諸悪の根源は米国!

金融危機、豚インフルエンザの発生源は全て米国企業である。最近知ったのだが、スペイン風邪も米国がヨーロッパに持ち込んだそうなので、豚インフルエンザが第二のインフルエンザ・パンデミックになれば、米国は100年の内2回も人類を生命の危機にさらすことになる。豚インフルエンザの発生は、メキシコで米国の養豚業者が過密な豚舎で抗生物質を多量に食糧に入れて育てている場所からと言われている。規制の網を避け、然も低賃金の労働力を利用してのグローバル経済とは何かを問われそうである。米国は無辜な先住民であるインデアンをジェノサイドした移民で造られた国家なのを忘れてはならない。自己の為には他者の生存を許さない悪魔の遺伝子を継承した国民であることを肝に銘じるべきと思われる。もちろん、米国民は移民国家であるが、全ての人々が問題遺伝子を継承しているとは言わない。問題なのは、一般的な米国民でなく、インデアンの殺戮や奴隷制度で金儲けをした子孫の多くが指導者層に残って悪い血を継承している現実である。イスラレルはユダヤ人の子孫達が造った国家だが、ユダヤ人が歴史的に世界で排斥された理由が分かる様なパレスチナ人の虐殺である。悪の遺伝子が免罪としているのはキリスト教徒とは話が美味く出来すぎている。今こそアジアを守るために日中韓の連携が重要と思われる。

諸行無常

この言葉を最初に知ったのは高校の古典の時間で「平家物語」の書き出しを見た時であった。"祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、~"で始まる平家物語は余りにも有名だが、当時の古典の教師はこの一説が好きだったらしく執拗に暗記をさせられたので、今でも諳んじることが出来る程である。その後、この言葉が仏教用語であることが分かり、同様な本として鴨長明の「方丈記」を知った。何故この様な文を書いたのかと言うと、昨夜のNHKのTVニュースで今年1-3月の自殺者の数が例年を大幅に上回っていることを知ったからである。先進国では例の見ない年間3万人以上の自殺者が長年続いている。今年はこの状況だと4万人を越える最悪な年になる可能性が高い。最近のTV番組では、大学教授や経済評論家や外資系勤務の経営者などが出演して麻生政権の景気対策が選挙目当ての場当たり的なばら撒き財政であり、日本経済活性化には中長期的な財政政策が必要とコメントしているが、それでは間に合わない事を知るべきである。この不況で何等の痛みを受けていない連中がコメントする資格はない。麻生総理が欧州で開かれた20カ国会議に出席した時に欧州のメディアから受けたインタビュー記事を読んだが、麻生総理は実に日本経済バブル崩壊後の失政を理解していた事が分かった。今回の景気対策はその反省を踏まえて行なわれているものであるが、日本のメディアでそのインタビュー記事を掲載した所は殆んどない。良く改革には痛みが伴うとか明治維新では現在の様な状況よりは遥かに厳しかったなどと言及する馬鹿がいるが、それらの人々は大手のマスメディアの社員を始め、何等生活に困った者達ではない。日本を良くするには大手新聞社の新聞を購読しない、TVに広告を出さないことが早道である。朝日新聞などは優遇税制の恩恵を受けているにも拘らず脱税行為で国税に摘発を受けているのに、他社の脱税記事を掲載する資格はない。欧米諸国は宗教的に世の中の絶対真理の存在を追求し科学技術を発展させてきたが、実際の世の中は「諸行無常」であり、アジア文明は早くからその事に気づいて高い精神文化を築いてきた。今正にGDP(国民総生産)からGNH(国民幸福度)に尺度を変えるときが来たのをマスメディアは相変わらず欧米の物質文明の追求を促すだけである。真の豊かさとは何かを考える時期に来たのである。自殺者に対して合掌。

マスコミの笑止千万

マスコミ各社は政府の今回の金融危機に対する企業への公的金融支援を単なる一時的な延命策として効果がないことを報道している。警鐘の理由としては、この様な公的支援は企業に必要な競争力を阻害し、グローバル社会に通用する企業の成長には役立たないと言うことである。しかし、私から見れば優遇税制の恩恵を受け、記者クラブの談合制度で競争社会から程遠いマスコミなど笑止千万である。日本のマスコミは権益の弊害を指摘するが、同様な権益に守られて高い広告掲載料を取っているのは誰だと言いたい。消費者は高い広告料が加算された商品を購入しているのである。企業努力を言うなら先ずマスコミが高い給料を維持するために守っている記者クラブ制度を放棄しろと言いたい。実務経験のない耳学問の連中が何も分からず書いている記事など価値がない。企業合併による競争力の強化を言うならば新聞社も合併して広告掲載料を下げる努力をするのが説得力のある報道である。経済や社会が大変なときに芸能人が泥酔した裸の報道に価値観を置いているマスコミは国民総白痴化の功労者と言える。日本のマスコミは情けないの一言である。

