財政赤字が政治の本質を勘違いさせている

財政赤字は予算の正しい使い方で陥ったのならば増税で解消することは当然である。問題は官僚の天下り先のためや政治家の選挙のために費やされた無用な予算の為に赤字になったのなら増税で解消など言語道断であり、その根を絶たないと再度赤字財政になるので増税など認めるべきではない。官僚も政治家も国民が過剰な要求をしたので財政赤字に陥ったなどと昨今は考えているらしいが、国民の大多数はサラ金財政なども求めてはいなかったし、何の対策も打てないで1000兆円近くの借金を国がするとは思いもしなかった筈だ。国会議員どもは自分の選挙の為に甘い言葉で国民に道路や橋などの建設を安請け合いして来たにも拘わらず、自分の責任を否定をするかの様な国民は国家に甘えてばかりで厳しさが足りないなどと放言している。此処での議論は過去に遡ることではないのでこの批判はいったん矛に納めて次の議論を展開したい。国も地方も箱物や過剰なインフラの投資で軒並みに財政難に陥っている。この現象は何も日本ばかりでなく世界的な問題だ。金融資本主義的な考え方はこの様な財政難から生まれてきたといっても過言ではない。国家や地方自治体が財政難に到った理由は色々とあると思われるが、今の問題は国家や地方自治体の財政難の解消の仕方である。行政も民間企業と同様にバランスシートを作るべきだとか企業の経営的な手法で支出を大幅に削減する方法とかが指摘されている。又、平行して運用益で支出過剰な分を補填する金融商品に投資する方法も提案されている。確かに、財政難を解消するには支出を大幅に減らして増税しか方法がないのは確かだが、最近の政治の動向を見ると財政難解消が目的化し、政治が行われていない危惧を感じる。無駄な支出を削減するのは当然なのだが、良く分析すると縦割り行政の中でバランス良く支出を削減しているので、本当に必要な所にお金が回っていない面も出てきている。又、制度を変えたことにより、弱い人達に皺寄せが出てきている面も多く見られる。

政治とは何かと問われれば、弱者の救済なのである。資本主義の中の競争社会にあって誰もが勝者になれる訳ではないし、社会は無用の用の様な存在があって初めて成り立っているので、そこに政治が必要なのである。企業経営者は弱者など省みることはないのである。無用な支出を切り捨て不要な社員を辞めさせて黒字経営になれば名経営者と呼ばれるのである。然し、政治家は企業経営者とはことなり、不法な競争を監視し、企業が切り捨てた弱者の再生や老後の仕組みを作ることなのである。尤も、企業経営者の中にも優れた人がおり、企業人でありながら政治家としての素質を兼ね備えて経営にあたった者もいる。戦前では、カネボウの中興の祖といわれている武藤山治、渋沢財閥を作った渋沢栄一、戦中戦後に出光興産創業者の出光佐三などである。ちなみに、松下政経塾を作った松下幸之助は先の人物と比較したら企業人としては上かも知れないが、政治は飽くまで企業の為と考えた人物なので、私の中では高い評価をしていない。翻って、最近話題の橋下大阪市長はどうかと言うと、彼も本質的には政治家とは言えない。その理由としては、彼の政策は金融資本主義的な考え方が根底にある様に見れるからであり、政治の本質を理解しているかどうか疑問だからである。勿論、私は大阪フィルハーモニー交響楽団の解散に反対している橋下市長は文化を蔑ろにしていると批判している人達とは考えを事にする。全国で最大の生活保護者を抱えている大阪市に対して文化云々の批判は当らないと思うからである。文化を守るには行政のアシストは必要だが、基本的には豊かな社会になって尖閣諸島の購入に短期間で5億円以上も寄付金が集まる日本なので、どうしても必要なら多くの人の寄付により財団を設立して守れば良いのである。全部税金で守る必要はない。大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽家たちも大阪市の職員に甘んじた為に採算を度外した演奏活動しか行わなかったと推定されるので、楽団員にとっては不幸なことと思われる。私は自助努力を怠るものを救済しろとは言わない。問題は財政赤字解消が目的化した政治が横行するのを懸念するからである。政治の世界は数の必要性を痛感するが故に小沢一郎の様な選挙に勝つだけを目的化した政治家を生み出したのである。同様に、財政赤字解消だけを目的化した政治家の出現は貧富の差を生み、犯罪を増やすだけだからである。日本人は世界にも類を見ない80%の国民が中流意識の社会を実現した国である。インフレ経済でない低成長経済において同様な社会を実現する政治を考える必要があると思料する。

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