後藤忠政氏の「憚りながら」を読んで

後藤忠政氏は、日本最大の暴力団組織の山口組に所属する武闘派の後藤組組長として名を馳せた人物である。今は山口組から除名されて後藤組を解散し、新たな人生を歩き始めた所である。今回、興味があって後藤氏の著作「憚りながら」を読んで改めて思ったのはどの業界でもトップに立った男は流石のひと言であり、著作の中で後藤氏が指摘している様に最近は堅気の人の方が性質が悪いと言う言葉は正にそのとおりと思われる。著書の内容は過去に週刊誌を賑わした事件にも言及しており、興味深いものであった。その中で賭け事についての記述があり、勝ち負けに対する心構えと自制心に関しては、私も若い頃にマージャンや競馬に熱中したこともあったので成る程と思わされた。後藤組は武闘派でありながら経済ヤクザと呼ばれたのだが、武闘派を維持するにはお金が必要であり、必然的に経済ヤクザになったと考えられる。一般の人は知らないと思うが、ヤクザ組織の強い弱いは手下を何処まで面倒を見るかであるが、後藤組の強さは徹底した面倒見の良さであり、昔のヤクザ組織を維持して来たのであろう。後藤氏がやはり指摘していた様に現代社会は上に立つものの器量が小さくなったという言葉は私も同感である。経団連の会長であったキャノンの御手洗会長などは著書の中で罵倒されている。経団連会長がヤクザに罵倒される事実が、日本の経済がダメな理由であろう。後藤氏は裏社会を通して多くの情報を持っているから言えるるのであろうが、それにしても後藤氏が指摘している様にバブル経済を挟んで日本人が大きく変わったという点は頷けるものがある。後藤氏の著書は下手な学者や経済人、並びに評論家が書いた書物の何倍も読む価値があると思った次第だ。勿論、後藤氏がつい最近まで現役のヤクザの組長であったので、単純には著作の意図を論じる事は出来ないが、今は堅気の方が性質が悪いと書いており、また暴対法が暴力団に属さない愚連隊や外国人の犯罪を増加させている一面を指摘している事は全く同感であるので、読むに値する著作とは思える。20年前になるが、先代社長の葬儀の時にその筋の花輪が幾つか届き役員とその対応を協議したことがある。私は葬式には世俗の問題は関係ないと考え、折角のご厚志であるので花輪を目立たない所に飾ることにした。しかし、困ったのは関東二十日会に所属する義人党(今は解散してない)の高橋総裁の花輪であった。義理の世界で生きる人の花輪を粗末に扱う非礼は今後社長に就任する私にとっては器量を図られることになるので、思い切ってその花輪を正面の取引先金融機関や顧問の国会議員などの位置に置いたのである。結果的には高橋総裁自らが茨城の片田舎の葬儀に婦人を同行して焼香に見えられたので、非礼にならずに済んだ。尤も、今なら暴力団組織の花輪を飾ることは理由を問わずコンプライアンス問題となり、金融機関から取引停止措置を受けることになるであろうが、その当時は未だ社会に寛容さが残っていた時代でもあった。私の周辺には学生時代からの付き合いの知人でヤクザの組長や右翼の大幹部になっているものも少なくない。彼等は私に迷惑を掛けるのでと会社にも来ない位に律儀な連中である。ヤクザを擁護する訳ではないが、暴対法ができてからの方が犯罪が悪質化した様に思えてならない。一般の社会に容易に溶け込めない人達がいるのも事実であり、犯罪を犯せば刑務所に入れて更正させれば良いと言う考え方では社会は良くならない。特に、競争社会になれば貧富の差が拡大するので犯罪が起き易くなると思われ、後藤氏の「憚りながら」を読むと今後の社会には何が必要かが分かり、余生を冤罪や高齢者福祉に身を捧げる姿勢は彼が友として著作に登場した右翼の故野村秋介氏の影響を受けたのであろうと想像した。そう言えば、故野村秋介氏が風の党を結成して選挙に臨んだときに北海道の知人も候補者の一人であった。この知人は北海道で僧侶をしているが、日本の仏教会では数少ない行動する僧侶の一人である。
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