東京タワー

東京タワーは、日本の経済成長の象徴的な存在として長い間親しまれてきた。小学生の修学旅行に上野動物園と浅草の浅草寺、そして東京タワーを見学した。初めて東京タワーに上った時には高いのに驚いた。当時の建物の大半は建築基準法の制約もあり、9階建てが最高の高さであったと記憶している。このため、高台に建設された東京タワーは一際高さの存在感を増していたのである。次に、東京タワーを訪れたのは中学3年の時であるが、東京の越中島にあった東京商船大学(現海洋大学)で行われた国立鳥羽商船高等学校(現国立鳥羽商船高等専門学校)の受験で上京した際に上った思い出がある。三度目は18才になり、東京の大学に入学する前の予備校時代に東京タワーを見学した記憶がある。この時代には既に千代田区の霞ヶ関に三井不動産が建築した日本の超高層建物の曙になった霞ヶ関ビルがあり、又上京した年に浜松町の世界貿易センタービルが竣工し、その翌年には新宿での超高層ビル第一号の京王プラザホテルが開業したが、東京タワーの美しさは貴婦人の如く衰えなかった。その後、大分時間が経過し、今から25年前に会社の本社 から東京タワーが見える港区虎ノ門1丁目で仕事をすることになった。特に、 社長室のデスクから見える東京タワーは格別であった。それが規制 緩和の悪影響で隣接の土地に従来にない高い 建物の建築が可能となり、会社からの東京タワーを眺望できる風景が失われてしまった。今では会社近くの路上でビルの谷間に上部だけ見えるのが精一杯となってしまった。直下型震度7以上の地震に怯える人々を見ると、何で地震の巣の上の東京で超高層ビルやマンションを造り続けたのか気が知れない。超高層ビルの林立でデジタル放送において東京タワーの高さでは難しくなり、スカイツリーの建設が行われて今年完成した。偏見かもしれないが、スカイツリーは東京タワーの様な美しさがなく、私から見ればお墓に聳え立つ塔としか見えない。職人技で建築した東京タワーに人間味が感じられ、コンピューターを駆使した多くの新技術で建築したスカイツリーに空虚さを感じるのは年を取った為なのであろうか。多分、私はスカイツリーに上ることはないと断言できる。単なる大人になる時代に東京タワーに出会ったノスタルジアで両タワーを比較しているのではない。東京タワーに温かみがあり、スカイツリーに寒々しさを感じるのは正に現代の世相を反映していると思われるからである。 NCM_0057.JPG  

 

液晶TVの故障と人間の質について

月曜日の朝突然にTVの画面が真っ黒で映らなくなり、出社前の天気予報とニュースが見れなかった。以前に電源の入り切りで直した経緯があるが、今回は音だけ出ているので基盤か何かが故障したものと推定され、買い替えなければならないと言う思いが過ぎった。出社して午後には地権者の方が来社され、今回の新規契約について説明を行ったのだが、80歳になられた地権者の方の頭の良さには敬服した。この方は文部科学省のつくば研究所の教授を勤められたかたで、定年後の10年間は私立大学の数学の教授であった。今は悠々自適の生活だが、今でも最新の技術に目を通して知識の豊富さには驚かされる。偶然なのだが、この方は私の出身地に所在した旧制水戸高等学校に学んでおり、その後東京工業大学の物理学科に進まれた。人生の大半を研究に費やされ、記憶ではノーベル賞を受賞した益川さんとはつくばの研究所で一緒だった事もある。私が最初にお目にかかったのはつくばの研究所に在籍中の今から25年前であった。当社が開発した共同開発ビルの地権者の一人であった。その後は共同ビルの管理組合の理事をお願いしたこともあり、管理組合の運営にも力を尽くされてきた。今回の契約の話は直ぐに終り、何時もの通り雑談に入ったのだが、政治経済はもとより、専門の領域の物理の最新動向や複雑性科学など知見の豊富さには恐れ入った。弟夫婦から80歳のお祝いを貰って初めて80歳になったことに気が付いたとのことで、頭の中は今でも青年なのかもしれないと思われた。しかし、この方と話をする度に人間の質について考えさせられる。この方の父親は朝日新聞に勤務していた方だが、当社が開発にお伺いした時に健在だったのは母親だけであった。私はお会いしていないが、先代社長からこの方の母親の頭の良さについて聞いていたので、その母親ありて息子かなと言う気がした。帰宅してTVが壊れたので何時もの生活とは変わり、ラジオをつけて音の世界で食事をし、その後寛いだ。この時にTVを見ていた時の素通り感と異なり、耳で聞いた音が頭の中で色々な物を想像しているのに気が付いた。学生時代にマクルーハンのこれからは映像の時代という事が指摘され、現代は正にその言葉が具現化した社会だが、それ以前にTVが出現して一般大衆に入り込んできた時代に大宅荘一と言う評論家が、TVについて「一億総白痴化」をもたらすと警鐘を鳴らしていたことを思い出した。TVが故障した為にラジオを聞いていたが、最近ボケ気味のパートナーも食事後に新聞などを読み出して面白いことが書いてあると言った時には、大宅荘一の言葉が改めて偉大な批判と気づかされた。現代人が昔の人のように思慮がなく、且つ配慮に欠け、知恵が不足しているのは正に映像社会の弊害と考えさせられた。推測だが、先の年配の地権者の方は余りTVを見ていないのではないかと思われた。残念ながら当家のパートナーはTVなしの生活には耐えられない見たいで、今日にも家電大量店に駆け込む勢いである。やれやれである。

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