災害に強い過去の2本社体制

過去に戻れば良いわけではないが、過っては大企業の多くは大阪と東京の2本社制度であった。それが次第に東京の1本社制になって久しい。有力企業の多くが大阪から生じた事も2本社制の理由の一つであろうが、今回の大震災で考えれば、無駄に思えた組織体制も日本の災害を受け易い地域で事業するには必要な無駄と最近は思えてきた。少なくても、万が一に備えて2箇所に本社機能を分散させて置くことはアナログ時代の様なコストでなくて確立できるのではないかと思料する。尤も、この様な議論を展開するとクラウドの時代だから重要なドキュメントなどを電子的に他所に避難させておけば良いと反論が出ると思われるが、問題は人である。人を分散させて置く重要性もある。しかし、若い世代からそれなら何もリスクの高い日本に本社を2ヶ所持つのではなく、海外に置けば良いとの反論も出てくると思われる。確かに、今の時代に2本社制を論じるならもう1箇所は海外に置いた方がリスク分散には効果的だが、日本企業がそこまでグローバル化出来るのかという問題は残る。ヨーロッパでも欧州統合によって英語が共通言語になりつつあり、グローバル経済の共通言語は英語なのは間違いない。アジア諸国でも若い人たちは英語で話し合う時代になり、人種を超えてきている。ただし、英語を不自由なく駆使できる人達は少なく、多くの日本人の社員は英語を話せないしアジア諸国でも同様なので、組織の円滑化から考えれば未だ国内2本社制が有効と思われる。IT時代なので2本社制のコストは最低限で復活できると思われ、地球変動期に入ったと言う学者の言葉を信用すれば、遠い宇宙から帰還した「HAYABUSA」の様に万が一の為の機能を持たせておくことが大事と思われる。

国民を愚弄する菅首相の悪質さ

菅首相は公社債法案など3法案が通ったら退陣すると発言したらしい。しかし、内閣改造で自民党の浜田参議院を一本釣りした遣り方は3法案の成立など毛頭考えていないのが手に取るように分かる。マスコミが報じている様に脱原発のサプライズ解散を目論んでいると推定できる。菅内閣は、福島原発事故を原発政策推進した自民党の責任にして国民の信を得ようとしているが、原発事故当初の北澤防衛大臣が行なった自衛隊機による清水社長の帰京妨害や米国のスリーマイル島原発事故時のカーター大統領を真似した福島原発現場に飛んだパフォーマンスによる事故処理の遅れなど重要な誤りを起こしているのである。それ以外にも根拠のない事を現場に質問して事故処理を混乱させた責任は重大なのである。然も、民主党政権は東電労組の関係から2年間の政権の間には逆に原発重視と原発輸出を推進しているのである。老朽化した福島原発の使用延長に対しても何等の意義も唱えていなかったのである。全てを自民党の責任にして脱原発など主張するのは、天に唾する行為だ。菅首相は国民を馬鹿にした売国奴官僚の財務官僚と親しくなっているので、財務官僚は小泉が郵政サプライズを起こした事例を囁いて菅首相に脱原発でのサプライズ選挙を実施を促していると推定できる。菅首相の実家は岡山県にあり、地主の末裔と報道されているが、祖先は多くの人を騙して財を築いた一族なのであろう。悪い血が流れていなければ平気で嘘を言う人物にはならない。市川房江の市民運動で頭角を現したらしいが、市川房江は菅を信用していなかったと言われている。大衆の中から出てきた権勢家の多くは大衆を馬鹿にするものである。独裁者ヒットラーも"わが闘争"の中で「大衆は群盲が像をなでるが如し」と言って何も分からないと卑下した。正に、菅首相は大衆を身近に見てきているので、大衆の愚かさを熟知しているのであると考えられる。嘘も3回言えば真実になる諺もある。東日本の国民が未曾有の苦しみの中にいるのに自分の利益だけを考えて悪戯に時間を浪費する菅と言う人物を許すべきでない。若し、サプライズ選挙を断行したならば、菅自信を落選させる事が重要だ。更に、民主党の幹部も菅首相の茶番の共演者とするならば同様に選挙で思い知らせるべきである。菅首相は自分が見えていないかもしれないが、TVを通して見える菅首相の目は嘘つきであることが良く分かる。

