驚くべき新技術が開発され、2025年にはシンギュラリティも現実味が帯びてきているにも拘わらず、誰も確かな未来がイメージされないと言われている。このことは理論と実践から生じる仕方がない現象とも言える。現在の社会は机上の理論で構築されているので、物づくりの様に試行錯誤の結果に基づくものではないからだ。日本の少子化について問われれば色々な意見があるだろうが、少子化の方程式を見るにはお隣の韓国が参考になる。韓国は軍事政権時代に日本をモデルにして経済成長を推進して来た。しかし、軍事政権が倒れ、民主政権が生まれてから強力なトップダウンの政治体制がなくなり、アジア通貨危機に陥り、IMFの救済によって経済の再生を果たしたと巷間には言われている。確かに、為替は別にすれば日本がバブル経済崩壊後にデフレ経済に陥っている間に韓国は日本に追いつき、追い抜いた様な経済成長を遂げている。市場開放と生産性と効率性を要求するIMFプログラムを進めた結果、国家全体は豊かになったかもしれないが、そこには人の存在が考慮されていないプログラムであった故に急激な少子化に陥っている。日本も小泉内閣が発足し構造改革と称する似非の改革を進めた結果、少子高齢化の社会となり、韓国と同様に少子化の勢いが止まらない。少子化の責任は経済産業省の官僚と経済界にある。日本の大企業に関しては労働生産性の低い工場は海外に多くは移転しているので、非正規雇用によって景気に対する生産調整を行う必要はなかったのである。自動車会社の為に非正規雇用を採用したとも推定される。当時、大企業は国内に投資案件がなく、徒に現金・資産を溜め込んでいたのが、新時代の総会屋のアクティビストファンドに狙われた。馬鹿な話である。韓国が先行している少子化を日本が後追いしているのだが、非正規雇用が結婚をしない人達を作りだし、結婚しても教育費の高さから子供を一人とする夫婦が多い為に少子化が止まらないのだ。枝葉末節な対策で少子化を止めようとしても地方が疲弊した原因である工場の減少や鉄道の廃線などによる市街地化の空洞を等閑にして無駄な事と思われる。物理空間とバーチャル空間の両立の動きが出て来ているが、それ以前に地方に関係人口を増やすアクションプログラムも進められているにしても未来社会とは考えられない。AIと物理空間とバーチャル空間の融合、人型ロボットの機能やコストの低下、自動運転の一般化などが進んだ場合に現在の社会がどの様に変わるかが想像できない難しさがある。政治とは百年の大計を考えてのことと古来は言われたが、今の政治を見る限り、目先の対応で精いっぱいの様だ。理由は今の社会が豊かになった故の停滞と同様に政治家に多くの金を与えたのが未来志向の政治家がいなくなり、選挙対策の目先のバラマキ政治となってしまった。田中角栄の金権政治の脱却を目指して作られた政治制度が皮肉にも無能な政治家を作り出した。この事を考えると今の技術開発の影響による未来など想像出来ないのは当然とも言える。
武満徹の評伝(音楽創造への旅)を読んで
現代音楽作曲家の武満徹の評伝を読んだ。立花隆が書いたものだが、立花も武満とのインタビューで興味を深めて長い連載を行ったが、途中で武満氏が亡くなった為に単行本の出版が留保されていた様だ。しかし立花は一緒にインタビューの編集に携わった身近な人の死とその人の意志と考えてインタビュー出来なかった部分に関しては武満氏が多くの誌面で語った内容を踏まえて纏めた様だ。しかし、評伝を読んで驚いたのは武満氏は音楽家でありながら哲学家とも思える人だったことだ。評伝のタイトルになっている「音楽創造への旅」は多く才能ある世界中の有名人との出会いも書かれており、豊かな才能同士が触発されて成長し、創造力を生み出すことが理解できた。それにしても、正規な音楽を学ばずに独学で音楽の道に進み、邦楽や西欧音楽のクラシックを学ばずにいきなり現代音楽から入ったことが書かれていたが、人生の後半から邦楽、アジア音楽、西欧音楽のクラシックなどに影響されて作品を作り上げたことには驚いた。芸術家は皆同様なのだろうが、完成した作品に関しては常に不満を持ち、次に良い作品を作ろうとする意志、創造力には頭が下がる。作曲家の言葉として曲が天から降って来ると言うのがあるが、武満氏クラスになると自然の中に無数にある音から引き寄せてくるらしい。確かに、造形美術家が木や石の中に既に作品が入っており、それを削り出すことと同様なことと思われた。