内装の一部をカットした低価格マンション販売は本当に安いのか

長谷工が、「下駄箱」、「電子レンジ」、「棚」などの設置を省いて販売価格を10-15%下げたマンションの売れ行きが好調との記事を見た。記事にはマンション業界に新風を吹き込んだと書かれていたが、良く考えると 仕様変更だから購入者は別に安い買い物であったわけではない。確かに、最初から設置されていると自由度が低いので、自由度を高める効果はあると思うが、この販売は錯覚商法の類であるので、マンション業界に新風と言う程でもない。この販売方式を極端化すれば中国のマンション販売と同様なスケルトン仕様に到る事になる。日本の不動産は外国と比較すると土地が高いので、マンション販売業者は建築工事費で利益を出す傾向が強い。このため、内装部分を減らす事は減益となりかねないために、従来は内装のオプションが可能位に止めていた。しかし、購入者にとってはマンションの内装仕上げはそれでも個人で発注するよりは間違いなく安いことを忘れると後で多額の出費を招く事になる。また、後から仕上げようとしても規格品で納まらない場合もあり、思っているより簡単ではない。我々業界の話だが、工事見積りを取って価格交渉に入ると、仕様を変更して価格を下げるケースが多いが、実は仕様変更しての価格の引き下げは発注主が得した訳ではない。今回のマンション販売も同様で、付帯設備の一部を削除しているのであるから別に購入者は得した訳ではないので、そのまま使用するのであれば問題ないが、購入後に自分で付帯設備を設置する考えならば購入前に業者から見積りを取るか、設計事務所にコンサルタント料を支払っても意見を聞いたほうが良いと思われる。本来ならば、購入者の希望を入れて内装仕上げを行なう販売方法がベターであり、勝手に付帯設備を削除して販売価格が安いと思わせるのは錯覚商法以外のなにものでもない。

手前味噌

東京都の千代田区ではビル内に分煙エリアを設置する場合に補助金を出すと言う記事が掲載されていた。手前味噌になるが、当社が管理している虎ノ門ビルでは、既に10年以上前に1階エントランスの空きスペースに分煙エリアに排気ファンとダクトを設置してテナントの従業員に提供している。千代田区は他の地方自治体に先駆けて路上の喫煙禁止を条例で定めるなど環境や健康などに対して前向きな役所である。千代田区の政策を考えると、以前書いた神奈川県の飲食店等に対する禁煙条例には能がないのに驚かされる。企業も役所も人材が必要であることは分かるが、千代田区は人材が揃っているのであろう。当社の分煙エリアの設置も全部の管理ビルで実施できているわけではない。問題は、オーナーの理解と分煙エリアの確保が可能かどうかが決め手となる。最近のファンドの所有物件や大手企業の貸ビルなどを見ると、見た目は良いが利用者を考えての配慮は少ないと思われる。確かに、新しい大規模ビルは最新の省エネ設備などを導入しているが、逆に無駄な一面も相当あるのが分かる。貸しビル業はサービス業である事を理解しているビルのオーナーは少ない。高い賃料を取りたいならばサービス体制や省エネ設備を強化する必要があるのに、単に賃貸市場の相場しか見ていない。当社の管理ビルは共同開発した区分所有建物が多いのだが、最近は区分所有建物にもファンドのオーナーが増えてきて収益を上げるためにサービスの基本である管理費の削減を要求して来るので質の良いサービスを維持するのが難しくなってきている。ファンドのオーナーの所有期間は長くて5年であるので、無責任な遣り方が多い。今回の百年に一度の大不況では、貸ビル業がサービス業と認識していないオーナーのビルは空き室が目立つようになると予測できる。

