしまうと思われるからである。今回の地震による高速道路の崩壊もインターチェンジ方式の出入口のために何10kmも使用できない現象を引き起こしたのである。高速道路の無料化で経済効果が上がるのは出入口を多く設置することであるが、そうすると休憩所の利用の問題が発生し、反対意見が出てくるのが目に見えている。今更なのだが、この様に公共投資を見れば国民のためより既得権と言う利権を生み出すために血税を投入している実体が浮かび上がる。構造改革の民営化に置いても然りである。従前の公共事業では利権が少なくなったので、国民受けする民営化と称して利権を漁っているのである。郵政民営化など正にその典型的な事例であろう。新聞を読むから騙されるのである。騙されないためには、常識と言う目線で物事を見る必要がある。自己利益を図る輩は世間に対して発言が多いが、社会利益を考える人は控えめであることに気づくべきである。

天候異変で防災体制の見直しが急務

温暖化の影響で世界中が異常気象に見舞われているが、日本も例外なく局地的集中豪雨で被害が急増している。確かに、最近の集中豪雨は短時間で多量の雨が降るのだが、過っての集中豪雨と異なり、強弱が感じられない一方的な土砂降りである。日本の地形や都市構造から言えば正に近年の集中豪雨は国土整備の盲点を突かれたものと言える。特に、温暖化の阻止も国土整備も短期的に対処できるものではないので、気象異常を考慮した日本国土の防災体制を見直す必要があると思われる。なお、過去の公共事業は環境を考えずに進められたために山河や海の資源に影響を与えたので、新防災計画では、環境の再生をテーマに防災計画を立案すれば一石二鳥の成果が期待できる。もちろん、日本国の財政難から従来の様な公共投資は困難と思えるので、現行の各省の垂直予算方式ではなく、各省を一体化した水平予算を組んで行なう必要がある。また、国と地方の事業も一体化して優先順位を確定した予算配分を行う事も重要であり、実現するには党利党略を超えた政治が求められる。小選挙区になってから政党で候補者を選ぶ傾向が強くなったが、政治は個人の資質に負うことが大きいので、今度の衆議院選挙では、政界再編を考慮して個人の政治的信条を評価する必要があると考える。

派遣法改正に反対をする団体・会社などの真意

非正規雇用者を作った派遣法の改正が進められているが、新聞報道によると、国内に工場を持つ業界団体や人材派遣会社、更には労働組合が改正反対の署名活動を行っていると言う。反対者の中では、一番分かり安いのは人材派遣会社で、改正されれば雨後の竹の子の様に出現した派遣会社の経営が危機に瀕するからであろう。次に、業界団体であるが、国家国民のために業界団体が日本国内に無理して工場を維持しているとは考えられないので、景気の調節ベンとして非正規雇用者を利用すれば需要減時の労働コストを安易に削減出来るからであろう。非正規雇用者制度が変更されれば工場を海外に移転するしかないなどと言う馬鹿がいるが、海外の安い単純労働力しか必要ない工場は、景気と関係なく出てゆくのである。況して、中長期的な視点で考えられない小人物の多い経営者の言葉など信じるに足らない。情けないのは労働者団体の改正反対である。自分達が良ければ他の日本人がどうなっても構わないと言う、エゴ丸出しである。一時、勝ち組などと言う言葉が流行して、マスコミのインタビューに馬鹿な輩が私の会社は勝ち組なのでと誇らしげに答えた姿は醜悪そのものであった。会社は成長しないと生き残れないとは本当なのかと言いたい。成長と言う誤魔化しの論理に踊っている会社の寿命は長くない。適正規模で高収益を上げている会社も多いのである。その様な会社の目標は成長でなく、安定である。長い低金利の社会が続き、安易な投資を行なって規模の拡大を遂げてきた会社の真価が今回の金融危機で問われるのである。国の政策の変更で窮地に立たされる人材派遣会社には気の毒だが、その他の反対者に対しては非正規雇用者を犠牲にして勝ち組などといってきた天罰であるので、同情する気は毛頭なく気分が爽快である。

中小企業と自営業を支援する新しい政党を望む

自民党は「金持ち」と「大企業」の利益を守り、民主党は「大手企業の労働者」と「公務員の労働者」の利益を守る政党なので、「中小企業」と「農魚業や商店主の様な自営業」の利益を守る政党が見当たらない。もちろん、思想的や宗教的に偏った政党は除外しての意見である。20年前には社会党から分党した「民主社会党」と言う政党が存在し、基本的には「中小企業」、「右派の労働組合」、「自営業者」側の政党であった。多くの日本人はどうも右左が明瞭でないと判断できない人種の様で、「民主社会党」の支持者は伸びなかった。しかし、今日の様な格差社会の現出で、今こそ自民党と民主党以外の第三の政党として「中小企業」と「自営業者」の利益を守る政党の出現を望みたい。自民党を離脱した渡辺喜美が新しい政党を作るというニュースが流れているが、新政党の旗揚げが単に民主党政権に対してキャスチングボードを握るためのものではなく、真に国家と国民を憂いてのものならば是非支援したいと考える。我々は今こそ既成政党に"NO"を突きつけて自己利益を追求する立候補者でなく、愛国者の立候補者を応援する時である。誰もが成功者になれる社会がある筈はないのに、成功者だけを取り上げて努力が足りないと言うマスメディアと似非学者と政治家が主導権を握る社会体制など壊すべきである。

米国会計基準の決算報告で日本市場の株主説明に問題はないか!

日米の市場に上場している企業が金融危機で会計基準が緩和された米国会計基準で有利な決算発表を行なうケースが多くなってきた。NY市場の株主に説明するのに米国会計基準で決算するのは当たり前だが、日本の市場の株主に説明するのに米国会計基準で決算した報告書で行なうのはインチキであると思われる。今回の金融危機による不動産の下落や債券の評価替え等で大幅な欠損を出したために金融機関との取引条項に抵触して倒産を余儀なくされている会社が多いのに、米国会計基準で決算したことにより損失額が少なく計算する事が出来たのに拘わらず、如何にも健全な会社であるかのように振舞う姿に憤りを覚える。この様な不公平が許されるなら、経済市場主義など論外である。日本のメディアも御用学者もこれ等の不公平感に対しては消極的な対応だけである。市場が正しい判断をするなどと言う輩には、都合の良い選択で動いている不公平な現実に対して意見を聞きたいものである。尤も、弁護士だろうが、会計士だろうが、学者であろうが、尊敬に値する方々はインチキ仕組みの代弁者になってはいない。

経済成長率と言う戯言

経済成長率がプラスでなければ景気が回復しないと言う戯言が罷り通っている。GDP(国内総生産)が500兆円もあり、17年前のバブル経済時のGDP380兆円より120兆円も上回っているのに国民の多くが不景気感で充満している。尤も、過去3年~4年は地方経済を除けば経済成長率はマイナスであっても米国景気の恩恵を受けて景気は良かった。しかし、その割には過去の様な豊かさが感じられないのは、国民の多くが将来に対する不安から内需の拡大による景気の上昇の図式には程遠いからである。もちろん、昨今の消費が内需に直線的に結びつかないのは、グローバル経済の水平分業のためであり、海外の安い輸入商品を購入しても内需には影響が少ないからである。バブル経済崩壊後以降に拡大したGDP増加分は、社員の給料に反映したのではなく、大部分が借入金の圧縮と株の配当金に回ったために景況感に結びついていないのである。金融資本主義を信奉する学者やマスメディアは経済成長率をプラスに変えるしか景気が回復しない様な論調を展開しているが、消費による内需が拡大しないのは、水平分業で海外の安い輸入品が大量に日本に流入し、国内の産業が徐々に崩壊しているからである。この様な経済システムではGDPが拡大しても失業率が減少する事もなく、昔の様に平等に国民の所得が上がる事もないので、格差は拡大するばかりである。馬鹿な政治家は国民が蓄積した富を使えば景気は良くなるので、株式投資などにお金を使えと言うが、今の経済構造では海外に富が流失するだけで国内の景気に貢献することはないのである。安定した経済を実現するにはGDPの拡大ではなく、輸入と輸出のバランスの取れた経済構造の仕組みであり、雇用を維持するために国内で資金を循環させることである。私が言いたいのは従来の様な環境を破壊する公共投資ではなく、民活を利用する手法で国土環境を回復して漁業・農業・林業を活性化させ、それに伴って各種産業が各地で起きることである。グローバル経済の水平分業の推進は亡国を招くだけである。適正な経済規模で豊かさを実現する経済構造が必要なのである。

民主党政権後の政権再編成!!

8月30日の衆議院選挙で民主党政権が発足するのは確実であろうが、問題は鳩山ー小沢政権が現在の民主党左派と何時の時点で決裂するかと興味が湧く。尤も、自民党が失う議席数と自民党を離脱したグループの当選者数によって変数が違うので、現時点では再編成の動きの予測が難しい。しかし、小沢の頭の中には、英国の保守党と労働党や米国の共和党や民主党の様な政権交代の図式を描いていると思われるので、再編成は間違いなく起きると断言できる。勿論、小沢の頭の中は更に一歩進んで、グローバル化した社会経済にあって政治を機動的に進める方法として戦前の翼賛会の政治体制を考えているかもしれない。何れにしても、すべての政治家は国民の困窮など意に介さず政界再編の闘争で権力を持つ事に血眼である。国民の一人としては、既成政党の垢に染まった連中の政界再編製など期待できないので、少なくても予算書を読んで理解できる人達が結集した新しい政党の出現を期待したい。多くの国会議員が官僚から政治を取り戻すとか言っているが、予算書も読めない馬鹿な国会議員や利権ばかり求めて国を売る様な国会議員が政治の主導権を握っているから、官僚が言う事を聞かないのである。国民からすれば、選挙で洗礼を受けない官僚に手玉を取られる位な政治家など要らないのである。財政論議は官僚の域を出ないものばかりであり、何かと言えば官僚を代弁して税金を上げることだけである。日本は長年に渡り、インフレ経済を前提にサラ金財政を繰り返して来たが、低成長経済になって税収に見合った財政に切り替えるのに手間取っている内に、900兆円の赤字国債発行というお化けを作り上げてしまったのである。日本の財政再建などは現行の予算編成の仕組みでは消費税を10%に上げた位では付け焼刃になってしまうので、革命的な予算編成の仕組みに変える必要があると思われる。既成の枠組みでしか考えられない政治家はいらないのである。政界再編製の前触れの選挙なら政党の公約でなく、立候補者個人の政策に注目する必要がある。

 

日本の若者は内向的になって来ている(バックパッカーの減少)

日本の若者が海外に興味を持って国を出るケースが減少しているとの記事を目にした。確かに、現代は色々なTV番組で海外の観光地や秘境などを放映しており疑似体験できるので、行かなくても行った気持ちになる錯覚現象をもたらし、海外を見聞する興味が失せているのかもしれないと思う。しかし、映像で見るのと実際に行って体験するのでは情報化の時代でも雲泥の差があることも事実であるので、何故日本の若者が海外に興味がなくなったのか残念である。特に、グローバル経済と言う産業の水平分業が進む中で、否応なしに海外との交流が必要な時代に内向的な日本の若者が増えている現象は海外投資家の日本売りに拍車がかかる恐れがある。豊かな時代に育った若者を見ると、余り酒を飲まず、他者との争いも好まずと言った優等生が多い。千葉市長選で30才台前半の市長誕生を皮切りに、多くの市で若い市長が誕生しているが、今の若者は明治維新時の様な若者ではない事に早く気が付いた方が、期待感が失望感に変わった時にショックが少なくて良いと思われる。良く考えると、江戸時代は藩が国家であったので、当時の若者にとっては日本国内を旅するのは国外旅行であり、海外旅行することも距離が遠くなるだけで意識的には同じであったものと推察される。勿論、当時の若者は現代の様に20歳で大人でなく、元服の儀式である15歳で大人扱いであったので、今の若者と比較して精神年齢の成長と社会と対峙するが早かったことも明治維新に若者(今で言う若者ではない)が活躍した背景であろう。若者ならば失う物がないので期待できると言うのは、昔の話であり、豊かな社会の今の若者は失うのが怖い世代なのに気が付かないと社会が混乱すると思われる。何れにしても、知的好奇心がバックパッカーを生み出すと思われるので、閉塞感溢れる日本から飛び出す価値は大きいと考える。私の時代は円が1ドル300円台であったので容易に海外に行けなかったが、それでも「地球一人歩き」などの本を手にして海外に出た人達がいた。今は1ドル90円台である。日本を考えるには海外から日本を見るのが最適である事を知るべきである。

海外投資先の安定とは何か!

中国の新疆ウイグル自冶区の暴動でマスメディアは中国リスクを報道しているが、中国に進出している企業などの反応は全く180度異なる見解である。多くの企業は、中国における共産党1党独裁が長く続くことを期待しているのである。理由は簡単である。中国が今回の新疆ウイグル自冶区の暴動を早期に鎮圧したことが進出企業にとっては安心感をもたらしているのである。海外に進出した企業にとっては一番困る事は混乱である。今の中国は、経済は資本主義であり、政治は共産党独裁で安定しているので、投資先として安心なのである。日本は戦後の政治的混乱を55年の自民党の単独政権体制構築で収束して高度経済成長を実現してきている。隣国の韓国でも民主主義の政治体制の李承晩政権が倒れて朴軍司独裁政権が誕生して漢江の奇跡といわれる経済成長を実現している。今の日本の混乱は何時から起きたかと言うと、55年体制と言われた自民党の単独政権が崩壊してからではないか。確かに、情報化の時代を迎えつつあった流れの中で、自民党と官僚組織は長い安定に胡坐をかいて来た嫌いはあるが、バブル経済崩壊後のポピュリズムに迎合した政治の不安定さが赤字財政を拡大し、格差社会を作り出し、経済の低迷を招いたのではないだろうか。欧米はグローバル経済の拡大の中で新植民地主義とも言える「グローバルスタンダード」を確立しようとしている。此れに対抗するためには強力な政治が必要であるのに、日本は「とりあえず民主党」にしか政権を委ねる事が出来ない情けなさである。今こそアジア主義を標榜し、アジア人が手を携えて地域経済を確立して新植民地主義に対抗するアジア基準を世界に発信する時である。人口比率から言えば当然の事であるからである。

京都地裁の消費者契約法の適用で「更新料」は無効の判決に思う

大きく紙面を飾ったので京都地裁の判決「更新料の無効」については周知の事実と思うが、この判決には色々と考えさせられる。最近特に思う事だが、次第に過保護社会になり、企業の差別化の活動にも影響が出てくると思われる。訴訟に於ける陳述書などを見ていないので軽率には判断できないが、2年契約で2ヶ月分の更新料は確かに通常と比較して大きいとは思われる。しかし、賃貸契約締結時の礼金・賃料、更に更新時の更新料は一体化したものと考えられるので、問題は礼金が何ヶ月だったのかと賃料が相場と比較して安かったのかが意味を持ってくると思われる。消費者契約法では、「消費者の交渉力の格差をを考慮し、消費者の利益を守る」ために制定されたのだが、住宅の賃貸などは仲介業者などの専門家が介在する場合も多く、また昨今は比較物件も多いので、何も知らないで賃貸契約を締結したとは考えられない。然も、情報化社会なので必要以上に専門知識が得られる時代にあって「情報の質や量、交渉能力の格差」を強調する消費者契約法などは企業の活動を制約する悪法になるかもしれない。当社もプロパティマネジメント業務を行なっているので、入居率が悪いマンションなどについては賃料を低くして2年後の更新料で収入を多少カバーする案をオーナーに働きかけるケースも有り得る。今回の様な判決が出ると、借主にもマイナスの影響が出る恐れもあり、慣習的に行なわれてきた更新料を簡単に新しい法律で否定するのも考えものである。そうでなけてば契約の締結など意味を持たなくなり、契約社会が混乱するだけである。

減点主義が日本社会を脆弱にした

経験が必要と言うと、直ぐに一個人の経験などは不確定部分が多すぎて参考にならないと反論される時代である。しかし、私が言うところの経験は、一つには"物づくりの経験"での事であり、二つには"失敗の経験"である。前者は言うまでもないが、タイトルの問題は後者についてである。直近の事例では、北海道の大雪山系の山での遭難事故に見られる様に、順風満帆での登山経験しか持たないガイドなど非常時には役に立たないのである。実社会でも、挫折や失敗の経験のない者は非常時に弱いのである。特に、若い世代は便利な情報化社会の中で育ち、然もPCを使えば簡単に答えが出るような生き方であるので、尚更、経験を重視しない傾向が強い。減点主義は戦後の長いインフレ経済時代の産物だが、極論を言えばインフレ時代は失敗の経験など必要ない様に錯覚したのである。然し、デフレ経済や低成長経済の時代では、効率至上主義となり、経費を極限まで削減するので、成功体験しか持たない考え方には大きなリスクが内在することになる。昨今の日本社会を見ると、成功者に対して過剰な評価が目立つ。少なくても、自己資本の創業者の成功に対しては間違いなく成功に至る過程で資金確保の苦労や失敗体験を有していると考えられるので多少過剰評価になっても大丈夫だが、サラリーマンの経験しかない社内ベンチャーの成功者に対しては先の創業者と同様な評価をすることはリスクがある。尤も、茲で論じているのは能力のない失敗者ではない。有能であるにも拘らず失敗体験を有する者の方が、成功体験しか持たない者より非常時や危機に対応する能力が優れていると言いたいのである。

中国市場開拓で頑張る元物産マン

昨夜、元物産マンの方と酒を飲んだ。NYから休暇で帰国した友人を交えた3人だけの宴であった。元物産マンの方とは久し振りにお会いするのだが、何時も人間の器量の大きさに圧倒されてしまう。彼の様な日本人が戦後の日本の経済を発展させてきたことを思わざるを得ない。彼は現在、知人の会社の顧問として中国に2箇所の工場を立ち上げ、70歳を越えた今も中国法人の社長として頑張っている。彼からすれば今の日本は閉塞感に満ち溢れており、遣り甲斐のある仕事がないので、中国で事業を進めているとのことであった。最近は中国の言葉も分かり、中国での仕事も楽しくなってきた様だ。お金しか頭になく、小人物ばかりの昨今の日本人とばかり接していると嫌に成ってしまうが、元物産マンとお会いして気分が晴れやかになった。待ち合わせた新橋の居酒屋は小さいが食品部門で活躍した人らしく、新鮮で美味しい店であった。この店の選び方一つ見ても外見だけ拘る成金達と違い、本物を見る目の凄さが伝わってきた。彼には迷惑かもしれないが、私は勝手に彼を師として位置づけている。今度は中国で彼と美味しい酒を飲みたいと願っている。

有本ご夫妻の「田原総一郎」に対する提訴は当然

今回の有本ご夫妻のジャーナリストの田原総一郎に対する提訴は、TV番組で王者の如く振舞う彼の姿を見ていた視聴者は拍手喝采であろう。反権力を標榜している人間がTVと言う公共の場を利用して権力者になって行く有様は醜い。田原の様に庶民の味方の振りをしてTVで言いたい放題の姿は目に余る。政治家も行政も経営者も情報による暴力を恐れ、TVで権力を持った者達に対して媚を売っている。今はITによる情報伝達が可能になり、別な情報手段で彼等に反論する事が可能だが、それでも全国放送のTVと比較すれば弱い。尤も、田原などメディアに飼われている視聴率を確保するための忠実な番犬の役割なのであろう。しかし、許せないのは人を傷つける発言を平気で行なうことであり、その情報源に対しては報道と言う大義名分で明かさなくても良いと言う事を利用しての発言だから性質が悪い。田原は外務省高官からの取材で知ったと主張するらしいが、その外務省高官が間違っている可能性もあり、発言の裏をとっているのかと言いたい。役所からの情報だから全て正しいなどと言うのは時代錯誤も甚だしい。特に、現在の日本は北朝鮮のインテリジェンスに晒されているのだから、北朝鮮情報などに関しては特に慎重に真偽を確認するべきなのである。有本ご夫婦は権力者でもなく、ご令嬢を拉致された被害者であり、然も高齢で気が弱くなっているのに、田原の言動は許せるものではない。田原だけの責任でなく、朝日TVの責任でもあることは明白である。TVを通して世論を誘導する姿勢は到底許せるものではない。本来ならば一緒に提訴すべきである。

新聞<週刊誌<月刊誌の意味

此れを見て何だか分かりますか。私の若い頃に先輩から聞かされた記事の信頼性の順番です。新聞は毎日掲載するので記事の信憑性に対しては脆弱です。もちろん、大半が記者クラブを通した発表記事なので相手の謂うままに掲載しているだけですので紙面貸しの記事ですね。論説などは耳学問で成長した記者が偉そうに書いているので、実務者から見れば核心を突いていないものが多い。更に、学者や業界の人達の意見ですが、この掲載する内容に関しては新聞社が依頼しているのですから恣意的ですね。新聞とは良く考えると、真実を伝えるのではなく、編集者や業界・会社の意図を掲載したものであることが良くわかります。次に、週刊誌ですが、新聞より記事の裏を取る時間が有りますので、単なる会社や業界の発表記事ではありません。しかし、最近の記事で目に付くのはフリーの記者のインチキ記事を掲載してしまう軽薄さです。週間誌各社とも販売部数が落ちているので、購入して貰うネタであればリスクに目を瞑って掲載してしまうのかもしれません。モラルの低下ですね。最後に月刊誌です。長期に取材をする時間があるので、記載内容に関しては一番信憑性があると考えられます。尤も、月刊誌でも掲載記事をネタに脅迫紛いをする発行会社もありますので、記事の信憑性が高くても連載物が尻切れトンボで終わる場合もあります。時代が変わって今は、インターネット配信の記事も多く有ります。有料のものと無料のものとがありますが、問題は記事の信憑性を何処に位置づけたら良いかですね。若い方は特にITを通して情報を得る習慣になっていると思われますので、今後は社会に一番影響力を持ってくるのでしょう。新聞にも言える事ですが、匿名記事は信用しないようにすることが肝心です。ニュースソースの開示が出来ない理由は理解できますが、それはしっかりと裏を取ってのことです。一方の通行の内容では利用されるだけになりますが、軽薄化幼児化した社会では無理かもしれません。ある本で執筆者が新聞を読めば読むほど社会の先行きが分からなくなると言いましたが、蓋し名言ですね。情報の多様化の中で何が真実を伝えてくれるのかを考える時代になったようです。

