音楽の心地よさ

人類が音楽に何時頃から親しんだのか知らないが、音楽は脳内をクリアにし、明日への活力を生み出してくれると私は思う。偶然の縁で目黒GTで開催された日曜日の小規模な音楽会であるバンドネオンのタンゴ演奏会を楽しんだ。バンドネオン奏者は平田耕治と言う若い方で、彼を評価した方曰く「野性味のあるバンドネオン奏者」だと。この演奏会には、他にピアノ、バイオリン、コントラバスが加わり、更にタンゴ歌手の方も参加した。私がアルゼンチンタンゴを聞いたのは確か中学生の頃だと記憶している。聞いた時には体が震えるほどのインパクトを受け、早速レコードを購入した思い出がある。私は学校の授業としての音楽は嫌いであった。理由としては学科と実技があり、学科で100点をとっても実技が不得意なら最高の評価が得られなかったからである。実技とは歌唱とか笛とかハーモニカであり、あがり症の私に取っては辛い評価であった。この為、学校の音楽の授業からは興味が離れ、逆に母にねだって買って貰ったギターなどを自宅で弾いて楽しんだ。更に、中学時代にはエレキバンドの全盛期だったので、当時は不良と言われたエレキバンドを友人達と結成したが、才能がない私は途中で離脱してしまった。高価なエレキギターまで買って貰ったが、母には聞かせないでお蔵入りしたので今でも慙愧の念に耐えない。しかし、その後も音楽に関しては興味が続き、大学時代から社会人に掛けて長く「題名のない音楽界」などをTVで楽しんだ。私の場合、西欧の音楽よりは南米、アフリカ、アジアなどの音楽に興味があり、大分前の事だが街頭で南米音楽に使われる"ケーナ"と言う縦笛を買い吹こうとしたこともあった。アルゼンチンタンゴは最近は熟年のダンスブームで有名だが、魂が揺さぶられるような音楽はバンドネオンと伴に脳裏に残る。不思議とここ数年、アルゼンチンタンゴに関してはミュージカルを含めて定期的に楽しむ機会が得られている。又、クラッシクに関しては、若い頃には余り興味がなかったが、年とともに良さが分かり、最近はコンサートにも顔を出している。3.11の後には一斉に音楽会などが自粛されたが、それは行き過ぎの感がある。厳しい時こそ音楽を聴いて心を奮い立たせる必要があるのではと考える。特に、ストレス社会には音楽が必要であり、音楽を聴くことで絶望を希望に変える事が出来るのではないかとアルゼンチンタンゴを聴いて再認識した。

知恵のない節電強要!!

日本政府や東京電力は自分の誤りを反省もしないで電力が足りないから節電しろと強要している。最近の草食系の人々は大人しいので唯々諾々と節電努力をしている。翻って、海の向こうの米国・NYに眼を転じれば、電力供給会社が報奨金付きで省エネを消費者に要請している。この差はなんだろうと考える。民主党政権の左翼的な考え方だと、電力は消費者のエゴにより増大したのだから原発事故による電力不足は諸費者にも責任があるので、節電をしろと言うことになる。この様な議論はフザケルなと言いたい。電力の供給の主体は工場などである。工場に安い電力を供給するために国民は高い電気料金を支払ってきたのである。然し、いまや工場の海外移転等で過去に予想した電力など必要なくなり、電力設備は過剰投資となっているのが実情だ。福島原発事故直後の計画停電などは原発事故に対する問題を電力不足に置換した悪質な詐欺的行為だ。節電の強要は電力不足ではなく、原発事故による他のエネルギー調達コストの上昇の負担を軽くするために呼びかけているものと推察され、実際に電力供給不足が起きるかどうかは不明だ。本来ならば、今回の原発事故を契機に一時的な節電ではなく、省エネの強力な推進を考慮して米国・NYの供給会社の様に報奨金付きの呼びかけが必要だ。工場は兎も角として、オフィスビルに関しては、①照明が40%、②空調が28%、③その他設備が32%の電力消費割合とされている。節電15%の実現は照明から始めるのが効果的と考えると、LED照明に切り替えると行政が助成金を出す事により促進させれば、一時的な節電ではなく、省エネ効果を高め、東京電力が発電設備を減らす効果が期待できる。その他にも省エネ対策に対して行政が報奨金なり助成金を出せば一挙に省エネが進むと思われるので、今回の原発事故を単なる事故に終わらせずに日本のエネルギー使用に関して大きな転換点となる政策を打ち出す必要がある。政治家や官僚にもっと知恵を出せと言いたい。