神に愛されている日本人

不謹慎なタイトルと思われるかもしれないが、学生時代に読んだ作家の開高健のエッセイに「神は愛する者に試練を与える」と書かれていた。私も人生を振り返ると、神に愛され続けて来たのを実感する。然も、日本列島と言う島国に生まれたことは、「台風」、「火山」、「地震」、「津波」と言う自然の驚異にも晒されて生きてきたのであえる。今回の東日本大地震を振り返ると、東北地方の津波に弱い地形に多くの人が住んでいた理由を考える必要があると思った。確かに、三陸沿岸は漁業が盛んなので職住接近の便利さから言えば、津波に弱い平坦地に家を建てた方が都合が良いのは確かである。然し、海岸線を埋め立て津波に弱い平坦部を作ってまでも、リスクの高い平坦部に多くの人が住むようになったのだろうかと考えてしまう。古来より日本人は自然の中の脅威も神として敬い、その様な神と共棲してきた文化がある。日本の祭りは色々な理由があって成立しているが、盆踊りなどは死者が帰ってきた時に行なう弔いの意味もあると思われる。古来より日本人は自然の驚異に対して謙虚に恐れ戦き生きてきたのであり、自然の他の生き物と共棲してきたのである。然し、明治維新以降は西欧式の近代化により科学の力でもって人間優位の社会に転換を図ったのである。1945年以降は米国式の資本主義と民主主義が主体となり、更に米国式の豊かさを追求して次第に自然の驚異を忘却し、自然に対して尊大な気持ちを持つに到った感がある。確かに、国や国民は豊かになり、今でも世界の中では恵まれた地位を築いている。日本列島の理想的な人口はどの位なのかと考えると、食糧生産基準の江戸時代には3千万人位であったらしいが、、今は約4倍近くの人口となっている。この人口に到った背景には西欧近代化による産業育成や公衆衛生の導入など富が齎した面が強い。過去60年を振り返ると、日本人に対して神は横を向いていたと思われて仕方がない。勿論、この間にも、思い出したような神の小さな愛を日本人に幾たびか与えてたが、大東亜戦争で大きな愛を受けたためか小さな愛に終始した。此れが為に、日本人は神の愛を科学技術で克服できると言う考えに至り、多くの国民も知らず知らずに古い教えを守らなくなっていた。竹やぶが地震に強いので過っては田舎では何処でも敷地内に竹やぶがあった。昨日見たTVでは、川や海の護岸作りを日本古来の石積みによる工法を開発して取り組んでいる造園業者が放送されたが、自然との共棲が身を守る助けになることを思い出させて呉れた。然し、東京都内などは自然との共棲でない高層化の街づくりを進めており、海岸線はコンクリートで固めている。力で自然を押さえつけようとする事は東日本大震災で不可能と理解させられ、その上自然界の中に存在しない物質を作り上げる原子力発電所に対して自然が警告したと思わざるを得ない。CO2削減や再生エネルギーが求められる現代にあって、日本が東日本大震災と原発事故と言う大きな神の愛を受けたのは、神が日本人を見捨てたのではなく、新しい国づくりの指針を与えたのだと考える必要がある。東北東海岸の復興が自然と共棲したものであり、且つ人々が多くの物を共有する社会作りであると予感され、日本全体にその考えが浸透することが地方の復活に繫がると考える。