武満氏が邦楽に関しては世界の音楽と違って神の世界がなく自然に帰結することを指摘していたのには理解し難かった。日本は一神教ではないが神の世界の事は語られており、それでも神が不在であり、自然に同化するのが邦楽の特徴であるらしい。日本は自然環境の厳しい中に生活があり、古代の人にとっては神の助けより自然に同化する道しかなかったのかもしれない。色々なものが日本に入ると変質することは聞いていたが、東洋的な世界を更に非論理的な状況まで止揚する自然環境が日本にはあるのだろう。武満氏は西欧の世界を論理的な人工的な世界として捉えており、武満氏自身は西欧音楽の方が精神的に受け入れやすかったのだろうし、戦争時代を子供として過ごした影響が大きいかもしれない。現代社会では新規に事業を起こすことが求められており、それにはアートの世界の創造力が必要との事でそれを学ぼうする機運があるが、武満氏の評伝を見る限りアートの前に哲学が必要と思われる。哲学なきアートは創造への旅とはならない様だ。勿論、私レベルが才能ある人の評伝を読んで理解できる筈もないが、それでも人は何かの役割を持って社会に存在していると思われ、私自身もその役割を一生探す旅を続けると思った次第だ。
人と神 言葉の評伝「立花隆」を読んで
立花隆は私の故郷の茨城県と縁があるジャーナリスト・作家なので興味があったが、初めて知ったのは政治家の田中角栄の金脈を文藝春秋で暴いた時であった。立花隆に関しては父から故郷が生んだ農本主義者の橘孝三郎の孫として聞いた記憶があるが、実際には父親が従兄弟同士であり、孫ではない事を知った。橘孝三郎は戦前に軍人と右翼が起こした5.15事件に関わった人物だ。立花隆はペンネームで本名は橘隆志であることも知ったが、生まれは長崎県であるものの、幼児の時から高校1年まで水戸に住んでいたので、故郷の著名人として扱っても良いと思った。特に、立花隆の母親は私の生まれた寒村の隣町出身であることも興味を持った。伯父に関しては興味がなかった様で残された資料の中に言及したものがなかったのは残念であった。立花隆は過去より未来に興味があった様であり、田中角栄の金脈で政治に関わったが、政治に関しては興味がなかったのかその後に「日本共産党の研究」以外に政治を論じたものはない様だ。立花隆の興味は根源的なものに移っており、私自身は立花の著作はあまり読んでいない。今回の評伝で「宇宙からの帰還」や「臨死体験」などの著書があり、人間の体験の影響の問題を扱ったのが大学に入り直し、哲学を学んでから書かれたものであることを知った。今回の評伝を読む前に立花隆が書いた前衛音楽家の武満轍の伝記である音楽創造への旅を読んでいるが、同署は長い間出版されて来なかったのを立花のパートナーの死を契機に世に出されたものであることを知った。今回の立花隆を論じるのに人(哲学)、神(キリスト教)、言葉(音)のタイトルで示している通り、立花の内面から分析しているのに納得させられた。両親が無教会派のキリスト教徒であり、子供の頃から大きな影響をうけて育った為に神の存在に関しては哲学を学ぶ必要があったのだろう。以前に井筒俊彦の著作を読んだが、立花が井筒の影響もうけている事が書かれており、井筒の場合には仏教の影響からイスラムのスーフィズムの研究に進んでいるが、子供の頃から宗教に触れていると何かしらの啓示を受けて探求することになるのかと思った。人を論じた本で評価が高いロシア文学に影響をうけたのも立花と井筒は共通している。尤も、立花は武満徹の音楽に言葉の深さを感じたのは井筒と違っているが、井筒が研究したイスラム教の祈りは音楽的な響きもあり、仏教の読経も同様であるので、言葉(音)と捉えても良いかもしれない。音は人の耳では消失するが実際には遠くまで無限に響いていると言われている。言葉は共通なものではないと言われるが、それは言葉を心に響かせるには言葉自体より音の響きが必要なのかもしれない。立花が若い頃にキリスト教に対して抱いた排他主義は同じキリスト教でも正統以外は異端として排斥することに疑問を抱いたからではないかと指摘されている。宗教以外でも正統以外は異論として排斥されるのが社会の現実なのを見抜いたが故の悩みであったのかと思われる。立花が最終的に言葉に行き着き、その言葉の音に関して何かの啓示を得たのかもしれない。
米国大統領選で考える