橋下大阪府知事の県議会議員の定数削減発言は正しい

大阪府・橋下知事の県議会議員の定数は人口10万人に一人にすべきだは正しい。橋下知事の発言に鳥取県知事や議長は反発したらしいが、同知事が指摘した市町村議員の存在を考えれば現在の県議会議員の定数は多すぎる。私の出身地の茨城県でも県議会議員は50名を越えるので、10万人に一人を摘要すると人口は230万人位なので半減し、正に適正規模となる。以前から指摘されていた様に市町村議員は合併で削減されたが、どうして県議会議員は財政難にも拘わらず定数の是正が行なわれないのかだ。橋下知事は正論を吐いたのである。これに対して、官僚上がりの知事や既得権者の県議会議員などは何れも定数削減に反対している。本当に地方自冶体を考える人は県議会議員の定数削減に賛成な筈だ。選挙でお願いしますの候補者に投票した結果が、既得権者となって定数削減に反対している。橋下知事の維新の会が明治維新の時と同様に御旗を立てて大阪から東京に上り政治を変えてくれる事を期待したい。勿論、財政の観点から見た定数削減だが、この定数削減が地方自治を弱めることを意味するのではなく、逆に贅肉を削いで現代に相応しい議会制民主主義の構築にすることである。中央政府に権限を集中させるのではなく、地方自治体に権限を移譲して地域の再生を促すことを目的とするものといえる。真の改革とは、全く新しい発想で臨む事であり、既存の体制を疑う事から始める必要がある。本当に必要なものならば否応なしに残るのであり、何も恐れる必要はないのである。橋下知事の発言に反発するのは必要でない証である。

出藍の誉れ!!

サムスンと聞いて分からない人は少ないだろう。韓国の世界的企業だ。書店で眼に止まった一冊の本「サムスンの孤独な帝王 李健煕」を購入した。父親の時代に韓国のトップ企業になり、二代目の息子「李健煕」が世界的な企業に成長させた。グループ企業から見れば日本のソニーやパナソニックを凌駕している。何故この本に興味を持ったかと言えば、私が20代後半に日本と韓国の経済交流情報の収集の仕事をしていたからである。サムスン、漢字では三星と書くが、第二次世界大戦後に韓国で生まれた財閥企業の一つである。創業者は李秉喆 で厳しい人と聞いていた。韓国の財閥企業の中でサムスンは日本の歴史や日本企業を研究して成長した事は聞いていたが、今回購入した本を読んで改めて多くの事を日本から学び、今では日本企業を凌駕し反面教師としているといるのが分かった。私が韓国経済を学んだ時代は正に軍事政権絶頂期である朴正煕が大統領の時であり、「漢江の奇跡」と言われた経済成長を遂げている時であった。然も、その朴大統領が暗殺され、後継を巡ってクーデターが起こり、全斗煥が大統領に就いた激動の数年間だった。奇しくもこの時代に私の大学の同窓が韓国に販売した機器のメンテナンスに渡韓していたのだが、彼は正に朴正煕の暗殺時にソウルにいてホテルに缶詰となった。学窓は今では時効だからと話したのは、彼はKCIAの盗聴設備のメンテナンスで渡韓していたとのことであった。日本と韓国は色々な事で戦後も交流していた事が理解できる話だ。サムスンも日本企業に追いつき追い越せと社員に号令を掛けて何度もの危機を乗り越えて大成長した。正に日本から見れば「出藍の誉れ」であろう。サムソンは戦前の日本の財閥企業と似ている。逆に現在の日本企業は財閥時代の社員が居なくなり、戦後教育の社員が経営者となったのだが、それと伴にサムスンが羨望した企業風土や社員の姿が消えた様だ。その事が、現在のサムスンの経営者「李健煕」から日本企業は怖くないと言われてしまったのであろう。サムスンと言う企業は実は昔の日本企業に近いのかもしれない。勿論、サムスンも成果主義や事業の選択と集中を採用して急激なグローバル化の経済に対応してきたが、企業の根底に流れる意識は常に韓国及び韓国民に置いており、日本企業の様にグローバル化の中で米国方式に盲従し、国家及び国民を蔑ろにしたのとは基本的に違うと思われる。人を大事にする企業は困難を乗り越えて進んでいる。同様に人の弱さと強さを熟知した経営者によりサムスンはひたすら変化に対する対応を続けている企業と推察できる。"事業(企業)は人なり"を痛感する本であった。