ナビ的人間

NY在住の友人と電話で話していた時に若い世代が融通が利かないと言うか、柔軟性に欠ける点を論じていた時に、カーナビゲーションの融通のなさに言及し、若い世代と類似している事に双方が気が付いた。商品が溢れ、情報化時代には容易にPCなどから情報が得られるので、今の若い世代は以外に行動的ではないと思える。尤も、スポーツなどで体を鍛えてきた若い世代は行動的だが、思考に関しては同様と思われる。端的に言えば、カーナビは目的地に対して直線的であり、目的地周辺を通過して戻ると言う仕組みにはなっていない。勿論、高価な金額であれば全てを満たすカーナビが作られるのだろうが、茲での議論は飽くまで一般的なカーナビの性能に関してである。我々世代の若い時は情報化以前の時代であったので、上司から調査を依頼されたときには国会図書館でマイクロフィルムを見たり、関係企業を訪問したり、役所を訪問したり、業界紙の記者から情報をヒアリングしたりと、多くの時間を使って多くの人と会って報告書を取りまとめたものである。この苦労が調査目的以上の成果をもたらしてくれて企業人・社会人として成長したことを記憶している。現代は、PC操作ひとつで多くの情報が得られるが、この情報は一方通行の情報である。然も、目的以外の情報を偶然得られる様なことはない。また、この種の情報入手は耳学問的な情報の取り方であるので、間違っているかどうかの検証に関しては弱い面がある。若い世代は子供と時から偏差値教育でペーパー上のトレーニングばかりである。スポーツを遣れば頭でっかちの面が幾分緩和されるのだが、それでもスポーツとなれば単純な遊びではないので、目的意識が働いて柔軟性に欠ける面は同様だ。ナビ的人間が作る社会はどの様なものなのかを我々世代は考える必要がある。形式主義が横行するであろうし、多面的な対応は期待できないと思われる。この様に書くと若い世代を貶しているだけと受け取られるが、確かに今回の東日本大震災では情報化に相俟って構築された情報システムは機能し、従来には考えられない程被災地にも情報が流れたり、交通網のチェックも素早く出来たので、情報機器やシステムを駆使した若い世代の凄さには敬服する。然しである。我々の世代としては、多量なデータの分析は柔軟な頭脳があって効果を発揮すると考えられ、人間の思考が機械的になった場合の誤りを懸念してしまう。一番大事な点はデータは過去のものであり、未来の物ではないと言う事実である。ナビ的人間が情報システムに取り込まれるリスクも考える必要がある。それは物事のの実現に対する安易な考え方である。情報化の中で神話化された偏重した思考能力が全てに通用する思い込みは怖い。

日本の人口減少論に対する無理解を憂いる

どの新聞、雑誌を見ても日本は人口が減少して行くので企業はマーケットを海外に求め日本には未来はないと言及している。企業経営者もマスコミに影響されてか同様な発想しか持てていない。歴史観を持たない政治家や官僚、そして経済人が日本を誤った方向に持って行く姿は情けないのひと言だ。日本の古代史を見ると日本は移民の国であったことが分かる。DNAの分析では日本人は出アフリカの人類の祖先の枝分かれした殆んどを有していることが分かった。日本人は顔かたちは似ているが、頭の中身は多民族国家と同様なのである。日本文化には"根回し"と言う独特の事前調整行為がある。又、"沈黙は金、雄弁は銀"とする欧米の社会とは異なる文化を持っている。この理由は先に言及した多様な価値観を有する日本人の共棲するための知恵と考えられる。今は紙幣から消えた聖徳太子と言う聖人が作った17条憲法の第一条に「和を持って尊し」と書かれていることが全てを物語っている。話は大分横道にされたが、日本人が単一民族であると言う神話は嘘であったことが近年のDNA分析で分かったのであるから、日本が移民政策を否定する理由はないのである。然も、昨年から高齢者の死者数の増加で人口が初めて10万人減少したのである。今年は更に増加して12万人に増える予測が出ている。人口減が経済成長や景気に影響するなら人口増加を図る政策を打ち出すべきだが、日本人に対して子供を増やす事を奨励しても時間軸的には既に無理となっている。それならば、海外からの移住を積極的に認めるべきであり、それが日本版のグリーンカード制度の構築である。米国の経済はグリーンカード制度が貢献している事が理解されている。今般、13億人の中国が中国版グリーンカード制度の導入を打ち出した。中国も高齢化社会は目前としてるので、経済成長には優秀な移民が必要と認識し手を打ってきたのである。翻って日本は、過去に欧州各国が移民政策を採用して多くの問題を抱えたのを見て消極的な政策に終始した。しかし、今は事情が大きく変わったのである。また、日本は欧州の様な他民族と国境を接して長く争った歴史を持つ国ではないので、実際には移民の受け入れに障害となる単一民族意識の誤解を解くと移民との共棲が上手く行くと考えられる。勿論、日本の移民政策は、地方においては農業、林業、漁業の活性化に貢献する必要があり、都会においては優秀な研究者・技術者により技術立国を目指すものでなくてはならない。歴史をふり返れば、日本は多くの移民達が持ってきた技術により発展してきたものであり、現代日本が世界の有数な経済大国になったのは優秀な移民を祖先に持つからである。2000年以上前に日本列島に渡って来た韓国人を祖先に持つ日本人は多いのであり、その人達と過去100年以内に渡って来た韓国人と違いはないのである。今こそ、日本人こそグローバルなDNAを持つ唯一の民族である事を宣言し、新世紀の移民政策を実施する事が日本の繁栄につながることを認識する必要がある。

