無能な政治家が生き残れる理由

今の政治家ほど気楽な時代はない。この様に書くと政治家から顰蹙を買うかもしれないが、私からすれば自分の無能さを全て役人に転嫁できるので、これ程良い時代は過去になかったと思われる。然も、その後押しをしてくれるのはマスコミだから政治家にとっては笑いが止まらない。民主党の小沢一郎が政治主導の標語で民主党に政権を取らせたが、その標語自体が政治家としての責任放棄と言わざるを得ない。三権分立では有るが、予算も法律の制定も議会を通さないと基本時には成立しない。勿論、議会を通さないで行える行政の行為もあるが、その事をもって役人が暴走することなど出来ない。今の日本社会は役人と言う悪党と正義の見方の国民と言う図式であるが、その間に議員と言う無責任な存在がいる。仕方がない事であるが、日本は明治時代に近代化を成し遂げる為に官僚機構が政治と行政の役割を果たしてきた。尤も、戦前には天皇直轄の軍隊や明治の元勲の元老院などが存在していたので、現代日本とは様相が異なっていたが、当時の役人には天下国家の意識が芽生えたことは確かだ。特に、議会制民主主義となってからも議員連中の無能さと私利私欲の争いを見たので、尚更役人は政治不信になったと推定できる。戦後に民主国家の日本になり、見かけ上は米国も手を引いたが、政治家は余り変わらなかったのが実情である。逆に、軍人と言う重石が取れた分だけ政治に命を掛けるリスクも少なくなり、一層私利私欲に走るようになった。その典型的な総理大臣が田中角栄であり、田中角栄に繋がる面々である。翻って、何時から政治家が自分の無能を役人の責任に転嫁できたのかと考えてしまう。私の亡父は地方の政治家として頑張った姿を子供の頃見てきた。私が政治の世界に入らなかったのは、亡父が私利私欲を捨てて頑張っているに票に結びつかなかったからである。尤も、亡父は一度も選挙で「お願いします」と言う言葉を言わなかった。亡父からして見れば、身銭を切って選挙に出て市民の為に頑張っているのでお願いするのは市民の方だろうとの思いが強かった。母は女性なのでその様に頑なな亡父に対して腹が立っていたと思われるが、亡父に投票してくれたのは元小作人の人々や部落出身の人達が多かったのを記憶している。私の記憶では役人が亡父に逆らった話など聞いたことがない。腕っ節も強く気性も荒かったので人に恐れられていたのは確かだが、今の政治家の様に役人には嘗められていなかった。勿論、当時と今の経済状況は大分異なり、役人の給料は安いので積極的に役所に就職する時代ではなかったのも事実である。然し、今でも変わらないと思うが、私利私欲を捨てて頑張っている政治家には役人も尊敬し、活動に協力すると思われる。亡父が生きていれば政治主導の標語に対して政治家になる資格がないと切り捨てたと推測できる。政治家が役人から尊敬されていれば政治が機能しないなどと言うことはないのである。政治家の私利私欲を見ているから政治家に任せられないので抵抗するのである。本当に立派な政策であれば役人は味方に出来るのである。全ての役人が利権を貪っているのではないことを知るべきだ。その様な意味で小泉純一郎と小沢一郎の二人は役人を悪者にして政治家としての地位を得た共通点がある。更に二人の共通点は政治家として無能なことだ。前者は米国追従の格差社会を作り上げ、後者は政治的機能を麻痺させた。衆参議員合わせて750名を超える政治家がいるが、そのうちどの位の者が社会を良くする為に活動しているかである。多くの国会議員は多くの時間を政治家としてより自分の私欲の為に活動している。何も遣っていない事を言われると役人の責任にして事なきを得ている。マスコミもその意見に追従している。これでは日本の政治が良くなるわけがない。自分の無能力を棚に上げて役人の責任にする政治家が居たら選挙で落とすべきだ。それが日本社会を良くする事と考える。国民は議員連中に騙されてはいけない。
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