聖徳太子の17条の憲法

今改めて聖徳太子の"17条憲法"を読んで驚くばかりである。聖徳太子の生きた時代は1400年以上も前で、現代から見ると物質的には恵まれなかったのは言うまでもない。聖徳太子の様な人物の政治家を今の時代に欲しいと思うのは私だけであろうか。今回の金融危機を契機に日本人は東洋回帰する事が必要なのではなかろうか。そう言えば、小泉・竹中のブレーンとして多くの規制緩和に関わった元財務官僚の大学教授が、スーパー銭湯で窃盗で捕まった記事が新聞に掲載されていた。この人物は多くの図書を出版して多くを語っていた様だが、何とも情けない人生の結末と言える。バブル経済崩壊後には社会の倫理感が一層消失し、何事も「勝てば官軍」の風潮が蔓延し、この時世に乗った人間的に問題がある人物が跳梁跋扈してきた事が良くわかる。この様なブログを書いているとお前はそんなに聖人君子かと言われそうだが、少なくても人を「騙したり」、「泣かせたり」、「困らせたり」、「人の物を盗んだり」して生きてはいない。私は、この様な人間に育ててくれた両親に感謝している。今の世の中は、"分からなければ何を遣っても許される"的な考え方の人が多い。インサイダーの取引を行なって「お金儲けが悪い事ですか」と居直った人が居た。この人は親からどの様な教育を受けてきたのかと思う。良く教育は学校と言われるが、この事は大きな間違いと思う。道徳教育を否定した現代の学校は知識の修得の場でしかない。教養ある人間に育てるのは家庭教育であろう。子供は親の背中を見て育つとは蓋し名言である。今の日本社会に欠けているのは倫理感であろう。そう言えば、「類は友を呼ぶ」と言う言葉も思い出した。小泉・竹中の類友が窃盗犯では世の中が可笑しくなる筈である。

グローバル経済での低価格製品輸入と雇用喪失の悪循環の解消はあるのか

今朝のTVニュースで某企業が中国の生地をカンボジアで縫製して日本に低価格で商品を供給する事を放送していた。企業にとっては生き残りをかけた企画なのだろうが、この様なグローバル経済を活用した企画を見せられる度に「猟犬と獲物の話」を考えてしまう。獲物がいなくなれば猟犬は不要となるのは自明である。米国のビジネスモデルを追い続けた結果が金融危機であった。良く考えるとベトナム戦争後の米国のビジネスモデルは株主優遇と短期利益追求主義による企業の海外流失とその結果の雇用喪失であり、また資本主義が内蔵した金融破たんを前提にした不良債権による不動産の再生であったと思われる。特に、レーガン大統領以降は規制緩和によって資本主義が内蔵する金融破たんの危機を拡大して来たのである。日本も米国のビジネスモデル教崇拝者の連中によって全く同じ道を歩んでいる。安ければ買うと言う考え方は雇用が安定しての話であり、景気悪化の入り口には成り立つモデルだが、不況が長期化した場合にも大量販売の前提でなりたつ低価格路線は生き残れるのであろうか。物を売るという行為は、現場のスタッフの役割は大きいのに、単に安いだけでは双方向時代以前のモデルである。成熟した社会でお客のニーズを捉えるには双方向による情報の活用は重要であり、その情報が雇用の拡大につながると思われる。消費者の一人としては、消費者のニーズを理解して心のこもった応対の店の商品を買いたいと思う。某コンビニで驚いたのは、外国人スタッフが寿司弁当をマニュアルとおりに温めましょうかと聞いたことである。また、DVDレンタル店では不具合のDVDのクレームに対して確認もせずに所有機器の原因にする様な対応に驚かされる。低価格商品の販売会社は安いのでお客が来る意識を持っているからか、お客に対するスタッフの対応が悪くなる傾向があるが、その様な会社は最終的には淘汰されるのであろう。日本には存在した従前従後のサービスが求められる時代が間違いなく来ていると思うし、それがグローバル経済での生き残りの必要条件であろう。

金融バブル経済での過剰需要の減少の悲観的報道に意味があるのか!

