中央官庁が陥っている部分最適な弊害

日本が機能しなくなったのは政治のお粗末さだけではない。政治など田中角栄以降機能していない。問題は中央官庁の組織が現代社会に通用しなくなったのである。民主党の小沢一郎はそれに気付いて政治主導を掲げたのだろうが、官僚より知識と経験が不足している今の政治家に出来るわけがない。中央官庁の何が問題化といえば部分最適で重要な政策を行なっていることだ。20世紀のハードの時代から21世紀のソフトの時代に変わり、且つ情報通信の発達によって社会経済のグローバル化が一挙に進んだのだが、中央官庁の組織は旧態依然のままである。少なくても一部の民間企業は垂直的な組織からフラットに移行し、尚且つ全体を統轄する司令塔を設けている。しかし、多くの民間企業、特に中央官庁は旧態依然の組織で政策立案を行なっているために部分最適に陥って日本を悪い方向にリードしてきている。中央官庁の部分最適とは課長クラスが日本の運命を左右する政策を立案し、その政策には官庁同士はもとより、同じ省庁内でも整合性を持たせたものでないと言う現実である。複雑化した社会では中央官庁の課長クラスが部分最適で作り上げた政策など通用しないし、逆に他の政策に対して悪影響を与える可能性がある。然し、中央官庁には司令塔が存在しないのである。いや、財務省と言う予算でしか物事を見れない司令塔しかいないと言うべきであろう。この結果が、失われた10年どころか20年になろうとしている。財務省の主計局が全ての省庁の予算を審査しているが、主計局の役人に他の省庁の政策など深くは理解できるわけがない。厄介なのは自分達は頭が良いと錯覚しているので、合成の誤謬などに気が付かない。部分最適と合成の誤謬に陥っている役人に国家の運命を委ねている怖さがある。行政改革とは単に省庁を統合するだけでなく、情報化やグローバル化に対応した組織に変えることを意味する。然し、現時点では行政改革は予算の無駄しか議論されず、旧態依然の組織には言及していない。経済産業省が進めようとしているTPPも然りである。TPP問題は経済産業省単独でなく関係省庁が参加するプロジェクトチームによって議論されるべきなのにである。全てが部分最適の政策で日本の未来を損ねている意識がない役人には日本を任せられない。本来ならば、旧態依然の組織を正すのは政治なのだが、天下国家を考えられる政治家は一人もいなく、野田総理の様に財務官僚の言いなりの政治家しか生まれない。今期待できる政治家の一人としては、橋下大阪府知事位と思われる。日本を良くするには第二、第三の橋下さんの出現である。

敬老の日のTV番組を見て

敬老の日が長年親しんだ15日から三連休を作って敬老の日が変わってから違和感を覚えているが、今年は偶然に見たTV番組で二人の老人の老後を見て考えさせられた。一人は御年93歳の女流画家ともう一人は御年75歳の主婦兼夫の会社の事務を今でも行なっている女性であった。二人の生き方を比較するには年齢さが18才異なるので意味がないが、二人の共通点は年齢を感じさせない飽くなき挑戦かもしれない。勿論、女流画家の方は哲学的境地に入っており、死に対しても理解を深めており、93才にも拘わらず頭脳の明晰さと世界中を旅してきた人だから言える文明論や人生感に関しては素晴らしいものであった。一方、75才の方は登山の素晴らしさに目覚めて挑戦する姿をTVでは追い続けていた。登山と言っても当世風の山ガールの類ではなく、ロッククライミングであるのには驚いた。私も学生時代から社会人に掛けて山登りを趣味として続けていたので、山の見せる優しさと凶暴さは痛いほど分かっていた。体力が充実していた20代の時でさえ山の天候次第では遭難する可能性があり、体が冷えることの恐ろしさを嫌と言うほど体験した私にとっては、御年75歳で始めたロッククライミングは無謀のひと言の様に思えた。TVは敬老の日に合せて放送するのにこの女性の姿を追い続けたと推測するが、TV番組では多くの人達に何を伝えたかったのか最後まで分からなかった。勿論、75才の女性が単独でロッククライミングに挑戦したわけではなく、高齢者の登山愛好家の「エンドレスGチーム」と言う団体に所属してトレーニングを重ねたのである。このチームリーダーは若いときから世界中の山に挑戦してきた方で御年は68才であった。TV番組では南アルプスの駒ケ岳で初のロッククライミングする75才の女性を撮影するために準備を進めて実現はしたのである。然し、映像の中の女性は数十メートルのロッククライミングに6時間以上も掛けて岩壁に悪戦苦闘する顔には疲労感と後悔の念が起きていたと思われた。最後にはキャンプ地に戻る時間の関係から自力では無理となり引き上げられたのであった。撮影後の感想として75才の女性は再度挑戦したいと述べていたが、気持ちだけが若い高齢者の出現は何なのだろうかと考えさせられる。確かに、今の高齢者は若い時に仕事や子育てに時間を取られ、今の若い人の様に人生を楽しむ時間は少なかったのは確かである。その為か、今の高齢者を見ると青春時代を取り戻すかの様な外見や服装を良く見かける。そうは言っても明治、大正、昭和、平成と時代は戦中戦後の一時期を除けば常に先の世代が恵まれた生活を送ったことは間違いないのである。その様に考えて過去を振り返ると、明治大正時代に育った人は、今の昭和生まれの高齢者の様な人生を取り戻すような生き方ではなかった様に思われる。この違いは何なのかと考えてしまう。私の母は若いときには良く働いた人で、外見や動作において今でも相当若く見えるが、年齢を取り戻す様な生き方は見られず、年齢は80才半ばを迎え静かな人生を送っている。尤も、髪の毛だけは白髪を好まず染めているのが唯一の若さに対する執着かしれない。又、敬老と言う言葉が嫌いなので、一度も敬老の日をお祝いした事はなく、多分一生敬老のお祝いをすることはない思っている。勿論、元気なお爺ちゃんやお婆ちゃんは好まれるが、先の75才の女性の様な果たせなかった青春を取り戻すかの様な生き方には複雑な思いがする。現代日本が高齢化社会に入り到る所で老人達を見るが、若い時なら許される様な他人に配慮出来ない姿を見るにつけて情けない思いがする。本来の高齢者の生き方は若く見える事を自慢する事ではなく、年齢とともに備わった経験が生きる内面的に美しく見えることの筈だ。今の社会が不完全燃焼に見えるのは高齢者達の生き方が生臭すぎるためかもしれない。良い社会とは女流画家の様な方が多くなることではないかと思った次第である。

  • entry468ツイート
  • Google+