混乱している社会で信じない方が良いのは国家とマスコミ

3.11から2ヶ月が過ぎた。東日本大地震後には国もマスコミも意図的に想定外を連発したので国民も想定外なら仕方がないと思ってしまった。その後は、「がんばれ日本」や「がんばろう日本」のオンパレードで人災である福島第一発電所の事故による放射能拡散まで想定外としてしまった。マスメディアは混乱を避けるために国家との共同歩調を取った報道を行なったのかと考えたが、大手マスコミなど所詮は記者クラブという報道管制下に置かれているので、それ以前の問題かと思い直した。大地震後の津波を想定外だから防げなかったと一様に報道したが、公共事業は経済コストを考えて実施しているので、防波堤や防潮堤の設計基準は決められているのである。勿論、一部の地方政治家の強い思いによる経済コストを無視した防潮堤なども造られてはいるが、大半は経済コストに見合った施設しか作っていないのである。本来ならば、行政はこのエリアはどの程度の津波しか対策効果がないので、それ以上の津波が来たら防げない事を日頃から知らせる義務があったと考える。最近は公共事業を無駄として考える風潮が強かったので、先日起きた焼肉店の食中毒と基本的には同様な効率一辺倒が人命軽視に繋がったのである。国家にとってもマスコミにとっても国民はお客である。お客の事を考えないで、逆に国民は馬鹿だから啓蒙するなどと言う時代遅れの考え方では現代は通用しない。現代社会での問題点は人間の質が低下し、国会議員や官僚や経済人までも人命より自分の事しか考えられないレベルの人が多くなったことである。パブリック・サービスなど合理化と効率化の中で吹き飛んでしまった感がある。東京電力の福島原発事故は防げなかったにしても最小限の放射能拡散(10km圏内)で納まった筈なのに、廃炉を決断できない社長と海外出張中で連絡つかない会長の指示待ちが対策の遅れとなり、必要以上に被害を大きくしてしまった。勿論、それ以前に、設計基準が古く廃炉にすべき原発を何等の設備更新しないで10年使用延長を決めた東電の経営陣に全責任がある。枝野官房長官が東電の失態に対し債権者の金融機関も責任がある様なことを発言しているが、東電の経営陣の責任は万死に値するのである。その告発をしないで債権放棄や国民に電気料金の値上げをもとめるなど言語道断である。然も、今回の東電の福島原発事故に関しては菅の責任も重大であり、本当の政治家なら言い訳せずに責任を取るべきだ。それがマスコミも一緒になって大災害時に首相を変えるべきでないなどとインチキ報道を行なって国民に啓蒙するなど許しがたい暴挙と言える。特に、北澤防衛大臣が清水社長を乗せた自衛隊輸送機を官僚の独断と称して戻した行為はマスコミも敢えて重大視させない報道を貫く姿勢は酷いと言わざるを得ない。更に、マスコミは浜岡原発の停止を求めた菅を評価し、インチキ世論調査で国民の多くが賛成したと報道しているが、中部電力では福島原発第一と同じ設計基準の原子力は1号機と2号機であるが、それは既に賢明な措置として廃炉を決断しているのである。今回停止した3号と4号機は福島第二原発と同様の設計基準であり、本来停止させなければならない古い設計基準の原子力発電所は日本海などに多く存在しているのである。日本全体が大地震の危険性があるのは当然なのに比較的新しい設計基準の浜岡3,4号機を停止させて他の旧式な設計基準の原子炉を停止させない一貫性のない菅内閣の対応に問題視している報道は少ない。特にマスコミは悲観的な報道が日本国民を発奮させて大きな力を発揮すると言う過去の経験を踏襲して悪戯に危機感を煽るだけである。この危機感が不動産取引などのマーケットを縮小し、経済の動きを止める役割を果たしていることも省みない。国もマスコミも大地震後は真実を伝えていないと言う理解でいることが判断を間違わないことである。

