経済産業省から資源エネルギー庁を分離すべきだ

経済産業省に資源エネルギー庁を所属させることは日本のエネルギー政策に大きな問題点を生じさせるばかりでなく、福島原発事故の誘因を作った電力自由化にも国民の為の真の自由化かどうか検証する必要がある。当世は規制緩和や自由化という言葉を使うと官僚の利権を壊し国民の全て利益になると思われがちだが、実態は必ずしもそうではない。日本維新の会の顧問の竹中平蔵の様な政治ブローカーの新たな利権を生み出しているケースも多い。国民は電力の安定供給に慣れ過ぎてこの状態が当たり前になっている。電力自由化を考える場合には先ずこの当たり前の疑問から考える必要がある。私も良い自由化なら賛成だ。問題は国が進めた電力安定供給の為に電力会社の過剰に抱えている設備投資だ。電力自由化や送配電分離に関して誰もそのことに言及していない。太陽光発電にしても高い電力を電力会社が購入しなければ成り立たない現実を考えれば、最終的に税金という形で国民に転嫁されることは明らかだ。現在でも国民は大企業に電力料金を安く供給するために高い使用料を強いられているのだ。これに関しても殆どの国民が知らない。経済産業省が進めている電力自由化は国民のためでなく、企業の為である。勿論、昔の様に終身雇用制が維持され、失業率の低い時代なら国民に高い電力使用料を課して企業に安い電力使用料金とすることには異論がないだろうが、金融資本主義になり、格差社会が現出した状況では、企業のために全国民が犠牲を強いられる必要はないという事だ。経済成長を遂げて世界第二位(現在は第三位)になる前は、電力の安定供給などなく停電も良くあった。この為に、重厚長大産業と言われる企業は自前の発電設備を所有していたのである。それが何時の間にか安い電力を供給するシステムが構築され、企業は電力設備を持つことがなくなったか、非常用に近い設備となった。原子力発電所の建設推進は企業に安い電力を安定的に供給するためのものであり、国民生活の向上は二の次であった。何故かと言うと、経済産業省に資源エネルギー庁が置かれたからである。経済産業省は国民の福利厚生のための行政ではない。企業の為の役所である。尤も、経済が良くなれば国民生活も向上するので、間接的には国民に為でもあるのだが、官民尊卑の思想が残されている官庁には国民とは犠牲を強いるものと理解されている。経済産業省の企業とは官庁の指導に従うものを指し、指導に従わない企業に対しては悪辣な嫌がらせをするのである。これに関してはホンダ創業者の本田宗一郎翁や出光興産の出光佐三翁が指摘している。グローバル化の中で電力自由化で安い電力を求めている企業の為に経済産業省は動いているが、過剰な電力設備の問題を考慮しないで電力自由化を進めたために、電力会社は経費節減に走り、必要な安全対策を怠ったり、老朽化した原発の稼働の延長を決めたことが福島原発の事故を招いたのである。東日本大地震直後は想定外の大地震のために起きた事故と言われたが、40年以上経過した原発の稼働延長や津波対策を指摘されていたのに行わなかったことに関する問題には言及されることはなかった。確かに、電力会社も政治家を使ったり、天下りの官僚を受け入れて行政に対する指導に従わなかった面もあったと思われるが、従わなくなった背景には電力自由化に端を発しているのではないかと思われる。日本原子力発電の東海第二原発は津波対策を施していたので間一髪で事故が防げた。東電の福島第一原発の津波対策が行われなく、日本原電の東海第二原発の津波対策が行われたかは一目瞭然である。理由は30㎞圏内の人口である。東海第二原発の30km圏内には80万人の居住者がおり、原発周辺の人口としては最も多いエリアだからである。何れにしても、全体を見て電力自由化を進める知見がなかったために起きたのが福島第一原発事故であった。資源エネルギー政策は国家的国民的なな視点から行うべきものであり、経済発展の視点からしか見れない経済産業省に関係部門を置くべきでない。原子力規制委員会は第三条委員会と経済産業省から独立したが、原子力だけ切り離しても意味がない。この際、経済産業省から資源エネルギー庁を分離独立させてから電力自由化の問題を議論すべきである。日本維新の会などは電力自由化を進めれば脱原発できるなどと戯言を言っているが、本当に国民を考えた議論をするなら、先ず経済産業省から資源エネルギー庁を独立させることが重要だ。

中央高速道・笹子トンネル崩落事故は民営化のツケ

今の日本は民営化を唱える人達が主導権を握っているので、笹子トンネル崩壊事故の本当の原因も隠蔽される恐れがある。その第一弾の記事が出た。打音検査は2000年以降行っていなかったという報道記事だ。小泉内閣が発足したのは2001年以降で道路公団の民営化はそれ以降の事なので、今回の事故と関係ないという正に予想された内容だ。少なくても、それが事実であったとしても日本道路公団が民営化を逃れるために経費節減を行ったという解釈も成り立つ。何れにしても、打音検査自体が経験豊富な従業員がいることを前提としたものであり、打音検査を辞めた理由は経費節減でなく、リストラによる年配者の経験者の切り捨てから生じた可能性も否定はできない。民営化も同様だが、米国主義の経験者軽視の社会にシフトしたマイナス部分だ。日本人は情緒的な国民性なので、いったん振り子が逆になると一斉にその方向にベクトルが動き止まらなくなり、盲目的になる。民営化問題も然りである。日本道路公団の問題は民営化でない有効な方法があったにも拘わらず、道路公団の改革は民営化しかないという方向付けがなされた。何故なのか。簡単である。民営化の方が簡単であり、株式市場の上場などの利権絡みで儲けることが出来るからである。日本社会の構造改革で抜け落ちているのは国民の安全という言葉である。国民の命に関係する高速道路に関して営団の民営化は適切かどうかの議論は少なかった。民営化により利益追求企業になれば経費節減が第一となる。勿論、経費節減とは理想論からいえば無駄な部分や必要以上に掛けている費用を削減して適正化図ることだが、実際には利益を出すために無理な経費削減が行われるのは普通だ。笹子トンネルの目視点検に関しては開いた口が塞がらないほど驚くが、人の命より利益を重視した結果であるので、今後とも起きる事故と思われる。リストラで経験者を切った時点で打設点検も効果がなくなり、本来なら赤外線点検が必要であったと思われる。2000年以降に打設点検が行われなかった理由を検証しないと問題点をぼかしてしまうことになる。国民は中央高速道路の笹子崩落事故は道路公団の民営化による起こるべくして起きた事故としてとらえないと同じような事故が再び起きる。話が変わるが、米国NYを襲ったハリケーンによる市街地の混乱は、公共施設にお金を掛けない考え方が原因であり、現在の日本では考えられない被害と言われておる。日本社会も間違いなく、米国の破たんの道を追っている。

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