耐震構造強度不足による賠償裁判の判決が問題だ

小泉改悪のひとつとして建築確認申請の民間委託があるが、改悪前では起きなかった耐震構造強度不足の問題が相次ぎ、各地で行政庁と民間審査機関に対して賠償裁判が起こされている。この裁判結果は予想とおり、行政庁などが責任を逃れる判決であった。行政訴訟は勝てないと言うセオリーがあるが、今回の耐震構造強度不足に関しては最終的なチェックを行なう機関として責任がないと言うことになり、日本の建築物に対する信頼がなくなる問題なので看過できない。裁判官は実務経験がないなために、専門知識を要する裁判においては権威者が作成した意見者などに左右される事が多い。更に、行政訴訟の場合には、裁判所は行政を擁護する思想が蔓延っているので公正さが欠けている面が強い。建築確認申請に関する規制緩和は米国の圧力から準備も整っていないうちに実施した最悪のものだが、特に建築確認申請においては、行政レベルでは審査しきれない高層化建物が増大したにも拘わらず民間委託にした無責任さには怒りを抑えられない。民間委託を前提に国交省はチープな構造計算ソフトの使用を義務付けたために、建築設計の自由度まで奪う結果となっている。先日blogで書いた行政も技術が分からないゼネラリストが実権を握っているために軽薄な社会システムになりつつある。耐震偽装事件が起きた後には構造に関しては別な観点から評価基準を模索したのだが、何故耐震偽装事件が起きたかも検証せずに場当たり的に行政の責任を回避する遣り方は今後も同様の間違いを引き起こす懸念がある。社会に安心感を与えるには行政が最終的に責任を持つことなのである。現在が不安な社会になっているのは政治家と官僚が無責任な社会を築いたからである。本来なら、耐震構造の強度不足に対する責任は最終的なチェックを行なった行政や民間審査機関が受けるべきものであり、如何なる理由があろうとも逃れられないのが社会の重みである。先般、無縁社会を指摘したTV番組が放送されたが、それを生んだのは無責任社会そのものである。小泉改悪の中のもうひとつの事例として裁判期間の短縮化がある。裁判官の出世に裁判期間の短縮化が基準となり、裁判官は十分な審議期間を与えずに直ぐに和解を勧める様になった。その結果、和解に応じない方に不利な判決を出すようになり、裁判所において正義が失われた。この様な社会が行き着く先はテロだけである。米国社会がテロに怯えるのは正に正義が行なわれていないからである。日本も遅かれ早かれ米国の様にテロに怯える社会になるかもしれない。そう言えば、耐震構造強度不足裁判の判決と期を同じくして北海道の一級建築士事務所と所属する一級建築士が耐震構偽装の嫌疑で登録抹消されたために起こした裁判は、登録抹消を回復させる判決であった。確かに裁判の常道「疑わしきは罰せず」であるが、両方の判決は整合性を取った様に感じられ、正義が消えた瞬間である。

日本の復活には明治初期に存在した工部省的なテクノクラートが必要!

