自動車事故の出来事

過去の交通戦争の時代から見れば事故による死亡率は大きく減少しているが、最近のニュースで事故死の原因が大きく変化していることを指摘していた。それは運転者と同乗者と対向車の運転者と同乗者の死亡ではなく、部外者の歩行者が増大していることだ。ニュースなどで事故の報道に接すると不可思議な事に気付く。交差点で信号待ちしていた歩行者に車が突っ込んだ事例があったが、対向車の車を避けようとしてハンドルを切った場所に歩行者が居たという事故だった。歩行者にとっては何秒かの違いで事故にあった訳だが、その時に祖の場所にいたのは偶然と言え、数秒の違いで事故を避けられた可能性もある。偶然ではなく必然が起こした事故ともいえる奇妙な事例もある。東名高速でトラックの補助タイヤの落下物に乗用車が衝突してエンストした車から降りて高速道の反対側に避難していた母娘が、後続のトラックが補助タイヤにハンドルを取られて横転し、道路の反対側に避難していた母娘を直撃して死亡させた事故だ。子供の頃に見た米国映画の死神のストーリーの様に、最初の事故で死ぬ運命にあったのに生き延びた為に更なる事故で亡くなった。今更の自動車事故に関して話題に取り上げたのは、先日の滋賀県で起きた保育園児童の死傷事故で過去の幾つかの事故の情報と事故寸前の体験を思い出したからだ。二つの事例は、信号機がある十字路と丁字路で起きた自動車事故である。二件とも一方の車が赤信号を無視して交差点で事故を起したものだった。この種の事故の時には目前の信号ではなく、先の信号を見て錯覚した事故とその原因を科学的に分析した報告もあるが、2件ともその錯覚が起しようもない田舎の交差点で起きている。事故を起した人達はなくなっているので赤信号を青信号と錯覚した理由は不明だが、滋賀県の事故も右折車の無謀な運転が原因と指摘されたが、対向車が見えなかったとしたら無謀などではない。私が経験した事故寸前の経験、今でもぞっとする事例は正に車が見えなかったからだ。それは、茨城県内のメンバーコースのゴルフ場の早朝ゴルフをプレーしてコースのアクセス道路から国道に左折しようとして起きた。信号のない丁字路で左折する為に右方向から車が来ないのを確認して国道に入った瞬間に対向車線を後ろから来た車が通過して私の前方で急停車した。私の感覚では存在しなかった車が空間から突如として出てきたと思われた。この時には私のワイフも助手席に同乗して二人とも車が居ないことを確認している。当然に危機一髪を避けた車の運転手は怒って降りてきたので事情を説明して平謝りしたが、相手は納得できない顔であった。長年車を運転しているので色々な事を経験しているが、都内で運転中に先の信号で停車してしまった錯覚も経験している。しかし、車の見えなかった事例と同様に正にオカルト的な経験もしている。それは祖母の危篤の知らせを受け社用車に乗って帰郷する為に常磐高速道路を夜の8時頃に走行していた時だった。常磐高速道路を時速110km位で走り、石岡市地域を過ぎて小美玉市エリアに入っていた時に突然車の前方に狐が横断したのであった。夜間走行で遠目でライトを点灯していたとは言え、視覚の範囲は数十メートルであったと思うが、その中で起きた光景だった。この時には、運転手と私とワイフの三人が見ているので、錯覚でも幻でもなく、少なくてもその空間だけは真実であった。その時には祖母の危篤に駆けつける為だったので深く考えることもなく一瞬で忘れ去ったのだが、後から思い起こすと時速110kmで走行中の車と狐の距離感が変わっていなかったのに悪寒が走った。見ると言う科学的な現象は、目から光が入り、脳が映像を作り上げるシステムなので、実際の光景とは違うものが現出することも理解はしているが、今でも高速道路の狐の光景は理解の外である。事故には物理的な事故と人の視覚の不完全さから起きる事故、更には死神の存在が否定できないオカルト的な事故に大別できるのではないかと思われて仕方がない。自動運転の世界が目前だが、車をコントロールするAIが人間の不完全さを補ってくれるのか、それとも不完全さも継承して進化するのか興味がある所だ。