阪神・淡路大地震の教訓が生かされなかった浦安の液状化

浦安の液状化のニュースを聞いた時に最初に頭に浮かんだのは、浦安の埋立地の地盤は砂地で埋め立て造成費用を安く出来た場所かも知れないと言う事であった。阪神・淡路大震災の時に神戸ポートアイランドの埋立地で液状化が起きた時には港湾関係者は驚いた筈である。神戸は阪神地区では砂地で地盤が良く、港湾の護岸建設に関してもケーソンなど必要なく、鉄材を打設するだけで堅固な護岸を造る事が出来ると聞いた事があった。このため、神戸ポートアイランドの埋立地も大した地盤改良工事を行わないで埋め立てたものと推定できた。しかし、阪神・淡路大地震では液状化の現象が生じたので、港湾関係者は地盤が悪い場所でなくても手厚い地盤改良工事が必要な事を認識したと思っていた。勿論、認識したのであろうが、日本の縦割り行政や当時は今程情報化になっていなかったので、神戸ポートアイランドの液状化現象を教訓にする事が出来なかったのであろうと思料する。浦安地区の埋め立て計画は重工業産業全盛時代の臨海工業の企業立地の需要を当てにした千葉県企業庁が行なったものだが、完成した時には重工業産業が衰退し、広大な埋立地は無用の長物となり、千葉県の財政を圧迫する要因にもなっていた。その状況が一変したのは、浦安地区に三井不動産が誘致したディズニーランドであった。都心から近く手付かずの広大な埋立地の利用としての着眼点は流石と言えた。ディズニーランド東京は予想以上の成果を上げてスタートし、その成果と相俟って浦安地区の住宅開発は進んだのである。しかし、浦安地区の住宅開発で気になるのは、浦安地区にディズニーランドを誘致した三井不動産の存在である。本来ならば、ディズニーランド東京の副次効果を考えて浦安地区の住宅開発は三井不動産の独壇場になっても可笑しくはなかった。私は浦安地区の住宅開発に三井不動産がどの程度注力したかを何等検証しないで、飽くまで推定であることを前提にblogを書いていることを先ずお断りして置く。茲20年の浦安地区の住宅開発では、不動産業の後発の野村不動産が注力していたように思われる。ご存知の通り、野村不動産は野村証券グループの会社である。今回の東北太平洋大地震において浦安のディズニーランド東京はTVで放送された様に駐車場が液状化現象を起こしたのである。私はこの放送を見て内部の娯楽施設も被害を受けていると勝手に想像していたら、三井不動産に近い業者の方から、ディズニーランドの内部は大規模な地盤改良工事を行ったので娯楽施設は全く被害を受けていない事を聞いたのである。私の推測が当っているならば、三井不動産は浦安地区の住宅開発には地盤リスクがある事を認識し、積極的に取り組まなかったと思われる。特に、阪神・淡路大震災における神戸ポートアイランドの液状化を見たならば、浦安地区に関してもヤバイ事を想起した社員が居たと考えられる。野村不動産は優秀な人達が良い仕事を行っているが、残念ながら後発の悲しさで企業の歴史から作られるリスク認識は持っていないので仕方がないと思われる。何れにしても、浦安地区の液状化の責任は民間企業のレベルではなく、埋め立て事業者の千葉県に帰結する者と思われ、工業用地から住宅用地に大きく変わる過程で埋め立て地盤の再検証を行なわなかった行政の責任は重い。特に、阪神・淡路大震災における神戸ポートアイランドの教訓が少しも生かされずに、逆にその後に浦安地区の住宅開発が進んだ事を考えると尚更である。勿論、行政が民間企業と同様な効率一辺倒の仕事を要請される時代では、気が付いた職員がいても握りつぶされたと思われるので、国民の一人として考えなければならないのは自分でリスクを取る習慣を身につけることである。国もマスメディアも信用しない事に尽きる。

岡本隆司氏が書いた"中国「反日」の源流"を読んで

中国に偏見を持った歴史を知らない若い人に薦めたい1冊である。この本は明の時代の倭寇から中国の「反日」の源流があることを書いている。現代の中国の軍備拡張は過去に他国から植民地同様に扱われ、日本軍に国土を蹂躙された苦い経験からなので、歴史を学ばない若い人が米国と同様に中国の軍拡に反対しても意味がない。本を読むと、今の中国指導者層が懸念しているのは、中国の国体の存在が日本などと違い、明と清の時代と変わらず、人民と国家に一体感がない事であるのが分かる。国家と人民が一体化でないのは中国人に刻まれたDNAであり、短期間には変えられないと思われる。中国の指導者にとって米国的民主主義を受け入れるには国家と人民の一体化を確立する必要があり、それには国の豊かさが必要と考えていると推定できる。江沢民が進めた愛国反日教育も国家と人民の一体感を何とか構築して外国の干渉から国を守る意図があったと考えられる。この本を読むと、中国指導者の防衛ラインは明の時代にあることも分かり、朝貢していた琉球を独立国として保護の対象としていた中国からすれば、尖閣諸島は明治時代に日本に簒奪された領土になる。このため、今後とも日本と中国は尖閣諸島で争いが起きる事は明白であり、尖閣諸島防衛に際しては、現在の様に米国の軍事力に頼るのか、独自に中国に対抗する海上防衛力を強化するかで議論が分かれると思われる。中国としては、江沢民前国家主席の様に日本が米国の支配下に置かれて独自の軍事力を強化しない方を望む勢力と、胡錦濤国家主席の様に日本が米国の支配から脱し、真のアジアの国家として欧米諸国と対抗できるパートナーになることを望む勢力が存在すると考えられる。欧米諸国からすれば、経済大国の日本と中国が手を結ぶより、歴史的な経緯から対抗することを期待していると思われ、日本国内に反中国の声が大きくなる事を喜んでいる。アジア経済を支配したい米国などは本音では日中の軋轢で双方が足の引っ張り合いをすることを望んでいるはずだ。日本は過去150年の歴史を振り返り、中国との理想的な関係の構築に注力し、二度と武力で争う愚は犯さないことを肝に銘じるべきだ。隣国の中国が大国化するのは地政学的に日本に有利に働くことを忘れてはならない。

