ヒューマンエラーを考えない過保護な悪平等社会のリスク

日本人は何時から完全主義者になったのだろうかと思う。日本列島は厳しい自然環境にあり、そこから生まれた日本人の死生観は西欧文明にはないものであった。しかし、高度経済成長を得て物資的に豊かになったが、反対に心の貧しさは増加している。以前にBlogで、アップルの創業者のスティーブ・ジョブスがすい臓がんで余命を知った時点から人生が変わったことが書かれた文章を目にしたことをお知らせした。彼は死を意識した時から必要な事だけを行ったらしい。アップル製品のシンプルさと彼が作り上げたシンプルな考え方は、死との背中合わせであったことが今だから分かることである。この様に書くと、タイトルと違う展開かと思われるかもしれないが、今朝のニュースで小学校の給食でアレルギーの子供にチーズ入りのフードを誤って食べさせて亡くなったことによる改善策の対応を耳にしたからであった。茨城の田舎で育ち、給食も幼稚園も経験していない私であるので、余計に過保護な社会が気になるのである。福島原子力第一発電所の事故を教訓としないヒューマンエラーを考えない社会が未だ続いているのにはうんざりする。今の日本人は何が起きようと全て他人ごとにしか映らないのかと思わざるを得ない。到る所で同じ繰り返しだ。事故が起きると事故調査委員会が設置される。ここまでは良いが、その報告書には事故を起こさない体制やマニュアルの強化が書かれ、現場の意見など無視した安全性だけを強調される。アレルギーの子供まで他の生徒と同じように給食を出すことが当然と考える社会は健全かと考える。最近、文部科学省が"食育"などを打ち出したので、給食が余計に重要視されているが、給食を経験していない私からすれば、"食育"などは学校教育で教えるものかと考えてしまう。豊かな社会になり、給食の必要性が指摘される中で"食育"の言葉を聞くと、給食に関わる既得権者の策謀と思って仕方がない。アレルギーの子供が誤って出されたチーズ入りフードを食べて亡くなったが、死亡に至る過程では情報伝達の不足と医師の経験不足が死に至らせた様だ。亡くなった子供の家族には怒られるかもしれないが、アレルギー体質を持った我が子を今の無責任社会の中で良く全幅の信頼を置いて預けられるのかと思って仕方がない。それと同時にヒューマンエラーは避けることが出来ないと言うスタンスに立って考えられない社会システムは危険だという事だ。平等という美名のもとで学校教育が行われており、給食に至るまで完璧さを求めている。勿論、貧しかった時代の責任ある社会が存在した過去ならばヒューマンエラーを最大限防ぐ神がかりの現象があったのかもしれないが、現代社会は死を忘れてお金と自己保身に走る他人の社会でどの様なマニュアルや責任体制を敷いても安全が守られる保障など存在しない。勿論、東日本大震災で見られた様に日本人の遺伝子には共同コミュニティによる絆や助け合い精神が残されてはいるが、その発動は誰もが命の危機を迎えた限定された時にだけ起きるものと考えた方が無難だ。多くの自治体が財政赤字に陥っている現状においては、行政になんでも任せるのではなく、一人一人が何をやることが大事かを考えて行動するすべきと考える。自分の子供守る為には何ができるかを先ず考えるべきだろう。いじめ事件も同様だが、倫理観を欠如した社会に安全な場所などないと考えた方が良い。警察官が強盗殺人者になる社会という事を肝に銘じるべきだ。

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