都議選の結果と衆議院選挙の予想

都議選の結果は予想された事だが、私はマスコミの論評と異なり38議席が自民党の大敗とは思わない。改選前の48議席から10議席減少したが、石原都政を評価する有権者が10議席減に止めたと考える。本来ならばもっと負けても不思議ではなかった。それでは衆議院選挙では麻生首相の支持率が低いので選挙までに党首を代えれば大敗しないで済むのかと言えばそんなに国民は甘くはない。自民党の政治に対する否定は財務官僚に近い派閥である森派が4人続けて首相を出した事に帰結するのである。野党に転落した自民党が政権に復帰しては再び国民の声を聞かなくなったのは森政権以降である。官僚に丸投げ政治の森内閣が早々と退陣し小泉政権が発足したのが、財務官僚主導の小泉内閣が「格差社会を生み出し」、「地方切捨て」と「福祉切捨て」、更に「社会秩序の崩壊」を招いたからである。小泉後も森派の安倍政権、福田政権の短命政権が続き、漸く森派以外の現在の麻生政権に到ったのだが、その後も自民党は選挙だけしか考えない人達が麻生下ろしを画策してますます国民から乖離してしまった。麻生政権を全力で支え小泉政権時の悪政を正せば政権を維持するチャンスも残っていたが、国民の苦しみなど何処吹く風で政争をしている自民党に国民は愛想がつきたのである。自民党より内部がバラバラな民主党に投票するのは不毛の選択だが、官僚に丸投げの政治の自民党よりは何かするだろうと言う期待感を持つしかないからである。本来は地方政治に起きている若い力に期待する流れを汲む新しい政党の出現を望んでいるのだが、国政レベルでは変化が遅いので仕方ないからである。全国の知事会が政党に対して質問状を提出し地方自冶を理解する政党を支援する行動に出ているが、既成政党だけでなく一歩踏み込んで新しい政党に対する支援を行なえば政治が変わると考える。何れにしても、衆議院選挙では自民党は歴史的な大敗北を喫するであろうが、国民の痛みを省みない政治を推進してきた報いであるので、それを思い知るべきである。自民党の指摘する民主党に政権能力がないなどは、官僚丸投げ政党の言う言葉ではない。

米軍の核兵器を持ち込むのを容認したかどうかなどの馬鹿な議論が今更必要か

1945年以降日本国内に米軍基地が置かれている状況で非核三原則が守られているなど国民は誰も信じていなかったと思う。米空母が日本に寄港する際に核兵器を撤去してくるなど有り得る訳がない。沖縄の国土並み返還で密約があったかどうかなど全くナンセンスである。常識的に考えて本土に核兵器が持ち込まれているのに何をか謂わんである。学生時代に日本人は「タテマエ」と「ホンネ」を使い分ける民族であることに言及した本を読んだが、農耕民族の典型的な二面性の生き方であろう。この他に「根回し」などと言う慣習も横行していた。人妻と不倫して得た「沖縄密約」をすっぱ抜いた記者が名誉回復を求めて再審請求するなど今更何をか謂わんである。周知の事実を政争の具と報道のネタにして喰っている連中の言葉など迷惑である。インテリゲンチャと言われる類は、「沖縄密約」を入手する手段に使った「不道徳」を容認している発言が多いが、その様なマスコミの姿勢が日本人に今日の倫理的な欠如を齎したのであろう。更に言えば、非核三原則など何の効力もない発言に縛られている政治家も阿呆の集まりである。自国民の安全より法務官僚の解釈が優先される国家など世界から馬鹿にされるだけである。

郵政民営化のトップに金融機関出身者は相応しかったのか

郵政民営化とは①郵便事業、②郵便貯金事業、③簡易保険事業の三事業を民営化して効率的な経営に転換することであるが、このトップに西川社長を選択したのは②と③の事業に対し金融界で辣腕を振るった実績を評価し、民営化を軌道に乗せることを期待しての事と推察できる。此れに関しては異論がないが、①の事業に関しては金融マン的手法で解決できるほど甘くはない上に、郵政民営化で国民が一番影響を受ける事業に経験者でないトップでよかったのかと言う疑問が湧く。郵政民営化の本音は、西川氏をトップにした事で国に対する財投などの破綻に対する郵貯対策である事が分かる。誰もが懸念するように郵便事業が民営化に失敗して再度国営化して赤字の垂れ流しになることであろう。NTTやJRの様に同条件での競争相手がいない業界と異なり、郵政事業は大手運送業の会社と競合するので、過剰な人員と高い給料水準を維持しての効率経営など絵に描いた餅と思える。情報化の時代で通信手段が多様化する中で、郵政事業が優位性を維持するのは至難の業であろう。もし、この様な状況を乗り切れるとすれば、長年の間、民間で運送事業を行なってきた経験者の起用が重要であった筈である。もちろん、経験者と言っても実務から離れた年寄り経営者では時代に付いてゆけないので、起用する人材を確保するのは難しいと思われる。しかし、物流業界に身をおいて過酷な競争に打ち勝って来た経営者を見つけて委ねるしか郵便事業の民営化を成功に導く事は出来ないと思われる。

米国発の大きくて潰せない議論の滑稽さ

我々不動産業界にもふた昔前には「大きければ潰されない」と言う言葉が良く喧伝された。潰せないのは銀行であり、潰されないのは不動産会社である。もちろん、大きさの基準は時代によって変わるが、今日では融資債権を証券化して売却するなどの手法が開発されたので、大きくて潰せないと言った議論は沈静してしまった。金融資本主義ならば、何処の国でもこの様な話があった筈であるが、21世紀にもなって米国から「大きくて潰せない」議論が来るとは予想も出来なかった。グローバル経済の展開で資本の論理の比重が高まり、世界中をM&A資金が飛び回った。その結果、巨大資本の会社が生まれ、且つ寡占化の懸念が起きてきたが、企業が巨大化することに対する制約がなければ誰でも分かる帰結である。高度情報化社会が経験より理論先行型の人間を重視し、何時のまにか誰でも分かる経験に基づく問題が分からない社会になってしまっていた。日本ではIT社会による変革で世代交代が起きた事を明治維新と比較するが、明治維新時は人間の成熟度が全然違う事を認識していない。幼児化現象は日本人だけでなく世界的な問題なのかもしれない。市場主義者も市場が理論通りに動かない事を嘆いているが、不完全な人間が構築し、然も不完全な人間が関係している市場が理論通りの筈がない。ゲーム理論などが米国の考え方の主流であるが、合理的に反応しない人間には役に立たないし、合理的に動く事が人間として優れているわけでもないのにである。世界の全ては行き過ぎると是正する力が働く事を忘れた結果が金融危機である。東洋思想では西洋思想の様に固定して物事を考えるのではなく、全ては諸行無常の世界であり、世界をコントロール出来る様な考えはない。現代は知識はあるが知恵を持つ人は少ない。特に専門的に細分化された現代では多面的な能力を駆使できる存在が少なくなったために、「大きくて潰せない」議論の様な幼稚さが目立つ。

前回の経済バブル崩壊後と今回の金融危機によるミニバブル崩壊後の違い

15年前の経済バブル崩壊では多くの個人資産家が破綻したが、今回のミニバブルでは新興不動産の破綻や失業による住宅ローンの破綻は多いが、前回のバブル経済崩壊で生き残った個人や格差社会で富を蓄積した新興の資産家の破綻は少ない様だ。このためか、今回の景気悪化による不動産下落や株の下落に対しては積極的に投資活動を行っている。専門家筋では、2番底リスクを懸念しているが、預金金利が下がったことやリタイアした年代が年金の支給額の減少を補うためにマンション投資や株式投資にお金が動いている。尤も、元商社マンで現役で海外投資を行なっている方から言わせれば、日本はデフレ経済をから脱却出来ていないのに今回の金融危機に見舞われたので、失われた10年の再来の懸念があると言う。しかし、IT社会の浸透で時間軸が速くなっていることや今回は世界規模でのバブル経済崩壊であるため、今後の経済予測は難しいものとなっている。尤も、先の元商社マンが再度失われた10年になる事を憂慮しているのは、大事な時期に日本の政治が無責任に混迷しているからである。日銀短観などは景気の底を打ったなどと発表しているが、前回の様な日銀の判断の誤りだけはご免蒙りたい。日本の不動産は底を打ったと言う見方が広がっているので、不動産の動きが今後は一層活発化してくると思われるが、問題は先行投資が実を結ぶ投資効果が現れるためには、景気の回復によるビルなどの需要が回復しなければ腰砕けの恐れがあることである。そう言えば前回も景気回復が見えて来たときに政治の「不安定」と「理由なき円高」、そして「アジア通貨危機」によって失われた10年となってしまった。日本だけが他国より先に景気回復することは危険であることも考える必要がある。

何時まで続く土地神話の亡霊

平成ミニバブルも土地神話の亡霊が徘徊した結果だった。確か、失われた10年で不動産の価値は土地でなく建物と言う考え方に移って来たと見ていたが、実際は違った様だ。平成ミニバブルの真っ只中でリクルートの創業者である江副氏が書いた本ー日本に土地は余っているーが話題になっていたが、新興の不動産経営者は誰も省みなかったようだ。平成ミニバブルの過程で驚いた事は、設計や建築工事に対するコストダウンの圧力であった。設計事務所では経験知識・デザインが価値であるが、殆んどの不動産会社はそれを評価しなかった。経験知識を安売りすような設計会社に良い仕事が出来る訳がないのにである。また、建築会社に対しても何の根拠もなく工事費の削減を強いる姿は、不動産業界に"物造りの心"を持つ経営者がいなくなったことを示していた。その結果、多くの新興不動産会社が破綻したり、破綻予備軍となってしまった。土地の価値とは本来活用しての評価であると思うが、何時の時代にも勘違いした新規参入者が土地神話の亡霊を目覚めさせてしまう。少子高齢化社会、工場の海外移転、低成長経済、財政赤字による公共投資事業の抑制・補助金の削減など客観的情勢を見れば土地神話の復活などは有り得ないのである。米国景気と相関した中国特需でデフレ経済から脱却したと錯覚して不動産投資を行なった結果がこの有様である。然も、2000年ごろに危惧されたオフィスの供給過剰の警鐘などを忘れて建築ラッシュに走った重いツケが回ってきている。そう言えば、インフォメーションとインテリジェンスの区別も分からない経営者が多くなり、社員に情報収集の経費も使わせない姿は悲劇としか言いようが無い。外資系は交際費などの経費を余り使わない様に見えるが、実際は生きた情報にはお金を掛けているのである。表面的な事しか見えてない経営者が最近多い。今回の平成ミニバブルで逃げ切れなかった会社の多くがその類である。

日経「大磯小磯(民主党派遣禁止法案)」(吾妻橋)のコラムを非難する

6月24日(水)付け日経新聞の「大磯小磯(民主党派遣禁止法案)」(吾妻橋)のコラムに憤りを感じる。派遣労働者の様な景気変動に対する雇用者が存在しないと日本の工場はみな海外に避難するしかないと書いているが、高給取りの正規雇用者のために同じ日本人が何故犠牲にならなくてはならないのか。何等生産性を上げないマスコミや金融機関に勤務する正規雇用者が必要以上に高級を取っているから販売コストを上げているのにである。経済成長が望めなくなったから景気変動に対する生産調整のために非正規雇用者が必要と言う論理は間違いである。グロバール経済にあって非正規雇用の低賃金の労働力によってしか工場が国内に存在できないなら、最初から国内に工場を造る訳が無い。企業が必要以上に利益を出すために導入した工場の非正規労働者などは言語道断である。私は何も全ての派遣社員制度を否定している訳ではない。事務職などの派遣労働者と比較して低賃金の工場労働者派遣社員制度に対して憤りを覚えるのである。特に需要があって賃金が低くない建設労働者に対して派遣制度を適用させない悪法だからである。賃金格差による格差社会が経済を発展させるなどは幻想に過ぎない。厚顔無恥な人間しか成功しない社会であるから問題なのである。日本の社会は欧米などと違い一人の人間が高給を取れるようなシステムではない。金融の為替ディーラーならば稼いでいると言う方もいるであろうが、それならば損失を与えた時はそれまで得た収入を全部返すのかと言いたい。サラリーマンなどは一人の力や看板なしでは大して能力に差がないのである。差が有るように思えるのは自己PRと自己弁護が上手いからである。以前から指摘しているが、今回の様なコラムを書くなら立場を明確して発言するべきである。それが出来ないなら偉そうな事を言うな。

選挙に「お願いします」の政治家はいらない

誰も不思議と思わない選挙時の光景が続いている。マスコミさえ取り上げた事がないのは、候補者が「お願いします」と言う言葉だ。幾ら議員が職業化しているとは言え、「お願いします」はないと思う。政治家を志す人は他人のために尽くすことであり、自分のために政治家になる訳ではない筈である。それが「お願いします」は自分のための言葉であるのに誰も気づこうとはしない。私の亡父は若い頃地方の議員であったが、選挙の時に一度も「お願いします」を言った事がなかった。亡父は、村民のために身銭を使って選挙を行なうのに、何で私が村民に「お願いします」と言わなくてはならないのか。私の政策に賛同するなら村民が私に「お願いします」と言うのが道理であろうと言って決して選挙では「お願いします」とは言わなかった。今の政治家は自分のために政治家になっているのだから初めから期待するほうが間違っているのである。議員の世襲制が問題になってきたが、今更何を言うかであろう。何処の親も辛い仕事を子供に継がせないのが常識であろう。それが2世、3世議員が多いということは楽してお金も名誉も入るから議員を継承しているのである。ちなみに、私は亡父を見ていたので政治家にはならなかった。母は自分の父親も議員であったので心の中では私に期待していた様だが、私は亡父の様な清廉な地方の発展に身を捧げた政治家を落選させる住民のために議員になる考えはなかった。次元が違うかもしれないが、米国のオバマ大統領の選挙演説には「お願いします」の言葉はなかったと思われる。崇高な使命感を持った候補者には「お願いします」とは言って欲しくはない。選挙の時に「お願いします」の候補者に投票をしないことが政治を良くすることではないかと思う。

選挙で選ばない権利も必要

現行の政治に不満なら選挙に行き投票するのが義務だとマスコミや評論家は指摘する。しかし、現行選挙制度では投票率が低くても必ず選ばれると言うシステムに疑問を持たざるを得ない。立候補者に投票したい人がいないのに選挙に行かねばならないと言う理屈は可笑しい。しかし、この様な意見を述べると、それなら貴方が選挙に出るべきだと抗議され、この種の意見は封じ込められてしまう。議員定数は最大限のことであり、必ずしも定員を満たす必要があるものではないと理解する。少なくても、投票率が40%を割った選挙では当選者を選ばない様な権利を有権者が持つべきである。そうすれば、政治家も今の様に無責任な政治や言動を行なわなくなる。当選者を選ばない不利益は選挙民にあるのだから、私の考えでは選ばない権利を有するのは当然と思える。何時も選挙の時に思うのだが、投票したい候補者がいないのに投票しなくてはならない現行制度は間違っている。逆に、選ばないと議員報酬を支払わなくて良くなり国庫負担が減少すると言う効果が生まれる。立候補者は一定数の投票数を獲得できなければ供託金が没収される現行制度がある。これは自己宣伝目的の候補者を排除する制度であるが、これに最低投票率制度を設けてそれを下回れば当選者を選ばない制度を作る必要がある。そうすれば、投票率が20%台で選ばれた政治家に選挙民に信認されたなど言われなくて済む。政治改革は国民が選ばない権利を有した時に始まる。

スタフグレーションの危険性

金融危機で経済が失速するのを防ぐために各国の中央銀行は紙幣の流通を増やしたために通常の平均2.3倍のお金が出回っているとのことである。経済学者でなくても此れの意味する所は通貨価値の下落によるインフレなのだが、問題は世界経済が縮小スパイラルの危険性がある中でインフレが起きると正にスタフグレーションになる可能性が大きい。それにも況してドルが下落しているために円と同様に対ドルに対して必要以上に通貨の価値が上昇して困っている国も出てきている。100年前の大恐慌の時には世界経済の回復は10年掛かったが、今回は情報化時代で時間軸が速くなっているので世界経済の混乱は当然に短期間で納まるであろうが、問題は金融バブル経済崩壊後の需要回復に見通しが立っていないことであろう。日本の企業も中国の内需拡大の恩恵で輸出が持ち直してきているが、中国自体の経済成長は米国や欧州の景気に依存してきたために、欧米の需要が回復しなければ経済が失速する危険性は高く、日本企業も大きな打撃を受ける事になる。過剰流動性のお金が商品に流れ込んで物価を押し上げる場合、失業率が高く、給与所得が上がらなければ消費は落ち込む事になり、最悪のシナリオとなる。尤も、国からすれば庶民の生活より膨大に増加した国の借金の解決が優先事項と思われるので、スタフグレーションも視野に入っているかもしれない。そうすると、スタフグレーション下での生活防衛に対して有効な手段は何かを考えて事前に手を打つ必要が出てくる。

長屋式住居スタイルの現代版が人気

長屋と言えば今流行している落語の主人公達の住まいである。江戸時代の殆んどの期間は内需主体のデフレ経済であったので、庶民の多くは持ち家でなく長屋に住んでいた。明治維新以降も都会では庶民は容易くは持ち家など持てなかったので、人情味溢れた長屋住まいは存続していたのである。しかし、時代が大分下って昭和40年代以降になると経済成長率の高い伸び率とインフレ経済によって庶民でも持ち家に手が届くようになり住宅ブームが起きている。しかし、昭和50年初頭では未だ大手企業に勤務し且つ結婚していないと金融機関から住宅ローンが借りられない現実もあった。それが住宅ローン専門のノンバンク「住専」が設立されてから持ち家の普及率が急上昇し、核家族化も一挙に進んだ。ところが、バブル経済が崩壊し、資産デフレによる平成大不況が長く続き、給与所得が上がらない時代となって共稼ぎ夫婦が多くなってきた事も一因かもしれないが、全く他人と部屋をシェアする若者が現れた。この部屋をシェアする考えは経済的な面もあると思われるが、一方では子供時代からの寂しさから同居者を好む面も強い様である。そして今、「コレクティブハウジング」、「ゲストハウス」などと呼ばれる住居の一部を複数の人で共有する賃貸物件に人気が出てきた。この住居は正に長屋式住居の現代版と言える代物と思える。確かに、世界的な傾向ではあるが、車を買わないでシェアすることが増えてきており、長屋式住居も正にその延長線上に位置している。この長屋式住居に更に一歩踏み込んだ共同生活方式を取り入れ、その効果を演出できる年齢層で構成すると面白いと考える。無駄な資源の利用を省き、共同生活の楽しさと温かみを子供達が成長する過程で経験させる事が出来れば良い社会が出来るかもしれないと考える。

40%需要減には低価格でなく質への転換が必要

世界的な金融バブルで20世紀経済の大量消費=低価格商品の提供と言うモデルが20世紀末から21世紀初頭に新興国に生産シフトすることで生き返ったが、今回の金融危機で世界中の消費の40%が消失することで進むべき道は低価格路線でなく質への転換が一層明確になったと思われる。20世紀末には多くのメーカーの生産工場が従来の大量生産方式の無駄と従業員の物づくりの意識低下を反省して「島方式」などに転換していたのである。しかし、米国発の金融商品バブルによる過剰消費に対して中国などの低賃金の国々に生産拠点を移転する事で大量生産を行い、質の追求より低価格商品の大量供給に戻ってしまったのである。40%需要減の大消費不況の進行で企業は相変わらず低価格商品の提供を目指しており、現時点では衣料品関係ではその方式が成功している様に見えるが、価値観の多様化の時代に逆行している商品の売り方が長続きするとは思えない。特に、環境と言うテーマが企業価値の目安になる21世紀においては「質」が重視されるようになり、消費者は単に安いだけでは買わなくなると思われる。もちろん、所得底辺層の消費は低価格だろうが、どの業界も低所得者層に絞った商品では利益が取れなくなってしまうと思われる。今は過渡期だから仕方ないかもしれないが、消費需要の減少に対して値下げ対応が主流だが、今回の様な世界的な大不況による危機意識の中では値下げしても売り上げ増には繋がらずに場合によっては利益の減少を招くケースも多いと思料される。このため、全ての業界が質への転換を余儀なくされるものとなり、「質+心」が必要であろう。特に、我々不動産業界はここ数年、短期的な視点に終始したり、物づくりを忘れた会社が多かったので、質とは何かを考えて買い手に対し企画提案を行なうことが必要と考える。買い手に後悔させないアドバイスと質の高い建築物を提供して初めて社会に貢献できる不動産会社と言える。