規制緩和後のタクシー運転手の運転技能低下の怖さ

全国的には分からないが、少なくても東京都内のタクシー運転手の運転技術は危ないほど低下した。特に、タクシーの運転手は地方出身者が増えており、幹線道路さえ覚えていない方が多いので、お客が道を知らないと遠回りの料金が請求される事になる。規制緩和の前には、タクシー運転手の資格は普通乗用車の2種免許が必要であった。私も自動車免許を取得する時に自動車学校で2種免許の試験について聞いた事があるが、バックでクランクを走行する技術など初心者の私にとっては驚くべき運転技術であった。しかし、現在では5年くらい事故や違反がなければタクシードライバーにばれると言う事を聞いた。悪く言えば、ペーパードライバーでもなれるということである。また、東京の様な交通が混雑しない田舎の運転経験でも都内のタクシードライバーになれるのである。尤も、最近の車にはカーナビが付いているので道を知らなくても問題ないだろうと反論する方がいるかもしれないが、その様な者は自分でカーナビを使って運転した事がない人と思われる。カーナビは便利だが、所詮有通の利かない機械である。規制前のタクシードライバーは経験で裏道や渋滞の場所、距離が遠いが渋滞を避けられる方法など知っていたので、急いでいる時には何度も助かったものである。しかし、今のタクシードライバーにその様なことは期待できない。タクシードライバーはプロの職場でなくなったからである。タクシー業界の規制緩和は、競争原理主義を導入して料金をリーズナブルにすることと、失業対策を狙ったものと推測される。ところが、実際にはタクシードライバーの生活が厳しくなり、その上タクシーの事故率が高くなっただけである。この理由は、表面的な規制緩和だけで根本的な問題を避けたからである。他と同様、タクシー運転手も小泉政権時代の薄っぺらな似非構造改革の犠牲と言える。経営者だけが潤ってタクシードライバーだけが割りを喰う改革であったからである。この結果、今日、安全性の面で問題が浮上しているが、それ以上に問題なのは個人タクシーの運手手に年齢制限がなく、自主廃業しない限りは営業できる事である。本来、規制緩和とは、利用者に便利な様にすることであると考えられるが、その事(タクシー営業の自由度)に関しては何等規制緩和していなく、利用者は不便を蒙っているのである。小泉政権の似非改革は国民の為におこなったのではなく「百害あって一利なし」である。

道州制の導入で行政組織のスリム化と国会議員・県議会議員の大幅削減が実現可能に

市町村の合併を見ると、正に行政組織のスリム化と議員数の大幅削減が実現している。ニュース記者や評論家が国会議員数の定数の適正さに言及する時に国民一人当りの議員数で日本は決して議員数は多くないと指摘しているが、この判断は必要条件だけで十分条件に言及していない。然るに、十分条件とは議員一人当りに係る報酬・経費総額はどうかということである。以前にも指摘した事だが、国会議員や地方議員の数は人口に対して決められている。戦前には井戸塀政治家と言う言葉のとおり、議員職はボランティアの性格が大きかった。戦後も高度成長時代前は議員の報酬は国会議員は知らないが、地方議員は日当制であったので、議員数が多くても財政負担は少なかったのである。それが何時の間にか月給制となり、無用な視察旅行が増え、財政に多くの負担を掛けるような制度に改悪してしまったのである。また、公務員においても然りである。何時の間にか大企業の優良企業並みの水準になり、公務員としての行政サービスの意義を考えない安定だけを求める職員が増え、財政難を引き起こしている。公務員の給料は日本の全ての労働者の報酬の平均以下であるのが望ましい。給料が安くても行政の仕事に関わりたいと言う有意な人を職員として採用するべきと考えある。良く給料が安いと悪い事をすると指摘する人がいるが、全くナンセンスな意見である。また、政治家に関してもお金が掛かると言うが、これに関しても遣り方次第と思える。国会議員に関して言えば、「報酬」の他に、「公的助成金」、「秘書報酬」、「政策費」など多額な費用を受領しているのである。個人献金も受けられるので現在でも多すぎると思われ、お金が掛かる政治活動しなければ当選しない議員など必要でないのである。大分前に政治改革を行なったが、この時には田中角栄と言う金権政治家の事だけを考慮したため、クリーンだけが強調されて政治家の活動に多額の資金を与え、財政負担がましただけであった。強欲な政治家共はそれでも足りない嘯いて贅沢な暮らしをしている。市町村合併の内、県議会議員の定数だけが削減されない問題は残ったので、道州制の導入では国会議員の削減を含めて議論する必要がある。なお、行政組織も然りである。農水省の様に農業人口が劇的に減少し、自給率も40%を割ったのに役人の数や出先機関の削減が行なわれていない現実がある。行政組織もフラット化を進め、忙しい部署と暇な部署の人的交流が出来るような人材と組織つくりを行なう必要がある。この様な変更は、道州制導入の様な一大イベントで行なわなければ出来ないと考えられ、道州制の導入は絶好の機会である。

