裁判員制度の導入で法律の根底にある常識が活かされる

子供の頃父親から法律は常識である。法律に触れるかどうかの判断は常識なことかどうかを判断すれば大きな間違いがないと指摘された。それ以来、大学で法律を専門的に学んだ訳ではないが、人生において誤った判断はしていない。裁判員制度の導入で世間が喧しくなっている。法律家と称する裁判官の判決より裁判員の方が死刑判決が多い事を指摘して世界の趨勢から逆行していると批判している人もいる。人の生死を左右する判決には法律の専門家に任せるべきとの論調もある。しかし、良く考えると裁判で訴訟を行なった人が少ないから今の裁判が常識に欠けた裁判官によって多くの判決が出ている事を知らないで言える批判が多いと思われる。小泉改革の悪しき一例として裁判の効率(スピード化)がある。効率よく処理した裁判官が出世できるシステムに変えたことにより、刑事事件においては犯罪者の量刑が軽い判決となり、民事事件においては和解を受け入れなかった方に重い判決が出るよになった。驚くべき事である。それが一審に関しては、裁判員制度により刑事事件に関しては是正される可能性が出てきたから、社会人として常識に欠けた裁判官の判決よりはましになると思われる。勿論、裁判員制度が定着し、弁護士も裁判員制度に慣れて来ると米国の様に弁護士の作為的な演出で裁判員の理性的な判断を誤らしてしまう可能性もない訳ではない。しかし、現状では裁判員の判決の方が裁判官より常識に適った判決になると思われるので、裁判員制度を支持したいと思う。そう言えば、最近、裁判官が裁判員の死刑判決に対し、被告人に上告を勧めたことが報道されていた。この裁判官の発言に対してマスコミは裁判官のコメントを掲載していなかったので発言に対する前代未聞の理由は分からないが、この行動にも裁判官の非常識が分かる。マスコミなどは裁判員が下さした死刑判決に対して被告人の上告により裁判員の心の負担が軽くなることを考えての発言であると解釈していた。私はそれは事実なのかと考えてしまう。反省のない凶悪犯の被告人なら延命するために当然上告が予想されるので、裁判官の発言は蛇足と思われる。このため、推測でしかないが、この裁判官が死刑反対論者と考えれば、裁判員の判決が裁判官の判決より死刑の場合が多いことに対する警鐘の意味で発言したと解釈すれば理解できる。死刑反対論者の裁判官が凶悪犯を社会に戻して再度悲劇が起こるケースを考えると憤りを感じる。若い頃に凶悪な殺人を犯す人は遺伝子的に異常がある人であると書かれた本を読んだことがあった。もしそれが科学的に事実なら医学的に改善しなければ再犯の可能性がある訳なので、単なる法律論で片付けられる話ではない。裁判の世界に効率を持ち込むより、医学的や科学データ的、更に遺伝子的な判断材料を持ち込んで判決する方が重要と思われる。この様な意見は人権的な問題として反対を受けるが、犯罪者に人権があるかと言いたい。被害者の家族を考えたら犯罪者の人権など擁護するに値しない。

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