欧米の自己都合による会計基準緩和

日本では今回の金融危機における緊急避難的な会計基準を緩和する事に対して景気の変動で基準を変える事は良くないとの声もあるが、本家本元の米国の節操にない会計基準緩和について緩和反対者はどの様に考えてるかを聞いてみたい。グローバル経済とか金融資本主義とか会計基準の標準化などは、所詮自国の利益を考えての理論であることが今回の金融危機で良くわかったであろう。欧米諸国の政治家の頭の中身は、100年前の植民地時代と変わっていないのである。驚いたのは、欧米が大手金融機関を救うために導入した「負債評価益」と呼ばれる会計ルールである。この債権評価に対しては企業の選択性としているたために不透明極まりないルールとなっている。尤も、日本の様に実体に即さない教条主義的な会計ルールの導入では企業が潰されるので、正に欧米の様な臨機応変さが危機克服には必要なのかもしれない。何れにしても欧米の外交は、クラウゼヴィッツの戦争論のとおりであり、邪魔な相手を叩くためには手段を選ばないことを自覚する事が必要である。特に、日本には米国に盲従する大学教授や評論家や金融マンや政治家などの売国奴が大きな発言権を持っているので余程注意が必要がある。

耐震性指標PMLの評価と日本の耐震基準の相違

耐震性指標としてのPMLは米国で生まれたものだが、その定義は「対象施設あるいは施設群に対し最大の損失をもたらす再現期間475年相当の地震が発生し、その場合の90%非超過確率に相当する物的損失額の再調達価格に対する割合」である。PML評価は、不動産証券化や不動産ファンドを組成する際の不動産購入時に対する耐震性を判断する際に専ら使われている。このPMLは既に日本の不動産売買に利用されているので今更議論するテーマではないが、金融危機以降の米国の対応を見ていると米国基準など信用しない方が無難と思えてきたからである。また、最近、知人の会社の売却物件で驚いたのは、日本の耐震基準よりPMLの数字評価の方を上位に置いて旧耐震基準の建物に対してリフォーム時に耐震補強を行なっていない事実に遭遇し、本当にその様な考え方で良いか疑問をもったからである。確かPMLの算出も確率統計を利用しての評価であり、計算式の詳細は知らないが、評価の数字を見る限り建物の構造的な強度より、建物が存している地質データの方が優先していることは間違いないと思われる。米国もロスアンゼルスなど西海岸は地震が多いのでPML評価を全く否定するわけではないが、PMLを無批判的に受け入れるのもリスクが大きい事を知るべきと考える。もちろん、古い建物をリフォームする場合には限定した工事予算の中で何を優先するか決めなくてはならないが、その場合にPMLで耐震評価が保証されれば内装工事に予算を多く使えるので仕方ない事でもある。しかし、日本の建築基準法の改正では旧耐震の建物に対しては耐震補強工事を行うように定めているので、PMLの評価を優先して耐震補強工事を行なわないで良いという事でないことは念頭に置く必要はある。

官僚と同次元でしか物事を考えない情けない既成の政治家

官僚と政治家の違いは本来はスケールの違いである。それが憲法や法律の解釈に縛られて身動きできない政治家を見るにつけ、今のこの国には政治家がいないと情けなくなる。ソマリア沖に展開している海上自衛隊の護衛艦の活動に国内法の適用で対応させる官僚と政治家に関しては世界中の笑い者であろう。威嚇射撃をするにも相手側に怪我を負わしてならないと言う規制は、波の荒い海上の威嚇射撃に関して無知な人間の考え方である。乗組員を犯罪行為で裁かれないために威嚇射撃も行なえないならソマリア沖に護衛艦を展開させるべきではない。馬鹿な官僚や政治家が海上自衛隊の展開行動に対して行過ぎないようにと箍を嵌めたのであろうが、そのために護衛艦自体を危険に晒すなど言語道断であろう。国民の生命財産を保全するのが国家の役割だが、日本の官僚、特に外務省など海外では国民にとって何の役にも立っていない組織であるので、構造改革で解体縮小する必要がある最優先の省庁である。憲法や法律は国益以上のものではないし、国民の生命以上のもでもない。憲法や法律などは幾通りの解釈も可能であるし、超法規的な考え方も国益を守るためには必要なのである。それが憲法や法律を自分達の責任逃れの都合の良い解釈で国民の利益を損なっている官僚と同レベルの政治家などは必要ない。今度の衆議院選挙では、国民の利益など考えていない自民党と民主党の議員には投票しない事が重要であり、投票するならば新しい政党の候補者や無所属の候補者に対して行う方が、国民を嘗めきっている官僚と政治家に鉄槌を加えることになるのである。私はその様に衆議院選挙を考えている。

省エネ・温対法・地方自冶体環境条例改正により貸ビル業に求められる負担増

地球温暖化抑制対策として経済産業省の「省エネ法」、環境省の「温対法」、地方自治体の環境条例改正などに伴い、貸ビル業としては多額の対策費用が求められる事になる。貸ビル業は経済の影響を最も受け易い業界であり、百年に一度の大不況と言われる時期に賃料に転化できない環境対策費を計上しなければならない負担は極めて大きい。もちろん、行政側では努力目標位にしか考えなくても事業者の貸ビル業者としては、テナントサービスの必要性から見て対策を進めなければビルの評価が低くなり、賃料にも影響が出てくる恐れがあるので対策を進めなければならない。しかし、米国などを見るにつけ日本の行政の硬直性には驚くしかない。米国などは、今回の危機において早々と会計基準を含めて危機に対応させた臨時措置を打ち出しているのに、日本では「馬鹿の一つ覚え」の様な一度決めたことに対する柔軟性は全く欠如している。「角を矯めて牛を殺す」の類の政策実施が多すぎる。もちろん、行政が考えた補助金制度などがあるが、実際の負担額や適用基準などを考えると意味を成さない代物である。日本の行政組織の欠陥は以前から指摘されている縦割り行政であるので、行政を横断する政策の場合には関係役所のスタッフで構成するプロジェクトを立ち上げて行なうべきと考える。尤も、その様なプロジェクト方式は行なわれているかもしれないが、問題は参加してくるスタッフが自己利益の追求だけに終始して成果があげられないのであろう。デフレ経済やスタフグレーションにおける政策の遂行に対しての知識がなく、何時まで経ってもインフレ経済の頭の行政では企業が潰されてしまう。極論から言えば、現代の行政組織はガン化して正常な社会システムを破壊して来ている。ガン細胞を殺すには除去するか栄養源である血液を遮断するかであるので、行政組織のガンを殺すためには血液である予算の大幅削減を行う事が必要である。行政組織は国民や国民の生活を維持する企業に対する裏方であるが、何時の間にか自分達の方が偉いと勘違いし、理論専攻の政策を強引に国民や企業に押し付けてくる。グローバル経済になって時間軸が速くなった時代には新しい行政組織に変える必要がある。私も温暖化に対する対策は必要と考えるが、問題は企業活動と整合性を図る必要があり、目標数字を企業に押し付ける方式には賛成できない。

官の暴走は全ての政治家の責任

役人の勝手な振る舞いを見ると日本には本当に政治家がいないと思う。司法・行政・立法の三権分立は小学生の教科書にも出てくる基本であるが、近年、司法もいい加減になってきており、立法に至っては行政のチェックどころか役人の言いなりである。野党の政治家が与党に対して官の暴走に対して批判しているが、政治家は与野党問わず調査権を有しているので、与党でなくても仕事は出来るのである。政権を取らないと官僚が言う事を聞かないと言う輩は与党になっても何も出来はしない。今の政治家は本当に胆力のある者がいなく、喧嘩も出来ない者ばかりである。与野党問わず、今回の衆議院選挙では2世議員の事を問題にする様だが、確かに辛い職業なら子供は後を継がないし、親も子供に後を継がせないであろう。今の国会議員が如何に仕事をしなくても多額の報酬を得られて威張っている事が出来る証である。先日、北海道選出の国会議員と話す機会があり、彼は道会議員から上がってきただけあって見識があったが、党の中では少数意見として扱われてるのが歴然であった。彼とは小選挙区制度が政治家を駄目にし、中選挙区の方が立派な政治家を作ることで意見が一致した。情報化時代に多様化した世界に2大政党が適合しなくなった時に日本は、小選挙区制を導入して党に従うだけの政治家を作り出す事になった。その結果が、似たような自民党と民主党と言う2大政党を生み出しただけで国民には何等利益をもたらしていない。然も、今日的な世界情勢では大連立が必要とマスコミなどが言い出したが、戦前の大政翼賛会の反省があって戦後の政治があった事と、否定した55年体制のことは忘れたのかと言いたい。歴史的な観点からすれば、55年体制前の民主党の鳩山一郎と自由党の吉田茂の争いを投影したような彼等の孫である現代の民主党の鳩山由紀夫と自民党の麻生太郎の戦いは、民主党が選挙に勝って政権を取り、自民党との大連立となるならば悪夢としか言いようがない出来事になる。今求められるのは既成政党の交代でなく、官の暴走に鉄槌を下す真の政治家を目指す人達の出現である。

住宅建設会社倒産による被害に思う

住宅建設会社の倒産によって建築工事費を全額支払ったにも拘わらず、住宅の建築が中断したり、未着工であったりとで被害が増えていることをTVニュースで取り上げていた。不動産会社や建築工事会社が倒産すると決まって被害者が出るので、行政側では保証制度などを設けてきた。しかし、被害者側による想定できないような支払の被害に対しては救済措置がないのが現状である。常識的に考えれば着工前に全額建築費を支払うなどは考えられない行為であるが、実際にはその手の被害が大きい。当社の様な小企業にとってこの種の事件が起きると、お客が安心感を求めてコストの高い大手の会社に建築工事を発注する様になるので、腹が立つがどうしようもない。普通の人ならば家を建築するのは一生に一度の大事業である。このため、慎重に物事を進めるはずだが、此処に落とし穴があると考える。一つには予算以上に建物の内容を望む事であり、二つには慎重さ故に出会った営業マンと必要以上の人間関係が出来てしまって疑いを持たなくなってしまうことである。行政側が住宅取得に対するリスクを軽減する制度を導入しても意味を持たないのである。米国の様に全て保険でカバーする考え方もあるが、問題は保険料の額である。倒産の確率からすれば多くの人は加入しないと思われる。このため、建築工事を発注する上でリスクを少なくする方法として出来形払いの工事契約を締結する方法がある。もちろん、素人では工事の進捗を判断するのは難しいので、専門家がいる建築設計事務所に依頼すると良いが、設計事務所によってはその様な依頼を断ったり、設計の発注を勧める事務所もあると思うので、事前に電話や問い合わせメールで確認すれば良いと思われる。住宅取得だけでなく全てに言える事だが、営業マンがどれほど良い人でも常に距離を置く姿勢と、世の中には旨い話などないことを肝に銘じていれば被害に遭う確率は低くなる。

構造設計士制度と問題点

構造偽装事件の結果、国土交通省の責任逃れとして建築士の資格関係が強化されたが、構造設計士制度もその一つである。建築士の業務を分かりやすく専従業務別に「建築設計士」、「構造設計士」、「建築設備設計士」に位置づけたのは評価できるが、これで構造偽装様な事件を防げるかどうかは各資格者に対して発注者がどの様な評価を行なうかである。私のblogで執拗に行政側の責任転化と天下り先の確保のために建築士の資格者に対する研修制度の実施など断行されたことを書いて来た。当社の業務の一つに設計業務があるので、構造偽装事件を機に設計に対する感心と重要性、更には業務委託フィーの適正な支払いに帰結すれば言う事はないが、日本社会における建築設計業務に対する報酬に関しては必ずしも適正な評価に繋がらない。寧ろ、プロジェクト費用の中で節減対象となり安いのである。特に、構造設計業務の設計士に対する委託費は仕事の割には低コストを強いられてきたのが現実である。今回の構造設計士の位置づけが報酬の適正なアップに繋がるならば一定の評価するが、実務者として見る限り発注者側が設計業務に対する価値観が変わらない限りは何等変わらないと思えてならない。行政と建築士協会の利益が一致して改定された制度と思うが、民間の審査会社に対する目に見える改革が行なわれていないので、近い将来に色々な問題点が起きる可能性が危惧される。

グローバル経済での商品価値とは

米国のメーカーでは海外で販売している自社の製品の価格差を利用された逆輸入のために国内の販売が影響を受けているので取締りを強化していると言う記事を目にした。確かに、この現象は米国ばかりでなく先進国で海外展開している企業にとっては避けられないのであろう。尤も、スターバックスの様に世界の販売価格を統一している企業もあるが、世界での販売価格統一に関しては所得格差がある中で通用するとは思わなかった。殆んどの企業は海外展開では進出先の所得に合わせて同じ製品を国内より安く販売しているケースが殆んどである。しかし、ブランド名や品質を変えないと逆輸入によって国内の市場が荒らされるリスクは常にある。尤も、この様な逆輸入ばかりでなく、海外委託生産に関しては委託先の工場から流失する製品の数も多いと考えられ、企業も多くのリスクを抱えることになる。そう言えば、日本国内の日本酒の話だが、新潟県では県外に出荷する酒に関しては周辺の地酒をブレンドすることを義務付けていたことを聞いた事がある。このため、同じ酒でも県内で購入した方が旨いと言われたものである。また、山口県の造り酒屋の社長に聞いた話では、地元の造り酒屋では東京に出荷するには生産量が足りないので、県外に出荷する酒に関しては統一した銘柄で生産量の条件を満たしていたとの事であった。何故こんな話を出したかと言うと、海外企業の有名製品でも国内で生産している比率は小さくなってきていると思われ、発展途上国などで生産しているケースも多い筈である。もちろん、全製品の関税が0%ではないので、関税が地域の価格差を解消しているケースも多いが、国内で生産するよりは品質は落ちているのは間違いない。日本酒で言う所のブレンドや別な生産者が統一した銘柄で出荷する様なものである。同じ企業の製品でも生産地によって本来は商品価値は異なるのが普通だが、実際の販売価格には大きな差異がない。グローバル経済になって商品の価値の見極めが出来にくくなってきている。その上、同じデザイナーや低価格路線、更には販売戦略なども情報化の時代にあっては差別化が見えなくなってきており、物が売れないのは不景気な要因ばかりとは言えないと思うようになった。陳腐な言い方だが、情報がありすぎると言うのは迷って決断できないために安いものでなければ衝動買いは少なくなるのかもしれない。

行政の構造改革には民間と同様な経費や制度の導入を抜きにしては効果が薄い

役所は公共サービスを行なう組織だから民間と異なる経費や制度を導入しているが、行政改革が一向に進まない大きな要因の一つが経費や制度に問題があると思われる。一つには、名刺の作成費用であろう。尤も、現在は台紙位は提供されているが、以前は名刺作成費用は自前であった事を聞いた。更に、役所には交際費がないが、役所も民間の情報を得て仕事を行なう必要があるので、最低限の交際費は認めるべきと思われる。また、給与についても色々な強制力のある積み立て金の控除があるので、民間企業と総額で同じであっても手取額が少ないために低い給与の様な錯覚をもたらしている。役所にも「貸借対照表(BS)」や「損益計算書(PL)」が導入されてきているが、細目で大きく違えば意味がないものとなる。もちろん、多くの面を民間企業と同じシステムにしても一つだけ違うのは、売上高として税収があるが、民間と異なるのは不足分を税収増とするのではなく無駄な支出を抑えることで税金を有効に使うと言う発想である。特に「私立為業」の考えで不必要となった外郭団体を解散させることである。今の日本は平時の国家や経済しか考えない人達が指導者になっている。長いインフレ経済のために減点主義が一般的になり、乱世の指導者を淘汰してしまった。このために、国民は無気力になって強い政治批判も行なわなくなってしまった感がある。しかし、誰かが叫ぶ事によって国が変わる事を自覚しないと日本は滅びてしまう。先ず、税金を無駄使いして平気で自己弁護する公務員の意識を変えないと始まらないので、個人の経費で行なわなければならない経費を見直し、不公平感の意識改革を断行する必要がある。総てはそれからである。

マスコミのGDPマイナス報道の誤魔化し

515兆円規模のGDP(国内総生産)なのに1-3月期は大きなマイナスで、戦後初めての大幅なダウンとかマスコミは報道している。バブル経済間真っ只中のGDPは385兆円である。デフレ経済で大変だと騒ぎながら115兆円も上昇しているのである。しかし、この間の日本経済は低成長とデフレで苦しみ、地方経済は疲弊するばかりであった。20年前のマスコミの報道では、大きくなった日本経済はこれ以上の成長は期待できないので内需によって安定した経済を目指すべきだと喧しかった。確かに、日本経済のGDPの年間上昇額はオーストラリア(?)経済に相当する規模であったので、この様な成長は望めないとの見解は国民を納得さるものであった。しかし、実際にはバブル経済崩壊後にも生産は拡大していたのである。此処で誰しもが思うのは、この成長分の富は何処に消えたのかということである。この分が格差社会における富裕層に渡ったのならば、今後GDPが30%ダウンしても360兆円規模であり、このGDPは1985年頃の規模なので一般国民は心配する事はないのである。尤も、生産性を伴わないマスコミの社員などが格差社会の富裕層に属するので、自分達の報酬が少なくなるのを恐れての事であろう。この他には人事院勧告で給与が上昇した公務員も恩恵を受けた部類である。この様なマスコミや行政のお為ごかしに国民は騙されてはならない。

日本が新しい国つくりのモデルにした英国の惨状

英国の労働党が国民の非難を浴びて支持率が急低下している。英国は日本より早く小さな政府を標榜し、行政のスリム化と規制緩和を進めて今回の金融危機が起きるまでは各国の模範となっていた。日本も2大政党の有り方や、行政組織の独立行政法人化を模倣したのである。それが、政党を見ると公私混同する様な必要以上の手当てを付けるなど国民を無視した自己利益の追求には目を覆うものがある。日本でも色々な手当てを付けて国会議員の報酬・手当ては肥大化しているが、正に英国を見習っての事の様だ。この様な有様からすれば、独立行政法人に関しても観察する必要が出て来るだろう。小さな政府を目指して規制緩和を進めた英国が腐敗に直面しているとすれば英国の規制緩和をを模倣した日本も他人事ではない。英国の惨状が即日本の惨状になるであろう。小さな政府に関しての大きな間違いは、規制緩和で多くの業務を民間に移行したのだが、それに伴って行政組織のスリム化と税金の歳入を減らさなかったから、政治家も役人も余剰税金を自分達の手当てなどに転用したのである。今盛んに消費税の値上げを口に出しているが、国民として重要な事は国会議員の定数の大幅削減と行政組織の大幅な縮小を行なわない限り認めるべきでない事が英国の例でわかる。

夢のない時代の若者の住まいは集団化に向かう!

今の若者は夢がなく現実的であると言われて久しい。確かに、豊かな社会に育った人達は物に対する執着が少ないが、豊かさを実現できる「お金」に対しては少なからず執着が見られる。翻って、住まいに関してはどの様な変化が起きたのか漠然と見渡すと、フリーターの住まいは進化するどころか後退している感があるが、正規雇用の社員の住まいで人気が高いのは、デザイナーズマンションである。デザイナーズマンション需要はある意味では現実逃避の象徴かもしれないと考える。最近ではコンセプトマンションなる造語も出現し、マンションの屋上で野菜つくりやメゾネットスタイルで1階にオートバイ駐車スペースを設けた住まいなどが人気である。デザイナーズマンションよりコンセプトマンションの方が現実的な趣味を住まいに反映させているので評価は出来る。尤も、価格的に提供するサービスと見合ったものかどうかが問題だが。一方、今の若者は全く見知らぬ他人と部屋をシェアする事も平気な現実がある。シェアなどと外来語で書くと新しい時代の社会システムの出現と思えるが、良く考えると殆んどデフレ経済であった江戸時代は「長屋」と言う住宅システムがあり、現代のシェア住宅の大型版の様なものと気づく。日本は農村型のムラ社会の共同生活の生き方が長く、戦後に工業化による高度経済成長を通して核家族化が進み、「集団から個」の生活に大移動した。しかし、格差と賃金の上昇が止まった社会の出現で「個から集団」に先祖がえりが一部に見られる。もちろん、貧しさの象徴である長屋でなく、住む人達がお互いにコミュニケーションが図れる新しい長屋の出現である。アジア人は西洋的な個人主義的な住まいより、集団主義的な住まいの方が心の安らぎが得られると思われる。

時代を見る視点とは!