明治初年に工部省が設立され技術官僚が西欧の技術を導入しその後の近代日本を作り上げていった。初代の工部卿は伊藤博文であった。先日、元行政マンの方と今日的な日本の課題について雑談していた時に、彼は現代の日本には明治の時の様な技術官僚の集団「テクノクラート」の必要性に言及した。私も勉強不足のため、工部省の名前くらいは眼にした事があったが、近代日本に技術官僚が果たした大きな役割に関しては良く知らなかった。また、工部省がその力を恐れた内務官僚に解体されたことも初めて知った。尤も、技術大国になり、更に公共事業においても成熟した日本において何故技術官僚の集団が必要かと言う疑問が湧くかもしれない。その答えは、今回の東日本大震災の復旧作業の遅れや福島原発事故の対応の失敗を見れば一目瞭然である。勿論、縦割り行政の弊害もあるが、少なくても技術的に議論できるレベルの人達がいたら、後手に回るような対応にはならなかった可能性がある。特に、福島原発事故に対する文官レベルの危機感の薄さは酷いものであった様だ。私も農水省や国土交通省などの官僚のトップに文官が就任するのに疑問を感じていた。今の行政組織ではゼネラリストとスペシャリストの区分で公務員試験は実施されて入るが、人事ではスペシャリストとして専門的な業務に特化する事はなく、全く関係ない業務に従事させることが慣例となってしまっている。このため、スペシャリストとして入省してもテクノクラートとしての技術集団に成り得ないのである。ちなみに、科学技術関係の役所としては、過っては科学技術庁があった。しかし、科学技術庁は明治の工部省とは異なり、実践的な技術を推進する存在ではなかった。然も、現在は文部省と合併して文部科学省となり、合併前以上に機動性が失われている様だ。福島原発事故に関して言及すれば、放射能の拡散データ計算に関しても1日以上もようしている。又、保安院も幹部クラスがゼネラリストの文系のために原発事故の緊急性に関して全く理解していなかったのが実情の様だ。官僚組織だけでないが、日本企業の組織も上司は自分が理解しないと決断が出来ないと言う欠陥を持っている。しかし、高度な技術問題に対しては幾ら頭が良いといってもその知識を有していない限りは理解できないのが当然だが、理解できないひと言で作業が遅れることになる。ちなみに、菅総理が技術系ではないかと反論が出るかもしれないが、管及び管が助言を求めた東工大の教授は先に指摘した科学技術庁の理論先行的なので実務的な問題に対しては対処できない人達だった。この事が海水注入で臨海が起きるのではないかと恐れて事故対応に悪影響を及ばしたのである。テクノクラート不在の行政は中央官庁だけでなく、地方行政も然りである。がれき撤去などが今以て目途が立たない理由はテクノクラートがいないからである。マスコミなどはテクノクラートと言うと悪玉視するが、テクノクラートは無駄な公共事業を推進する代名詞ではないのである。日本の未来を作るにはゼネラリストに偏重した行政組織をスペシャリスト養成に変えて行くことが必要であると考える。

シニアチャンピオン

ゴルフ仲間のMさんが茨城のゴルフ場のメンバーコースでシニアチャンピオンになった。昨夜は上野で私を含め7人がやはりゴルフ仲間の会計士の顧問先の居酒屋でお祝い会を催した。Mさんんは私が知り合った24年以上前に既にクラブハンデが6になっており、スイングフォームが綺麗なゴルファーだった。しかし、理事長杯もクラブチャンピオン選手権も2位があるが、1位にはなれなかった。クラブチャンピオン選手権ではメダリストになったこともあった実力者なのにゴルフで頂点に立つ難しさを見せられた。彼はゴルフばかりでなく仕事も一生懸命であり、現在はお兄さんの会社を継承して優れた経営者でもある。アマチュアゴルフでシングルになるのは夢と言う人も多いが、シングルになるのは並大抵の努力ではなしえない。ちなみに、私はと言うと残念ながらシングではなく、今は名誉シングルとしてゴルフ仲間に加えて貰っている立場だ。尤も、我々のゴルフ仲間は性格が良い奴の集まりなので、此れまで大きな賞には縁がなかったので、Mさんのシニアチャンピオン獲得は私の仲人さん以来の獲得であり、感無量であった。そう言えば、今年5月には久し振りに上野の寛永寺に仲人さんのお墓参りをしたことを思い出した。奇妙な縁は重なるのであろうか。

老兵の来訪

当社が管理するビルに設備管理要員として17年間精勤した老兵が来訪した。老兵は御年75歳だが、未だ週3日働いている現役でもあった。老兵は工場勤務が長く、ビル管理要員としては色々な資格を持ち、且つ管理ビルを工場の設備点検の方法で管理したのが有効であったので、彼の点検方法のノウハウが当社の設備管理の規範の一つとなった。当社が建物管理業務に進出して規範とした従業員は2人いたが、彼がその一人であり、もう一人は大手建設会社の設備担当を退職して当社に再就職した者であった。彼等から多くの事を当社が学び、建物管理について当社独自のモデルを構築した。老兵は当社の建物管理に従事していた時に記録していたノートを持参してきて当時改善されられなかった事項に関して気になっていたとのことであった。正に、職人と呼ぶに相応しい仕事が髣髴とする出来事であった。然も、現在週3日入っている現場が照明をLEDに変え、電気料金が3分の1近くになった情報をもたらしてくれた。当社の現場を離れて8年以上経つのに来訪して色々と助言してくれるのには頭が下がる思いである。彼を老兵と書いたのは、当社の建物管理業務に関しては現場は戦争の最前線であり、現場要員は兵士であるという意識で行なったからである。戦争現場であるから部品なども現場にある物を利用して応急措置をし、その後に部品供給を受けて改善するのは当たり前であった。管理する建物が一時的にも使えないと言う状況は避けることが至上命令であった。正に現場は戦争の最前線に相応しい気持ちでおこなうことを要求した。それに答えてくれたのが彼の様な得がたい老兵であった。

