明治時代の国会と変わらない予算審議で予算項目を議論しない愚!!

誰しもが思い、誰しもが可笑しいと考える国会の予算審議で予算項目に対する是非を論じないで予算が決まることである。民主党政権になって初めて仕分け作業で予算の計上に多くの無駄があることを国民は知らされたが、本来なら国会の予算審議の過程で与野党が必要の是非を議論するべきものである。それが明治時代の国会創設以来、予算審議で予算に関して国民の前で議論された事はない。明治時代は予算の内容を分かるのは行政に携わった役人位であり、税収不足の中で予算を組めるかどうかが審議の対象であったのでやむを得ない面があった。然し、現代においては予算の仕組みや財政論に関しては周知の事実であるので、政府提出の予算に関して中味を議論するのは困難なことではない。それが相も変わらず国会の予算審議では政権打倒に向けた政府の欠点を指弾する場となっており、肝心の予算の中味に関しては国民の目に触れずじまいとなっている。特に、一般会計に関して論じる事があっても特別会計に関してはブラックボックスの様な取り扱いであった。地方議員も国会議員も予算を読むことが仕事であり、予算を読めなくては国民の利する代表にはなれない。しかし、実際には官僚出身の議員以外に予算を読み取れる議員が少ないのが現実である。野党議員などは官僚が資料を請求しても出さないと言って言い訳しているが、与野党問わず国会議員の要請に応じない権限は役人にはないので、もし出さないなら公の場にその役人を引きずり出して国民に問題提起すれば良いのである。大分古い話で恐縮だが、私の若い頃会社の仕事で東京都や中央官庁の各部署に予算を貰いに行ったことがあった。その時の役人との話だが、議員などは予算の仕組みなどに関して少しも勉強していないので何も分かっていないと軽蔑していたことである。東京都などは議会の為にポンチ絵を挿入した予算資料を作成しており、当時の役人が子供に説明するように作らないと議員は理解できないからと言ってたことが印象的であった。中央官庁に至っては、私が貰った予算について無知ゆえの質問をしたのだが、それに対して良く勉強している評価され、通常は出さない予算資料まで頂いた記憶がある。更に詳しい予算資料があるとのことであったが、それに関しては出しても良いが理解できないと思うので出した予算レベルで十分と言われたことが今でも鮮明に覚えている。今はどうか知らないが私の若い頃は行政側は要請すれば予算資料を開示したし、逆に仕事をしっかりと行なっている事を理解して貰いたい姿勢があった。役人が好き勝手にするようになった背景には議員と言う種族が余りにも勉強せず、政争ばかり行って肝心の国民のための政治の研究をしないためと思料する。その一つに予算審議おいて予算に関して議論しない悪習があると考えられる。予算審議で予算審議を行なわない愚が900兆円もの赤字国債の発行に繋がったのであり、この悪習を変えなければ議会制民主主義は形骸化してしまうと思われる。国会の予算に計上するまでには財務省と各省庁との攻防があり、その攻防の中味を知れば何故各省庁に財団法人が多く設立されたのかも理解できる。予算計上は突如として現れるのではない。必要を検証した上で計上されて来るのである。その過程を知らずして予算の無駄の議論が出来ない。少なくても解散のない参議院の議員は勉強する時間と機会があるので、予算審議で予算を議論しない愚を改善できる筈である。何れにしても、大臣になると省庁の代弁者になってしまうのは、仕組みが分からないために言いなりになるしか選択の道がないからである。勿論、議会には各委員会があるがそこでは役所が考える自分達の都合の良い議員の養成機関になっているから問題外であり、議員個人や党が独自に役所と議論できるブレーンと組織を有する必要がある。世代交代で若い議員が多くなっても従来と変わらない遣り方ならば意味がないのである。民主党の仕分け作業も結果を出すには役人に任せず党が実現のための法律改正まで踏み込まないと問題提起だけで終わってしまう。明治時代と同じでは国が滅んでしまうことを考える時期に来ている。

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