「大惨事と情報隠蔽」を読んで

建物管理を受託している会社としては、世界中で起きた惨事を分析した本を読むことは大事と思った。今回の本の事例で最も多かったのはロシア(旧ソ連を含む)であったが、米国との競争を第一義に捉えていた為に検証して臨むのではなく、走りながら物事を進める習慣が大惨事を招いた一因でもあった。同書では日本の福島第一原子力発電所の事故に関しても取り上げており、余り報道されていない事実にも言及していたので事故の全貌が理解できた。大惨事は予兆や技術的な問題が当初からあり、小事を軽視したり、縦組織の為に折角の情報が埋もれていたりと殆どの大惨事は似た要因が共通であったのが印象的だった。特に、同書では、昨今の資本主義の経費節減と短期的な利益を追求する姿勢が必然的に惨事を招く原因と断定し、今後も起きるであろう大惨事を警告している。勿論、大惨事になると思えば誰しも対策を考えるだろうが、大惨事を招く要因として組織的な問題より人そのものに問題があると言う事実には驚かされる。その点から言えば、神道を敬う日本人は形式主義的な発想を持っているので、福一事故の時に日本人は哲学がないから原発など持つべきではないと言う言葉と関係があるのかと思ってしまう。しかし、西田幾太郎などは、現代の哲学はプラトン以降実体主義に陥っており、その間違いも指摘しているので、組織ではなく人が惨事を招くと言う分析(情報隠蔽)に対する解決策は欧米の主流な哲学では出来ないと言う答えでもある。結論的には、哲学など大それた思想ではなく、情報の共有化や小事を大事の予兆と捉える現場の意見を経営に携わる人達が取り上げることであると分析している。短期利益主義が大惨事の原因と指摘されてしまうと、先行きが絶望になって仕舞うが、AIなどを人に置き換えることで情報隠蔽を防ぐこと出来ればと思った次第だ。AIを如何に活用するか模索しているが、人の心の弱さをAIでカバーすることが大惨事に対する当面の課題かもしれない。それでも、最後には経営者や上級者レベルの人達の判断が問題になるので、AIを何処まで活用すれば大惨事を回避できるかはメビウスの輪だ。災害事故.jpg

若い清掃スタッフに脱帽

1年前にオフォスビルの清掃スタッフとして20代の若い男性が応募してきた。過去に専門学校に通いながら夢を実現するために20代の男性がスタッフとして働いてくれた事があったものの、弊社の清掃現場では少ない事例であった。二人目となる今回の方は東京の北部の多摩地域の職場で働いていたが、千葉の実家の都合で帰ることになり、午前中だけの仕事を求めて応募してきた。交通費が月額3万円以上になるが、清掃業界は近年慢性的に人手不足になっているので、直ぐに現場に入って貰った。清掃の仕事は以前に従事した経験があるとの事で、1週間後には一人で清掃作業を行っても大丈夫であった。主としてトイレと通路を専門に清掃する担当になったが、前任者と比較して丁寧な仕事ぶりであった。経歴書を見ると、建築的な技術も習得しており、本人が希望すれば正社員になって欲しいとも考えていた。しかし、彼を面接した担当者から彼が童話作家になる夢を持っていることを聞いていたので、敢えて正社員の話は出さなかった。その消極的な対応に反省させられることになるのだが、ガラス製造会社の面接で正社員としての採用が決まり辞職願が出た。確かに、彼の見えない所でも一所懸命に働く姿を見ていたので、ガラス職人として頑張る姿も思い描けた。仕事の最終日に鍵の返還とともにお菓子を持参してきた。短い期間であったが、ビル内の従業者に評価される仕事を行ってくれた事に頭が下がる。最近特に思うのだが、年配者は不満ばかりが多く、その割には仕事を手抜きする人が多い。若い清掃スタッフが惜しまれて去って行く姿を見ている時に、新たに設備スタッフとして雇用した年配者が現場の迷惑を省みずに現場に出ると言いながら休み続けている。何が問題なのか理由が分からない行動と設備責任者は困惑している。退職は1か月前の予告の制約があるので、会社から辞めさせられるのを待っているのではないかと推測もできる。この人物は大学卒業後に名の知れた専業企業に技術者として定年迄勤務した経歴である。年配者の無責任極まりない行動を見ると、礼儀正しい若い清掃スタッフに脱帽だ。

言語と思考の関係

世界には色々な言語があり、その言語のルーツを遡ると同じ言語起源に繋がるケースも多い。創発グループ代表として初めて書くブログには相応しくないようなタイトルと思われるかもしれないが、最近になって言語が人の思考に影響を及ぼすのではないかと考えるようになった為だ。中国語には時制がないと言われるが、中国人にとっては過去も現在も未来もなく全てが一緒だとすれば、時制を駆使する言語の民族とは時空軸が事なってしまう可能性も否定できない。勿論、ブログで指摘している言語と思考の説に関しては極論の域をでないが、共通言語を有していないと本当には理解できない現実を考えると、あながち当たらずとも遠からずかもしれない。最近、知人から知人の知人がオープンしたスペインバスク料理に誘われた。スペインのバスク地方は独特の文化を持つ人々が住んでいることは知っていたが、知人の話ではバスク語は欧州言語の共通祖先のラテン語に属していないもので、何処で発生した言語かルーツが分からないと料理店に着く前に歩きながら説明してくれた。然も、料理に関してもミシュランの三ツ星を獲得する店が多いと言われ、舌の味が肥えた民族である様だ。この為、バスク地方には世界から料理を学びに来る料理学校があり、私もTVで見たことがあるのを思い出した。東京都港区新橋の烏森神社に近い路地にオープンした小さなバスク料理店は、ベトナム系米国人の若い方がオーナーであり、日本語は喋れないので会話は専ら英語になったが、私のブロークン英語では料理が不味くなるので、誘ってくれた知人が通訳をしてくれて美味しく料理を堪能できた。確かに、バスク料理は常識に捉われない発想で基本的には成り立っている様で、美味しい上に楽しかった。店名は「TXIKI PLAKA」で、新橋2丁目の路地に所在する。オープンして未だ1ヶ月なので試運転中とのことで、現時点では広告宣伝は行っていないとのことだった。なお、言語が通じないと理解できないと言ったが、実はそうでもない経験をしている。タイに旅行した時に仕草だけで会話が出来た。その場に同席した友人は驚いていたが、岡倉天心の「アジアは一つなり」を彷彿とさせる出来事だった。言語以上に相手に対する思いやりがあれば、理解しあえると言う経験を得た。言語により思考は変わるが、互いに理解し合うと言う意思があれば、世界中の人達と仲良くなれると思われた。

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