スーパーゼネコンのマンション工事施工ミスが教える日本社会の劣化

新聞に大手建設会社の鹿島建設が東京都内で建築したマンション工事で大きなミスがあり、そのミスを考えられないその場凌ぎで処理したのを内部告発で露見したために、デベロッパーは購入予定者に物件を引き渡せずに契約を解消してペナルティを支払った記事が掲載された。この問題は日本と言う社会が行く着く所まで来てしまったと言うことを意味する出来事だ。正に、米国の社会のマイナス面を継承したことを意味し、資源のない四方を海に囲まれた国の行く末が懸念される。心にゆとりがない社会は信頼できないという事が嫌になるほど分かる。しかし、日本人はこれ程までに弱い人種かと今更思われて仕方がない。尤も、良心を持つ社員は金融資本主義社会の到来で駆逐され、インチキをしても売上高や利益を上げる社員が評価される時代になったから引き起こされた事件であろう。救いなのは内部告発で事件が表面化したことであり、僅かに希望が残されてるかもしれない。

何時の時代にも今回の様なミスが起きる可能性はあるが、現場会議で打ち合わせを念入りにすれば防げるミスである。しかし、3Kと言われる建設業界に優秀な人材が集まらず、然も時代が大きく変わり、現場では丁寧な仕事より、どれだけ効率的に施工できたかが問われる時代になり、本当に必要な現場会議が行われているのか心配になっった。勿論、情報化時代であるので、関係者が集まって行う現場会議でなく、WEB上で仮想現場会議を打ち立てて行う方式でも良いが、問題は責任を持って双方向の情報を管理する者が居なければ、単なる情報の垂れ流しで終わるだけである。また、若い経験の浅い設計士は古手の下請け会社の社長から未熟さを指摘され成長したのだが、下請け会社に厳しい時代になり、元請け会社の若い社員を教育できる下請け会社も少なくなった事も確かだ。米国流のデータ社会が現場の熟練者を評価しなくなり、暗黙知の継承がなくなったことが、今後は予期しないミスをもたらす可能性も否定できない。

データを否定するわけではないが、経験者の暗黙知を曖昧な記憶と称して馬鹿にする若い人たちを見ると、現場を通して成長してきた者としては、大きなミスが起きても判断出来ないのではないかと思われて仕方がない。私自身は大学で電子工学を専攻し、年代的には早くからコンピュータに馴染んできた。この為、建物管理システムの構築をメーカーに依頼する時にはミスをチェック出来る仕様を求めたものである。しかし、問題は全て経済合理性の壁に突き当たる。今の時代は、お金を掛ければ良い物が得られるが、事業採算性の問題で全ては楽観主義にならざるを得ない。建設現場も手書きの図面の時代からCADになり、今は更にBIMと言われる立体化したモデルで建物を施工する時代になった。建築と言うモノづくりが、施工現場ではプログラム作成とデータ入力に置き換わってきた。確かに、BIMなどは素晴らしいと思われるが、現場の構築作業は自然現象や施工誤差を修正して行う作業と理解しなければ、施工後の建物に不具合が起きる。データ管理で出来るものと出来ないものを区分して考えなければ、次のミスを防ぐことが出来ない。特に、今の時代は未だ工場などは熟練経験者が存在することで構築されているケースも多く、安全を維持するのが極めて難しくなっている。建物管理で何時も思うのだが、設備の不具合は現場で事前に気づかなければ突然起きることになる。幾らコンピュータで遠隔監視しても壊れる前兆を捉えて知らせるほどにはなっていない。このため、耐用年数で設備を定期的に交換する無駄が生じるのだが、不動産ファンドなどは米国式に交換するシステムである。設備機械は使う環境や頻度などで大きく異なることを現場は教えてくれる。この事はデーターにも変換できるが、途中で環境が変わったことまでは無理と思われるので、変異点や特異点は無視することになり大事故に繋がる。この様に書くと情報化時代を否定するのかと疑われるが、データと現場の両方を経験しているから指摘できるのである。

何れにしても、日本人と日本社会の優れた利点を失えば他の国と何ら変わらないと言うことを認識することが必要であり、金融資本主義を導入してからの日本は信頼性が低くなった社会であることを理解することが重要だ。そうでなければ、今回のマンションの施工ミスを防ぐことが出来ない。

 

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