橋下維新の会の出現で政党再編成の嵐が吹きそうだ。政治と経済は一体で切り離せないので、今後の政権政党が何処になるかで企業活動が大きく左右されることになる。新党結成、連立政権が発足しながら国民が望む政権が出来ない理由は何処にあるのかを考えたい。この様に書くと、殆どの人は官僚が替わらないので、如何なる政権も同じ道を歩む答えると思われる。然し、大事な点を忘れている為に全てを官僚の責任にしているのではないかと私は思っている。橋下維新の会もその壁に早かれ遅かれぶつかると思われ、それによっては船中八策など形骸化してしまう恐れもある。尤も、船中八策には防衛問題と経済問題に関しては従来の政党と変わらないと思われるので、今後の展開を読んだシナリオかもしれないが。さて、気を持たせたかもしれないが、新党を作るにはお金が必要だということである。今の民主党が出来たのは鳩山の資金と小沢の資金があったからである。以前の新党が先細りしたのは全て政治資金が不足したからである。勿論、昔は政党助成金などなかったので、現状で新党を作るより遥かに困難であった。今は少なくても政党助成金があるので、1回選挙を勝ち抜くと生き残れるチャンスはある。その視点で新党を考察すると、橋下維新の会は抜け目ない動きをしている。新党作りには党首の人気とお金が必要なのだが、前者は十分に満たしているものの、後者の資金に関しては疑問視していた。橋下さんもそのあたりを良く知っていたので、最初は国政に進出するのを慎重に発言していた思われる。ところが、此処に来て急速に国政参加に向けて動き出したので、どうやって資金を確保したのか、スポンサーは何処なのかと考えていたら、大阪地区の選挙区での公明党との協力が成立した。成る程、公明党の敵は共産党であり、共産党が橋下さんを攻撃したので必然的に公明党は橋下さんの支援に回る事になった。これを見て橋下さんは運が強いと思った。公明党の母体の創価学会が橋下維新に資金を出せば橋下維新の会は橋下人気と相俟って鬼に金棒だ。橋下さんは小沢一郎と距離を置いたのも創価学会との提携だと漸く理解した。そうなると、今後の新党の動きがどうなるかだが。石原新党は高齢者の集団との印象が強く、石原が幾ら国家の危機を叫んでも馬鹿息子の三男坊の選挙対策として受け止められるし、本音はそうだから成立するかどうかは難しい。愛知県の大村知事や名古屋の河村市長は地域的人気があるが、全国的には弱いし、資金がないので小沢に擦り寄るしか方法がないので期待できない。この為、橋下維新の会以外では小沢新党が出来るかどうかだが、橋下維新の会が距離を置いたなら選挙は厳しいと推定されるので、今後の政局としては、自民党、民主党、みんなの党を吸収した橋下維新の会の三極で動き、これ以外では石原新党、小沢新党が出来たとしても次の選挙では勝利者にはなれないと思われる。勿論、政界の一寸先は闇なので、今後の政局に関しては飽くまで現時点での読みであるが、新党乃至は連立政党のスポンサーがどこになるかで政策が変わるので注視する必要がある。
今の政治家ほど気楽な時代はない。この様に書くと政治家から顰蹙を買うかもしれないが、私からすれば自分の無能さを全て役人に転嫁できるので、これ程良い時代は過去になかったと思われる。然も、その後押しをしてくれるのはマスコミだから政治家にとっては笑いが止まらない。民主党の小沢一郎が政治主導の標語で民主党に政権を取らせたが、その標語自体が政治家としての責任放棄と言わざるを得ない。三権分立では有るが、予算も法律の制定も議会を通さないと基本時には成立しない。勿論、議会を通さないで行える行政の行為もあるが、その事をもって役人が暴走することなど出来ない。今の日本社会は役人と言う悪党と正義の見方の国民と言う図式であるが、その間に議員と言う無責任な存在がいる。仕方がない事であるが、日本は明治時代に近代化を成し遂げる為に官僚機構が政治と行政の役割を果たしてきた。尤も、戦前には天皇直轄の軍隊や明治の元勲の元老院などが存在していたので、現代日本とは様相が異なっていたが、当時の役人には天下国家の意識が芽生えたことは確かだ。特に、議会制民主主義となってからも議員連中の無能さと私利私欲の争いを見たので、尚更役人は政治不信になったと推定できる。戦後に民主国家の日本になり、見かけ上は米国も手を引いたが、政治家は余り変わらなかったのが実情である。逆に、軍人と言う重石が取れた分だけ政治に命を掛けるリスクも少なくなり、一層私利私欲に走るようになった。その典型的な総理大臣が田中角栄であり、田中角栄に繋がる面々である。翻って、何時から政治家が自分の無能を役人の責任に転嫁できたのかと考えてしまう。私の亡父は地方の政治家として頑張った姿を子供の頃見てきた。私が政治の世界に入らなかったのは、亡父が私利私欲を捨てて頑張っているに票に結びつかなかったからである。尤も、亡父は一度も選挙で「お願いします」と言う言葉を言わなかった。亡父からして見れば、身銭を切って選挙に出て市民の為に頑張っているのでお願いするのは市民の方だろうとの思いが強かった。母は女性なのでその様に頑なな亡父に対して腹が立っていたと思われるが、亡父に投票してくれたのは元小作人の人々や部落出身の人達が多かったのを記憶している。私の記憶では役人が亡父に逆らった話など聞いたことがない。腕っ節も強く気性も荒かったので人に恐れられていたのは確かだが、今の政治家の様に役人には嘗められていなかった。勿論、当時と今の経済状況は大分異なり、役人の給料は安いので積極的に役所に就職する時代ではなかったのも事実である。然し、今でも変わらないと思うが、私利私欲を捨てて頑張っている政治家には役人も尊敬し、活動に協力すると思われる。亡父が生きていれば政治主導の標語に対して政治家になる資格がないと切り捨てたと推測できる。政治家が役人から尊敬されていれば政治が機能しないなどと言うことはないのである。政治家の私利私欲を見ているから政治家に任せられないので抵抗するのである。本当に立派な政策であれば役人は味方に出来るのである。全ての役人が利権を貪っているのではないことを知るべきだ。その様な意味で小泉純一郎と小沢一郎の二人は役人を悪者にして政治家としての地位を得た共通点がある。更に二人の共通点は政治家として無能なことだ。前者は米国追従の格差社会を作り上げ、後者は政治的機能を麻痺させた。衆参議員合わせて750名を超える政治家がいるが、そのうちどの位の者が社会を良くする為に活動しているかである。多くの国会議員は多くの時間を政治家としてより自分の私欲の為に活動している。何も遣っていない事を言われると役人の責任にして事なきを得ている。マスコミもその意見に追従している。これでは日本の政治が良くなるわけがない。自分の無能力を棚に上げて役人の責任にする政治家が居たら選挙で落とすべきだ。それが日本社会を良くする事と考える。国民は議員連中に騙されてはいけない。