現代日本の今昔物語

日本人が豊かさの階段を登り始めたのは何時頃からなのかと考えると、一般大衆的には今から41年前の1970年のモータリゼーションの始まりと言える。日本が豊かになりつつあったと言っても、東京都内の練馬区や板橋区でも未だ下水道が100%普及していなかったのが現実である。先進国の目安は上下水道の普及率と言われた時代であったので、その点から言えば日本は先進国には程遠いインフラ未整備国家であった。今でこそ公共投資は悪者扱いだが、今から41年前の日本は高速道路網も少なく、舗装道路も国道止まりと言った具合であった。そう言えば、今は地下鉄車両に冷房が入っているのは当然と思われているが、豊かさの階段の入り口時代には地下鉄車両には冷房が入っていなくて夏は蒸し風呂状態であった。その当時聞いた話では地下鉄車両には冷房を入れることが出来ないとの事であったが、人の話とはいい加減なものである事が良く分かる。日本人が本当の豊かさを感じるのはモータリゼーションから15年後の1985年ではないかと考える。1985年はプラザ合意で急激な円高となり海外の製品が安く入手出来る様になった時代である。又、海外旅行も手軽に行ける様になった時代でもある。時代を振り返ると、日本は1984年頃から土地バブルが始まり、企業の株も鰻登りに上がり、ゴルフが大衆スポーツとして人気が出てきた。この時点では高速道路も日本中で繋がり、港湾整備や空港整備、そして地方の上下水道の普及工事も達成した感があった。しかし、プラザ合意後の内需拡大の日米合意500兆円公共投資事業計画が新たに浮上し、この時期から無駄と言われる公共投資事業が始まったのである。この事に関してはマスコミも一切報道しないので、無駄な公共事業は政治家とゼネコンと官僚が仕組んだものとの誤解がある。勿論、米国の圧力合意に便乗した政治家やゼネコンや官僚が居た事も確かだが、遣らなくても良い公共事業を進めた背景には米国の介在がある事を忘れると今後の日本再生で誤る事になる。経済バブル開始から10年後の今から16年前の1995年にバブル経済は崩壊し、直ぐに阪神大震災が起きるなど日本の前途に暗い影を落とした。話は変わるが、焼肉屋のユッケ事件の牛肉に関しては、36年前は高級食材で気軽に庶民が食べられなかった記憶がある。26年前の時点でも焼肉店は高級なイメージがあり、主として接待などに利用していた。偶然のだが、1987年にインテリジェントビルと呼ばれた大型ビルを虎ノ門に竣工させた時に入居したテナントが牛肉の輸入業者であり、それで牛肉の輸入は割当制度の利権であった事を知った。尤も、記憶ではその1~2年後に牛肉の輸入自由化が始まり、その種の利権がなくなり、スーパーの牛肉が大幅に安くなったことを覚えている。勿論、幾ら安くなっても牛肉は牛肉なので、その20年後に280円で食べられるユッケが出回るとは思いもしなかった。話を本題に戻すと、バブル経済崩壊後の10年後の2005年は当時は未だ実感がなかったが、デフレ経済であるものの、不動産に関しては底をって反転したターニングポイントと言える。経済のグローバル化によって海外から安く物が入るのでデフレが止まらなかったが、3年後にリーマンショックが起きなければ日本経済はプラス成長に転じた可能性はあった。残念なことである。日本政策投資銀行の職員がデフレの原因は人口減と一部だけを捉えて論じた誤りの本がベストセラーになっているが、日本のデフレの原因は過去の経済学の本に書かれているように需要と供給のアンバランスから起きているとは必ずしも言えない。情報化社会が齎した世界平準化への過程で進んでいる現象として捉えないと本質が見えないと思われる。情報化が多くの雇用を奪い、格差社会を生み出したために、一部の金持ちと高齢者に偏った富も配分の不均衡により需要が減少している。本質的な問題が解決されない中で企業間のパイの奪い合いが有り得ない低価格を産み出し、モラル無き危うい社会を作り出した。過去を振り返るとドックイヤーと言いながら10年ごとに変化の流れが起きている。2005年から始まった10年は途中でリーマンショックに遭遇し残すは4年である。この4年後とは正に東北太平洋大震災による東北復興がなされる時期と同じなので、日本の新しい国づくりの行方がこの4年間で決まるかもしれないと予想される。大事な4年間になるかもしれない。

