少子高齢化社会で起きている最近の出来事は、私にとってはデジャヴとしか言いようがない現象が多くなってきている。子供時代を過ごした昭和の時代の日本は現代の消費時代とは全く縁遠い社会であった。勿論、当時の日本と言っても様々で、私の育った環境は茨城県の寒村であり都会と比べて経済的に特に遅れていたのだが、全体としての傾向として捉えれば平均以下の貧しさではなかったと考える。その様な寒村で見た生活風景が現代の少子高齢化社会で起きている現象とオーバーラップするかの様なデジャヴ体験が頻繁に起きている。
教育環境でもデジャヴ体験が起きている。少子化で学校教育が変わりつつあるが、その中で未だ一部だが小中一貫教育制度がある。一つの敷地に小学校と中学校を作って学ばせるものである。父兄の人気は高く、子供を入学させたくて引っ越してくる父兄もいるそうだ。若い人にとっては新鮮な教育環境だが、私の小学生の時には中学校と併設しているのは当たり前の出来事であった。運動会などは小中一緒に行われた記憶がある。それが木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎に変貌する過程で小学校と中学校は分離されたのである。統合中学校の出現であった。村の何処に中学校が作られるかで通学に不公平が出たものである。私は小学校の時には300mの通学距離であったが、統合中学は1.99kmの通学距離となった。10km以上の通学距離の生徒からすれば恵まれていたが、問題は2km以下であると自転車通学が出来なかった不条理さがあった。この事が私の人生感に影響を与え、今でも線引きの難しさを考えてしまう。
話が横道に逸れたが、理容店(床屋)も少ない時代であり、店がない床屋さんが自宅に散髪に来たことや、若い人には信じられないかもしれないが、歯医者も患者宅に出張治療したのである。勿論、村の診療所の医師は患者宅を訪問治療するのは当たり前であった。面白いもので、高齢化社会になり介護が必要になった現代では、理容師・美容師、歯医者、内科医などが患者の住まいに出張する体制になった。
更に、店にお客を呼ぶことは交通手段も限定されていたので難しかったこともあり、八百屋でも洋品店でも魚屋でも店は奥さんに任せて主人は車で出張販売に出たのである。高齢化社会になり近くの店舗がなくなり遠いスーパーしかなくなった現代では、出張販売が復活したのである。私にとっては正にこの様な出来事はデジャヴ体験としか言いようがない。
居酒屋でも昭和時代を内装した店が繁盛し、50年前の東京オリンピックの再誘致で過去から答えを貰う動きが出ている。日本が貧しくても元気だった時代、人間の特徴である悪いことは忘れることも相俟って一層デジャヴの出来事がが拡大していると思われる。情報化時代はグローバル化により都市を巨大化させているが、一方では過去の様な集落単位に規模が縮小されて機能する逆行現象も生じている。巨大化する都市に住むのかローカルの集落に住むのかを問われる時代が来ており、それが少子高齢化がもたらす構造的な変化としたら未来が見えてくるかもしれない。少子高齢化が過去に戻った様なデジャヴ体験の現象を生じさせているが、今起きていることは先祖がえりではなく、見果てぬ経済成長を追い求めるのではなく、他に答えがあることを示唆していると思われてならない。