経済的合理性の推進と非常時に活用できる見えない備えの減少

現代の社会はソフトとハードともコスト削減などの成果を重視する余り、「無用の用」で支えられてきた非常時の備えに対して次第に脆弱になってきていると感じる。良く製造業界に関しては、在庫を抱えない事が短期利益を生み出す最上の方法と考えられ、トヨタの製造方式に習う企業も多い。しかし、製造現場は合理的に行なっても販売現場ではお客は待ってくれないので販売在庫を持つ事で機能している。一方、流通業界などでは倉庫に一定規模の在庫を持つのが普通だが、これに関してもIT技術の在庫管理や問屋を通さないシステムの拡大などで次第に倉庫に物資が保管される量が減少して来ている。一企業から見れば、在庫を多く抱えるのは無駄なので、経営的に利益を上げるのに在庫を少なくする考えは基本的な考え方なので否定はしない。問題は、現代の社会経済システムでは非常時に対する考え方が、無駄と言う一言で考慮されていない怖さである。勿論、行政が企業の経済合理的活動で減少する非常時に機能する目に見えない備えの部分を補完するなら何等問題がない。しかし、現実は小さな政府と言う事で民間のいわゆる無駄な部分を補填する政策は出てこない。何が主張したいのかと言うと、分かりやすく言えば最近の建築物は水道の圧力が強くなったこともあり、多くが直結方式で貯水槽を持たない中小ビルが多くなってきた。その上、トイレなどもスペースや衛生面などからタンクを持たない方式に変わってきている。此処まで書くとお分かりの様に、突然水道水が供給されなくなったら、トイレは直ぐに使えなくなるし、飲料水も建物内の配管内の分だけとなる。現代社会における経済合理性から見た無駄は、実は非常時には一時的ではあるが有用な働きをすることになるのである。食糧にしても同様である。流通における在庫は、非常時の備蓄分として計算できるのである。もちろん、経営者や経済コンサルタントは政治家でないのでこの様な事を考える必要はないが、当社の様に建築物の計画や建設に携わっている会社としては無駄な部分の必要なのが痛いほど分かるからである。社会は矛盾があって当たり前なのだが、頭の良い人達はその様には考えない。特に、IT社会は容易く情報が入るからか、それとも情報入手の課程で脳に障害がおきるのかは知らないが、物事を探求したり、多面的に考えることが出来なくなってきたと思われる。金融危機で分かったことは、現代の社会システムの全てが非常時に対して無力であり、逆に助長してしまったことである。現代IT社会は知識はあっても知恵がない人が多くなった。

地域活性化の一つとして実業学校の地域化が必要

偶然、ケーブルTVで鹿児島県立鹿児島工業高等学校の100周年記念の行事を放映していたのを見た。行事には工業立国の日本の尖兵として活躍した方々も多く、鹿工(ロクコウ)卒業生として誇りを持った顔が素晴らしかった。校舎の真ん中に立つ古い大きな煙突が学校の象徴的な存在らしい。この番組を見ながら、日本の高校は何時頃から普通高校重視となり、実業高校の入学を敬遠する様になったのかと考えた。少なくても、私の年代は優秀な中学生が実業学校に入学し、卒業後は銀行や造船会社、自動車会社などに入社している。推測するに、大学進学率のアップとともに入試に不利な実業学校が次第に敬遠されるようになったのは理解できる。大学入学に関し入試一辺倒の文部科学省の行政の考え方が実業学校の魅力を損ねたと思われる。本来ならば、実業学校の生徒の大学入試に関しては、推薦入学制度を拡充して大学進学の不利をカバーすべきであったのである。この一例も工業化のために安い労働力を得るために農家から働き手を奪った政策と同じく、若年労働者を産業界に送り出すために実業学校の生徒のカリキュラムを大学進学用に設定しなかったのであろう。過去を遡って非難しても仕方がないので止めるが、良く考えると地域振興には実業学校の活用が必要と思えてきた。勿論、現在の実業学校の専攻課程を今の様に全国的に同じ様なものでなく、地元が必要とする産業や仕事、更には後継者が少ない伝統的な職業にすることである。この専攻課程の改革には、ドイツの様なマイスター制度を取り入れれば有効と思われる。地域再生には先ず働き手の確保が必要で、これには地域ごとに必要な知識を与える実業学校の活用が重要であるのではないかと思う。そう言えば、野球界に三原監督という名将がいたが、監督自身は慶応大学出身にも拘わらず、ご子息は板前になったとのことであった。勝負の世界に身を置いた監督のご子息が実業の世界に進んだのは「言い訳が聞かない世界」の共通性があると思った。