キャンディーズ

キャンデーズの田中好子こと好ーちゃんが亡くなったのをTV局が行った一般人のインタビューで知った。キャンディーズの歌は学生時代に良く聞いたことを思い出す。特に、「春一番」は好きな曲の一つだった。訃報を偶然聞いた翌日は群馬県に仕事があり社用車で行ったのだが、向かう途中で運転をしていた社員が仕事先の元社員のIさんの消息を突然聞いてきた。理由を聞くと、好ーちゃんの訃報の新橋でのTVインタビューにIさんと似た人が出ていたからとのことであったので、それは本人であると教えてあげた。Iさんは押し掛けでインタビューを受けたもので、正かそれが放送されるとは思いもしなかった。数日後に好ーちゃんの葬儀が放送され、出棺時に亡くなる前に録音していた肉声を映画の撮影時に合わせた遣り方で流したのには違和感を感じた。その時にTVはコンビの蘭ちゃんと美樹ちゃんを写していたが、好ーちゃんが二人に対して礼を述べた下りで示した美樹ちゃんが蘭ちゃんを振り返って見せた表情にも違和感を覚えた。しかし、それ以上の想像力は働かずに記憶から消えていった。それが経済誌の評論記事ににお堅いNHKのニュース番組でもアナウンサーが好ーちゃんと言った事が書かれ、コンビの蘭ちゃんが送る言葉の中で好ーさんと言った事を比較して論じていた。その記事で好ーちゃんが最後に残した言葉が本人の言葉でなく旦那の脚本を読んだのではないかと言う疑問が湧いてきた。推測だが、三人が引退するときにファンの前で普通の女の子に戻ると宣言したときから、三人の間では「ちゃん付けで呼ばない」ことを約束したのではないだろうか。確かに、好ーちゃんが、二人に対して「蘭ちゃん、美樹ちゃん有り難うと言った」時に見せた美樹ちゃんの険しい表情の謎が解けた様に思える。勿論、飽くまでも推測の域を出ないが、前代未聞の葬儀での肉声の謎は深まるばかりだ。そう言えば、社会人になってからは、ピンクレディの全盛期であり、新宿の吹き抜け地下三階での飲み屋で素人の女性がテーブルに乗りUFOを歌っていたのを思い出した。若き日の良き思い出が蘇った。

日本製品の高品質や食の安全は高々40~50年の成果!