トランプ大統領候補が銃撃から間一髪で逃れたので何かの天命があるかと思ったが、その後にバイデン大統領が選挙から撤退してハリス副大統領が大統領選挙の民主党候補者になることが確実視されてから深く考えると、歴史的な役割を担ってるのは共和党の副大統領候補になったバンスかもしれないと考えを改めた。トランプを生かしたのはバンスが副大統領に成り、将来的に選挙かトランプの途中退場で大統領に成るシナリオかもと考え持つに到った。バンスはアメリカンドリームを実践した人物だ。貧しい人達が目指す道である高校を卒業して軍隊(海兵隊)に入り、退役後に奨学金を得て大学に行き、更に有名大学のイエール大学法科大学院に入り弁護士となった。その後に、自伝的な小説とも言えるヒルベリー・エレジーを出版しベストセラーとなった。その後は投資家となり活躍しているのだが、イラク戦争を経験し、トランプ以上に独裁的な資質の持ち主と言える。トランプは口だけで実際は余り過激なことは行っていないことが前の大統領の経験から見なされているが、バンスがトランプ後の米国大統領になった場合には違った世界が見える。米国の中国に対する姿勢は中国と言う仮想敵を作って国内に再度生産工場を復活させる意志があると思われる。伝統的に米国は大陸派と沿海派に分かれるが、中国を仮想敵と見做す限りは日本は防衛最前線の国家として米国から支援される。しかし、バンスは海兵隊出身なので沿海派と言えるが下士官であったので、その影響はあまり受けていないと推定されるので、IT起業家からの支援を受けているのを見ると大陸派になる可能性も否定できない。気が早い話しだが、バンスが大統領になった時の米国は日本にとって必ずしも歓迎すべき大統領ではないかもしれない。もっとも、民主党のハリスが大統領になった場合には、米国から色々な改革が強要させられる可能性もあり、歓迎すべき大統領ではないかもしれない。しかし、米国の大統領以上に問題なのは日本が目下、次の首相に誰がなるかの問題に翻弄されて世界的な動きについて行っていない状況が危惧されている。スポーツの世界では海外コンプレックスを克服した選手たちが活躍しているが、政治の世界は未だ井戸の中の蛙なので困ったことだ。
トランプ米国大統領候補に対する狙撃事件が意味するもの
歴史は些細な事で大事件に繋がることがある。第一次世界大戦はオーストリアの皇太子の暗殺事件から勃発したが、事件の経緯を書いた過去の書物を読んだ時に偶然を超えた何かしらの力が働いたとしか思えないことに衝撃を受けた。今回のトランプ大統領候補は間一髪で難を逃れたが、それは原稿を見るために顔を動かしたことであった。真実かどうかは不明だが、バイデン大統領がトランプ氏に電話かを掛けた時に顔を動かした理由を尋ねた所、原稿に目を向けたと答えたそうだ。バイデンの大統領選挙からの撤退は間違いなく、トランプ氏が狙撃事件で難を逃れたことに運命的なものを感じた為であると推定される。問題はトランプ氏が大統領に選出された時に世界がどの様に動くのかだと思われる。トランプ氏は間違いなく、グローバル経済を否定する人物だ。歴史は温暖化や人口増大など地球にマイナスに作用している問題は根底にはグローバル経済から発生しているのは間違いがない。トランプ氏に運命の女神がほほ笑んだとしたら、世界としては擬人的に言えばグローバル経済を止める意思表示と言える。米国は伝統的に建国以来アジア重視であり、大陸派と沿海派に分かれている。米中対立が続く限り日本は米国に取っては戦略上重要な国となる。第二次世界大戦後の世界では米国は常にロシア(旧ソ連)と中国の乖離を画策してきたが、ソ連崩壊後のロシアと経済成長率著しい中国に対してはグローバル経済に組み込んだ両国を脅威と見做さないできた。現在はそのことが仇になってロシアと中国が接近しているので、米国にとっては世界をコントロールする上で過去のの脅威が蘇っている。バイデン大統領は両国を敵に回したが、トランプ氏が大統領に成れば、ロシアを囲い込んで中国を孤立化させる伝統的な戦略に戻ると推定される。米国を長期的に考えるとトランプ大統領候補の副大統領候補になったバンス氏の存在だ。面白いことにバンス氏を支援しているのはIT企業の起業家である。バンス氏の書いた著作「ヒルビリー・エレジー」も読んだが、正にグローバル経済を批判したもので自伝的な本だ。海兵隊に入ってから人生を変えた典型的な事例と思われる。