明治初年に工部省が設立され技術官僚が西欧の技術を導入しその後の近代日本を作り上げていった。初代の工部卿は伊藤博文であった。先日、元行政マンの方と今日的な日本の課題について雑談していた時に、彼は現代の日本には明治の時の様な技術官僚の集団「テクノクラート」の必要性に言及した。私も勉強不足のため、工部省の名前くらいは眼にした事があったが、近代日本に技術官僚が果たした大きな役割に関しては良く知らなかった。また、工部省がその力を恐れた内務官僚に解体されたことも初めて知った。尤も、技術大国になり、更に公共事業においても成熟した日本において何故技術官僚の集団が必要かと言う疑問が湧くかもしれない。その答えは、今回の東日本大震災の復旧作業の遅れや福島原発事故の対応の失敗を見れば一目瞭然である。勿論、縦割り行政の弊害もあるが、少なくても技術的に議論できるレベルの人達がいたら、後手に回るような対応にはならなかった可能性がある。特に、福島原発事故に対する文官レベルの危機感の薄さは酷いものであった様だ。私も農水省や国土交通省などの官僚のトップに文官が就任するのに疑問を感じていた。今の行政組織ではゼネラリストとスペシャリストの区分で公務員試験は実施されて入るが、人事ではスペシャリストとして専門的な業務に特化する事はなく、全く関係ない業務に従事させることが慣例となってしまっている。このため、スペシャリストとして入省してもテクノクラートとしての技術集団に成り得ないのである。ちなみに、科学技術関係の役所としては、過っては科学技術庁があった。しかし、科学技術庁は明治の工部省とは異なり、実践的な技術を推進する存在ではなかった。然も、現在は文部省と合併して文部科学省となり、合併前以上に機動性が失われている様だ。福島原発事故に関して言及すれば、放射能の拡散データ計算に関しても1日以上もようしている。又、保安院も幹部クラスがゼネラリストの文系のために原発事故の緊急性に関して全く理解していなかったのが実情の様だ。官僚組織だけでないが、日本企業の組織も上司は自分が理解しないと決断が出来ないと言う欠陥を持っている。しかし、高度な技術問題に対しては幾ら頭が良いといってもその知識を有していない限りは理解できないのが当然だが、理解できないひと言で作業が遅れることになる。ちなみに、菅総理が技術系ではないかと反論が出るかもしれないが、管及び管が助言を求めた東工大の教授は先に指摘した科学技術庁の理論先行的なので実務的な問題に対しては対処できない人達だった。この事が海水注入で臨海が起きるのではないかと恐れて事故対応に悪影響を及ばしたのである。テクノクラート不在の行政は中央官庁だけでなく、地方行政も然りである。がれき撤去などが今以て目途が立たない理由はテクノクラートがいないからである。マスコミなどはテクノクラートと言うと悪玉視するが、テクノクラートは無駄な公共事業を推進する代名詞ではないのである。日本の未来を作るにはゼネラリストに偏重した行政組織をスペシャリスト養成に変えて行くことが必要であると考える。