マスコミなどは日本製品の高品質や食の安全が昔から存在していたかの様に報道しているので、年配の人達まで間違った情報を刷り込まれてしまい、若い世代と同様に中国などと日本は違うと思わされている。しかし、日本製品が飛躍的に高品質になったのは戦後に米国から入ってきた品質管理運動(QC)の成果であり、日本の食の安全は高度経済成長以降の豊かになった日本人が総中流階級意識を持つに到った時点からである。日本のマスコミはアーカイブスがない報道なので、日本人は恰も古来より高品質の製品を作り、食に対する安全を確保してきたと錯覚してしまうが、歴史を読めば高品質や食の安全は高々40~50年での成果であることが分かる。勿論、長い年月を経た個々の技術においては高い評価が出来る物もあるのは確かであるが、茲での議論は全体の話であり、日本人の意識の話である。明治維新の成功は、江戸時代に学んだ中国の論語など道徳的な背景に西欧の科学を取り入れた事によるものである。明治維新後の学校教育では道徳を重んじたものの、それ以上に西欧の学問を重視したので大正から昭和に移るに従って日本人は倫理観を失ってきているのである。第一次世界大戦時に西欧に輸出した日本製の缶詰には石が入っていた事で欧州国から非難されたのも事実である。戦前は軍事費に国家予算の50%を投入していたので、日本のインフラ整備は遅れ、更に地主制度が多くの日本人を貧困状態に陥らせていた。正に、現代以上の格差社会であり、典型的な資本主義社会であったので、日本人は次第にお金中心主義に傾いていった。その結果、中国進出であり、太平洋戦争に突入していったのである。尤も、戦前の資本家と呼ばれる人達は高い教養を持った人が多かったので、渋沢栄一の様に経済人として論語の必要性を説き、事業と社会奉仕を一体化して考えた人が多かった。しかし、戦後の新興企業のオーナー達は少なからず事業資本の元手を軍隊の隠退蔵物資を掠め取ったりや闇市で稼いだり、泥棒紛いの商売で儲けた金で得たこともあり、事業の柱に倫理観など期待できるものではなかった。勿論、戦前の財閥企業の高学歴社員などは倫理観を持って経営者になった者も多かったのでその点は救いであった。戦後の経済発展の過程は正に論語の「衣食足りて礼節を知る」を地で行く状況であった様だが、次第に豊かになり、製品の品質向上や食の安全にまで気配りが出来る様になったのは承知の事実である。戦後の教育では倫理観の授業には余り時間を割いていないので、社会に出てからの価値の基本は豊かさと共にお金中心となっていった。その典型的な政治家として田中角栄の出現がある。盟友の企業人の小佐野賢治は泥棒で捕まった事もある人物である。日本人の心にはキリスト教的な博愛主義がないので、事業でお金儲けをしても社会に還元する意識がない。それでも戦前には孔子の論語などを尊ぶ風潮が残っていたので、事業家は儲けたお金を学校を作る資金などに寄付して社会に還元してきたのである。しかし、戦後の金持ち達は自分の事以外にお金を使う教養がなく社会奉仕など皆無に近かったが、その代わりに行政が機能して社会を豊かにしたのである。バブル経済の崩壊後は戦後では経験していないデフレ経済となり、更には米国経済の成長を促した規制緩和による金融資本主義が台頭し、格差社会を生み出したのである。現代の社会は先祖がえりの面があり、格差社会の出現により、戦後生まれの倫理観のない日本人に食の安全など期待する方が可笑しいのである。それでも製品類に関しては未だ高品質が維持されているが、マスコミの報道によりその高品質もガラパゴスと言う表現で一掃され様としており、駄目になるのは時間の問題と思われる。その魁が、福島第一原子力発電所の人災による事故である。日本人が古くから高品質な製品を作り上げてきた神話を作ったマスコミの責任は重い。社会に豊かさがあり、行政が機能していたからこその成果である事を忘れた結果が原発事故による放射能拡散である。40~50年の成果など長い歴史から見れば数秒の事である。日本自身が自分手で折角作り上げてきた成果を今正に壊そうとしているのである。

焼肉店の食中毒事件は今の飲食店チェーン店では何処にも存在する危険

焼肉店チェーンえびすのユッケによる食中毒事件は起こるべきして起きた事件と考える。貸ビル業界にいる者として懸念していたのは、バブル経済崩壊後に飲食店業界に多くの素人が参入してきた結果、厨房内の清潔整頓が失われ、ゴキブリが蔓延する他、ネズミまで引き込んだ有り様は食中毒を懸念させるものであった。特に、若手経営者の多店舗展開の飲食店チェーンはコスト削減からアルバイトで構成され、厨房内の清掃の基本など問題外と思われた。又、経営者自身が料理人でない場合が多く、事業収支や仕入には精通しているが、お客に対するサービスや安全などは二の次になっている様に思われた。店舗を貸す側としては、グリストラップの清掃なども余り行わない他、平気で排水管に油を流すなどビル側の使用細則などを守らないテナントが多いので、現場の管理要員は施設の維持管理に大変苦労しているのが現状である。特に、最近は単価引き下げ競争になり、薄利多売の傾向が強く、お客に対する安全が蔑ろにされている心配が増していた。確かに、今の飲食店はデザイン思考であるので見た目は良いが、内部を知るものに取っては評価できる代物ではなかった。デフレ経済の影響で人々は原因も考えずに全ての物に価格ダウンを求めているが、当然、そこには限界があり、それを越えると誰かが犠牲になって支えているのが実態だ。それを理解せずに安さを追い求める社会は危険が増しているのであり、被害者になってから気がついても遅いのである。提供する側も低価格競争に疲れ、いつの間にか安さを追い求めるお客に対して敬意を払わなくなり、逆に軽蔑する気持ちも芽生えているかもしれない。今年早々に起きたおせち料理事件もその延長と思うのは飛躍しすぎているだろうか。何れにしても長いデフレ経済が食の安全を失いさせたのは間違いない。大平洋戦争前の日本は正に格差社会であり、そこには品質や食の安全などに現代ほど重きが置かれていなかった。今の日本人は戦後の豊かさによる大多数の中産階級の意識が品質の向上と食に対する安全を築き上げてきたことを忘れている。今回の焼肉店の食中毒事件を切っ掛けに日本人の価格意識が変わることを期待している。安いものには危険が背中合わせであることも然りである。