市街地の開発には適正な規制が必要

規制緩和が新たな需要を創出すると言われて久しい。確かに、資金的な裏づけがあれば開発が促進され、有効需要は創出されるであろう。しかし、規制緩和が引き起こすマイナス部分の乱開発に伴うインフレ整備の遅れや競争激化による不正な建築などの面に目を向けた議論は少ない。私が指摘したいのは行政の既得権利を守る事ではないので誤解しないで欲しい。森ビルの社長が都内の高層化の妨げ要因として羽田空港の存在を上げているが、一方で温暖化の対策として地上を緑化するには地下を利用すること提言している。どちらも土地の有効活用を唱えた意見ではあるが、「利用者の基準を何処においている」のか、「地震国の日本で現在の耐震レベルがどの程度有効と考えている」のか、「都内の下水道などのインフラ整備の対応を把握している」のか、大規模開発発言に関して色々と疑問が湧く。もちろん、私も地価の上昇に抑制効果がある建物の高層化に反対ではないが、昨今の大規模開発は地価の安定供給には貢献していないどころか、逆に採算性が見えない土地投機を招いているだけである。デベロッパーとして最も大事なのは、急激な資産価値の上昇ではなく、バランスのとれた開発による建物の供給であり、その供給に基づく経済成長に見合った地価と賃料の上昇を促す事である。もし、建物安全性の強化や温暖化対策にコストが掛かるのであれば一企業の問題ではないので、そのコストに見合う分を行政側に容積と言うボーナスを要求することである。大分前から指摘しているが、森ビルの六本木開発や三井不動産のミッドタウン開発など大手デベロッパーの市街地の開発手法は、クローズド開発である。オープン開発でなけれな地域が潤う事は少ない。日本の行政が作成した都市開発計画は未来志向でなく、現状優先の考え方であるので、今日の様な都内の乱開発は仕方ない面があるが、再度全国の市街地に関しては未来志向で都市計画を立案して適正な規制の下で開発を行なわせる事が重要と思われる。元来、不動産開発は規制の網の中で創意工夫を行なって事業化してきたのである。土地の有効活用を規制緩和だけに依存して行なった結果が金太郎飴的な開発であり、荒唐無稽な需要創出を生み出した。不動産業界には再販で儲ける考え方もあるが、この様な考え方はデフレ経済から抜け出せない危険なものと思われる。市街地開発には金太郎飴的な開発を排除するために適正な規制が必要なのである。

景気回復支援策の新車購入時の取得税の軽減に思う

政府が景気回復刺激策のひとつとして自動車の新車購入に必要な取得税などの軽減に対する予算を計上した。これ以外にデジタルTVなどの購入に対しても購入支援金も出るらしい。経済評論家や野党の国会議員などは購入時期に不公平な政策だと非難しているが、どの様な政策でも平等であるわけがないので、先に購入した人は運がなかったと思うほかないが、問題は自動車税の取得税の課税方法に対する問題点を指摘する人はいない。今回、景気回復に対して自動車税の軽減が話題になったのでこの点に関してグローバル経済に必要なのは何かを問いたい。私が日本と米国の自動車に係る取得税の違いを知ったのは11年前のことであった。不動産ファンドのアドバイザリーで一緒に仕事をする事になった相手が長く米国に滞在していた人で、彼が久し振りに帰国して知人から中古自動車を安く買った話を聞いてからである。彼は、「日本の取得税は自動車の排気量で課税するので中古自動車の購入金額より高い」と怒っていた。私は初めて日米の自動車取得税の違いをその時知り、米国と言う国の課税方式は合理的に出来ていると思った。その後、私の専門である不動産の取得税・固定資産税を調べたら、やはり日本と異なり、基本的に売買価格に対する課税方式であった。勿論、税率には色々な要素が加味されているので金額的には米国も安くないが、売買価格に対する課税方式は現実的であると評価した。日本では不動産取得に際してはデスカウントキャッシュフローの考え方が主流になったが、良く考えるとこの方式は不動産の課税に関して売買価格での課税コストで組み立てられており、時価会計には売買価格での課税方式が不可欠ではないかと思った。米国の方式を単純に導入すると、格言にある様に「仏を作って魂入れず」になる恐れがある。構造改革とは本来課税方式も含めなければ効果が発揮できないと考えるが、どの様な理由があるのか小泉・竹中の似非改革にも触れられてはいない。ちなみに、彼の中古自動車の購入金額は6万円であったが、取得税は10数万とのことであった。彼の怒りは当然と思われる。日本の構造改革は"木を見て森を見ず"の類であり、真の構造改革など行なってはいない。そう言えば、最近竹中平蔵がやたらTV出演して見苦しい自己弁護を行なっている。今日の不況が小泉・竹中以降の政権が構造改革を遣らなくなった事が原因と指摘しているが、そう言えば海の向こうでも前FRB長官のグリンスパンが自己弁護に奔走している。人は正しい事を行った自負があれば自分に対する評価は歴史に委ねるものである。両人とも、何か疚しいことがあるので必死になって自己弁護を行なっているのであろう。この様な人物が重要な地位を得ていた時代とは何か考えさせられる。兎に角、景気回復は企業に委ねるしかないので、企業の足を引っ張る様な法律・制度を改善する事が緊急の課題であると考える。