最終学歴はイェール大学ロースクールなので、出版で得た資本を本にベンチャーキャピタルとしての活動がIT起業家の支援を得られているので、IT起業家の人達特有の独善的なものを持っていると思料される。トランプ後の大統領候補に出て来ることは確かですので、独裁色を強める政治家になる可能性があり、世界的には民主国家が後退する可能性がある。今後の世界を考える上で平和か戦争かと見れば、各地で紛争が起きる可能性が高いかもしれない。何れにしても世界はグローバル経済を阻止する動きになる事は間違いがないし、バンス時代になれば米国は強権国家になるかもしれない。ここに中国とインドが覇権国家として存在してくる可能性があり、日本は難しい選択を迫られると思われる。
都知事選前後の報道で分かったメディアの衰退と期待できる技術
都知事選前後に異常なくらいにメディアの寵児になった中身のない石丸伸二氏と民主主義の選挙を変えるかもしれない双方向のgithubによる政策提案を行った安野貴博氏に対するメディアの取り上げ方を見てメディアの今後の衰退を見る思いがした。メディアから泡沫候補とされた安野貴博氏はそれでも5位に入ったのが都民の救いになった。選挙に出る場合の注目度は過去に選挙に関わったかどうかで取り扱いが違うのだろう。メディア自体が社会に変革を要求しているのに自分たちの世界は変えない姿勢と言う冴えない話だ。安野氏の経歴を見た場合に彼が都知事選に何故出たのかに興味を持たなかったのかと不思議だ。メディアの政治部に所属すると未来が見えなくなる部門なのだろう。政治部が古色蒼然としていたのでは最先端の技術を駆使している候補に目が行く訳がない。それにしても安野氏とは面白い人物である。正に実務の人と言っても過言ではない。一方の石丸氏は金融機関に身を置き米国に行ったが学んできたのは中身がなくてSNSを使えば大統領に成れると言う間違った経験だ。トランプ前大統領はビジネスマンとして多くのプロジェクトを行ってきた実務家だ。単に中身がなくてSNSで寵児になった人物ではない。石丸氏が大学卒業後に選択した金融マンの職業が事業とは程遠い仕事であることが中身のない人物に仕上げたので、早く間違いに気が付かないと年齢的に手遅れになる。それにしても安野氏は大手のコンサル会社に入ったので、事業に対する取り組み方を習ったのだろう。事業の立ち上げのセンスには驚くほかない。多才なうえに学ぶ姿勢もあるので、今後の成長が期待できる。都知事選に出たのは未来の民主主義の有り方を探るものであったならば政策の発表の場を双方向のWEBにおいて選挙民に政治能力や政策能力を見極める場を早く作ってもらいたい。議会を通してのものは泥棒に番をさせるものなので、政治家になる為にはそのシステムを使わないと当選できない様にして政治から政治屋を一掃させてほしい。もっとも、AIに答えさせる偽物も出現するかもしれないので、それを防ぐ技術も必要だ。
政治家の素質とは
東京都の都知事選挙で前広島県安芸高田市市長の石丸伸二氏が予想外の2位になり耳目を集めているが、同時期に石丸氏が辞職して行われた安芸高田市長選挙も行われ、石丸氏の後継候補が敗れた。石丸氏の安芸高田市長時代の市議会との一方的な対立を見る限り、間違っても都知事にならせる人でなかった人物であることが分かる。自治体の長になり首長として選挙民の為になる人物とは如何なる者かが偶然に仕事の関係で訪れた茨城県猿島郡境町でお会いした人物で知ることになった。その人物とは境町町長の橋本正裕氏である。橋本町長は大学卒業後に市職員として働き、更に市議会議員として活躍し、その後に町長になった人だ。35才に町議会議長になり、全国最年少の市町村議会議長であった。実は私の父親は50年以上前になるが39歳で村議会議長になり、全国市町村議会の最年少議長であったので、それより4歳以上も若くして議長になったのは出色と思われる。議長職は政治家として有能なのは当然だが、一般的には当選回数を重ねた長老議員が就くものだ。父も当選2回の任期中に議長になったので、当時としては際立って若く、他の議長は父の親世代が多かったことを聞いた記憶がある。父の話だと議長仲間は殆んどが市町村長、県議会議員、国会議員になったそうだ。父は保守的な茨城県で敢えて革新の道を歩み、選挙民にお願いしますとは言わない政治家であったので、県議会議員の選挙で敗れてからは若くして政治を引退した。父は母に対し自分の金を使って選挙し、地域を良くするのに何で頭を下げるんだと怒鳴っていた。