循環経済

サブスクリプションと言う言葉を良く見かける。ITのソフト商品などの販売で使われていたが、今では健康サプリメントの定期販売などにも使われている。所有から利用の時代になり、モノ系でも使われ始めているが、良く考えると先送り経済の様なもので、基本的には分割で購入しているのと同じことになる。勿論、メンテナンスの故障時の取り扱いや機器の入れ替えなどの経費を何れが負担するかは明確な基準はない様だ。ソフト系の場合には性能が日進月歩であるので、サブスクリプションにした方が常に新しいソフトを使う事が出来るので便利だが、モノ系の場合のメリットは低額の毎月支払いで商品を利用できること以外にはメンテナンス費用と思われる。尤も、モノ系に関しては既にリースとレンタルがあり、サブスクリプションとの違いは見いだせない。リースに関しては会計基準の改正でファイナンスリースなどは購入と同じと見做されて資産の繰り入れとなる見通しだが、一般の機器のリースは月々の支払いが経費扱いは変わらないので、個別性から言えば残価の設定で月々の支払額が変わることである。一方、レンタルはリースより長期契約となり、メンテナンス費用も含まれるし、更新に際しては既存設備の残価を新規の契約に上乗せて処理することも可能であるが、その分月々の支払いは高くなる。モノ系のサブスクリプションはレンタルと似ているが、現時点では単体の低額商品レベルの取り扱いの様なので、「リース」、「サブスクリプション」、「レンタル」の棲み分けは可能かもしれない。しかし、何れにしても新規商品とは思われず、名称を変えて新規さをアピールしているのに過ぎない。この様に周辺の商品やサービスを眺めると、働き改革で注目を集めているシェアオフィスなどは、過去にはレンタルフィスとして同様のサービスが存在した。ちなみに、レンタルオフィスの前は秘書伝言サービスがあり、オフィスを持たない会社の為のサービスもあった。今の言葉ではバーチャルオフィスというサービスである。勿論、同じ利用でも今日の物はITなど設備したスマートな運用がなされており、新規ビジネス開発のプラットフォームなので利用価値は様変わりだ。レンタルと言えば、弊社も過去に大型ビルの建築時、いわゆるインテリジェントビルと呼ばれた時代に中央監視システムにレンタルを導入したことがある。切っ掛けは、コンピューターが急速に進化している時代であったので、システムの更新を償却前に出来る様にするためにレンタルを選択した。しかし、その後のIT機器の発展を見ると、発想は間違いではないが、デフレ経済もあり、仕組み自体が変わり、商品の低額化までは誤算であった。何れにしても現代の商品の多くは過去の模倣が多く、新しいアイデアとは言い難く、電気自動車もガソリン車より早く提唱されていた。問題は導入コストであり、一般化するには時代を待たなくてはならないビジネスモデルもあるので循環するのは必然なのかもしれない。社会経済環境も閉鎖系か開放系かで大きく違い、会報系のグローバル経済は世界を均等化する流れとなったが、一方では貧富の差が拡大し、豊かな社会の実現とは乖離してきている。今後はAIなどの活用で人の業務の多くが機械に代わることが予想されており、人間自体の存在が問われて来ることになりそうだが、AIの導入が一般的な時代になっても循環的な商品・サービスが維持されるのかは難しい問題だ。尤も、5月1日から新元号の令和が始まり、今回の変更が天皇の生前退位によるので注目されているが、過去には元号は天変地異による災害などを乗り越えるために元号を新たにしたことが指摘されており、人は何かを乗り越えるために名称を変えることで切り開いてきた歴史がある。先祖がえりのような商品・サービスも基本的には現状を打破する為の行為かもしれない。それが循環経済となる理由かは不明だが、世界は周期的に動いているので、循環は必然の要素なのかもしれない。今回は科学的ではなく、哲学的なブログになった様だ。

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