米国人の信頼性の尺度

昨日、投資家を訪問して雑談していた時である。その投資家の本業は建築機材の製造販売リースなのだが、最近米国企業と大きな取引を行なった話が出た時のことである。この米国企業とは初めての取引で金額も大きかったので最初は心配したとのことであった。受注に到った経緯は、米国で展開している日本の大手ゼネコンに建築機材を提供していたのに注目され、その米国企業はその製品が他国の物より性能が良いので発注して来た様だ。本題は此処からである。その米国企業は投資家の企業を訪問してきた訳でもなく、工場を見学した訳でもないのに前渡し金として発注金額の20%を振り込んできたとのことであった。投資家の初めての取引の不安を一掃するかの様な行動はそれに止まらず、中間金、最終金の支払方法も見事であった様だ。正に、グローバルに展開する米国企業の真骨頂を見た思いがしたと同時に、日本人の疑い深さを改めて思い起こした。日本社会では信頼感が欠如する故に発注先の信頼性を企業規模に置いている。我々の不動産業界は特にそうだ。我々からすれば大手企業はコスト的に同じ依頼を行なっても高く付くのは自明の通りである。然し、日本では安心料が優先して知名度が低い企業は同じ事を提案しても相手にされない。良く考えると、この違いは「狩猟民族」と「農耕民族」の違いであり、米国人は日本人と異なり、外見でなく中味を評価する能力に長けていることに帰結する。良い製品や良い仕事を行っている会社に対する信頼である。米国は金融危機で苦しんでいるが、投資家から今回の商談を聞き、改めて米国企業の凄さが分かり、米国経済が遠くない内に復活する予感を感じた。もちろん、これは個人レベルの話であり、国家が信頼できるかは別の次元の問題であるが。

地域再生のひとつには観光資源の活用が必要

先週末に知人が主催するディナーセミナーに参加した。フランス料理店を貸し切っての主催のため参加者は35人程であった。セミナーのテーマは、「日本における観光立国は成就できるか?(観光ビックバンと地域再生の行方)」についてを講演した北海道大学大学院観光創造専攻長の石森秀三先生を囲んでの"観光立国"であった。講演の中でも指摘されていたが、2010年代にはアジア大交流時代による旅行客の増加が見込まれると言う。確かに、北海道はオーストラリア人や台湾の観光客で賑わいを見せている。問題は現状の様な観光客の受け入れ体制では、観光資源を活用した地域再生は容易ではないことである。特に、行政などは観光を民間の問題として考えており、観光立国としての予算も碌に計上していない。日本の場合は東京一極集中主義になっているので、先ず観光による地域再生を考える場合には改善しなければならない課題が多い。石森先生曰く、フランスなどの欧州などは一番美味しい食材は地元でしか食べられないが、日本の場合には一番の食材は東京に運ばれてしまう様な問題である。この事は何も外人の観光客ばかりでなく、日本人の国内旅行にも言える事である。地域の再生には、他県の人が足を運んで来てくれる様な環境にすることが大事である。地方を旅行すると分かるのだが、行政や商工会議所が観光客を誘致する考え方は全て箱物投資の延長であり、観光客の利便性などが余り考慮されていない。ある地域で驚いたのは、街並みが昔の家屋で統一されて観光客に喜ばれる景観であるが、日曜なのに飲食店が殆んど営業していなかったことである。この現象は、「鶏が先か、卵が先か」の議論と同じなのであろう。当初は観光客を見込んで営業していた店舗もお客が少ないので止めてしまったと思われる。大分前の話だが、休日に観光地に行った時にお年寄りが多かったので、平日に来た方が施設の料金が安く便利なのではないかと質問した事がある。その時にお年寄りから私は嘲笑されたのであった。嘲笑の理由は、平日には観光地でもケーブルカーなどの施設が営業されていないのを知らないことであった。高齢化社会と成熟社会が到来し、然もアジア経済が成長してアジア人の観光客を期待できる今日では、地域再生には観光資源の活用が欠かせないと思われる。しかし、現状の様な観光に対する官民の姿勢では覚束ないので、今後は官民一体となって観光産業の育成に力を注ぐ必要があると考える。少なくても、地元で採れる食材を一番美味しく食べれるレストランの育成や、平日と休日に関係ない施設の運営、更には地元ボランティアによる観光客に対するガイドなどが必要である。日本には美しい自然が多くあるので、後は最近の話題の映画「おくりびと」で描かれた「優しい心」で観光客を迎えることであろうが、小泉時代に破壊された内面世界の再生が一番困難かもしれない。