グローバル化は全てのリスクも共有化する!

グローバル化は良い事ばかりでなく、多くのマイナス面もある事が分かる。現在欧州で拡散している腸管出血性大腸菌O104は何処から出現したのか、又何から感染したのかが非常に分かりにくくなっている。正に、グローバル化のマイナス面の一つであろう。情報社会で情報機器を通して繫がるに転じて絆などの言葉が盛んに飛び交っているが、世界に繫がる事がそれほど大事な事なのであろうか。皆が画一的になり個性が失われるとしたらそれこそ世界中に金太郎飴の出現だ。確かに、グローバル化はローカルの重要性が増す事は理解するが、それを維持出来る保証は何もない。バングラデシュで貧しい者に資金を貸すマイクロファイナンスは世界中からの小額資金で運用されているが、安易な借り手を苦しめている姿は誰もが参加出来る金融資本主義において成功者は少ない事に触れないからである。世界が同じベクトルで豊かさを追求できるほど地球は大きくはない。理由は不明だが、地球が変動期に入ったと言われ、大地震や火山の噴火などが世界中で起きている。この現象がグローバル化に相俟って起きてきたと言ったら考えすぎであろうか。勿論、過去にも幾たびか大きな災害が発生しているので、グローバル化が全ての原因とは言わないが、少なくてもグローバル化による発展途上国や中進国の急激な経済成長が地球のバランスを壊していることは否定できない。若し現在のグロ-バル化が行過ぎているならば自然は是正する方向に作用するものと考えられ、多くの天変地変や病気などが蔓延する可能性はある。この考え方を進めるとオカルト的になるのであるが、世の中には理解できない現象もあり、想定外などない事を知る必要がある。人類の歩みを見れば、その時点の科学力では分からなかっただけであり、遺伝子組み換えの副作用などもあるかもしれないのである。大航海時代に従来なら局地的に閉じ込められていた風土病も世界に伝播していった様に、グローバルの現代は時間軸的にも早くなったので一歩対応が遅くなると取り返しがつかなくなるのである。世界中のリスクが対岸の火事とならなくなった世界感を持ち、あらゆる面で事前に備える必要があると思われる。

詩の力!

最近、若くして逝去した金子みすずの詩が良くCMなどに使われている。特に、東日本大震災以降は頻繁にTVを通して耳に届く。又、一時は公共広告機構などの「こんばんわに」、「おはよううなぎ」などの癒し系CMが流され、対極のCMの「頑張れにっぽん」や「頑張ろうにっぽん」の五月蝿さに対して心が和んだ。今回の大震災においては若い方のボランティアの参加が多かったと言われているが、ヴァーチャルな社会の中で生きている傾向が強まっているので、実際の経験を重視する流れに合致したと考えられる。最近、或る雑誌で群馬県出身の詩人「高橋元吉」を知った。高橋は偶成の詩人と呼ばれたらしい。明治生まれで戦後の1965年に72歳で亡くなっている。多くの作家や詩人などが今回の大震災に関してどの様に書き留めるべきか悩んでいると言われるが、高橋元吉の詩は日本の四季の移り変わりと厳しい自然環境に生きる術を語ったものと思われる。又、戦争の時代を生き抜いて戦後の平和の時代も経験している。彼の代表的な詩のひとつ、「なにもさうかたをつけたがらなくてもいいではないか  なにか得態の知れないものがありなんといふことなしにひとりでさうなってしまふといふのでいいではないか 咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」がある。私はこの詩に触れた時に肩の力が抜けた。高橋元吉の詩集を入手するのは今では難しいと書かれていたが、一度じっくり読んでみたい詩である。
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