母はからすれば頭を下げれば票が入るのにと思っていたのだが、父は頑として母の言葉を受け入れなかった。子供の時には私も母の考えと同じだったが、父の年齢以上の年となった今では父のことを理解できる。話が横に逸れてしまったが、境町の橋本町長は町役場の職員を味方につけ、市議会も多数の支持者を持ち、更に有権者にも賛同を得て町の為に政策の実現を図っている。橋本町長の祖父が境町の町長に就いているので、町の発展を実現する政策を可能にする術を幼児の頃から学んでいるのかもしれない。それに比べて石丸氏は良い政策を打ち出せば簡単に賛同を得られると勘違いしている様だ。社会はそれほど単純ではないので、自分の思いを実現するには多くの人から賛同を得る必要がある。独りよがりではダメなのは私も自分の父から学んでいる。境町を視察して鉄道の駅を持たないのに平成の合併に加わらずに独自の政策で町を発展させている橋本町長を見ると明治維新を遂げて日本を近代国家にした人達と二重写しになる。我が故郷の茨城県にこの様な人物がいたかと感嘆した。なお、視察の同伴した会社の社外取締役の方に橋本町長が町長選挙で無投票にならないのが不思議と言ったら茨城県人だからだろうと答えた。この方は静岡県のご出身だが、茨城県人の気質を良く知っていると苦笑した。
円安について思うこと
アベノミクスで意図的に円安誘導をする為にインフレ経済を目指して日銀の異次元緩和進めたが、今回の円安は色々と諸説はあるものの、グローバル経済が引き起こした円安とは違うような気がする。勿論、米国との金利差も円安要因ではあるが、現在の円安150円台は39年前のG5で決めたドル安誘導時の円高水準である。現在と39年前との大きな違いは、国内にあった多くの工場の海外移転と農産物の自給率の低下、更に国鉄の民営化により地方の経済の衰退を考えると全く別な次元の円安であろう。当然に戦前の円安などとの比較は政治的地政学的な状況が似ていても似て非なるものなので無意味と言える。歴史は繰り返すが全く同じ様に繰り返すわけではない。円安を考える上で米中の覇権争い、ロシアのウクライナ戦争によるロシアとEUの対立を考える必要がある。米国のアジア戦略の歴史を読むと、当然に今の日本は中国とロシアに対する防波堤の存在である。円安が更に進んだ場合には国内に工場が戻るのか、農産物の自給率が高まるのかである。米国はかっての栄光の時代の様に国内に製造力はない。その為に米中対立以降は国内に製造工場を造らせている。しかし、米中対立で米国も国内に製造を戻す計画を進めているが簡単ではない。勿論、少子高齢化の日本でも簡単ではないが、AIやロボットの活用などにより過去とは違った形で国内還流は実現するかもしれない。国内の農業でも家畜の飼料となる農産物を試験的に栽培しており、円安で輸入農産物が高くなると採算価格となる可能がある。戦後の経済発展は官民の共同で行われてきたが、現在は官の方は革新性に乏しく、民の足を引っ張っている存在だ。理由は簡単だ。国家より自分の生活を優先した人物しか官に就いていないからだ。子供時代から塾に通って進学校に入ることで官僚になったのだろうが、そこにはエゴの世界しか存在しない。官の仕事は自己犠牲でもある。更に言えば、親の負担で学校に入れたので、親以上の国家観は持っていない。良く財務官僚が非難されるが、経済面では経済産業省の方が最悪だ。話は大分逸れてしまったが、今回の円安は過去の円安とは違って米中対立、ロシアと欧州の軋轢などを背景に起きているので、地政学的に読み解かないと誤るかもしれない。
自動車会社の型式指定(認証)の問題について
自動車会社の型式指定の不正(?)の報道が続いている。最近ではトヨタが型式指定の不正報道で大騒ぎだ。型式指定は大量生産に対する安全チェックの省略化を目的とした制度と言われている。型式指定の不正を免れる自動車会社が居ない事に疑問を持たざるを得ない。トヨタの場合は多くの不正が事前設定値より厳しく扱ったものであるが、それでも設定値の違いとなり不正になるらしい。紋切り型の対応には釈然としない。もう一つはエンジンの数値の不正で、これに関しては言い訳が出来ない様だ。しかし、設計の自動化のシミュレーションの導入で設計上においては正しいものの、ハードの制作現場ではその数値を実現できないと言うソフト重視の問題があった様だ。