金融危機の騒ぎで時代の流れが見えなくなっている懸念が起きている。21世紀ではあるが、現時点では20世紀の経済を引きずっているために多くの事で問題が生じているのかもしれない。米国の「クライスラー」と「GM」を見ても破たん処理は金融危機で多少早まった位であろう。米国車が日本車に負けた理由の一つには電子回路を利用した制御装置によって後発メーカーの追従を許さなかった油圧制御技術に優位性がなくなったことである。勿論、巨大なマーケットに安住して生産現場に良い車を造ると言う意識が欠如したことも大きな要因ではあるが。況してや電気自動車の出現は世界中の自動車メーカーの優位性を一瞬で喪失させる力がある。技術革新と先進国の国民の生活水準を維持するために発生したグローバル経済の流れは今回の金融危機で止まらないと判断するのが賢明であろう。特に、ナノテク、IT技術などの技術革新は目を瞠るものがあり、その実用化は目前に迫っている。21世紀に入っても20世紀の経済を引きずっていたので金融資本主義を出現させて経済成長を促すしか方法がなかったと思われるが、此処に来て漸く21世の技術革新が始まろうとしていると考えられ、それらの技術を駆使した社会経済システムが構築されるものと予測される。当社が活動する建築・不動産業界でも当然に21世紀の新技術を導入した作品を提供する事が使命であろう。金融危機は何れ収束するのは間違いないので、金融マン的な短期視点ではなく、メーカーの様な中長期視点で判断する事が今は必要であり、特に次の時代に対する視点を持って行動する事が重要と考える。

「日本の少子化は変えられない」と言う間違い

日本の少子化は既定の事実で未来永劫変えられない様な評論が目立つ。金融関係のアナリストまでもが平気で新聞雑誌に少子化を前提とした経済を構築する必要があるなどと戯言を書いている。少子化の先輩とも言うべき欧州のデンマークなどでは近年出生率が増えてきているのである。少子化の原因を分析しないで先進国は少子化になると言う議論はナンセンスである。子供を育てる環境があり且つ経済的な負担が軽減すれば、子供を一人に限定する訳がないのである。少子化は核家族や共稼ぎの社会に対して旧態依然の政策しか行ってきていない政府の責任である。小さな政府とは無駄な支出を抑えることで必要な予算を削減する事ではない。出生率が低下すれば国力が低下するのは自明であるので、その時代に応じた政策を実施して子育て支援するのが国家である。公務員夫婦の共稼ぎは、民間と比べて産休などに関して恵まれすぎているから、有効な子育て支援策がでないのである。行政組織は民間と比較して全ての面で待遇を悪くすれば知恵が出て能力を発揮できるのである。少子化対策など知恵を使えば多くの面で改善できるのである。共稼ぎは当然と言っておきながら公的保育施設の整備が遅々として進まない現状は許されるものではない。しかも、公的保育施設の預託時間を見ると、フザケルナと言いたい位に公務員時間になっている。民間の保育施設に任せるなら、補助金を出して公的保育園と預託料を同額にするのが当然である。しかし、実際は予算がないとかで民間の保育園に対しては規制だけを強化して有効な支援策がないのが実情である。貧困な福祉環境で少子化は変えられないなどと言う馬鹿者が発言しているから国は良くならないのである。

特定保守製品の情報伝達は仲介業者の仕事か!

平成21年4月1日から特定保守製品について宅建業者に告知義務等が課せられることになった。この制度は多発したガス給湯器に拘わる死亡事故に起因したものであるが、この事故に関しては宅建業者が一任的に情報伝達に対して責務を負うものではないと思料される。最近の事例では本末転倒の様な制度改革が多い。その一つに構造偽造事件後の建築設計士に対する研修制度の導入などである。構造偽造事件は犯罪である。建築士が知識不足で間違って起こしたものではない。それが何故研修制度に繋がるか不明である。役人の天下り先の確保としか見えないのが実情である。構造偽造事件は建築確認申請手続きを民間委託にしたことに起因しているので、本来ならば改善の必要があるのは確認申請手続きを代行する会社に対する査察や職員に対する研修制度の創設であろう。それが建築士の研修制度など建築設計事務所の対する監視強化となった背景には責任転嫁と役人の天下り先の確保、更には建築報酬のアップを考えた建築士関係団体の思惑が一致して違った方向で解決を図ったのである。今回の特定保守製品の告知義務を宅建業者にさせることに関しては否定しないが、付帯設備の説明などは従来行なってきているので余り意味がないと考えられる。もちろん、仲介時に耐用年数が経過している機器を設置している場合には警告にはなると思うが、賃借賃料や売買価格が安い場合には無視される話である。是正できる権限を有してこそ効果が出ると思われるが、その点には言及していない。住宅の付帯設備の問題は、売買物件より賃貸物件に関してと思うが、既にガス漏れ警報機や火災報知器設置などを義務付けているので、常識的には十分と言えるものである。このため、欠陥商品の事故ならメーカーが責任を取るべきだし、老朽化した付帯設備を交換しないで貸していて事故が起きたなら貸主か管理会社が責任を取るべきであるので、殊更宅建業者に義務を課す必要はない筈である。逆に、責任の所在が複雑化することにより、責任の希薄が進むだけである。住宅の瑕疵担保保険に関しても同様である。保険でカバーできる事で細心の注意が払われなくなる恐れもあるのである。消費者庁が創設される事になったが、権限を持たない役所の寄せ集めは現場が混乱するだけで役に立たない。最近の行政の動きを見ていると枝葉末節の類の改善で、本質的な問題の改善に何等役立っていない。このため、本質のすり替えの危険性が高まっていることに注意を払うべきと思料する。

行政組織のフラット化が元気な社会造りのソリューション

縦割り行政組織の弊害を指摘されてから行政改革を通して改善を図っているが一向に進んでいない。これは政治家が無能な事と改善案の作成者が当事者である公務員だからとも言える。行政組織は必要に応じてではなく、予算規模に合わせた人員配置になっているので民間と比較して非効率となっている。もちろん、行政組織は公共サービスであるので、非効率な部分があるのは容認できるが、問題なのは国家と地方、省庁間での組織の重複が多い事である。省庁間の出先などは統合して一本化を図り、省庁の業務を受託すれば効率の良い行政組織が出来上がるのは自明である。行政の仕事は一部の専門業務を除けば皆一緒であるので、統合すれば無駄が省ける。しかし、先の行政改革では省庁を統合しても各部門や出先機関の統合が余り行なわれなかったので、予算の減少に繋がる組織統合は少なかった。これでは意味がない。政治家と公務員の年金問題と同様に先送りして解決を図ったので、解決には時間を要することになった。国民を嘗めた話である。この様な事例には事欠かないのが今の政治である。聞いた話だが、国土交通省が観光振興のために欧州で宣伝活動を行うべく、外務省の公使公邸を借り様とした時の最大のネックは公使夫人とのことであった。外務省とは公務員と民間を問わず海外の活動に対してサポートする行政組織が、公務員でもない公使夫人の意向で公使公邸を借りるのにもスムーズに行かないなど言語道断である。外務省は戦前からエリート意識だけが強いが国家国民のために一番働いていない行政組織と言われている。外務省の組織は各省庁の専門家の出向者で形成した方が機能性が高まる筈である。農水省や国土交通省も事業が少なくなっているのに行政組織だけは現状を維持しているので、今後は組織の縮小を図るべきである。また、他の省庁も同様だが、一部の専門スタッフを除けば何処の省庁にでも出向させられる様にすれば、一年の内短期間しか忙しくない部門から年中忙しい部門に対して人材の流動化を図る事が出来るのである。しかし、今の政治家では官僚と喧嘩する度胸のある者は少ないので実現を望むのは無理な話と言えそうだが、21世紀の時代にも日本が元気な社会でいる為には行政組織のフラット化は欠かせない。当社の不動産事業に関しても監督行政組織がフラット化して様々な変化に対応できなければ、安全や環境と言う標語の中でコスト増が強いられる結果となり、企業ばかりでなく国民も費用負担が増す事になるのである。先頃新聞記事で埼玉県の建築確認・検査業務を受託している財団法人が収益増で理事長が知事を大幅に上回る報酬を取っていた事を指摘され、減額する意向であることが掲載されていた。地方自冶体が財政難に陥っているのに業務を外部委託した財団法人が多額の利益を得ている構造は歪んでいると思わざるを得ない。多くの外郭団体を英国を見習って独立行政法人に移行したが、この移行は省庁統合から避難して権益を残すだけになった様に見える。しかも、国立病院などを独立行政法人とした弊害も生まれてきている。行政組織のフラット化とは形式だけの統廃合や誤魔化しの効率化の組織移転ではない。消費税の値上げなどは行政組織のフラット化の後の話である。

驚いた再販価格と不動産業界の断末魔

昨日の日経に大きな不動産広告が掲載されていた。東京都世田谷区成城5丁目所在の総戸数14戸のうち3物件の販売だが、2007年販売時点の価格1億5700万円に対し、再販では3物件の床面積(①88.28㎡、②107.57㎡、③114.13㎡)が異なるにも拘わらず、全戸8,880万円の売り出し価格である。幾ら再販でも床面積に対する価格差位は付けるのだが、この再販は正に「バナナの叩き売り商法」以外の何物でもない。不動産は金額的にデパートで商品を購入する様な感覚で買う物ではなかった筈である。早く在庫を一掃すれば価格が安定する様な商品でもない。しかし、この再販の遣り方は物販の場合の遣り方と同じである。在庫一掃後の価格の安定どころか業界の不信感を招くだけである。大分前の事だが、マンション販売会社に取引銀行の副頭取がその会社の再建のために社長に就任したことがあった。この新社長は銀行マン時代は優秀であったらしいが、不動産業界に関しては素人だったのか、新風を起こそうと考えたのかしらないが、全社員に「40%のシェアを持つと販売価格をコントロール出来る」と訓示して40%シェアを確保するため土地の取得に走ったことを聞いた。不動産業界の人間なら直ぐにこの考え方は失敗したと気づくであろう。お金持ちは別として、デフレ経済においては一般的には住宅を取得する事は一生の買い物である。この為、不動産会社の必要十分条件は、「信頼」である。経済の変動の中で不動産の再販を否定はしないが、少なくても原理原則を守った販売方式を厳守しないと業界に対する「信頼」が失われることになる。正直者が馬鹿を見る社会であってはならないのである。今の社会は地位に相応しくない人物が地位を得ているから起きている悲劇かもしれない。

 

諸悪の根源は米国!

金融危機、豚インフルエンザの発生源は全て米国企業である。最近知ったのだが、スペイン風邪も米国がヨーロッパに持ち込んだそうなので、豚インフルエンザが第二のインフルエンザ・パンデミックになれば、米国は100年の内2回も人類を生命の危機にさらすことになる。豚インフルエンザの発生は、メキシコで米国の養豚業者が過密な豚舎で抗生物質を多量に食糧に入れて育てている場所からと言われている。規制の網を避け、然も低賃金の労働力を利用してのグローバル経済とは何かを問われそうである。米国は無辜な先住民であるインデアンをジェノサイドした移民で造られた国家なのを忘れてはならない。自己の為には他者の生存を許さない悪魔の遺伝子を継承した国民であることを肝に銘じるべきと思われる。もちろん、米国民は移民国家であるが、全ての人々が問題遺伝子を継承しているとは言わない。問題なのは、一般的な米国民でなく、インデアンの殺戮や奴隷制度で金儲けをした子孫の多くが指導者層に残って悪い血を継承している現実である。イスラレルはユダヤ人の子孫達が造った国家だが、ユダヤ人が歴史的に世界で排斥された理由が分かる様なパレスチナ人の虐殺である。悪の遺伝子が免罪としているのはキリスト教徒とは話が美味く出来すぎている。今こそアジアを守るために日中韓の連携が重要と思われる。

諸行無常

この言葉を最初に知ったのは高校の古典の時間で「平家物語」の書き出しを見た時であった。"祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、~"で始まる平家物語は余りにも有名だが、当時の古典の教師はこの一説が好きだったらしく執拗に暗記をさせられたので、今でも諳んじることが出来る程である。その後、この言葉が仏教用語であることが分かり、同様な本として鴨長明の「方丈記」を知った。何故この様な文を書いたのかと言うと、昨夜のNHKのTVニュースで今年1-3月の自殺者の数が例年を大幅に上回っていることを知ったからである。先進国では例の見ない年間3万人以上の自殺者が長年続いている。今年はこの状況だと4万人を越える最悪な年になる可能性が高い。最近のTV番組では、大学教授や経済評論家や外資系勤務の経営者などが出演して麻生政権の景気対策が選挙目当ての場当たり的なばら撒き財政であり、日本経済活性化には中長期的な財政政策が必要とコメントしているが、それでは間に合わない事を知るべきである。この不況で何等の痛みを受けていない連中がコメントする資格はない。麻生総理が欧州で開かれた20カ国会議に出席した時に欧州のメディアから受けたインタビュー記事を読んだが、麻生総理は実に日本経済バブル崩壊後の失政を理解していた事が分かった。今回の景気対策はその反省を踏まえて行なわれているものであるが、日本のメディアでそのインタビュー記事を掲載した所は殆んどない。良く改革には痛みが伴うとか明治維新では現在の様な状況よりは遥かに厳しかったなどと言及する馬鹿がいるが、それらの人々は大手のマスメディアの社員を始め、何等生活に困った者達ではない。日本を良くするには大手新聞社の新聞を購読しない、TVに広告を出さないことが早道である。朝日新聞などは優遇税制の恩恵を受けているにも拘らず脱税行為で国税に摘発を受けているのに、他社の脱税記事を掲載する資格はない。欧米諸国は宗教的に世の中の絶対真理の存在を追求し科学技術を発展させてきたが、実際の世の中は「諸行無常」であり、アジア文明は早くからその事に気づいて高い精神文化を築いてきた。今正にGDP(国民総生産)からGNH(国民幸福度)に尺度を変えるときが来たのをマスメディアは相変わらず欧米の物質文明の追求を促すだけである。真の豊かさとは何かを考える時期に来たのである。自殺者に対して合掌。

マスコミの笑止千万

マスコミ各社は政府の今回の金融危機に対する企業への公的金融支援を単なる一時的な延命策として効果がないことを報道している。警鐘の理由としては、この様な公的支援は企業に必要な競争力を阻害し、グローバル社会に通用する企業の成長には役立たないと言うことである。しかし、私から見れば優遇税制の恩恵を受け、記者クラブの談合制度で競争社会から程遠いマスコミなど笑止千万である。日本のマスコミは権益の弊害を指摘するが、同様な権益に守られて高い広告掲載料を取っているのは誰だと言いたい。消費者は高い広告料が加算された商品を購入しているのである。企業努力を言うなら先ずマスコミが高い給料を維持するために守っている記者クラブ制度を放棄しろと言いたい。実務経験のない耳学問の連中が何も分からず書いている記事など価値がない。企業合併による競争力の強化を言うならば新聞社も合併して広告掲載料を下げる努力をするのが説得力のある報道である。経済や社会が大変なときに芸能人が泥酔した裸の報道に価値観を置いているマスコミは国民総白痴化の功労者と言える。日本のマスコミは情けないの一言である。

内装の一部をカットした低価格マンション販売は本当に安いのか

長谷工が、「下駄箱」、「電子レンジ」、「棚」などの設置を省いて販売価格を10-15%下げたマンションの売れ行きが好調との記事を見た。記事にはマンション業界に新風を吹き込んだと書かれていたが、良く考えると 仕様変更だから購入者は別に安い買い物であったわけではない。確かに、最初から設置されていると自由度が低いので、自由度を高める効果はあると思うが、この販売は錯覚商法の類であるので、マンション業界に新風と言う程でもない。この販売方式を極端化すれば中国のマンション販売と同様なスケルトン仕様に到る事になる。日本の不動産は外国と比較すると土地が高いので、マンション販売業者は建築工事費で利益を出す傾向が強い。このため、内装部分を減らす事は減益となりかねないために、従来は内装のオプションが可能位に止めていた。しかし、購入者にとってはマンションの内装仕上げはそれでも個人で発注するよりは間違いなく安いことを忘れると後で多額の出費を招く事になる。また、後から仕上げようとしても規格品で納まらない場合もあり、思っているより簡単ではない。我々業界の話だが、工事見積りを取って価格交渉に入ると、仕様を変更して価格を下げるケースが多いが、実は仕様変更しての価格の引き下げは発注主が得した訳ではない。今回のマンション販売も同様で、付帯設備の一部を削除しているのであるから別に購入者は得した訳ではないので、そのまま使用するのであれば問題ないが、購入後に自分で付帯設備を設置する考えならば購入前に業者から見積りを取るか、設計事務所にコンサルタント料を支払っても意見を聞いたほうが良いと思われる。本来ならば、購入者の希望を入れて内装仕上げを行なう販売方法がベターであり、勝手に付帯設備を削除して販売価格が安いと思わせるのは錯覚商法以外のなにものでもない。

手前味噌

東京都の千代田区ではビル内に分煙エリアを設置する場合に補助金を出すと言う記事が掲載されていた。手前味噌になるが、当社が管理している虎ノ門ビルでは、既に10年以上前に1階エントランスの空きスペースに分煙エリアに排気ファンとダクトを設置してテナントの従業員に提供している。千代田区は他の地方自治体に先駆けて路上の喫煙禁止を条例で定めるなど環境や健康などに対して前向きな役所である。千代田区の政策を考えると、以前書いた神奈川県の飲食店等に対する禁煙条例には能がないのに驚かされる。企業も役所も人材が必要であることは分かるが、千代田区は人材が揃っているのであろう。当社の分煙エリアの設置も全部の管理ビルで実施できているわけではない。問題は、オーナーの理解と分煙エリアの確保が可能かどうかが決め手となる。最近のファンドの所有物件や大手企業の貸ビルなどを見ると、見た目は良いが利用者を考えての配慮は少ないと思われる。確かに、新しい大規模ビルは最新の省エネ設備などを導入しているが、逆に無駄な一面も相当あるのが分かる。貸しビル業はサービス業である事を理解しているビルのオーナーは少ない。高い賃料を取りたいならばサービス体制や省エネ設備を強化する必要があるのに、単に賃貸市場の相場しか見ていない。当社の管理ビルは共同開発した区分所有建物が多いのだが、最近は区分所有建物にもファンドのオーナーが増えてきて収益を上げるためにサービスの基本である管理費の削減を要求して来るので質の良いサービスを維持するのが難しくなってきている。ファンドのオーナーの所有期間は長くて5年であるので、無責任な遣り方が多い。今回の百年に一度の大不況では、貸ビル業がサービス業と認識していないオーナーのビルは空き室が目立つようになると予測できる。

規制緩和後のタクシー運転手の運転技能低下の怖さ

全国的には分からないが、少なくても東京都内のタクシー運転手の運転技術は危ないほど低下した。特に、タクシーの運転手は地方出身者が増えており、幹線道路さえ覚えていない方が多いので、お客が道を知らないと遠回りの料金が請求される事になる。規制緩和の前には、タクシー運転手の資格は普通乗用車の2種免許が必要であった。私も自動車免許を取得する時に自動車学校で2種免許の試験について聞いた事があるが、バックでクランクを走行する技術など初心者の私にとっては驚くべき運転技術であった。しかし、現在では5年くらい事故や違反がなければタクシードライバーにばれると言う事を聞いた。悪く言えば、ペーパードライバーでもなれるということである。また、東京の様な交通が混雑しない田舎の運転経験でも都内のタクシードライバーになれるのである。尤も、最近の車にはカーナビが付いているので道を知らなくても問題ないだろうと反論する方がいるかもしれないが、その様な者は自分でカーナビを使って運転した事がない人と思われる。カーナビは便利だが、所詮有通の利かない機械である。規制前のタクシードライバーは経験で裏道や渋滞の場所、距離が遠いが渋滞を避けられる方法など知っていたので、急いでいる時には何度も助かったものである。しかし、今のタクシードライバーにその様なことは期待できない。タクシードライバーはプロの職場でなくなったからである。タクシー業界の規制緩和は、競争原理主義を導入して料金をリーズナブルにすることと、失業対策を狙ったものと推測される。ところが、実際にはタクシードライバーの生活が厳しくなり、その上タクシーの事故率が高くなっただけである。この理由は、表面的な規制緩和だけで根本的な問題を避けたからである。他と同様、タクシー運転手も小泉政権時代の薄っぺらな似非構造改革の犠牲と言える。経営者だけが潤ってタクシードライバーだけが割りを喰う改革であったからである。この結果、今日、安全性の面で問題が浮上しているが、それ以上に問題なのは個人タクシーの運手手に年齢制限がなく、自主廃業しない限りは営業できる事である。本来、規制緩和とは、利用者に便利な様にすることであると考えられるが、その事(タクシー営業の自由度)に関しては何等規制緩和していなく、利用者は不便を蒙っているのである。小泉政権の似非改革は国民の為におこなったのではなく「百害あって一利なし」である。

道州制の導入で行政組織のスリム化と国会議員・県議会議員の大幅削減が実現可能に

市町村の合併を見ると、正に行政組織のスリム化と議員数の大幅削減が実現している。ニュース記者や評論家が国会議員数の定数の適正さに言及する時に国民一人当りの議員数で日本は決して議員数は多くないと指摘しているが、この判断は必要条件だけで十分条件に言及していない。然るに、十分条件とは議員一人当りに係る報酬・経費総額はどうかということである。以前にも指摘した事だが、国会議員や地方議員の数は人口に対して決められている。戦前には井戸塀政治家と言う言葉のとおり、議員職はボランティアの性格が大きかった。戦後も高度成長時代前は議員の報酬は国会議員は知らないが、地方議員は日当制であったので、議員数が多くても財政負担は少なかったのである。それが何時の間にか月給制となり、無用な視察旅行が増え、財政に多くの負担を掛けるような制度に改悪してしまったのである。また、公務員においても然りである。何時の間にか大企業の優良企業並みの水準になり、公務員としての行政サービスの意義を考えない安定だけを求める職員が増え、財政難を引き起こしている。公務員の給料は日本の全ての労働者の報酬の平均以下であるのが望ましい。給料が安くても行政の仕事に関わりたいと言う有意な人を職員として採用するべきと考えある。良く給料が安いと悪い事をすると指摘する人がいるが、全くナンセンスな意見である。また、政治家に関してもお金が掛かると言うが、これに関しても遣り方次第と思える。国会議員に関して言えば、「報酬」の他に、「公的助成金」、「秘書報酬」、「政策費」など多額な費用を受領しているのである。個人献金も受けられるので現在でも多すぎると思われ、お金が掛かる政治活動しなければ当選しない議員など必要でないのである。大分前に政治改革を行なったが、この時には田中角栄と言う金権政治家の事だけを考慮したため、クリーンだけが強調されて政治家の活動に多額の資金を与え、財政負担がましただけであった。強欲な政治家共はそれでも足りない嘯いて贅沢な暮らしをしている。市町村合併の内、県議会議員の定数だけが削減されない問題は残ったので、道州制の導入では国会議員の削減を含めて議論する必要がある。なお、行政組織も然りである。農水省の様に農業人口が劇的に減少し、自給率も40%を割ったのに役人の数や出先機関の削減が行なわれていない現実がある。行政組織もフラット化を進め、忙しい部署と暇な部署の人的交流が出来るような人材と組織つくりを行なう必要がある。この様な変更は、道州制導入の様な一大イベントで行なわなければ出来ないと考えられ、道州制の導入は絶好の機会である。

