三島由紀夫の自決の記憶あれこれ

高田馬場の下宿屋で同宿の法政大学の中村君が三島由紀夫の自衛隊市ケ谷駐屯地において自決を図ったことを教えてくれた。一般学生が部屋にTVを置く時代ではなかったので、大家さんの部屋に行き自決の顛末をTVで見たと記憶している。今年で50年になることをデジタル版の新聞で知り、あれから半世紀が経過したのかと感慨深い。三島由紀夫の事は小説家としてよりは行動した行為の方に関心があったが、過去を振り返ると作品自体はあまり読んでいない。ピークを過ぎたが学生運動がセクト化し、互いに暴力装置を使って攻撃していた時期だった。法政大学は市ヶ谷にあるので、三島の事件をいち早く知り、下宿に戻って私に教えてくれた。中村君は岩手県から上京して法政大学に入学したが、確か小説家志望だったと記憶している。卒業前は東京に残り、小説家を目指すと宣言していたが、卒業したら早々と故郷に帰った。中村君は誰にも言わずに去ったので故郷に帰ったことは知らなかったが、高田馬場から私が練馬に移り、中村君が豊島に移った後に知り合った日本大学芸術学部写真学科の桑原君から中村君が盛岡に帰ったことを聞いた。桑原君が兵庫県の姫路出身だったと記憶しているが、中村君とは金銭の貸し借りがあり、その取り立てで盛岡に行ったことを聞いた。その時に中村君が警察官の息子と知り、4年間を過ごした仲間であったが、素性は知らなかったことに気が付いた。その後数年が経過し、私も社会人となり、東北出張があった時に盛岡の中村君を訪ねたが、その時に盛岡の商工会議所に勤務していることを知った。高田馬場の下宿屋には刎頚之友となる早稲田大学の小野君もいたり、福島から上京し、武蔵大学に入学した佐藤君もいた。佐藤君は福島県庁に勤務する公務員の父親の息子で、卒業後は福島県の地方銀行の東邦銀行に勤務した。友達の輪が広がり多く人達と知り合った。その一人がNYに在住する北海道の小樽出身の慶応大学の田中君だ。東大を落ちて横浜国大か慶応大学かで迷っていた息子にお母さんが慶応大学の学生に憧れたことを聞いて入学を決めたことを聞いた。この年になって振り返ると、三島事件は多くの人達に影響を与えた事件だったと思われる。その後、学生運動は下火になり、オイルショックやデフレ経済もあり、同時に家を持たせる政策により住宅ブームが起きている。15年後にはバブル経済となり、その後崩壊し、インフレ経済からデフレ経済となった。同時に情報化が進み、経済理論では予想していない情報と言う産業が加わり、経済も政治も機能しなくなった。今の若い世代は昭和の時代を羨ましいそうだが、確かに金銭的には恵まれない時代であったが、今の若い人の様に将来の不安や情報に振り回されることなく、自分の時間軸を生きて行けた。そういう意味では良い時代であったと思うが、此れも過ぎた時代の事は良い思いでしか残らないので、単にその様に思うのかもしれない。私の曾祖母が当時として長命の92歳まで生きたが、80代半ば過ぎに私が嫌となるほど長い人生を生きてきたねと言ったら、否、あっという間だったと答えた。何歳まで生きても人生とは振り返ると短いのだろうと思った次第だ。

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