日本のモノ作りが時代遅れでハードではなくソフト重視が言われて久しいが、ハードがソフトについて行けない問題を指摘したものはない。ハードを効率的に使うソフトの技術は否定しないが、ソフトでシミュレーションしたものでも成果が出ないモノもあると思われる。型式認証で思い出されるのは三菱重工業のジェット機が米国の型式認証が取れずに最後には断念したことが思い出される。ジェット機なので自動車と比較して数段厳しいのであろうが、日本にその認証する技術力がなくて世界に売る為には米国の型式認証を取る必要があるのは仕方がないが、中国などは米国の型式認証を取らずにジェット機を製造し、発展途上国に販売している。ロシアやその他の反米国は同様であろう。自動車も過去には輸出など出来ない時代は薄っぺらのボディでも型式認証が取れたと思われる。それが民間の自動車開発に対応できない国の型式認証を扱う部門が不正摘発を金科玉条にして権威を振り回すと自動車産業がつぶれる。グローバルの時代だから日本で型式認証を取らずに米国の型式認証を取ればよい位の発想があっても良い。米国はリアリズムの国だから細かい部分の型式認証の代わりに製造工程で問題があって自動車が事故を起こした場合には多額の賠償金を課される。科学技術が高度化した現代においてはチェックしきれないので、自助努力の製造責任による賠償責任で解決すれば良いと思われる。日本の官僚は柔軟性がなく、一度手にした権力を手ばなさないので最悪だ。民主主義とは自己責任の事だ。日本の衰退はバカな政治家と官僚に帰結する。
M・グリーンのアメリカのアジア戦略史を読んで
米国の建国以来240年のアジアに対する戦略について書かれた歴史を読んで目から鱗が落ちたようだ。江戸時代のペリー来航以降の米国のアジア戦略が分かり、特に日露戦争のおける米国のローズベルト大統領が巷間で言われている様な小村寿太郎とハーバート大学の同窓の親近感から日本を支援した話とは違った事が分かり、新たな視点を得ることになった。日本は国際政治に情緒的な友情などの観点から見るが、米国は冷徹な国益から判断していることが良く分かる。レーガンと中曽根、小泉とブッシュ更にトランプと安倍の個人的な親しさから日本は国際政治に関して説明されることが多いが、その親しさの背景には米国の国益が厳然としてあると言う事実を指摘した日本人は皆無だ。米国の大統領としてローズベルトが二人おり、親戚なので理解することがややこしいが、第二次世界大戦時のローズベルト大統領が日本の千島列島をソ連に売り渡した事実は私も良く知らなかった。勿論、戦争終結前に死んだので共産国のソ連がその後の冷戦の主体になる事を想定できなかったのだろうが、それ以上に日本に対する嫌悪感が大きかった様だ。もっとも、ローズベルト大統領が日本との戦争を望んで仕掛けたという説はアジア戦略史を読む限り必ずしも当たっていなく、米国と日本の無理解が戦争に到ったと見なされている。アジア太平洋の覇権を争った日本と米国は現在の中国と米国に置き換えられる。しかし、米国国内の世論が過去の様な民主主義を守ることで一致していない現代において権威主義国との争いが米国民の支持が得られるかは不明だが、少なくとも米中対立が続く限り日本は米国の貴重な同盟国の存在ではあり続けると思われる。問題はヒットラーの様な民族の保護を理由に他国に侵略しているロシアの存在や核武装した北朝鮮との関係が今後の北東アジアに何をもたらすかだと思われる。過去の植民地時代と異なり、現代はグローバル経済であるために国際政治は複雑になっている。中国とロシアの脅威が増しているので日本が軍備を強化するのは当然であり、戦後の平和の時代が終焉した事だけは意識を持つ必要がある。円安は一時的にはエネルギー価格や農産物の輸入で物価高などを招くが、権威主義国と民主主義国の争いの長期化の中では生産工場が国内に戻ることや食糧の自給率のアップになることは予想される。少子化はグローバル経済で仕事を得るのは厳しくなった社会が背景にあるので、生産工場が国内に戻れば少子化が止まり反転することも期待できる。インドネシアが仲間に加わるかは分からないが、少なくても韓国、台湾、フィリピンとの同盟を日本は推進し、大陸国家の太平洋への進出を止める勢力になるべきと思料する。遠いかもしれないが英国や欧州の国家とも連携を深めて民主主義国家を守る事は重要だ。米国に依存しすぎると裏切られるリスクもある。要注意だ。米国の240年のアジア戦略史はそれを語ってる。