アップルのジョナサン・アイブと日本のデザインについて

アップルのデザイン指揮官のジョナサン・アイブについて書かれた本を読んだ。丁度、その時に東京オリンピックのエンブレムの模倣事件の騒動が世間を賑わしていたので、同書で触れられていた英国の産業に係る学校教育については考えさせられた。東京オリンピックのデザイン模倣問題は、戦後の日本、否大陸から文化・技術が伝わってきた時代に遡る必要があると思われた。尤も、この様に書くと世界から評価された日本文化を侮辱するのかと言うお叱りが出るかもしれないが、私が言いたいのは一部の特殊な人達が築いた世界に誇れる日本文化と相対する多くの模倣文化についてである。

安倍政権発足以降、感心しない日本賛美の風潮が起きており、殊更に日本民族の優秀さを喧伝しているのが気になっていた。日本は数千年を経て日本文化と言うものを築いてきたが、その過程は正に大陸文化の模倣の時代であった。日本人は創造的な民族ではなく改良主義の民族と言われて久しいが、何時の間にか創造性も持ち合わせた民族と持ち上げるマスメディアの宣伝には驚く。戦後の電子技術も欧米の電化製品を分解して模倣してきたのは自明の事実である。

勿論、私は日本文化を研究する学者ではないので、私の考えは飽く迄経験則に基づく特殊理論にすぎないが、ジョナサン・アイブを育てた英国のデザイン教育を見る限り、創造的な物を作り出す背景には教育があり、その必要性は模倣ではなく先を行く考え方に気が付かされた。

翻って日本の文化は模倣時代を過ぎて独自な日本文化を構築してきたが、明治維新後の近代化政策で再度模倣文化に戻ったと考えられる。遠い時代の模倣のDNAが目覚めたと言った方が良いかもしれない。明治維新以降に起きた模倣ルネッサンスは21世紀の日本にも居残り支配続けているのが、東京オリンピックのエンブレムで良く分かった。日本の教育に欠けているのは創造性を起すプログラムであり、英国のデザイン教育は単なるデザインではなく、機能も含めた仕組みを創造させるものなのには感心した。世界で初めて産業革命を起こした国だけはある。東京オリンピックのエンブレム問題は多くの教訓を残したので、単なる個人攻撃ではなく、日本人全体の問題として捉えて行く必要がある。

弊社の本業の一つである建築設計デザインに関しても同様な現象が起きている。デザイン重視の時代に入り、過去にない建築物が作られてきているが、現場を見る限り、上辺の形だけで中身に対する配慮に欠けたものも見受けられる。アップルの創業者であるスティーブ・ジョブスは形と中味が伴わなければ絶対に妥協はしなかったと言われている。確かに、綺麗に見えるものは機能的にも優れているのは確かだ。デザインとは奇抜さだけではない。機能的に優れていて初めて評価されるものである。英国のデザイン教育を学んだジョナサン・アイブはジョブスの考え方を具現化した人物であり、故にアップルを世界的な企業に育て上げて今も進化し続けている。

日本のデザインは大陸の模倣から独自の研ぎ澄まされた独特の文化として開花したのだが、明治以降は一部を除き、模倣デザインの域を出ていない。理由は学校教育の間違いと科学技術の盲目的な崇拝と思われる。自然の驚異に晒されたこそ模倣を超えた独自の日本文化が生まれたと推定できる。同様に、自然環境的には厳しい英国で創造性のある文化が生まれたのは同じ理由と考えられる。然し、英国は大きく変わりつつあるのに、日本は惰眠を貪っており、模倣者達が跳梁跋扈している。佐野研二郎は正に典型的な人物として名を残すことになるだろう。日本再生は自然の驚異に向かい合ってこそ可能なのだが、東日本大震災の教訓も忘れて生きる従来と変わらない日本人を見ると、歴史を忘れた民族と思わざるを得ない。

本題から外れたが、デザインの世界は既にジョナサン・アイブを否定した若い人達の動きも出ていると同書の末尾に書かれていた。正に恐るべしだ。

  • entry610ツイート
  • Google+