経済的合理性の推進と非常時に活用できる見えない備えの減少

現代の社会はソフトとハードともコスト削減などの成果を重視する余り、「無用の用」で支えられてきた非常時の備えに対して次第に脆弱になってきていると感じる。良く製造業界に関しては、在庫を抱えない事が短期利益を生み出す最上の方法と考えられ、トヨタの製造方式に習う企業も多い。しかし、製造現場は合理的に行なっても販売現場ではお客は待ってくれないので販売在庫を持つ事で機能している。一方、流通業界などでは倉庫に一定規模の在庫を持つのが普通だが、これに関してもIT技術の在庫管理や問屋を通さないシステムの拡大などで次第に倉庫に物資が保管される量が減少して来ている。一企業から見れば、在庫を多く抱えるのは無駄なので、経営的に利益を上げるのに在庫を少なくする考えは基本的な考え方なので否定はしない。問題は、現代の社会経済システムでは非常時に対する考え方が、無駄と言う一言で考慮されていない怖さである。勿論、行政が企業の経済合理的活動で減少する非常時に機能する目に見えない備えの部分を補完するなら何等問題がない。しかし、現実は小さな政府と言う事で民間のいわゆる無駄な部分を補填する政策は出てこない。何が主張したいのかと言うと、分かりやすく言えば最近の建築物は水道の圧力が強くなったこともあり、多くが直結方式で貯水槽を持たない中小ビルが多くなってきた。その上、トイレなどもスペースや衛生面などからタンクを持たない方式に変わってきている。此処まで書くとお分かりの様に、突然水道水が供給されなくなったら、トイレは直ぐに使えなくなるし、飲料水も建物内の配管内の分だけとなる。現代社会における経済合理性から見た無駄は、実は非常時には一時的ではあるが有用な働きをすることになるのである。食糧にしても同様である。流通における在庫は、非常時の備蓄分として計算できるのである。もちろん、経営者や経済コンサルタントは政治家でないのでこの様な事を考える必要はないが、当社の様に建築物の計画や建設に携わっている会社としては無駄な部分の必要なのが痛いほど分かるからである。社会は矛盾があって当たり前なのだが、頭の良い人達はその様には考えない。特に、IT社会は容易く情報が入るからか、それとも情報入手の課程で脳に障害がおきるのかは知らないが、物事を探求したり、多面的に考えることが出来なくなってきたと思われる。金融危機で分かったことは、現代の社会システムの全てが非常時に対して無力であり、逆に助長してしまったことである。現代IT社会は知識はあっても知恵がない人が多くなった。

地域活性化の一つとして実業学校の地域化が必要

偶然、ケーブルTVで鹿児島県立鹿児島工業高等学校の100周年記念の行事を放映していたのを見た。行事には工業立国の日本の尖兵として活躍した方々も多く、鹿工(ロクコウ)卒業生として誇りを持った顔が素晴らしかった。校舎の真ん中に立つ古い大きな煙突が学校の象徴的な存在らしい。この番組を見ながら、日本の高校は何時頃から普通高校重視となり、実業高校の入学を敬遠する様になったのかと考えた。少なくても、私の年代は優秀な中学生が実業学校に入学し、卒業後は銀行や造船会社、自動車会社などに入社している。推測するに、大学進学率のアップとともに入試に不利な実業学校が次第に敬遠されるようになったのは理解できる。大学入学に関し入試一辺倒の文部科学省の行政の考え方が実業学校の魅力を損ねたと思われる。本来ならば、実業学校の生徒の大学入試に関しては、推薦入学制度を拡充して大学進学の不利をカバーすべきであったのである。この一例も工業化のために安い労働力を得るために農家から働き手を奪った政策と同じく、若年労働者を産業界に送り出すために実業学校の生徒のカリキュラムを大学進学用に設定しなかったのであろう。過去を遡って非難しても仕方がないので止めるが、良く考えると地域振興には実業学校の活用が必要と思えてきた。勿論、現在の実業学校の専攻課程を今の様に全国的に同じ様なものでなく、地元が必要とする産業や仕事、更には後継者が少ない伝統的な職業にすることである。この専攻課程の改革には、ドイツの様なマイスター制度を取り入れれば有効と思われる。地域再生には先ず働き手の確保が必要で、これには地域ごとに必要な知識を与える実業学校の活用が重要であるのではないかと思う。そう言えば、野球界に三原監督という名将がいたが、監督自身は慶応大学出身にも拘わらず、ご子息は板前になったとのことであった。勝負の世界に身を置いた監督のご子息が実業の世界に進んだのは「言い訳が聞かない世界」の共通性があると思った。

市街地の開発には適正な規制が必要

規制緩和が新たな需要を創出すると言われて久しい。確かに、資金的な裏づけがあれば開発が促進され、有効需要は創出されるであろう。しかし、規制緩和が引き起こすマイナス部分の乱開発に伴うインフレ整備の遅れや競争激化による不正な建築などの面に目を向けた議論は少ない。私が指摘したいのは行政の既得権利を守る事ではないので誤解しないで欲しい。森ビルの社長が都内の高層化の妨げ要因として羽田空港の存在を上げているが、一方で温暖化の対策として地上を緑化するには地下を利用すること提言している。どちらも土地の有効活用を唱えた意見ではあるが、「利用者の基準を何処においている」のか、「地震国の日本で現在の耐震レベルがどの程度有効と考えている」のか、「都内の下水道などのインフラ整備の対応を把握している」のか、大規模開発発言に関して色々と疑問が湧く。もちろん、私も地価の上昇に抑制効果がある建物の高層化に反対ではないが、昨今の大規模開発は地価の安定供給には貢献していないどころか、逆に採算性が見えない土地投機を招いているだけである。デベロッパーとして最も大事なのは、急激な資産価値の上昇ではなく、バランスのとれた開発による建物の供給であり、その供給に基づく経済成長に見合った地価と賃料の上昇を促す事である。もし、建物安全性の強化や温暖化対策にコストが掛かるのであれば一企業の問題ではないので、そのコストに見合う分を行政側に容積と言うボーナスを要求することである。大分前から指摘しているが、森ビルの六本木開発や三井不動産のミッドタウン開発など大手デベロッパーの市街地の開発手法は、クローズド開発である。オープン開発でなけれな地域が潤う事は少ない。日本の行政が作成した都市開発計画は未来志向でなく、現状優先の考え方であるので、今日の様な都内の乱開発は仕方ない面があるが、再度全国の市街地に関しては未来志向で都市計画を立案して適正な規制の下で開発を行なわせる事が重要と思われる。元来、不動産開発は規制の網の中で創意工夫を行なって事業化してきたのである。土地の有効活用を規制緩和だけに依存して行なった結果が金太郎飴的な開発であり、荒唐無稽な需要創出を生み出した。不動産業界には再販で儲ける考え方もあるが、この様な考え方はデフレ経済から抜け出せない危険なものと思われる。市街地開発には金太郎飴的な開発を排除するために適正な規制が必要なのである。

景気回復支援策の新車購入時の取得税の軽減に思う

政府が景気回復刺激策のひとつとして自動車の新車購入に必要な取得税などの軽減に対する予算を計上した。これ以外にデジタルTVなどの購入に対しても購入支援金も出るらしい。経済評論家や野党の国会議員などは購入時期に不公平な政策だと非難しているが、どの様な政策でも平等であるわけがないので、先に購入した人は運がなかったと思うほかないが、問題は自動車税の取得税の課税方法に対する問題点を指摘する人はいない。今回、景気回復に対して自動車税の軽減が話題になったのでこの点に関してグローバル経済に必要なのは何かを問いたい。私が日本と米国の自動車に係る取得税の違いを知ったのは11年前のことであった。不動産ファンドのアドバイザリーで一緒に仕事をする事になった相手が長く米国に滞在していた人で、彼が久し振りに帰国して知人から中古自動車を安く買った話を聞いてからである。彼は、「日本の取得税は自動車の排気量で課税するので中古自動車の購入金額より高い」と怒っていた。私は初めて日米の自動車取得税の違いをその時知り、米国と言う国の課税方式は合理的に出来ていると思った。その後、私の専門である不動産の取得税・固定資産税を調べたら、やはり日本と異なり、基本的に売買価格に対する課税方式であった。勿論、税率には色々な要素が加味されているので金額的には米国も安くないが、売買価格に対する課税方式は現実的であると評価した。日本では不動産取得に際してはデスカウントキャッシュフローの考え方が主流になったが、良く考えるとこの方式は不動産の課税に関して売買価格での課税コストで組み立てられており、時価会計には売買価格での課税方式が不可欠ではないかと思った。米国の方式を単純に導入すると、格言にある様に「仏を作って魂入れず」になる恐れがある。構造改革とは本来課税方式も含めなければ効果が発揮できないと考えるが、どの様な理由があるのか小泉・竹中の似非改革にも触れられてはいない。ちなみに、彼の中古自動車の購入金額は6万円であったが、取得税は10数万とのことであった。彼の怒りは当然と思われる。日本の構造改革は"木を見て森を見ず"の類であり、真の構造改革など行なってはいない。そう言えば、最近竹中平蔵がやたらTV出演して見苦しい自己弁護を行なっている。今日の不況が小泉・竹中以降の政権が構造改革を遣らなくなった事が原因と指摘しているが、そう言えば海の向こうでも前FRB長官のグリンスパンが自己弁護に奔走している。人は正しい事を行った自負があれば自分に対する評価は歴史に委ねるものである。両人とも、何か疚しいことがあるので必死になって自己弁護を行なっているのであろう。この様な人物が重要な地位を得ていた時代とは何か考えさせられる。兎に角、景気回復は企業に委ねるしかないので、企業の足を引っ張る様な法律・制度を改善する事が緊急の課題であると考える。

米国人の信頼性の尺度

昨日、投資家を訪問して雑談していた時である。その投資家の本業は建築機材の製造販売リースなのだが、最近米国企業と大きな取引を行なった話が出た時のことである。この米国企業とは初めての取引で金額も大きかったので最初は心配したとのことであった。受注に到った経緯は、米国で展開している日本の大手ゼネコンに建築機材を提供していたのに注目され、その米国企業はその製品が他国の物より性能が良いので発注して来た様だ。本題は此処からである。その米国企業は投資家の企業を訪問してきた訳でもなく、工場を見学した訳でもないのに前渡し金として発注金額の20%を振り込んできたとのことであった。投資家の初めての取引の不安を一掃するかの様な行動はそれに止まらず、中間金、最終金の支払方法も見事であった様だ。正に、グローバルに展開する米国企業の真骨頂を見た思いがしたと同時に、日本人の疑い深さを改めて思い起こした。日本社会では信頼感が欠如する故に発注先の信頼性を企業規模に置いている。我々の不動産業界は特にそうだ。我々からすれば大手企業はコスト的に同じ依頼を行なっても高く付くのは自明の通りである。然し、日本では安心料が優先して知名度が低い企業は同じ事を提案しても相手にされない。良く考えると、この違いは「狩猟民族」と「農耕民族」の違いであり、米国人は日本人と異なり、外見でなく中味を評価する能力に長けていることに帰結する。良い製品や良い仕事を行っている会社に対する信頼である。米国は金融危機で苦しんでいるが、投資家から今回の商談を聞き、改めて米国企業の凄さが分かり、米国経済が遠くない内に復活する予感を感じた。もちろん、これは個人レベルの話であり、国家が信頼できるかは別の次元の問題であるが。

地域再生のひとつには観光資源の活用が必要

先週末に知人が主催するディナーセミナーに参加した。フランス料理店を貸し切っての主催のため参加者は35人程であった。セミナーのテーマは、「日本における観光立国は成就できるか?(観光ビックバンと地域再生の行方)」についてを講演した北海道大学大学院観光創造専攻長の石森秀三先生を囲んでの"観光立国"であった。講演の中でも指摘されていたが、2010年代にはアジア大交流時代による旅行客の増加が見込まれると言う。確かに、北海道はオーストラリア人や台湾の観光客で賑わいを見せている。問題は現状の様な観光客の受け入れ体制では、観光資源を活用した地域再生は容易ではないことである。特に、行政などは観光を民間の問題として考えており、観光立国としての予算も碌に計上していない。日本の場合は東京一極集中主義になっているので、先ず観光による地域再生を考える場合には改善しなければならない課題が多い。石森先生曰く、フランスなどの欧州などは一番美味しい食材は地元でしか食べられないが、日本の場合には一番の食材は東京に運ばれてしまう様な問題である。この事は何も外人の観光客ばかりでなく、日本人の国内旅行にも言える事である。地域の再生には、他県の人が足を運んで来てくれる様な環境にすることが大事である。地方を旅行すると分かるのだが、行政や商工会議所が観光客を誘致する考え方は全て箱物投資の延長であり、観光客の利便性などが余り考慮されていない。ある地域で驚いたのは、街並みが昔の家屋で統一されて観光客に喜ばれる景観であるが、日曜なのに飲食店が殆んど営業していなかったことである。この現象は、「鶏が先か、卵が先か」の議論と同じなのであろう。当初は観光客を見込んで営業していた店舗もお客が少ないので止めてしまったと思われる。大分前の話だが、休日に観光地に行った時にお年寄りが多かったので、平日に来た方が施設の料金が安く便利なのではないかと質問した事がある。その時にお年寄りから私は嘲笑されたのであった。嘲笑の理由は、平日には観光地でもケーブルカーなどの施設が営業されていないのを知らないことであった。高齢化社会と成熟社会が到来し、然もアジア経済が成長してアジア人の観光客を期待できる今日では、地域再生には観光資源の活用が欠かせないと思われる。しかし、現状の様な観光に対する官民の姿勢では覚束ないので、今後は官民一体となって観光産業の育成に力を注ぐ必要があると考える。少なくても、地元で採れる食材を一番美味しく食べれるレストランの育成や、平日と休日に関係ない施設の運営、更には地元ボランティアによる観光客に対するガイドなどが必要である。日本には美しい自然が多くあるので、後は最近の話題の映画「おくりびと」で描かれた「優しい心」で観光客を迎えることであろうが、小泉時代に破壊された内面世界の再生が一番困難かもしれない。

タイミングが悪い東京都の固定資産税額(土地)のアップ

百年に一度と騒がれている経済危機の真っ只中で東京都は固定資産税(土地)に係る税額を上げた。確かに、ここ3年は地価が上昇傾向にあったが、昨年後半以降は逆に下落に反転していたのは周知の事実である。しかし、この様な情勢の時に税額を増やす事に対する都民や企業の反発を軽減するために建物に関しては税額を下げると言う悪質な実施である。本当に行政と言うのは民間企業の足を引っ張る事しか出来ない存在だと嫌になる。多分、値上げに関して都庁に質問すると3年毎の評価替えに基づいた増額と答えると思うが、IT社会の到来で時間軸が速くなった現代での税額の徴収方法に関して新しいシステムを導入するのが行政の義務である。確固たる経済予測もなく予算を決めているからタイミングが悪い税収のアップで個人や企業を苦しめるのである。役人が分かっていないのは、都民や企業が活動するから税収を得られるのであって、今回の増税の様に足を引っ張る行為は近い将来の都税の大幅な減収を招く結果になる事をである。尤も、本来は知事と議員が議会での論戦を通して政策の良し悪しなどを決めるのだが、120名を超える議員がいるにも拘わらず何の役にも立っていない事の方が問題なのであろう。今の日本は下は村役場の役人から上は霞ヶ関の役人まで首長と議員を馬鹿にしているのだから始末に悪いし、碌に勉強をしないで役人に借りばかり作っている議員では期待できない。今年は都会議員の選挙があるので、議員報酬の減額や議員定数の削減を公約する候補者に投票したら如何であろうか。

専門家と言う素人

一般の人達は専門家と称する人に弱い。人に依っては、専門家を「神」扱いである。しかし、専門家とは広義的には何かしらの専門的な技術を有する人と解釈できるが、その道の専門家だから全てを知覚し、実践的知識を有しているのではない事に気づいている人は少ない。例えば、弁護士と言えども資格を取得して法律事務所に属すれば、どの分野でも通用するようなゼネラリストはいない。少なくても得意分野として刑事訴訟法か民事訴訟法かを選び、更には労働法専門の場合もある。近年は時流の知的所有権で稼いでいる弁護士もおり、得意分野は細分化されている。ちなみに、労働法専門の弁護士に不動産関係のトラブルを聞いても実務的に不案内の場合が多く、一般の人はそれさえ理解していない。当たり前の話だが、弁護士は判例や法律的な事は詳しいが、建築知識などの専門知識は素人レベルである事には依頼者は無頓着である。それでも優秀な弁護士は友人・知人のその道の専門家に聞いて対応するので問題は少ないが、その方法は付け焼刃に過ぎないので他の専門業種の知識は一般の人と同じ素人レベルと考えて相談したほうが無難である。弁護士だけでなく、会計士に関しても同様である。会計士で不動産などの資産に関して実務的に詳しい人は少ない。殆んどの会計士は、決算業務が仕事の主体であり、不動産資産などは相続税の申告の時しか関わらないからである。最近は時価会計制度の導入で如何にも会計士は不動産の時価に詳しいかのような錯覚を多くの人に与えているが、不動産業を知っていれば棚卸資産に時価会計など導入しない。翻って、我々の建築業界も又然りである。建築士は住宅関係は別として事務所ビルや商業ビルなどに関しては、完成後のオペレーションに関わっていないので多くの設計がメンテナンスに関して不案内である。しかし、この様な不案内は未だ良い方で、最大の問題は専門家故に見逃してしまうミスがある。このミスは複数の専門家の現場会議を経ても起きる事である。このため、当社などは敢えて専門家集団の会議に素人を入れてチェックするシステムを採用している。素人の疑問は正しい場合が多いからである。専門家のために見えなくなってしまう或いは見逃してしまう怖さが現実にはある。特に、最近は規制緩和がどの業界にも行き渡り、職人的な執拗さでより良い物を目指す姿勢の欠如や安易に物事を判断してしまう傾向が強いので尚更専門家を信用するにはリスクが大きい社会となっている。専門家の言葉だからといって簡単に信じない事が重要だが、医療と同様にセカンドオピニオンの考え方も色々な分野の専門家に対しても必要な時代と思える。

聖徳太子の17条の憲法

今改めて聖徳太子の"17条憲法"を読んで驚くばかりである。聖徳太子の生きた時代は1400年以上も前で、現代から見ると物質的には恵まれなかったのは言うまでもない。聖徳太子の様な人物の政治家を今の時代に欲しいと思うのは私だけであろうか。今回の金融危機を契機に日本人は東洋回帰する事が必要なのではなかろうか。そう言えば、小泉・竹中のブレーンとして多くの規制緩和に関わった元財務官僚の大学教授が、スーパー銭湯で窃盗で捕まった記事が新聞に掲載されていた。この人物は多くの図書を出版して多くを語っていた様だが、何とも情けない人生の結末と言える。バブル経済崩壊後には社会の倫理感が一層消失し、何事も「勝てば官軍」の風潮が蔓延し、この時世に乗った人間的に問題がある人物が跳梁跋扈してきた事が良くわかる。この様なブログを書いているとお前はそんなに聖人君子かと言われそうだが、少なくても人を「騙したり」、「泣かせたり」、「困らせたり」、「人の物を盗んだり」して生きてはいない。私は、この様な人間に育ててくれた両親に感謝している。今の世の中は、"分からなければ何を遣っても許される"的な考え方の人が多い。インサイダーの取引を行なって「お金儲けが悪い事ですか」と居直った人が居た。この人は親からどの様な教育を受けてきたのかと思う。良く教育は学校と言われるが、この事は大きな間違いと思う。道徳教育を否定した現代の学校は知識の修得の場でしかない。教養ある人間に育てるのは家庭教育であろう。子供は親の背中を見て育つとは蓋し名言である。今の日本社会に欠けているのは倫理感であろう。そう言えば、「類は友を呼ぶ」と言う言葉も思い出した。小泉・竹中の類友が窃盗犯では世の中が可笑しくなる筈である。

グローバル経済での低価格製品輸入と雇用喪失の悪循環の解消はあるのか

今朝のTVニュースで某企業が中国の生地をカンボジアで縫製して日本に低価格で商品を供給する事を放送していた。企業にとっては生き残りをかけた企画なのだろうが、この様なグローバル経済を活用した企画を見せられる度に「猟犬と獲物の話」を考えてしまう。獲物がいなくなれば猟犬は不要となるのは自明である。米国のビジネスモデルを追い続けた結果が金融危機であった。良く考えるとベトナム戦争後の米国のビジネスモデルは株主優遇と短期利益追求主義による企業の海外流失とその結果の雇用喪失であり、また資本主義が内蔵した金融破たんを前提にした不良債権による不動産の再生であったと思われる。特に、レーガン大統領以降は規制緩和によって資本主義が内蔵する金融破たんの危機を拡大して来たのである。日本も米国のビジネスモデル教崇拝者の連中によって全く同じ道を歩んでいる。安ければ買うと言う考え方は雇用が安定しての話であり、景気悪化の入り口には成り立つモデルだが、不況が長期化した場合にも大量販売の前提でなりたつ低価格路線は生き残れるのであろうか。物を売るという行為は、現場のスタッフの役割は大きいのに、単に安いだけでは双方向時代以前のモデルである。成熟した社会でお客のニーズを捉えるには双方向による情報の活用は重要であり、その情報が雇用の拡大につながると思われる。消費者の一人としては、消費者のニーズを理解して心のこもった応対の店の商品を買いたいと思う。某コンビニで驚いたのは、外国人スタッフが寿司弁当をマニュアルとおりに温めましょうかと聞いたことである。また、DVDレンタル店では不具合のDVDのクレームに対して確認もせずに所有機器の原因にする様な対応に驚かされる。低価格商品の販売会社は安いのでお客が来る意識を持っているからか、お客に対するスタッフの対応が悪くなる傾向があるが、その様な会社は最終的には淘汰されるのであろう。日本には存在した従前従後のサービスが求められる時代が間違いなく来ていると思うし、それがグローバル経済での生き残りの必要条件であろう。

金融バブル経済での過剰需要の減少の悲観的報道に意味があるのか!

