ハンナ・アーレントが必要な時代

NCM_0255.JPGハンナ・アーレント生誕100年だそうだが、彼女ほど人間が思考しなくなる危険性を説いた人はいない。ユダヤ人として生まれ、第二次世界大戦時はフランスで収容所に入れられた経験を持っている。また、哲学を専攻し、師と仰いだ哲学者のハイディガーは、戦時中にナチスに対し共鳴するなど複雑な人生を歩んでいる。ハンナを有名にしたのは"全体主義の起源"の著作であるが、最も人口に膾炙したのはイスラエルで行われたナチスの親衛隊であったアドルフ・アイヒマン裁判を取材して書いた「イェルサレムのアイヒマン」である。この本ではアイヒマンの死刑判決に対しては当然との受け止め方であったが、多くのユダヤ人を収容所に送った張本人である裁判中のアイヒマンを見て愕然としてのである。悪の確信犯と呼べる男は、実際は結果など考えない命令を単に実行する忠実な役人であった事実に気が付かされた。この様な小市民的な男が大それた歴史に刻む大量殺人の当事者になったのかをハンナは考え続けた。一方、イスラエルの国に対しては、アイヒマン裁判をショーとして一個人の裁判でなく世界中に大量虐殺の悲劇を宣伝する事に対しても、亡くなったユダヤ人に対する冒涜と批判したために、イスラエルの国家からの反発と同胞のユダヤ人からも攻撃された。ハンナは同胞の悲劇を蔑にしたのではなく、人間が思考しなくなることの恐ろしさをアイヒマンから見せられ、大量虐殺が命令に忠実な多くの行政的な思考しない人間を介して行われた事実を喚起したかったからである。

現代社会においてもその危険性は内在しており、思考しない人間が増加すれば全体主義が出現し、悪が出現することになる。情報化社会だから過去と異なり、一人一人が多くの情報によって判断できると言われているが果たしてそうなのだろうか。逆に、情報量の過多が情報量の少なかった時代より多くの人の思考を奪っているのではないかと最近の社会の動向を見る限り思われてならない。一人の平凡な人間が歴史に残る大犯罪の片棒を担う姿は、IT社会になり、人々の判断が不確かな情報や偽造された情報の真偽が確認できなくなりつつある時代には、思考しない人達が増え、他者を攻撃する存在が顕著になり、正に政治と考えていることが少しも政治でないと言うことを理解しないと間違った方向に行ってしまう恐れがある。ハンナは大衆社会を批判し多様性を擁護しているが、IT社会のグローバル化による多様性の出現がハンナが期待したものであることを願うばかりだ。

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