タイミングが悪い東京都の固定資産税額(土地)のアップ

百年に一度と騒がれている経済危機の真っ只中で東京都は固定資産税(土地)に係る税額を上げた。確かに、ここ3年は地価が上昇傾向にあったが、昨年後半以降は逆に下落に反転していたのは周知の事実である。しかし、この様な情勢の時に税額を増やす事に対する都民や企業の反発を軽減するために建物に関しては税額を下げると言う悪質な実施である。本当に行政と言うのは民間企業の足を引っ張る事しか出来ない存在だと嫌になる。多分、値上げに関して都庁に質問すると3年毎の評価替えに基づいた増額と答えると思うが、IT社会の到来で時間軸が速くなった現代での税額の徴収方法に関して新しいシステムを導入するのが行政の義務である。確固たる経済予測もなく予算を決めているからタイミングが悪い税収のアップで個人や企業を苦しめるのである。役人が分かっていないのは、都民や企業が活動するから税収を得られるのであって、今回の増税の様に足を引っ張る行為は近い将来の都税の大幅な減収を招く結果になる事をである。尤も、本来は知事と議員が議会での論戦を通して政策の良し悪しなどを決めるのだが、120名を超える議員がいるにも拘わらず何の役にも立っていない事の方が問題なのであろう。今の日本は下は村役場の役人から上は霞ヶ関の役人まで首長と議員を馬鹿にしているのだから始末に悪いし、碌に勉強をしないで役人に借りばかり作っている議員では期待できない。今年は都会議員の選挙があるので、議員報酬の減額や議員定数の削減を公約する候補者に投票したら如何であろうか。

専門家と言う素人

一般の人達は専門家と称する人に弱い。人に依っては、専門家を「神」扱いである。しかし、専門家とは広義的には何かしらの専門的な技術を有する人と解釈できるが、その道の専門家だから全てを知覚し、実践的知識を有しているのではない事に気づいている人は少ない。例えば、弁護士と言えども資格を取得して法律事務所に属すれば、どの分野でも通用するようなゼネラリストはいない。少なくても得意分野として刑事訴訟法か民事訴訟法かを選び、更には労働法専門の場合もある。近年は時流の知的所有権で稼いでいる弁護士もおり、得意分野は細分化されている。ちなみに、労働法専門の弁護士に不動産関係のトラブルを聞いても実務的に不案内の場合が多く、一般の人はそれさえ理解していない。当たり前の話だが、弁護士は判例や法律的な事は詳しいが、建築知識などの専門知識は素人レベルである事には依頼者は無頓着である。それでも優秀な弁護士は友人・知人のその道の専門家に聞いて対応するので問題は少ないが、その方法は付け焼刃に過ぎないので他の専門業種の知識は一般の人と同じ素人レベルと考えて相談したほうが無難である。弁護士だけでなく、会計士に関しても同様である。会計士で不動産などの資産に関して実務的に詳しい人は少ない。殆んどの会計士は、決算業務が仕事の主体であり、不動産資産などは相続税の申告の時しか関わらないからである。最近は時価会計制度の導入で如何にも会計士は不動産の時価に詳しいかのような錯覚を多くの人に与えているが、不動産業を知っていれば棚卸資産に時価会計など導入しない。翻って、我々の建築業界も又然りである。建築士は住宅関係は別として事務所ビルや商業ビルなどに関しては、完成後のオペレーションに関わっていないので多くの設計がメンテナンスに関して不案内である。しかし、この様な不案内は未だ良い方で、最大の問題は専門家故に見逃してしまうミスがある。このミスは複数の専門家の現場会議を経ても起きる事である。このため、当社などは敢えて専門家集団の会議に素人を入れてチェックするシステムを採用している。素人の疑問は正しい場合が多いからである。専門家のために見えなくなってしまう或いは見逃してしまう怖さが現実にはある。特に、最近は規制緩和がどの業界にも行き渡り、職人的な執拗さでより良い物を目指す姿勢の欠如や安易に物事を判断してしまう傾向が強いので尚更専門家を信用するにはリスクが大きい社会となっている。専門家の言葉だからといって簡単に信じない事が重要だが、医療と同様にセカンドオピニオンの考え方も色々な分野の専門家に対しても必要な時代と思える。