マスコミ各社が米国の自動車販売台数の減少で大騒ぎしているが、金融バブルで生じた過剰の需要が回復するわけでないのは自明の利なのに今更ながらマスコミの報道に疑問が湧いた。日本経済バブルの時には、記憶ではマスコミ各社は過剰需要の減少などに関して冷淡で、バブル経済で設備投資を行なった企業に対してバッシングの嵐だった。それが世界的な金融バブルの需要に対する設備投資に関しては報道のスタンスが全く異なる。日本国内で起きた経済バブルであろうが、世界的に起きたバブル経済だろうが、バブル経済なのは変わらないからバブルが弾ければその分の需要が減少するのは当たり前の事である。世界経済の回復は、バブル需要部分の過剰分の在庫が整理され、且つ過剰設備が償却されて元に戻るまで時間が掛かるのである。この様に考えていた時に、広告の電通の「戦略十訓」を思い出した。この十訓は電通でも既に死語になっていると思われるが、この中のひとつに「混乱をつくり出せ」の言葉がある。この十訓の言葉をつくり出した原典は、1960年代のヴァンス・パッカード著「浪費をつくり出す人々」と言われている。この教えからすれば、今回の世界的な金融危機に際してマスコミは、需要を引き出すために「混乱をつくり出す」役割を担っているのかも知れない。確かに,日本経済はバブル経済崩壊後は15年もの間マスコミによる「混乱をつくり出せ」の渦中に置かれていると思った。古い時代の考えでシステムされているマスコミには未来がないことが分かったが、その報道で動かされている大多数の日本人は海外の餌食にされてしまうと今更ながら思った。

効率とは何か

最近世の中は全て極論に走りすぎていると感じる。その中のひとつに"効率"と言う言葉がある。確かに、IT社会になってひと昔前に比べて時間軸が速くなったので、全てがその時間軸に従わなければ否定されて仕舞う現実がある。しかし、スピードが効率と言う言葉に置き換えられると違った意味になることの重要性に気づいていない様に思われる。安全性を重視する事業に効率の概念を導入すると間違いなくリスクが大きくなるのは自明の利である。困るのは人間はこの様なリスクに対して楽観的になると言う歴史的事実である。然も、IT社会は経験者の記憶などの価値観を吹き飛ばした為に多くの事故が起きたことさえ気づかない。IT社会の大きな問題点はシステムの構築に対費用効果の面から人間の経験知を越える事が出来ないと言う現実である。最近発生している事故の多くは効率と言う面から起きていると考えられるが、効率主義の問題点は人間は効率的に出来ていないと言うことであろう。人間が効率的でないので機械的にスケジュール管理を行なったり、様々なセンサーで異常に気づく様に工夫をしているのだが、システムの誤作動が「狼少年」となり、重大事に機能しない面も否定出来ない。私が何を言いたいかと言うと、効率と言う言葉が人の判断力を阻害し、思考能力を退化させている危険性に対してである。荘氏の書物に「無用の用」と言う言葉が書かれていた。今の現代社会に一番忘れている言葉ではないだろうか。本当に無駄なものは当然に省く必要があるが、目先だけで「無用」と判断したものに本当は欠かせないものが含まれている場合が多い。格差社会では一人が多額の報酬を得ているが、その分を社員の雇用に使ったほうが余程会社のためになると思われる。一人の人間が出来る範囲などたかが知れている。金と人材があれば上に立つものは誰でも務まるのである。頭が良くても経験がなければ机上の理論の域を出ないし、成功体験はどの事業でも効果を発揮する訳ではない事を理解するべきである。勿論、「後藤新平翁」の様な逸材であれば別だが、それには人間としての教養や現場主義の経験が必要なのである。お金に拘る様な者に社会のトップが務まるわけがないのに、今の時代はその様な経営者や官僚や政治家ばかりである。その様な者の言う「効率主義」など間違いだらけである。

職員の給料の高さと役所の公共サービスの反比例

職員の給料が高い役所ほど住民に対する公共サービスが悪い。本来なら税金で給与を得ている立場からすれば逆なのだが、全部とは言わないが給与と公共サービスは反比例しているケースが多いと思われる。もう10年以上前の話だが、当社が四国に所在する特別養護老人ホームの経営者から東京都内の特別養護老人ホームの調査を依頼されたことがある。この時の都内23区と都下の市の役所の職員の対応には色々と違いがあり驚かされた記憶がある。何故今頃になってこの様な事を書くのかと言えば、群馬県伊香保市の特別養護老人ホームで焼死した老人が墨田区の住民であったことが書かれていたからである。先の調査で最も職員の対応が悪かった区役所が墨田区役所であったからである。税金で暮らしている公務員が、住民に対する思い遣りもない冷たい言葉が出るのも言語道断だが、当時墨田区区役所は豪勢な庁舎を建築して快適な職場になっていたのにである。下町の区役所の中で葛飾区役所の応対は立派であったので今でも鮮明に記憶している。この調査の質問は、奥多摩に出来ている若しくは計画中の特別養護老人ホームに対する区内に住む老人の受け入れ先としての対応に関してであった。この時の葛飾区の職員は、"区内で苦労して生活をして来た方々の老後を家族と簡単にあえなくなる他の地域で過ごさせるのではなく、区内に施設を設けて老後を過ごして頂く考えです"と回答されたのであった。この回答に私は思わず感激したのであった。此れに対して墨田区の職員の冷たい対応は今でも忘れない。墨田区の職員は高い給与を受けているのにである。浅草などを行政区域とする下町なのに人情の欠片もないのには驚いたものであった。群馬県伊香保市に区民を追いやる行為は正に現代版の「姥捨て山」である。尤も、この現象は公務員だけでなく日本人全体に及んでいる。当社はブッテックデベロッパーとして市街地の再開発も行なっており、開発の過程で多くの家族と出会うのだが、お金を持っていない家族ほど子供達は親孝行であり、お金持ち程家族関係は希薄で醜い開発利益の争いを行なうのを見たものである。公務員は下僕であるのに今や区民の平均所得を大幅に上回る給与を得て区民の事を考えない輩が増えている。情けない話である。国や地方自自体の借金が900兆円を越えた今、大胆な公務員の給与削減と人員削減を断行する様に国民は立ち上がらなければ全てが駄目になると考える。

通行料1000円による東京湾横断道路の渋滞と道路計画に対する疑問

3月21日に千葉県のゴルフ場に予約を入れていたため、偶然通行料1000円に引き下げられた東京湾横断道路を早々に利用して帰りには渋滞に巻き込まれた。私が東京湾横断道路計画を初めて知ったのは、今から38年前に大学の入学に伴い田園都市線の大学の最寄り駅から登戸経由で南武線の各駅を順次下り乍アパートを探して武蔵新城駅の不動産仲介業者の店舗に入った時であった。壁一面に東京湾横断道路計画図が貼ってあり、私が工学部の学生と知った業者の方は学科名も聞かずに貴方の様な学生さんがこの様な道路を造るんだねと感心された記憶がある。その後、社会人になって再度横断道路計画の現状について聞ける機会があったが、この時には事業採算的に絶対実現しない道路計画と言われていた。しかし、1985年のプラザ合意後の日米会議で米国から強力に内需拡大を要請され、日本政府は公共事業500円プロジェクトを打ち出したが、その中に「東京湾横断道路計画」も入った。この道路計画は民活の考え方を取り入れて建設される事になったのは自明の事だが、当初から事業採算性が疑問視されていた道路計画に民活の考え方を導入したのは狂人沙汰であったのである。今更いっても仕方がないが、本来なら東京湾横断道路を有効に活用するためには利用者負担の石油特別会計の全額負担によって建設し、低料金で利用できる計画にする必要があったのである。今回、通行料を1000円に引き下げたら報道によれば20%の通行料が増えたとのことであったが、この報道で疑問が湧いた。普段利用客が少ない横断道路がたった20%アップで渋滞を引き起こしたのであれば、建設計画時の通行量予測に関してどの程度であったか大きな疑問が湧いてくる。引き下げ前の料金と通行量で採算が取れていたかどうかは情報がないので分からないが、若しかしたら最初から低料金の利用による通行量など考えていない道路かもしれないと思った。そうでなければ20%アップで渋滞などならない筈である。ちなみに、横断道路の渋滞は外部の接続と関係なく起きていたのである。専門家愚昧と言う言葉がある。専門家と言う言葉で信じると世の中ではとんでもない事が結果的に起きている。専門家になるほど頭が固くなり、自由度が失われてプロジェクトに大きな欠陥を持つことが多いことを素人は肝に命じるべきと考える。

日本の国内総生産(GDP)が30%ダウンした場合

平成19年度(2007年度)の国内総生産(Gross Domestic Product)は約514兆円であった。このGDPが30%ダウンすると約340兆円で、このGDPは昭和62年度(1987年度)と同じ数値である。ご記憶と思うが、この年度を振り返ると日本では円高効果や原油価格低下の恩恵を受けて内需を中心に景気の拡大が進んでいたのである。ちなみに、バブル経済が崩壊した平成4年度(1992年度)のGDPは約484兆円、金融機関の不良債権処理が本格化した平成10年度(1998年度)のGDPは503兆円、米国の同時多発テロの平成13年度(2001年度)のGDPは約493兆円とマイナス成長であったが、その後は500兆円を下回ることなく推移している。ここで疑問に思うのは、失われた10年間とか日本全体にバブル経済崩壊後の長い不況感は何故起きていたのかと言う事である。バブル経済崩壊後の14年間のGDPの増大は30兆円と新興国から比べれば決して小さくない。しかし、長い不況感と地方経済の疲弊の原因を考えると、バブル経済後の低金利政策がすべてに影響していると考えざるを得ない。尤も、自動車産業などに従事していた者はGDPの推移を見る限り不況感は経験していないと理解出来る。先日、いわき湯本温泉に行った時に浴場で60歳前後の2人が朝風呂の中で話し合った言葉が印象的であった。一人の方が、"昔は本当に貧しかった。温泉などには入れなかった。何であんなに貧しかったのだろう。"としみじみと言っていた。貧しい時代は何時頃かは聞けなかったが、バブル経済前の昭和57年度(1982年度)のGDPは約275兆円であった。実に平成19年度の50%強であった。もし、日本経済のGDPが30%位ダウンしても1987年レベルの生活が出来るならば不安になることはないと数字が物語っている。問題は不安を煽っているマスコミや財政再建論者であろう。増税には行政改革と政治改革が必須条件であり、サラ金財政を続けてきた政治家と役人から財産を没収すべきである。金融破たんした銀行マンが責任を取らせられているのに、政治家と行政マンが責任を取らないから不平等になるのである。マスコミに関しては優遇税制を撤廃して他の業種と同様に税金を支払わせるべきである。兎に角、内需拡大には金利を引き上げないと国民は消費に流れず、海外の投資信託などで日本の富が消失するだけである。

デフレや大不況に対応していない日本の租税体系に訴訟で鉄槌

構造改革ばかりが話題になっているが、企業の活動や個人の事業活動に関して現在の日本の税体系はインフレ経済前提と徴収面のウエイトが強く害となってきている。況してや、国際会計基準と税体系の不一致による企業が受ける不利益は話にならない。企業や個人の活動によってもたらされる税金なのに国家は当然の如くに会計基準やデフレ経済に合っていない税体系下で強引な徴収を行なっている。今年は予算に税収入の見込みが追いつかないので必死になって税収を高める行為を行なっているが、この事柄も本末転倒である。予算などは税収に合わせて立てるもので、先ず予算ありきなど聞いたことがない。今年の税収見込みが大きく違っているとすれば、金融危機に対して何も考慮していない能天気な馬鹿野郎どもが日本の舵取りを行っていることになり、許せないことである。行政現場では担当者レベルで色々と判断して決定していることを聞いているが、その決定事項に企業や個人が異議を唱えて裁判になるケースの場合、役所だけでなく担当者の個人にも結果に関する賠償責任の責めを求めるべきと考える。この国はそうでもしないと良くはならない。税収不足だから予算に合わせるために赤字国債を発行するなど本末転倒である。また、現在の状況にあっていない税体系を放置している行政に対して「無作為の責任」で賠償責任を負わせることも必要と考える。行政の自分達に都合の良い学者で構成された委員会や審議会に対しても同様に何らかの法的責任を取らせることが必要である。マスコミ同様無責任な連中に鉄槌を下すべきである。

故安岡正篤氏の東洋的な考え方が必要な時代

最近、故安岡正篤氏の著書を手にする事が多い。安岡氏の著書に触れるに付け、生前にお会いしたかったと思う。世界的な金融危機が起きている今こそ、安岡氏の著書から今後についてのヒントを得るのは有意義と思っている。安岡氏は東洋民族の先覚者には"思考の三原則"とも言うべき共通の考え方が見られることを指摘しており、その三原則とは「目先でとらわれないで、できるだけ長い目で観察する」、「一面にとらわれないで、できるだけ多面的、できるならば全面的にも考察する」、「枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察する」ことの様だ。特に、事業の問題や困難な問題などを目先で考えたり、一面的に捉えて観察したり、枝葉末節をとらえて考えるのと、少しながい目で見る、多面的・全面的に見る、あるいは根本的に見るということでは非常に違ってくる。ことによると結論が反対になる場合もあることを指摘している。多くの著書のホンの一部を例に上げると、安岡氏の偉大さが消え、名声を失わせる行為となってしまうかもしれないが、今の日本人の多くがお金亡者になり、今回の金融危機による不況で先が見えない時に安岡氏の著書は読むのは有意義と考える。戦後の日本は米国の寛容な占領政策によって親米的な国民・国家になったわけだが、米国の良い面だけでなく悪い面も多く学んでしまった。特に、バブル経済崩壊後の20年は「倫理観の喪失」、「拝金主義」が横行し、米国の短期利益主義の社会経済システムに追随して"砂上の楼閣"造りに走ってしまった。この米国至上主義はマスコミが煽ってポピュリズムを助長し、政治家も企業と同じように短期的な成果が求められて長期的な政策が打ち出せない状況で政治も混乱している。米国のオバマ大統領はIT社会のポピュリズムを利用して当選したが、今後は逆にポピュリズムによって自縄自縛に陥る可能性も予想される。現に、ポピュリズムを意識して政府スタッフに多くの大物を起用しているが、日本の格言(?)の「船頭多くして船進まず」の状況になっている。更に、新ニューデール政策を掲げて全米の橋梁の更新や環境・省エネの推進を謳っているが、この政策を実施するには海外から資機材を多く輸入することになり、結果は貿易収支の赤字を拡大してドル安を招いてしまう危険性を孕んでいる。勿論、ドル安は景気対策の財源である米国債離れの原因となるので絶対に阻止する必要があり、オバマ大統領の手腕が問われることになる。米国民はオバマ大統領はハーバート大学ロースクールの教授まで勤めた天才だから、金融危機で危機に陥った米国を救ってくれる事を期待しているのだろうが、忘れているのは米国を危機に落としたのは天才と称された人達であったことである。長い歴史を持つ東洋文明は多くの危機を克服してきた知恵を持っていることを思い出し、再度東洋的な考え方で問題を処理する事は如何であろうか。

破綻した日本住宅金融専門会社の元社長の自伝を読んで

最近、バブル経済で破綻した日本住専の元社長の自伝とも言うべき"懐旧九十年「燃える魂の告白」"を読んだ。東大法学部卒の大蔵官僚出身者である著者の"庭山慶一郎氏"の実像と古巣の大蔵省の政策の数々の失敗が述べられている。今の若い人達は過去を振り返っても仕方ないが言い分であろうが、歴史を知らずして今日の世界的な金融危機は乗り切れないと考える。責任を取らない行政マンが多くの政策を実現させている事や、法律以上に行政指導で民間企業や金融経済をコントロールしている日本の姿を危険として何度も指摘している著者の言葉には重みがある。また、マスコミの無責任さも事例を上げて指摘しており、此れに関しては私も再三ブログで指摘している事なので、同士を得た様な思いがした。庭山さんは大蔵省や日銀などがマスコミを過剰に意識して不動産バブルに対する誤った金融政策や土地に対する課税を実施したことを指摘しているが、全くその通りと当時不動産業界で仕事をしていた者として共感した。フィールドワークの情報でなく、ペーパー類での情報によって行なった政策はタイミングを見誤ったものであることも指摘している。更に、政府に関わる学者や弁護士についても碌な人間がいないことも整理回収会社(RCC)の中坊弁護士を事例に上げて指摘している。100年に一度の金融危機に見舞われた最悪の状況にあって庭山氏の本は一読に値するものと思われる。

実名を拒むネタで騒ぐマスメディアの信憑性

良く政府高官筋とか、政府筋とかと言うニュースが流れるが、読者を愚弄するのも甚だしい。新聞は匿名の情報に対しての信憑性など確認する暇はないだろうからそのまま報道するのだろうが、恰も真実の様に流すのは言語道断である。日本の大手の報道会社は全て記者クラブで配布された記事を掲載するだけだから、匿名の情報なども同様に何等信憑性を考えないで載せる習慣が出来たのであろう。日本のマスコミは海外のインテリジェンスに思うように操られているのが現状であろう。今回の小沢一郎の事件も、オバマ政権にとって邪魔な政治家と位置づけさせられた結果、日米の利害が一致して近年は某宗教団体の子弟が増えていると言われる日本の検察が動いたのであろう。今回の様に日本のマスコミが動かされた図式は枚挙に暇がない。小沢一郎も過っての親分「田中角栄」が石油資本の逆鱗に触れて失脚した事を記憶していたと思っていたが、馬齢を重ねて忘れてしまったのだろうか。尤も、田中角栄の事件は笹川良一の船舶振興会を田中角栄が後藤田正治と共謀して乗っ取ろうと画策したことが、田中角栄を危険視していた米国と笹川の利害が一致して起きた事件であったと言われている。日本は学生時代にCIAの手先だった亭主のクリントンに遣られ、今度は国務長官になった女房に翻弄されるとは本当に情けない。今回の事件で分かった事は、オバマ政権は日本の政治的混乱を望んでおり、更に小泉の様な中国を牽制する様な首相を求めており、麻生首相は小泉の代わりを期待されている節がある。何故今頃に白州次郎が浮上してきたのかと思っていたら、麻生の爺さんの吉田茂が間接的に評価される図式は、今後麻生の支持率アップに貢献するのであろう。小沢事件は、今後の日本経済を動向を考えある上で大きなヒントがあるかもしれない。

日経の「大磯小磯」コラムについて

3月5日(木)の日経新聞「大磯小磯」欄に掲載された匿名(吾妻橋)の意見には呆れた。匿名で書くのだから小泉インチキ改革に加担した者かもしれないが、全くナンセンスな意見である。構造改革は現在の仕組みで恩恵を受けているもの以外は誰もが望んでいる事である。小泉インチキ改革で一番許せないのは、米国の圧力とそれを利用した財務省の財政再建を優先した間違った改革であったために、真の改革が出来なくなってしまったことである。以前にもブログで書いたが、日本道路公団の民営化を行なうなら首都高速道路公団なども含めて行い、すっきりした組織にするのが国民のためには当然である。しかし、日本道路公団の民営化は、石油特別会計の財源を一般会計に簒奪するためだけに行なったことなので、国民の利益にならない改革となってしまった。建築基準法改正然りである。米国の圧力で準備も出来ていないのに建築確認申請手続きを民間に委託したことから、構造偽造事件が起き、逆に建築設計の自由度と行政の規制が強化されてしまった。その上、民間委託の建築確認申請手続きの会社に関しては審査能力に疑問を残したままである。郵政の民営化に到っては、ブログに書ききれない程の間違った民営化を促進した。「大磯小磯の吾妻橋」の指摘では郵便貯金や簡易保険が巨大化したと言っているが、原因は財務省が郵便貯金を予算に利用したからであり、その責任を追求しないで破綻の矛先を民営化で誤魔化すのは言語道断である。吾妻橋は色々な分野で政府の保護や規制に縛られて効率が悪い社会となっていると述べているが、机上で物を見て現場を見ていない者であることが直ぐ分かる。小泉の行なった構造改革は財政再建と言う観点から全て行なった改革であるので、国民のためになった改革はひとつもない。現場に行けば改悪ばかりであるのが分かる。介護サービス現場でインチキが横行しているのは、今の制度では成り立たない地域が多いからである。吾妻橋は余程小泉インチキ改革の恩恵を受けた者と予想が付く。郵政民営化など多くの規制緩和の中でで起きた小泉と竹中の秘書達の利権に絡んだ動きを検察は捜査すべきである。民主党の小沢一郎の比ではないダーティな姿が現れる筈である。

