オムニバス

福岡の道路崩落事故は人的な被害がなかったので復旧の手際さに皆が驚いた様だ。しかし、同様な事故は今後も起きる可能性が予見されるので、事故の検証は重要と思われる。崩落事故の原因は地下鉄工事であったことは周知の事実だが、今回の事故に対する処理の素早さを見ると、工事会社の元請企業体の大成建設は福岡市が採用した設計上の施工法に懸念を抱いていた可能性もあると推定される。勿論、飽く迄も推測だが、そう考えても不思議でない位に事故後の処理が手早かった為だ。

幸運にも、事故後の私的な宴席で、福岡出張で偶然事故を目撃した方から話を聞く機会を得たので、手際の良さの背景を色々と考えた次第だ。目撃した方の情報では、崩落現場には近づけない程警備が厳重だったので、目撃者の方は機転を利かして近隣のビルに上がって現場を俯瞰したとの事であった。流石に長年不動産事業に関わってきた方と感心したが、その方でも事故後の処理には目を瞠った位だから尋常ではない対応と思われる。施工企業体の元請が大成建設と聞いて自民党の有力政治家を想起した。私も確認した訳ではないが、マスメディアが有力政治家の子息が大成建設の社員であることを書いた記事を目にしていたからだ。

日本の行政は縦割りだから今回の様な事故に関しては調整に時間が掛り、過去には被害を大きくしたケースが多い。しかし、今回の事故に関しては事故対策のシュミレーションが出来ていたかと錯覚するほど迅速な対応が出来た背景には件の有力政治家を抜きには語れないと言っても当たらずとも遠からずではないか。政治家が機能すれば事故の処理は被害を最小限に抑えられる見本みたいな実例だ。今回の事件を振り返ると、規模的には大きく違うが、東日本大震災と二次被害の福島原発事故に関しても、政治家が機能していれば被害はもっと抑えられたのではないかと考えてしまう。尤も、福岡の道路崩落事故の処理に有力政治家が拘わっていたと仮定した話ではあるが。

事故の処理に目を奪われると今回の事故の原因が見えなくなってしまうが、事故の遠因には財政面と効率による工法の選定に問題がなかったかである。全ての工事に言える事だが、予算ありきから入ると安全面が疎かになってしまう弊害がある。更に、近年はITによるビックデータの活用などで経験が軽視されてきていることにも事故を生む背景があると思われる。AI技術は素晴らしいと思うが、AIが絶対に人を超えることが出来ないと考えられるのは直観でなないか。直観とは単なる思い付きではない。記憶の彼方に存在しているDNAに組み込まれた無意識の世界から呼びかける声と私は考えている。科学的とは言えないが、多くの経験を積むと不自然と見えることは往々にしてリスクを孕んでいるのが分かる。

福岡の崩落事故は専門家の調査委員会の報告を待つとするが、事故ではないが東京都の豊洲の新市場の移転に関する顛末にも疑問が多い。マスメディアも報道において間違った表現を意図的かどうか知らないが流すので、専門家でない人は誤解してしまう。報道では盛り土と表現されているが、実際は覆土であるそうだ。勿論、覆土にしては高いので盛り土と言った方が適切と報道者に説明した人は考えたかどうかは知らないが、盛り土と覆土の違いは大きい。地震を考えると盛り土して建築するなど考えられないからだ。然も、盛り土(覆土)が必要だった理由も汚染を防ぐ目的の様に書かれているが、豊洲の土地は汚染されており、余所に汚染土を移送できないので、その場所で浄化させたことにより、土地が減容し覆土の必要があったからである。必要以上に覆土を高くした理由には本来はもう少し深く汚染土を処理する必要があったにもにも拘わらず、作業を減少した事に関係するかもしれないと邪推できる。

何れにしても、汚染土地を高く購入して浄化移転する必要性があったかどうかの問題点は小池知事も解明できないと推測されるので、結論的には安全性を確認して移転するシナリオが出来ていると考えられる。

オムニバスとタイトルを付けたが、内容的には違うと感じた方がいると思われるので、強いて弁解するとすれば政治家と言うのが共通の事項だ。天網恢恢疎にして漏らさずとは良く言ったもので、小池知事の登場は正に天は都民を見放してはいないと言った所だ。

 

ポピュリズム批判で終始する世論作りに懸念

英国のEU離脱の国民投票然り、米国の大統領選挙で勝利したトランプ氏に対する選挙結果然り、国民の過半数の意見を反映した結果を全てポピュリズム(大衆迎合主義)と批判する世論作りに懸念する。

ポピュリズムは情報化社会以前に大衆の不満を煽り、迎合した政治家の登場であるが、歴史的にはドイツのヒットラーが代表的な人物として上げられている。もとっも、古くはローマ時代にまで遡れるのであろうが、全ては情報化以前と言うことで一括りにすることにして今回のブログではご容赦を願いたい。

確かに情報化以前並びに教育制度の不備な時代の社会では、一部の有識者によって政治などが行われることに妥当性はあったかもしれないが、今や先進国においては教育制度も充実し、現代の様な情報化社会になれば、過去の様に一部の人達が情報や知識を有していた時代とは一線を画すべきと思われる。

英国や米国で起きた反グローバルリズムは、経済に偏重したグローバル化により、世界がフラット化する中で起きている格差社会を肯定するマスコミや政治家に対する憤りである。イノベーションによって世界が変わると喧伝されているが、情報化社会のイノベーションは人々から職を奪うばかりであり、イノベーションの恩恵は少数の人達に集中しているのが現実である。その現実を認識し、逆にマスコミも政治家も格差社会を助長し、一向に大衆に目も向けないで格差社会に足掻いている人達に対して努力が足りないなどと無責任な言動に対して国民が怒っているのである。国民の窮状を汲取って登場した政治家や枠組みを問う国民投票に対してグローバル経済や移民に対する批判をする多くの国民の意見を無視する為政者にたいしては、NOなのである。

情報化社会は人々に多くの機会を与えているが、本来ならば今回の情報イノベーションは政治社会体制まで変わる必要があるにも拘わらず、実際は政治社会の仕組みは殆ど変っていないことに問題があると思われる。歴史的には、そして科学的にも栄枯盛衰は避けられないものあることは理解できる。高校時代に暗記させられた平家物語の冒頭の一説が今でも思い出される。政治家やメディアは岩盤規制などと他人事の様に指摘しているが、岩盤規制に恩恵を受けている政治家やマスメディアが現体制を維持しているので変わっていないことにも一因がある。特に、近年は批判を国民に集中して国家に甘えるななどとの言動が多いが、国民は国家など何時でも捨てられるのを分かっていない暴言だ。国民を守らない国家など不要であり、それに気づかないで利権を謳歌している政治家や利権連中には大衆の意見など目障りなだけなので、国民の意見を聞く指導者をポピュリズム批判で葬る意図が明らかだ。

世界的に起きている大衆の動きは情報化が引き起こした経済社会の大変革に対する政治と社会のシステムが旧態依然である不満からと言える。それをポピュリズムの一言で片づけるマスメディアや政治家は愚かの一言に尽きる。何時の時代でも大衆は時代の流れを読んで為政者を変えて生き残ってきた歴史を忘れてはならない。

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