"坂の上の雲"に見る人間教育の問題点

NHKが年末に特別番組を組んで放送している司馬遼太郎「坂の上の雲」のドラマが3年目の今年で完結編を迎えている。昨日は乃木希典の旅順攻撃の場面であったが、この戦では人の教育と言うものを考えさせられる。乃木は吉田松陰も教えを受けた人物から幼少の時から学問を学び、乃木の書いた文章や詩は天才的であった。一方、乃木の窮地を救った児玉源太郎は、毛利藩の支藩である徳山藩の中級武士の子供として育ち、幼少の頃に身内の暗殺死体を一人で処理するなど学問では学べない経験を有している。幕末の戊辰戦争には二人とも10代で参加しているが、二人とも多くの戦場を経験した訳ではない様だ。しかし、児玉源太郎の方は明治期に起きた多くの騒乱の鎮圧に参加して手柄を立てている。又、児玉源太郎は明治陸軍に教師として招聘したドイツ人将校メッケルから多大な評価を受けている。学問主体に作られたエリートの乃木と幼少の頃から逆境にあって実務で頭角を顕した児玉との差は歴然であった。乃木と配下のエリート参謀が正攻法の作戦しか立てられずに多くの将兵を突撃だけで死なせたのだが、児玉は機転と戦争における非常さの中での最小限の被害で勝利すると言う考え方で作戦を立てる柔軟な思考の持ち主だった。この様な柔軟な思考は幼少よりの実践の中で培った能力と思われる。翻って、現代社会の指導者を見ると、正に学問主体の乃木の様なエリートしか見当たらない。乃木は確かに頭がよく学問の能力にも秀でていたのだろうが、今言われている地頭の良さは養われていなかったと推定できる。学問が出来る者には良く見かけるのだが、融通が利かない頭でっかちと言う欠点である。今の日本は幼少の頃から塾に通わせられて正解だけを追い求める子供が指導者になっている。現代社会の悲劇は、日露戦争の時の無謀な旅順攻撃を何度も行った乃木と配下の参謀の様なエリートが、国などの指導者に君臨していることである。日本社会は非エリートから這い上がった優秀な人物が度々国を救ってきた歴史があるが、近代社会になって教育一辺倒の人材が登用されるようになってからは国家の方針に間違いが生じてきている。その最たるものが官僚政治である。昭和の陸軍が無謀な戦争に走ったのは、幼年学校から入学した学問エリートの参謀たちが支配したからである。知識があっても知恵がない輩が偉そうに国の進路を決めている姿に慄然とする。財務官僚などはその筆頭であろう。並みの頭でも子供の頃から勉強すれば一流大学には入れるのである。一流大学イコール頭の良さではないことを認識しなければ日本社会は良くならない。知恵がない学問エリートを評価しないことが良き社会を作る最も重要な点だ。
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