マスコミ各社が米国の自動車販売台数の減少で大騒ぎしているが、金融バブルで生じた過剰の需要が回復するわけでないのは自明の利なのに今更ながらマスコミの報道に疑問が湧いた。日本経済バブルの時には、記憶ではマスコミ各社は過剰需要の減少などに関して冷淡で、バブル経済で設備投資を行なった企業に対してバッシングの嵐だった。それが世界的な金融バブルの需要に対する設備投資に関しては報道のスタンスが全く異なる。日本国内で起きた経済バブルであろうが、世界的に起きたバブル経済だろうが、バブル経済なのは変わらないからバブルが弾ければその分の需要が減少するのは当たり前の事である。世界経済の回復は、バブル需要部分の過剰分の在庫が整理され、且つ過剰設備が償却されて元に戻るまで時間が掛かるのである。この様に考えていた時に、広告の電通の「戦略十訓」を思い出した。この十訓は電通でも既に死語になっていると思われるが、この中のひとつに「混乱をつくり出せ」の言葉がある。この十訓の言葉をつくり出した原典は、1960年代のヴァンス・パッカード著「浪費をつくり出す人々」と言われている。この教えからすれば、今回の世界的な金融危機に際してマスコミは、需要を引き出すために「混乱をつくり出す」役割を担っているのかも知れない。確かに,日本経済はバブル経済崩壊後は15年もの間マスコミによる「混乱をつくり出せ」の渦中に置かれていると思った。古い時代の考えでシステムされているマスコミには未来がないことが分かったが、その報道で動かされている大多数の日本人は海外の餌食にされてしまうと今更ながら思った。

効率とは何か

最近世の中は全て極論に走りすぎていると感じる。その中のひとつに"効率"と言う言葉がある。確かに、IT社会になってひと昔前に比べて時間軸が速くなったので、全てがその時間軸に従わなければ否定されて仕舞う現実がある。しかし、スピードが効率と言う言葉に置き換えられると違った意味になることの重要性に気づいていない様に思われる。安全性を重視する事業に効率の概念を導入すると間違いなくリスクが大きくなるのは自明の利である。困るのは人間はこの様なリスクに対して楽観的になると言う歴史的事実である。然も、IT社会は経験者の記憶などの価値観を吹き飛ばした為に多くの事故が起きたことさえ気づかない。IT社会の大きな問題点はシステムの構築に対費用効果の面から人間の経験知を越える事が出来ないと言う現実である。最近発生している事故の多くは効率と言う面から起きていると考えられるが、効率主義の問題点は人間は効率的に出来ていないと言うことであろう。人間が効率的でないので機械的にスケジュール管理を行なったり、様々なセンサーで異常に気づく様に工夫をしているのだが、システムの誤作動が「狼少年」となり、重大事に機能しない面も否定出来ない。私が何を言いたいかと言うと、効率と言う言葉が人の判断力を阻害し、思考能力を退化させている危険性に対してである。荘氏の書物に「無用の用」と言う言葉が書かれていた。今の現代社会に一番忘れている言葉ではないだろうか。本当に無駄なものは当然に省く必要があるが、目先だけで「無用」と判断したものに本当は欠かせないものが含まれている場合が多い。格差社会では一人が多額の報酬を得ているが、その分を社員の雇用に使ったほうが余程会社のためになると思われる。一人の人間が出来る範囲などたかが知れている。金と人材があれば上に立つものは誰でも務まるのである。頭が良くても経験がなければ机上の理論の域を出ないし、成功体験はどの事業でも効果を発揮する訳ではない事を理解するべきである。勿論、「後藤新平翁」の様な逸材であれば別だが、それには人間としての教養や現場主義の経験が必要なのである。お金に拘る様な者に社会のトップが務まるわけがないのに、今の時代はその様な経営者や官僚や政治家ばかりである。その様な者の言う「効率主義」など間違いだらけである。
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