週刊誌掲載の記事で質問する無能な国会議員を見るに付け故郷の大先輩「大森創造」氏を想起する
今の国会のお粗末な議論をTVで見るに付け、私の故郷の茨城県が生んだ尊敬できる政治家として「大森創造」氏を思い出す。大森氏は地主の息子として生まれ、水戸中学(現水戸一高)から中国に開校した東亜同文書院で学んだ方で、戦後は20代で村長、30代で県議会議員、40代で国会議員(参議院)になった故郷の立志伝の人物です。私の亡父も同年代の地方議員であり、30代で村議会の議長にも就任した傑物だったので、お互いに評価する間柄でありました。大森創造氏が国会議員を辞めた後に亡父が政治的手腕を惜しみ、彼を水戸市長選に担ぎ出した経緯もあります。残念ながら僅かな票差で負けてしまいました。彼が当選していれば水戸市政も今とは大分違っていたかもしれません。今の世代には大森創造と言う名前を聞いても分からない人が大半と思いますが、昭和40年初頭に国会で「共和精糖事件」などを追求し、新聞紙上で「黒い霧」として賑わし、国会を解散に追い込んだ国会議員と説明すれば興味がでると思います。大森氏は旧社会党の参議院として茨城選挙区から出ていたが、この黒い霧事件にはマスコミも書かない後日談があり、彼はマスコミと組んだ与野党の政治家及び官僚によって政治家としての道を絶たれてしまいました。大森氏は天才肌の人であったので、奇想天外の行動に出たこともあり、地元民にとっては別段なんでもないことでしたが、これを新聞紙上で精神異常として書かれ、次の選挙には公認されない理不尽なことが起きました。亡父から聞いた話ですが、大森氏が国会議員汚職の不正を追求した時に自民党だけでなく社会党からも逮捕者が出ることが分かり、当時の社会党の幹部から国会での追求を止める様に圧力が掛かったとのことです。これに対して、大森氏は譲歩せずに国会で弾劾したので社会党からも逮捕者が出てしまい、結果的には次の選挙には公認が得られない理不尽な結果となったとのことでした。大森氏は不正の情報を入手した時に大森機関と言われた調査スタッフを結成し、徹底的に調査した上で国会質問を行なったのです。翻って、昨今の国会での野党議員の質問は週刊誌に書かれた記事を鵜呑みにして単に質問するだけであり、何も仕事をしていない姿には唖然します。然も、大森氏の国会議員当時とは比べも無い多額の報酬や秘書手当てが支給されているにも拘わらずです。私は子供の頃亡父からマスコミなどが不正を暴くより別な意図で記事を作ることを教えられ、政治家も国会議員の様に上に行けば行くほど与野党問わず国民など考えない連中が多くなることを知らされた。この状況は最近の政治を見るに付け過去より良くなるどころか寧ろ悪くなっていると考えざるを得ない。このblogを見た方が一人でもおり、他者に大森創造の様な国会議員がいたことを伝えてもらえればと思う次第です。