マスメディアの定額給付金報道のインチキ

定額給付金を必要ないと言う恵まれた人々は公務員か高給取りのマスコミ関係者だろう。米国と違って才能がなくてもコネクションが通用する日本の社会は、地位に相応しくない親の七光りの人々が多い。2世・3世の国会議員を非難しているマスコミ人の中にも親の七光りで入社している社員が多い。尤も、最初からコネクションがなければ優秀でも役員面接迄行けないのが、日本の社会である。そうは言っても、偶に実力で入社した社員も自分の立場を勘違いしてしまって尊大になるケースが多い。大体マスコミのアンケート調査などは誘導尋問で行なわれるケースが多いので信憑性にかける。今の日本で定額給付金を欲しくないと言うのは、少数意見の筈である。景気対策の効果として考えると色々な意見が出るのであろうが、一部に反映する様な対策より、誰もが貰える定額給付金の方が公平である。定額給付金が要らないというお金持ちは、資金を必要としている孤児院や片親の家庭に寄付をすればよいのである。格差社会の上位に位置するマスコミ関係者などの意見は「百害合って一利なし」である。

百年住宅の実現

デフレ経済が日常的になると必要になるのは長持ちする住宅であろう。尤も、デフレ経済が長かった江戸時代には庶民は持ち家に住むと言う考えはなかったので、長屋と言う便利な賃借の共同住宅が多かった。一部の金持ちは別として明治時代・大正時代・戦前の昭和時代迄は、長期間の借り入れで家を買う考え方はなかったのだろう。企業は長屋の代わりに社宅を社員に提供したと思われる。戦後の高度経済成長によるインフレ経済で先見の明があった人は借金して家を購入したが、それでも大手企業に勤務していないと銀行からお金が借りられず簡単には家など買えなかったのが実情であった。それが1970年頃から個人が自動車を購入出来る所得水準となりモータリゼーションが起き、その後は持ち家購入出来る所得水準となっていった。勿論、国による政策もあって住宅ローン会社の設立が認可され、持ち家の人が年々増加した。1994年位迄はインフレ経済であったので、10年位で住宅を買い替える事を念頭に置き、2度目で終の棲家の戸建を購入するのが一般的な考え方であった。このため、供給者の住宅販売会社も耐久性のない安普請の住宅を造り続け来た経緯がある。然し、1996年以降はデフレ経済で住宅価格が上昇しない前提での購入のため、一生に一度の買い物として住宅を考えるように変わったので、購入者はインフレ経済時代と比較すると住宅の品質を重視するようになって来た。インフレ経済時代より品質は良くなっても近年の住宅は設備的な面で建築コストが掛かるようになったために躯体的には耐震基準をクリアしているが必ずしも長期的に耐えられるとは言えない見掛けだけの住宅も多いのが現状である。21世紀に入り、グローバル経済による格差社会の中で住宅、更に今回の様な大きな経済変動が周期的に起きる事を考えると親子三代が使える様な頑丈な住宅の建築であり、この住宅に付くローンの実現を提案したい。100年の耐用年数の住宅の建築となれば、現行の様な人に貸す住宅ローンでなく、建物に付帯するローンにすれば、中古住宅として次の購入者に自動的に安いローンを提供することが出来て理想的と考える。環境的にも住宅資材を消費財として浪費することがなく、住む人にも負担が少ない「百年住宅」の普及を考えようではありませんか。

短期利益の追求がすべての分野に弊害を与えている

金融的な発想である短期的な利潤の追求の考え方が経済を破壊した。先輩から聞かされてきたのが、金融機関の企業の再建手法は縮小均衡方式であるので真の企業の再建にはならない。確かに、「人員削減」、「不採算部門の切捨て」などを行なうと短期間に会社は再生した様に見えるが、会社の再生は「経費節減」や「赤字部門の切捨て」だけでは直ぐに経営に行き詰まる。本当に重要なのは組織の活性化である。今回の金融危機でホンダの福井社長の言葉に胸を打たれた。世界的な経済不況で売上げが大きくダウンしたのに伴って人員の削減に多くの企業が踏み切る中でホンダは先ずF1レースからの撤退を決断したと言う。人を大事にするホンダの創業者の精神が生きている。物つくりの現場で一番大事なのは人である。我々の不動産業界でも同様である。建築物を造ると言う事は、金融機関の様に中途採用の人材で通用する様なことではない。最近、ファンド事業に携わっている方の話を聞いて考えさせえられた。今回の金融危機で収益物件の買手はファンドでなく個人が多くなったので建物の評価が厳しいとのことであった。確かに、ファンドは短期所有であるので厳しいように見えても表面的形式的だが、個人の所有者は中・長期的に所有するので建物に対する評価の仕方が違うのであろう。不動産業界にも金融機関出身者が多くなり、短期利益を追求する余り物づくりの姿勢を失っている会社が多くなった。建築物は40年~60年は風雪に耐えるのである。いい加減なものを造れば長く恥を晒す事になるのである。何時の間にか建築業界と不動産業界にも短期利益の嵐が吹き荒れ、物づくりの精神を忘れた会社が多くなった。一度信頼を失うと回復するには多くの時間が掛かる。物づくりの経営者は企業価値とは何かを考えるべきである。人財が企業価値を造り、信頼と言う財産が会社を助けてくれるのである。

国民と乖離した公務員の存在に対して抜本的な行政改革が必要

最近、鹿児島県阿久根市の市長が公表した市職員の給与に驚いたのは私一人ではないだろう。田舎の市役所の職員の54%が700万円の報酬を得ている事は尋常ではない。バブル経済崩壊後はデフレ経済なので一般企業は社員の給料は増加していなく、逆に正社員を減らし派遣社員制度の導入で固定費を下げているのが実情である。勿論、給料に恵まれた大手企業に勤務できる者は全体の30%であるから70%の中小企業に勤務する社員の平均給与は400万円以下であろう。尤も、公務員給与の高さに対しては一公務員の責任でなく、人事院の世間離れした感覚であろうと思われる。先般も内閣に公務員の人事権を移そうとしたら人事院総裁が反対しているとの報道を目にしたが、選挙に選ばれてもいない役人が政治家に反旗を翻すなどは以ての外である。政治家も嘗められた話であるが、碌に政策の勉強もしてないで選挙の事しか考えていない政治家だから仕方ない。しかし、国民と乖離した行政組織は百害合って一利なしと思われるので、過って行われた行政改革などインチキであるので、税収に合わせた組織に縮小すべきである。税収が足りないのに、予算を赤字国債の発行で対応する今の政治は完全に狂っているのである。特に、ここ数年の中央官庁の建て替えを見ると、数百兆円もの借金がある国とは思えない。そう言えば、御用学者の元慶応大学教授の加藤寛が政治家や官僚の報酬など削減しても大した金額ではないと言って増税を唱えていたこと思い出した。この馬鹿学者は国民の意識と乖離した公務員の姿を見てどの様に思っているか聞いて見たい。税調の会長を長く務めた御用学者だから当然と思っているかも知れないが、この様な官僚の代弁者となって利用されている学者に対しても国民は糾弾すべきである。省庁の審議会などは官僚の作文を鸚鵡返しに言っているだけなので、マスコミがニュースに流しても信用しない方が良い。今回の世界的な不況を契機に抜本的な行政改革を行う政治家を支持するべきと考えるが、残念ながら見渡しても渡辺義美代議士位しかいないのは情けない。

株式市場はインターネットを通した「風説の流布」で混乱

困ったものである。1919年の大恐慌時には情報が少なくて経済が混乱したが、今回の金融危機では情報過剰によって経済が混乱している。特に、インターネットを利用した悪質な「風説の流布」で株式市場を混乱させている売りの仕手筋がいる様だ。インターネットの掲示板は情報の真偽に関わらず掲載出来るのが問題であろう。尤も、総会屋類の村上ファンドが企業価値の向上を促す行為と評価された現代では何でもありなのかもしれない。企業もインターネットの掲示板などを常時チェックするセクションを置いてスピーディに対処する事が必要になって来た様だ。企業は多くの社員の生活の場である。それが投機の対象となり、企業存続の危機を齎すまでに影響力を持つに到ったインターネット利用については何らかの規制が必要だろう。しかし、悪質な利用者によってインターネットに対して国家権力の規制が入る前に業界自体が自主規制を行うべきと思われる。

国民不安を煽る年金報道の意図は増税の布石

NHKで年金支給率に関するニュースを流した。内容は平均給与に対する支給率が現行の60数%から50.1%に今後の受け取る年代毎に段階的に引き下がると言うものであった。此れに対してNHKの年金や保険の加入に関する番組でよく見かける年配の女性が、このニュースの内容に対して更に不安を煽るように国民は今こそ節約して貯金をしなければならないとコメントしていた。このニュースは国民に不安を煽り立てて増税を企む財務省関係者から出たものと直ぐ推測された。世界同時不況で国民が不安がっている時に流すニュースではない。増税に年金問題を利用されないように年金の最大の問題は仕組みにあることを公表すべきである。今の国民が受給している年金は自分達が積み立てた金額などでは到底受け取れない金額なのである。平均月額3万円を35年積み立てた額は1260万円である。勿論、積み立ては元本に対して複利計算であるので定年を迎えた段階では倍以上の金額にあっているかもしれないが、それでも3000万円である。この金額を今の年金利回り計算である年利4.1%で回しても月額約10.25万円である。然し、社会保険の加入者であれば月額平均3万円を支払った人が受給する金額は20万円を越えると筈である。年利4.1%で現在回っているかどうかも怪しいが、この様な計算を行わなくても今の仕組みでは少子化と低金利で年金が破綻するのは自明なのである。それが政治家も役人も責任を追求されるのが怖くて言えないでいるのが現状であろう。年配者が当然の如く受けている年金は自分の積み立てた以上のものを受け取っている事を徹底周知させて先ず年金問題に対する不満や不安を払拭させるのが政治の役目であろう。行政改革と政治改革で国家をリストラして初めて国民に増税をお願いするのが正道である。国民が働いて稼いだ税金で生活している役人が国民より贅沢な生活など許されるはずもない。税収に連動した公務員の給与体系とすべきである。

貸しビルの適正賃料評価に対する情報開示が必要な時代

バブル経済崩壊後の貸しビルについても思ったことだが、今回の金融危機による企業のコスト削減の矢面に立たされる貸しビルの所有者は所有ビルの適正な価値を認識する必要があると考える。確かに、米国では貸しビルに関して総合的な環境評価システムなどによって格付けの様な事を行っている。借り手側では価値あるビルを安く借りたいだろうが、貸し手側としては景気が悪化しても他のビルと根拠のない競争を行わないで済む様にビルに対する適正な評価による賃料水準を確立する必要がある。都内のビルに関して言えば、貸し手の努力では改善されない立地場所や建築時期に関係した固定資産税の様な税金があるので、その事だけでも賃料格差は生じるのである。況してや、計画修繕の実施度や運営管理の違いによる建物の価値などは当然に賃料に反映されて然るべきものである。この様な情報を借り手側に伝えることにより、安ければ良いと言う考えを変えてもらう必要がある。勿論、建物の価値は関係なく安く借りたいと言う借り手に対しては、不動産業界にある格言「お金がないは客じゃない」で対応すれば良いのである。そう言えば、米国のロスアンゼルスではビルの賃貸収入の減少を補填するためにビルの壁に大きな広告を掲示する様になったが、入居者にとっては窓が広告で覆われるなどの環境悪化に陥り、裁判沙汰になっているらしい。何時の時代もそうだが、安くすれば良いと言う訳ではない。賃料を叩いて入居すればそれなりのサービスしか得られないのは世の中の道理である。不景気になっても建築コストや取得価額による賃料限界があることを借り手側も認識すべきである。但し、景気が良いからと言って借り手側に根拠のない無謀な賃料値上げを行った貸し手に関しては配慮する必要はないと考える。借り手も貸し手もお互いに信頼関係を構築して共存共栄でなければ貸しビル業など成り立たない。

今回の経済危機は28年前のレーガン大統領の政策に起因

1981年1月20日にドナルド・レーガンが第40代米国大統領に就任した。彼はハリウッドの映画俳優と言う変り種の政治家であったことは人口に膾炙している。彼が大統領となって進めた政策が、規制緩和と小さな政府であった。レーガンの職業体験(自由な世界が創造的な価値あるものを生み出す)がその様な政策を推進する動機となったのであろうが、この考え方に便乗したのはやはり世界の放浪の旅人であるユダヤ人たちである。今は中東にイスラレルと言う国家を建設しているが、歴史的には国家権力から迫害を受け続けてきた民族である。彼等が活動する国においては規制の少ない小さな政府が望ましい。確かに、1981年当時の米国は繁栄の1950年代から1960年代以降はベトナム戦争の傷を引きずって財力的にも精神的にも低迷していた時代であった。規制緩和は、早々と全米2000もの貯蓄組合(S&L)の無謀な貸付による破綻をもたらし、不良債権処理のモデルが作られたのである。しかし、レーガンのもうひとつの課題であったソ連との闘争に勝利したことで、規制緩和は一層推進されてしまった。その後、レーガンの政策をクリントンが助長させ、更にブッシュ2世がイラク戦争による財政的な面からサブプライムの様な金融商品に対する規制を怠ったと言う歴史である。レーガンがトータル的な歴史観を持った大統領ならば良い規制と悪い規制の区別が付き、規制緩和にも一定の歯止めを掛けたであろうが、映画俳優という自由な発想が創造性と価値あるものを作り出すという強すぎた信念がユダヤ人の思う壺だった。ユダヤ人は優秀な民族であるが、世界を放浪することになったのは今回の金融業界でも見られた道徳観のない際限のない欲望の遺伝的体質である。そういう意味では呪われた民族であるが、その様な民族の子孫が世界を支配している現状では今回の様な金融危機は何度でも起きる可能性がある。然も時間軸が短くなっている今日では経済的安らぎなどが訪れることを期待しないほうが良いのかもしれない。日本が生き残るにはユダヤ人の考え方では駄目な事に早く気づくべきである。何も過度の競争をしなくても必要以上の利を追求しない限りは平穏な人生があるのである。

子供達に配慮しない格差社会

グローバル資本主義を導入し、インチキ構造改革を行った小泉一派が省みようとしない事のひとつに格差社会と景気後退のリストラによる被害者の子供達がいる。親が失業したため授業料を滞納する子供が増えていると言う。授業料を払わないで学校に通う子供達の心を知る政治家はいるのか。日本が一番大事なときに何時も政局で混乱して国民を裏切っている。バブル経済崩壊後の社会で成長する子供達の心象風景は如何なるものになるのか心配したが、今後押し寄せる世界同時不況の波は過去を上回る悪影響を子供達に与えると思われる。「親子間の殺し合い」、「増加する自殺者」、「働く気力を持たない若者の増加」、「無神経な老人達の増加」などバブル経済崩壊後の後遺症と格差社会の出現した社会現象は数え上げたら限がない。IT社会では簡単に多くの情報にアクセスできるが、一方では情報の真偽や情報過多による混乱も起きる。その上、知らず知らずに人間のぬくもりが希薄になってくる。しかし、今の子供達は情報化の社会で同じ境遇の存在を知る事により痛手を共有化してどうにか生きていると思われる。政治にも宗教にも救いの手がない中で携帯メールだけが孤独を癒してくれる子供達を見ると日本の将来はないと断言できる。そう言えば、大阪の橋元知事は財政再建の予算を組んでいるが、教育予算だけは要求より多く計上させている。子供が健全に成長できない社会に未来がない事を良く知っていると思われる。小泉一派や竹中平蔵が子供達の事に触れている発言を聞いた事がない。子供を抜きにして構造改革などありえない。

国民は郵政民営化の意味を理解していなかった!

留守中に自宅に配達証明郵便の案内がポストに入っていたので昨日の休日に受け取りに行った。経費節減で休日の窓口係員が少ない為か列を作って多くの人が並んでいた。私が一番後に並んでいたら、60歳を越えた方が後ろに並び、"混んでいるね。以前はこんな事はなかったよと独り言を言いながら、係員は一人しかいないのですかね"と私に話しかけてきた。私は、"内部にはいるのでしょうが、経費節減で人を少なくしているのでしょう"と答えた。すると、私の前に並んでいた70歳前後の方が後ろを振り返って"麻生の奴は4社に分割されるのが知らなかったとふざけた事を言ってる"と大きな声を出して憤慨していた。私は、"郵便事業は米国でも民営化していないのに"と話したら、後ろの方は"簡保などをめちゃくちゃに遣ったから民営化することになったんだよ"と答えた。年配の2人の方は既に会社定年を迎えて悠々自適な生活をしていると思われ、現役時代は高い役職を得ていた方のように見受けられた。この様な方にも、郵政民営化の本当の意味が伝わっていない事に驚きを感じた。今振り返ると、国会議員もマスコミも昔の国有鉄道の民営化と同様に郵政事業の赤字を指摘していたかもしれないと思った。郵政民営化は、郵便貯金を政府が財投資金に活用して破綻させている事に対する責任回避が主たる目的である。それが簡保事業などの赤字問題にすり替えて国民を騙したことを今更ながら思い知った。そう言えば、郵政グループ社長の西川さんは「かんぽの宿」などの不動産売却には一切関与しなかったそうだ。本来ならば、金融機関時代に不良債権の処理を行った経験を有しているので経験が活かせる筈だったが、利権の伏魔殿となっていた現状を見て近づかなかったのであろう。"李下に冠を正さず"の心境だったのだろうが、西川社長が不動産売却に采配を振るっていたなら今回の様に不動産売却に疑義が起きることもなかったかもしれない。米国のグローバル資本主義の手先になった売国奴に郵政民営化は今後も翻弄され続けると思われる。

又始まったマスコミの経費節減キャンペーン

不景気になると必ず報道される経費節減の大合唱。経費節減などは新たなテーマではないと思う。インフレ経済時代なら兎も角低成長時代に経費の垂れ流しを行っている企業などは少ないと思う。大部分の企業はスリム化しており、マスコミがキャンペーンする程効果はないと考えたら、"敵は本能寺"であることに気づいた。マスコミ各社は景気後退に直面すると広告収入が激減するので、要するに企業に早くリストラをさせて見かけ上の業績を回復させることにより、早期に広告収入を戻す事に本音がある。今朝、TVニュースでJALが経費節減に取り組んでいるのを流したが、この経費節減は機内のリモコンの修理をスチュワーデスが行うと年間2億円の経費が浮くというニュースであった。聞き流すと如何にも経費節減していると思うが、高給取りのスチュワーデスの労働時間に換算すると幾らになるかを聞きたいと思った。社内で行うと経費節減できるなどは昔の話であり、外注のほうが安く出来るので変更したと思うが、先祖帰りの様なニュースには驚いた。低成長時代には分業分担が安く付くのは当然であるので、社内に戻したと言うニュースには違和感を覚える。内需と言うのはお金を回す事で成り立つ社会である。自分の企業だけお金を回さないで利益を上げる考え方は通用しない。日本経済の回復を輸出に依存した結果が今後欧米から押し寄せてくる不景気の波である。30年以上も貿易黒字を続けているのに内需主導の経済を構築できなかった政治の責任は重い。100年に一度の不景気と言われる今日ほどお金を回す重要性を説いて内需主導の経済構造の構築を推進する時であることを国民が自覚すべきである。最近、江戸時代に行われた藩財政の建て直しの美談が注目されているが、この時代にはお金がなかったので、厳しいリストラを行い、然る後に新田開発や殖産振興を促したのである。今の日本経済は国は赤字財政だが、国内には1400億兆円の富が眠っているのである。お金を使わないで豊かになれるわけがない事を知るべきである。

「かんぽの宿」売却の問題点とは何か

日本郵政がオリックスに一括譲渡する予定であった「かんぽの宿」70施設の内容を知っているわけでないので、私の見解は推測の域をでないが、もし私の指摘が違っていたら今回の問題は単に売却方法に誤りがあっただけであろうと思う。先ず、「かんぽの宿」を語るにはその成立まで遡る必要がある。「かんぽの宿」の事業は簡易保険が源である。保険金の運用のひとつに「かんぽの宿」があるのだから事業収益の考え方は、一般的な不動産事業、レジャー産業やホテル・旅館業とは違うのである。何が違うかと言えば、事業資金の考え方である。一般的には事業資金は、「自己資本」と「他人資本」で構成されるが、保険金を使う事業は全く次元が違う事を知るべきである。保険の加入金で行う事業は、保険の支払金(事故率)に関係して仕組まれると同時に保険金額の増加とともに資産を増やす必要になる事と関連するからである。勿論、それだからと言って事業収支が赤字でも良いというわけではないが、一般的な温泉旅館と運用の組立が違うことを言いたいのである。そもそも論から言えば、何故簡易保険に乗り出したかと言うことと、官僚の天下り問題に主たる議論が移り、一括売却と異なる議論にすり替えられる恐れがあるので、その問題はここでは取り上げない。今回の一番の問題は、民営化に当って事業収支がマイナスである「かんぽの宿」を売却することになった経緯と議論である。民営化に伴って簡易保険事業を廃止するのであれば売却決定は当然のことだが、民営化ではかんぽ保険事業を継続するのに単純売却するのは早計であるのである。一部識者が指摘しているように、70施設の建設工事費に2300億円の資金を投じているのであるから減価償却費は大きな額となっているはずである。年間50億円の赤字が当然に減価償却費を控除した結果とすれば、108億円の売却金額に対して鳩山総務大臣が怒るのは当然である。70施設の平均客室数を25室と仮定すれば、全体で1,750室である。安すぎると言われる「かんぽの宿」だから1室単価を1000円値上げすれば、1,750室×1000円=1,750,000円×365日=638,750,000円の売上げ増である。然も、保険事業の資金を投じたのであるから事業収支は全く考え方が違うことも指摘した。保険事業が赤字ならば民営化に際して廃止すべきであろう。「かんぽの宿」の売却で処理する次元の話ではないのである。「かんぽの宿」は民営化後に事業再生の努力をし、然る後に施設の老朽化に対する再投資の問題が生じてから不採算施設の売却を行うほうが損失は少ないと思われる。今回の問題に不正があったかどうか分からないが、郵政の民営化に現場を離れた裸の王様になった年寄り経営者や実務をしらない学者が出した結論などは、企業の餌食になるだけである。