聖徳太子の17条の憲法

今改めて聖徳太子の"17条憲法"を読んで驚くばかりである。聖徳太子の生きた時代は1400年以上も前で、現代から見ると物質的には恵まれなかったのは言うまでもない。聖徳太子の様な人物の政治家を今の時代に欲しいと思うのは私だけであろうか。今回の金融危機を契機に日本人は東洋回帰する事が必要なのではなかろうか。そう言えば、小泉・竹中のブレーンとして多くの規制緩和に関わった元財務官僚の大学教授が、スーパー銭湯で窃盗で捕まった記事が新聞に掲載されていた。この人物は多くの図書を出版して多くを語っていた様だが、何とも情けない人生の結末と言える。バブル経済崩壊後には社会の倫理感が一層消失し、何事も「勝てば官軍」の風潮が蔓延し、この時世に乗った人間的に問題がある人物が跳梁跋扈してきた事が良くわかる。この様なブログを書いているとお前はそんなに聖人君子かと言われそうだが、少なくても人を「騙したり」、「泣かせたり」、「困らせたり」、「人の物を盗んだり」して生きてはいない。私は、この様な人間に育ててくれた両親に感謝している。今の世の中は、"分からなければ何を遣っても許される"的な考え方の人が多い。インサイダーの取引を行なって「お金儲けが悪い事ですか」と居直った人が居た。この人は親からどの様な教育を受けてきたのかと思う。良く教育は学校と言われるが、この事は大きな間違いと思う。道徳教育を否定した現代の学校は知識の修得の場でしかない。教養ある人間に育てるのは家庭教育であろう。子供は親の背中を見て育つとは蓋し名言である。今の日本社会に欠けているのは倫理感であろう。そう言えば、「類は友を呼ぶ」と言う言葉も思い出した。小泉・竹中の類友が窃盗犯では世の中が可笑しくなる筈である。

グローバル経済での低価格製品輸入と雇用喪失の悪循環の解消はあるのか

今朝のTVニュースで某企業が中国の生地をカンボジアで縫製して日本に低価格で商品を供給する事を放送していた。企業にとっては生き残りをかけた企画なのだろうが、この様なグローバル経済を活用した企画を見せられる度に「猟犬と獲物の話」を考えてしまう。獲物がいなくなれば猟犬は不要となるのは自明である。米国のビジネスモデルを追い続けた結果が金融危機であった。良く考えるとベトナム戦争後の米国のビジネスモデルは株主優遇と短期利益追求主義による企業の海外流失とその結果の雇用喪失であり、また資本主義が内蔵した金融破たんを前提にした不良債権による不動産の再生であったと思われる。特に、レーガン大統領以降は規制緩和によって資本主義が内蔵する金融破たんの危機を拡大して来たのである。日本も米国のビジネスモデル教崇拝者の連中によって全く同じ道を歩んでいる。安ければ買うと言う考え方は雇用が安定しての話であり、景気悪化の入り口には成り立つモデルだが、不況が長期化した場合にも大量販売の前提でなりたつ低価格路線は生き残れるのであろうか。物を売るという行為は、現場のスタッフの役割は大きいのに、単に安いだけでは双方向時代以前のモデルである。成熟した社会でお客のニーズを捉えるには双方向による情報の活用は重要であり、その情報が雇用の拡大につながると思われる。消費者の一人としては、消費者のニーズを理解して心のこもった応対の店の商品を買いたいと思う。某コンビニで驚いたのは、外国人スタッフが寿司弁当をマニュアルとおりに温めましょうかと聞いたことである。また、DVDレンタル店では不具合のDVDのクレームに対して確認もせずに所有機器の原因にする様な対応に驚かされる。低価格商品の販売会社は安いのでお客が来る意識を持っているからか、お客に対するスタッフの対応が悪くなる傾向があるが、その様な会社は最終的には淘汰されるのであろう。日本には存在した従前従後のサービスが求められる時代が間違いなく来ていると思うし、それがグローバル経済での生き残りの必要条件であろう。

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