震災復興も財政再建論で中途半端になる!

財務官僚の懲りない面々が財政再建を旗印に日本経済を駄目にしてきた。東北震災復興も財政再建論で中途半端になる可能性が出てきた。この財政再建論にはマスメディや御用学者も追随しているから至極当然と思われ、然も年金支払を人質にされているので高齢者も財政再建には増税しかないと思い込んでいる。財政再建の良い見本は米国にあるのに財務官僚はそれを無視して増税論議で世論操作してきている。財務官僚は数字を扱う職業だが、この職業は会計士や税理士と同様に入力結果が明確に出力結果に出る方法しか選択出来ない訓練を長く受けてきているのでボケる確率は高いと言われている。数字を扱っていると頭を使っていると考えられているが、一つの事しか遣らないでいると人の頭脳は退化するらしい。財務官僚など典型的な動脈硬化を起こして財政再建には増税しかないと思っているので始末が悪い。米国が長く苦しんでいた双子の赤字から脱却できたのは経済成長であった。この経済成長には、レーガンの小さな政府から始まり、IT関係の起業を助成したことにより、改善不可能と言われた双子の赤字をクリントンの政権で解消し、財政の健全化を成し遂げた。尤も、ブッシュになってイラク戦争とアフガン戦争で積み上げた国の財産を再び浪費し、再度双子の赤字に舞い戻ったが。何故、日本経済がデフレ経済の罠に入ったかは議論が錯綜しているが、当初のデフレは景気回復より国際会計基準などや財政再建を優先した政策により始まったのは間違いない。岐路に立っていた総理大臣は橋本龍太郎である。財務官僚に騙されて消費税値上げを初めとして多くのデフレ経済になる政策を実施した。橋本龍太郎も退陣後に財務官僚に騙された事に気付き復讐を誓ったが、橋本の復権を恐れる財務官僚が小泉を支援したために総裁選挙に敗れて再起出来なかった。小泉の小さな政府は米国のレーガン政権と同様に思えるかもしれないが、財務官僚主導の小さな政府は誤魔化しであり、似て非なるものであったために多くの金持ちだけを輩出し、一般国民の生活は苦しくなっただけであった。然も、悪い事にはブッシュ政権の金融自由化促進が世界経済を混乱に落としたために、小泉改革は悪い事だけが残る結果となった。このため、民主党政権になってからは財務官僚は一層動脈硬化を起こして増税しか能がない政策を遮二無二推し進めているのが現状だ。菅政権は米国と財務官僚の言いなりになれば長期政権が作れると勘違いしてますます国民から乖離し、日本の全てを壊す破壊者になりつつある。将棋や碁で言えば、震災復興は攻めであり、財政再建は守りである。将棋や碁を聊かでも遣った人ならば中途半端に攻めと守りを繰り返したら負けるのは承知の事実だ。財務官僚の若手は特に入省してから財政再建しか教育されていないので最悪な世代である。若手の記者や学者も同様だ。高齢化少子化で経済成長は望めないと言われるが、正に公理で決められた方程式しか解けない優等生の答えである。その様な頭しかなかったら中小企業は潰れてしまう。最初から結論決めて行なう日本の官僚の頭では無理と思われるが、考え方や見方を変えれば答えなど無数にある。日銀の社員が上梓した「デフレの正体は人口減」がベストセラーになっているが、一部の原因をすべてに置き換えた主張が横行しているのが怖くなる。考え方を単純化するのは良いが仕組みを単純化したのでは国家は危うくなる。国民が考えなくてはならないのは増税による財政再建ではなく、デフレ脱出による景気回復であり、その結果の財政再建である。知恵のない増税による財政再建なら政治家や官僚不要だ。震災復興の財源を増税に置換した政策は否定するべきである。そうでなければ未来に向けた東北震災復興が中途半端になる。

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