不安を助長させるマスメディアに存在意義はあるのか

連日のTVニュースや新聞報道は暗いニュースばかりである。各企業の人員削減報道は発表記事なのであろうか。近年、経済学にも人間の感情を研究する学者が現れ、「行動経済学」などと認知されてきている。何時も思うのだが、マスコミ業界の連中は自分達の報道が企業の首切りを助長させている事に気づいていないのであろうか。尤も、現在の様な報道姿勢を続けていると企業広告が減り、マスコミ業界の経営危機となると一般的には考えられる。確かに、今後は広告収入は激減すると予想されるが、バブル経済崩壊時の記憶を辿ると短期的には間違いないが中・長期的には展開が違った。記憶している方もいるだろうが、最初は各企業とも広告費を削減したが、途中からリストラ効果で企業の体力が回復したため、企業は広告しないと商品が売れないと判断して逆に広告が増加したのである。マスコミ各社が今回も同様な展開と踏んでいるとすれば、不安を煽ることで企業のリストラを促し、早期に広告掲載が戻る事を考えての戦略があるかもしれない。しかし、マスコミ業界が今回も同様であると考えると大きな誤算がまっていると思われる。今回の金融危機は世界規模という事と、景気回復しても単純に既成マスコミ業界に広告が戻らない位の社会システムに変化が起きる可能性が高いからである。私が言いたいのはマスコミが不安を煽るのは自分達のためであり、社会のためではないので、報道に一喜一憂しないことが大事であると言うことである。

対前年度と言う比較は正しいか

政府やメディアは対前年度比と言う言葉が好きだが、この比較は経済成長率を前提としており、日本の様に経済規模が大きくなり低成長率やマイナス成長で物事を決めなくてはならない国には正しい比較とは思えない。日本経済を牽引してきた自動車産業を例に取れば、30年前には国内に自動車メーカーが多すぎるので生き残れないと言ったニュースが多かった。この見解を振り返ると、当時自動車産業は国内のマーケットが主体で海外の輸出が今の様に増加するとは品質面から考えられなかったためであろう。しかし、日本に自動車メーカーは、省エネ技術やIT技術による制御技術の進歩によって性能を向上することが出来て輸出が増加し、トヨタなどは自動車王国のGMやフォードを脅かす存在にまで成長した。しかし、今回の金融危機によって自動車各社は大幅な減産見通しとなり、トヨタは知らないが、マスコミは悲観的な報道ばかりである。翻って、成熟してしまった国内の自動車販売は若者の自動車離れもあって減少の傾向にあると報道されているが、この報道は本当に正しいのであろうか。もし、比較するなら30年前の販売台数に対して現在の数字を見る必要がある。若者の人口が減少しているので、30年前と比較すると一定の年代の購入率は減少しているのは当然なのである。この減少は景気や社会現象と何等関係がないと言える。問題は其処まで掘り下げたニュースであるかで記事の信憑性が確認される。日本国民が考えなくてはならないのは、成熟した社会は常に何処かが伸びれば何処かが下がるのであり、古いものは新しいものに取って代わられることに気づくべきである。勿論、多くの産業は需要が少なくなってもゼロにはならないので、生き残ればそれなりの果実は得られる。輸出の予想外の拡大で成長した業界に対して対前年度比を比較しても意味がない。問題は、今回の金融危機から生じる景気の落ち込みが20世紀経済の終焉であり、21世紀に向けて新しい経済モデルの構築をする必要があることであろう。21世紀経済モデルは今実用化に向けて研究されている多くの新しい技術によって構築されるであろうが、それ以上に重要なのは日本の様な成熟した社会では物質的な豊かさだけでなく、生活レベルは下がっても安心できる社会の構築であろう。この構築に一番邪魔なのは対前年度比と言う言葉ではないかと思う。

構造改革は政治家の新たな利権の温床?

政治資金法の改正以降、政治家は国民受けする構造改革と称する民営化で新たな利権を見出している。民営化の利権は明治維新の三菱財閥や三井財閥の例でも分かる美味しい蜜と言える。民営化は官僚から既成利権を収奪する代わりに政治家が介在して国有資産が二束三文で民間企業に払い下げられる。今回報道されている日本郵政の「簡保の宿」の一括資産売却に関しては、年間40億円~50億円の運営赤字だからDCF(デスカウントキャッシュフロー)方式と短期的な雇用維持を条件に叩きうる図式にも当て嵌まる。「簡保の宿」が全部赤字とは思えない。雇用維持に関しても1年間だけなので意味はない。問題はこの売却で誰が多くの利益を得るのかということである。日本郵政の民営化プログラムに初めから「簡保の宿」の売却が入っていたと言う事だが、決定過程の議論を国民に開示することが必要である。小泉内閣の規制緩和にも多くの疑惑が残る。勿論、規制緩和の必要性は否定しないが、問題は規制緩和で新たな利権を生むと言う構造を国民が知るべきと思う。然も、この利権には政治家と元官僚などが群がっているのである。財政難から実施された介護保険の導入などは新たな利権を生み出した典型的な事例である。政治家が官僚支配に対して声を大きくして改革を叫んでいるが、国民は政治家が新たな利権を官僚から収奪する意図があることを知るべきである。政治家が官僚を支配できないなどということは本来考えられないことである。官僚にとって今の政治家は利権漁りばかりで真の政治家として見ていないから従わないのである。現実と乖離した能天気な役人は排除すべきだが、善人の仮面を被った政治家ほど危険の者はいない。今の政治家は正に偽善家ばかりである。日本郵政の問題を契機に国民は監視の目を強めるべきである。

グローバル会計基準が会社経営の自由度を少なくしている

2006年に導入された飲食産業に対する減損処理の基準に驚いた。勿論、この基準だけでなく多くの会計処理に対して硬直した考え方が多く、然も会社の経営に対する自由度を狭め、画一的な企業しか存続できない会計基準など意味があるのだろうか。確かに、会社経営に対する透明度を高めて投資家が安心して投資できるグローバルな会計環境を構築する事自体には反対ではないが、ここの国の税法と相関しない会計基準は企業の経営を圧迫するだけである。尤も、会計基準を作った国は税法と相関しているのであるから不公平な世界標準と言える。監査法人は少なくても国の税法に相関するまで新たな会計基準は導入を見送るべきであり、導入を企業に求めるなら国に税法の改正を要請すべきである。更に言えば、時価会計などは平時の基準であり、今回の様な金融危機を想定していなかったのはお粗末である。全ての業界に歴史観のあるリーダーが不在で危機を助長させている。話を戻すと、冒頭の指摘は飲食店経営会社は出店した店舗が2年以上赤字になるとその店舗に係る固定資産に対して減損会計処理を行う事が必要となる会計基準である。監査法人は企業の経営を人間不在のシステムにする事を計画しているのであろうか。監査法人の一番の問題点は、数字だけで実態を洞察する能力がないから、この様な基準の導入を必要と考えるのかもしれない。企業の戦略は赤字でも続ける必要がある場合もあることを認識していない。正に、資本化目線の会計基準である。この様な会計基準が拡大すると企業の将来に対する投資は制限され、社会は後退を余儀なくされる。自由主義の経済とは不正を前提に会計基準を強化するものなら自由を拡大する意味がないであろう。本当に今の世の中は戦術だけで戦略を考えられない小人物が指導者の地位に就いている。

金融自由化で経済再生を行った英国が金融危機で奈落の底へ

経済の低迷で英国病と言われたのを、金融自由化と行政改革で国家再生が成功したと思われていた英国だが今回の金融危機で通貨安を招き経済危機が深刻である。英国は国土が狭いながらも大国として君臨できたのは過去の植民地時代の遺産もあるが、国民が贅沢をしない質素な暮らしぶりも背景にあった。しかし、金融自由化後の英国は消費大国へと変貌を遂げて食事ひとつ取っても贅沢になった様だ。金融は人間の体からすれば血液に相当する重要な要素だが、遺伝子異常と言われる癌も又血液の塊であると言われる様に過剰になると問題が生じるのである。今回の金融バブルも実体経済と懸離れた金融が一人歩きをして世界中に豊かさを齎したが、癌によって健全な組織細胞が破壊されたと同じ様に、過剰な金融商品で成長した経済が信用の収縮によって簡単に破綻してしまった。金融自由化で他の国々より恩恵を受けただけ英国では今回の金融危機に対してはダメージが強く、虚像を払拭した後の経済再生は大変と思われる。金融自由化でのリスクの分散や軽減が、実際はリスクを増大していたと言う愚かさは笑えない。日本も行政改革で独立行政法人への移行など英国に習った政策を行ったが、この政策も金融自由化で資金の調達を外部に求め易い環境を前提としていたら厄介な問題(公共サービスの低下)を引き越すのではないかと懸念される。

 

過去10年の政治は内需拡大の必要性に反した政策であったのが金融危機で分かった

今から20年以上前に日本経済は内需拡大策に転じた筈であったが、今回の金融危機で分かった事はグロバール経済に巻き込まれた輸出至上経済と言う先祖がえりであった。小泉と竹中の政策は一見すると小さな政府を目指し、規制緩和の民需による景気回復シナリオと言われて来たが、実際は財政再建を優先しただけの政策であり、景気回復に見えたのは米国発の金融バブルによる恩恵で輸出が増大したからであった。本来行う必要があった内需拡大による景気回復シナリオは、財政再建の御旗で公共事業の縮小や地方に対する補助金の削減のために消えてしまっていた。マスコミを含めた小泉・竹中支持者は、非正規雇用制度などの改革で国内から海外への工場移転が行われなかったので評価しているが、この制度のために内需主導の制度改革が等閑にされ、今回の金融危機による輸出の大幅な減少で必要以上に株価が下がるという事態になっている。然も、準備不足で行った規制緩和が不正の温床となり、逆に規制が強化された建築業界などに今後起きるマイナス効果も懸念されている。行政改革と言いながら単に役所の整理統合と独立法人の設立だけであり、実態は何も伴ってはいない。道路公団や郵政民営化も国民のためでなく、石油特別会計の一般財源化と財政投融資に使った郵貯の後始末が目的のために今後色々な問題が起きてくると思われる。100年に一度と言われる世界的な大不況の到来に地方経済を破綻させ、内需拡大の経済を怠って国民を苦しめさせることになる政治家の責任は重い。

日本国の機能不全

ソマリア沖に海上自衛隊を派遣する事に対して国内法に縛られている馬鹿な政治家を見ると、江戸時代末期の徳川幕府の様に機能不全に陥っている姿とダブって来る。政治家が役人になってしまった悲劇である。勿論、派遣される海上自衛隊の隊員の安全に対して配慮することは重要だが、新しい法律を作らないと何も出来ないと言う考え方がお粗末である。尤も、ソマリアの海賊については何年も前から起きていることなのに何等の事前対策も行ってきていない事に驚かされる。日本には国会議員が何人いるのであろうか。選挙に関係ない事は何もしない政治家ばかりと思える。日本は平成鎖国とも言える状況に陥っている様だ。今の政治家は官僚を非難するが、ソマリアの海賊の様な問題は政治家がリードしないと役人は動けない筈である。政治家が遣るべきことを遣らないから役人に馬鹿にされるのである。役人任せの政治を行っていて役人批判もあったものではない。国会議員の権限を再度認識して高い報酬に見合った働きをすることが先である。選挙時に新人以外は公約でなく実績を開示するべきである。何も行っていない政治家は選挙で選ばなければ良いのである。野党だから何も出来ないと言う詭弁は通用しない。

We can change !

米国のオバマ新大統領の言葉だが、昨今の混迷した世相においては心に響くものがある。先週末にNHKが放映した40年前の東大の安田記念講堂と日大の各学生闘争に参加した当事者の学生達のその後の人生を追跡したドキュメンタリーを偶然に見た。今の若い人たちには何等の感慨も呼び起こさないだろうが、この闘争時に学生生活を送った私としては感慨深いものがある。バブル経済時の不動産業界には学生運動に参加した闘士が多くいた。学生運動を行って逮捕されるとまともな就職が出来なかったために、身上書に余り拘らない歩合制の不動産営業の業界に飛び込んだ人達だ。不動産業界紙の記者もその辺の事情に詳しかったので、取材時には学生運動時に属していたセクトを聞かれたものである。純粋な学生運動が次第に過激的な思想に染まり自滅していったのを見ているが、今日ではロシアや中国が資本主義経済に取り込まれたのを境に思想的対立から宗教的対立に変化しているので、多神教を許容する日本社会に育った若い世代のエネルギーは何処に向かうのかと考えてしまう。特に、日本の政治家を見ていると殆んどが政策の勉強せずに政争に明け暮れている姿を見ると絶望的である。この様な時代にこそ若い世代の力が必要なのだが、我々の世代の時の様な反権力の激しい怒りが生まれていない様だ。不動産業界も今は金の亡者だけが跳梁跋扈しており、社会に対して何らかの貢献すると言う経営者は少なくなった。尤も社会全体の価値観が"お金"になったのだから仕方ないかも知れないが、"We can change"を最も必要としているには米国でなく日本と思える。

日本のTVや新聞はITに駆逐される

日本は記者クラブ制度のため各社とも殆んどが記者発表のニュースのため大体同じ内容であり、各社のニュースの選択基準も同じなのかどのチャンネルや新聞を見ても変わらない。尤も、偶には他社が取り扱わないニュースを流しているケースもあるが、この類は殆んどが誤報かやらせ記事であるので信憑性にかける。日本は海外と比較して他国のニュースの取り扱いが大きい。今朝のニュースではNYの国内線の飛行機事故が何度も流されていたが、このニュースに関心がある人の比率を考えると無駄な様な気がする。他に国内の重要なニュースがあるのではないかと思われる。日本人は学校教育の時から与えられて成長するので、新聞の記事などに関しても当然の如く受け入れてしまうが、価値観が多様化した時代にあっては通用しなくなったのではないか。日本企業も同様に欧米を目標に頑張っている間は良いが、海外を気にしすぎることは逆に害にもなるのではないかと思う。政治家にとっては戦後の政治化のと言うより、明治維新後と言って良いかもしれないレベルのままである。この様な政治家のレベルを思うと21世紀の資源サバイバルの世界にあって生き残れるのか心配になる。翻って米国では社会問題をフィールドワークを通して解決しようとし、その限界から夢を実現するために政治家となったオバマ大統領が誕生した。羨ましい限りである。そう言えば、麻生総理が漢字が不得手なのをマスコミが一斉に報道しているが、この問題が子供の教育に大きな影響を与える事に気が付いていない。国語の教師が子供から漢字を覚えなくても総理大臣になれるのだから漢字を覚える必要がないと言われたらどうするのか。全く日本のマスコミは馬鹿ばかりが集っている。今回の渡辺代議士の離党騒ぎもしかりである。渡辺代議士の行動は政党政治を否定する行為であるが、マスコミはその事を理解したうえで報道しているのだろうか。今のマスコミは全く日本を戦争に導いた時と同じ過ちを犯している。記者クラブに甘んじてフィールドワークしていない記者の限界である。多分、現在の報道姿勢を続けると近い将来に日本のTVや新聞はその地位をITに取って変わられるであろう。オバマ大統領の出現とイスラレルのガザ攻撃にユーチューブが利用された事が未来を暗示している。

円高の意味する所

急激な円高についてはその是非について賛否両論がある。輸出業界は当然に価格競争力が落ちるため円安誘導を政府に要望する。マスコミの論調は円安でないと日本経済が崩壊する如くの報道だが、円が90円前後に高くなったのは今回が初めてではない。バブル経済崩壊後に急激な円高があった。確かに、この時には多くの日本企業が中国などに生産拠点を移して乗り切った事が思い出される。海外に長く住む友人の意見では日本企業の実力から見れば円が80円台になっても不思議ではないと何時も言っていた。その後円は安くなり120円台を推移してきたが、円高と比較して何が戻ったかは良くわからない。トヨタなどの自動車会社が高収益を上げたかもしれないが、それは円安と言うより、欧州・米国の経済の好況さが原因であったと思われる。円安や円高は日本当局が一人で騒いでもコントロール出来る物ではないと言う事である。今回の円高は金融危機で欧米ほど傷が深くなかった日本から資金を流失させるためであると言うことである。国民にとっては円高は物価の下落に繋がるので歓迎すべきものと言える。マスコミなどは円高は日本経済の死活問題で再度海外に工場の移転が起き経済の空洞化が進むと騒いでいるが、この論調は古い経済のスタイルを捨てきれない人達の意見である。日本には余り利用されていない富があるので、円高の今こそ海外の企業買収や資源投資、更には不動産投資を積極的に行うべきと考える。円高による海外の工場移転などは過去の出来事である。現在の様に正規雇用者の需要が減少したのは10年以上前の円高によって多くの工場が海外に移転したからである。日本の経済を活性化するには、海外の市場に投資する手段しかないのに気づくべきである。円高によるデフレスパイラルなどを恐れずに今回の円高を機に新しい時代に対応した経済の活性化に乗り出すべきであると思われる。

リノベーションマンションの問題点

築年の経過したマンションをリノベーションして新築マンションと比べ低価格で販売している業者が増えてきた。地の利の良い場所で安く購入できるメリットを強調するリノベーションマンションだが、問題はリノベーション対象のマンションが新耐震前か後かで大きな違いがある。新耐震のマンションならば当面は問題ないが、新耐震前の場合には①建替えについて居住者がどの様に考えているのか、②販売時に耐震に対する説明を十分おこなっているか、更に③躯体や外壁などの劣化度合いについて十分説明しているかが重要な点である。現行法ではリノベーションマンション販売に対する規制がないので販売業者は低価格を強調して販売しているが、購入者は内装が現在のマンション仕様と変わらないと言っても老朽化した建物である事を十分に認識して購入しないと将来にトラブルに巻き込まれることになる。勿論、環境的な面などから古い建築物の再利用は否定しないが、地震国の日本において耐震技術に関して大幅な改良が加えられる以前のマンションなどのリノベーションは基本的には問題と思われる。特に、最近では震度7以上に耐えれる住宅の研究も進んでいるので新耐震以前のマンションは出来るだけ建替えを誘導した方が良いと考えられる。少なくてもリノベーションマンションに関しては新耐震制度が適用された1981年以降の建築物かかどうかを見極める必要がある。

建材メーカーの不正に思う

建材メーカの不正にまたかと思う。一連の事件は2000年に行われた建築基準法の改正(仕様規定から性能規定に変更)に端を発したものである。建材メーカーの不正は許せるものではないが、法律改正にも問題があったことも事実である。確かに仕様規定に比べ性能規定の方が建築には工夫出切る余地が広がりメリットは大きいが、問題は性能について誰がチェック出来るかであった。最近の世の中を見れば性善説を前提にした制度など不正の温床になることは予測できた筈である。特に、資本主義では騙されるのは馬鹿との言葉が一般化しているので、尚更である。小さな政府と規制緩和を全て同一次元で考えるのは間違っている事に気づくべきである。この様な事件は消費者に損失を与えるのは自明だが、実際の問題はこの種の事件が起きると逆に規制が強化され、業界の費用負担が大きくなる現象をもたらすことである。何のための規制緩和かと言いたくなるからである。責任を取らない現行の官僚制度の下で全ての法律や制度が決定されているシステムではチェックが機能しなくなっている現実に目を向ける必要がある。

日本のCHANGEは相変わらず米国次第!

日本国民は今年行われる衆議院選挙に期待している様だが、民主党が政権を握っても何も変わらない。何故なら日本は米国の属国なのだからである。此れに反論する輩には経済指標の全てを観察してみろと言いたい。株価を始め多くの指標が米国と殆んど連動している。日本の政治家は米国の意向を無視した政策など出来はしないことは自明の理である。今年初めてのブログでこの様な事を書いたのは、世界同時不況にあって日本の今後の経済動向は国内政治を見ていても意味がなく、米国の動向を見ていれば間違いない事を言いたかったからである。今回のサブプライム問題で多くの日本企業がリスクに対して誤った判断を行ったのは日本のメディアの情報に頼ったからである。尤も、メディアの報道はバイアスが掛かっていると言う事は何も日本だけでなく世界中で同様である事が今回のイスラレルのガザ攻撃で確認した。理由は、イスラレルが今回のガザ攻撃に対して正当性を訴える手段を従来の様な方法でなくインターネットを通して直接世界中の人々に映像を流したからである。勿論、今回のガザ攻撃に正統性などないのだが、情報戦で世界のトップクラスのイスラレルが行った事に対する意味は大きい。そう言えば、米国のオバマ新大統領もインターネットを通じて支持者を広げ、予想を覆しての勝利であった。2009年は政治経済とも"CHANGE"する年になる可能性は高いと思われる。故に、米国の動向を今以上に注視する必要がある。

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