カミユの作品「ペスト」と新コロナウィルス

学生時代に読んだカミユの作品「ペスト」を今回のコロナウィルスのパンデミックで今度は電子書籍で読み直した。フィクションではあるが、欧州では何度も襲われたペストなので資料も豊富であるためかノンフィクションと思えるほどリアリティがあった。感染症と見做すまでの人間模様はいつの時でも同じで、その後に感染症と判断してからの人々の動きも今回のコロナウィルスと変わらない。カミユの作品は「異邦人」を読んだのが最初で映画も見た。異邦人を読んだ時には違和感のある作品であったが、それは不条理をテーマにした内容のための思われる。異邦人の不条理とペストの不条理とでは同じ不条理でも異なり、ペストは自然の摂理とは何かとまで考えさせられる。不条理は良く考えると身近な所にも存在し、人間社会も自然も不条理で構成されている感がある。ペストの中に「天災と戦争は多いのに人は何時も無用意に受け入れる」との一文には、進化するのに必要な忘れると言う人の本質の問題であるので避けられない宿命を感じさせる。尤も、多くの細菌やウィルスは少しずつ変異して出現するので、それに対応するのに時間が掛かり、その期間が大体1年位なのは何か自然のサイクルと関係があるのかと考えて仕舞う。感染症で何時も考えるのは私自身の家の歴史だ。私の実家は次男の家系だが、大正時代に本家として位置づけられた。その理由はスペイン風邪だ。一族の本家は大正時代のスペイン風邪で、祖父母、父親と子供達が死亡した。唯一生き残ったのが嫁の母親一人と言う悲惨な出来事であった。この家系の血脈のためか子供のころの私はインフルエンザに悉く罹り、風邪の休校で遊んだ記憶がない。尤も、私の母にとってはスペイン風邪で生き残った母親が伯母に当たるので、本来ならば私のDNAには感染症に強い部分もあると思われる。母の父親、私にとって外祖父は生き残った母親の弟であり、姉の子供のお墓を守って貰うために私の母を父に嫁がせたとも言われてる。墓守に来たためか私の母90代半ばで矍鑠としている。話が横道にそれたが、自然の摂理という不条理は善悪を選ばない。戦争でも同じだが、終戦間際や感染症終息前後に亡くなる人は如何なる星の下に生まれてきたのか。勿論、それ自体が不条理なのだが、戦争と感染症に共通なことは、危害から逃げようとする人に襲い掛かり、自棄になったなった訳ではないが、その状況を受け入れた人は危害から逃れられる現象が見受けられる。データ的に裏付けがあるわけではないので、科学的根拠を示せと言われたら困る。君子危うきに近寄らずも感染症には言える教訓でもある。この様に書いてくると何を言いたいのかと叱られそうだが、人の社会の感染症に対する対応はITなどの機器を使って感染者を追跡して感染経路を発見することは出来る様になったが、基本的なことでは何も変わっていなく、間違いを犯し続けて感染が拡大するということだ。

愚かな判断の論説

新聞の論説で日本がコロナウィルスの疫学調査にしたのは正当であり、その後の感染拡大で検査を保険適用にしたが、指定医療機関による承認による検査にしたのも治療薬がない状況では正しい選択だったと新聞の論説委員が書いている記事を目にした。この様な愚かな判断をする者が堂々と自説を展開しているのを目にすると新聞の将来はないと思われる。そもそも論だが、検査の意味は何かという視点が違っている。感染者を隔離して感染を広がるのを防ぐのが目的だ。水際対策も出来ていない状況下で何も情報がないのに検査もせずに何が分かるのか。中国が強制的に武漢を封鎖したことも理解できていないで政府の対策を擁護する馬鹿者の主張だ。有効な治療薬がないのに検査をしても意味がないとは暴論極まりない。現在の感染拡大は東京オリンピック開催と習近平来日のイベントを優先し、国民の健康を犠牲にした安倍政権の誤った決断だ。結果的に、習近平の来日が消え、東京オリンピック開催も風前の灯火だ。憲法にも政府は国民の健康を守る義務があると書かれてる。幾ら憲法改正論者とはいえ、現行憲法を無視した決断をする政府は憲法違反だ。今回のコロナウィルス騒動はWHOによる遅かりしパンデミック宣言により、日本にとっては東日本大震災とリーマンショック以上に経済的な影響は避けられない。安倍政権を天罰と言ってるくらいでは済まない経済的な低下が起きてくる。コロナウィルス倒産という標語も出てきており、その影響は計り知れない。危機に陥って初めて愚かな指導者を持った不運を国民は知ることになる。小選挙区制の導入により日本の政治家に人材が集まらなくなり、その政治家が官僚の人事を壟断して能力のある官僚が排除された。グローバル経済時代のリスク管理とは何かを問う時期に来た様だ。米国の友人のメールではNY慶応学院の校長が英国人で、今回のコロナウィルス騒動で早々と学院を休校にしたのを見て英国人の危機管理は大したものと言ってきたが、確かに英国は歴史的にコレラ対策で公衆衛生制度を確立した国だ。日本の対策など危険極まりないといった目で見ているのだろう。日本は情けない政府だ。

台湾で見るコロナウィルス対策の統治力と日本

台湾は前回のコロナウィルのSARSで被害を受けたこともあるが、今回のコロナウィルスの対応に関しては見事と言える。正に水際で防いだのだが、台湾と中国との経済的な交流を考えると今回のコロナウィルスの国内感染を防ぐのは難しかったと思料する。台湾には戦後の日本が喪失した明治時代の日本の良き部分が残っている様な気がしてならない。日本の感染症対策で有名なのは、日清戦争後の帰還兵達に対する防疫対策だ。帰郷の念が強い兵士たちを孤島に一定期間隔離して当時中国大陸で感染していたコレラなどを防ぐために検査して帰郷させた措置だ。責任者は医師でもあった後藤新平だ。後藤新平は台湾の統治にも関わった人物なのは偶然と言えるだろうか。後藤の精神が台湾に根付いていたから台湾の人々の統治能力が高いのかもしれない。勿論、後藤新平の時代でも防疫対策に対しては非難する人が多かったので、当時の日本人の意識全体が高かった訳ではない。翻って、日本の今回のコロナウィルス対策は東京オリンピック開催や習近平来日予定などが相俟ってSARSの時に影響が少なかった経験をもとにした判断で水際対策を積極的に行わなかった。この時には感染症の専門家の意見を聞かなかったと推測される。日本は医療保険制度が充実しているので、欧米と比べて感染症を防ぐ地理的環境にはある。しかし、感染症を水際で防ぐことや国内感染の拡大を止めるのは環境以上に政治家の決断で決まるのは自明である。台湾の場合にはSARSの時に担当した人物が祭政権の近く居た事も幸運であったと思われる。日本の場合は長期政権で裸の王様になりつつあった安倍首相とポスト安倍を巡っての動きもあり、更に上記のイベントがあるので悲観的な情報より楽観的な情報をもとに判断したと考えられる。これは国民よりイベントを重視しての判断であり、典型的な官僚的な判断である。習近平の来日中止と相俟って急遽コロナウィルス対策を開始したが、時遅しなの自明の理である。今頃なって水際来策を強化した所で、既に国内に入ってしまったコロナウィルスには意味がない。救いは米国の様に医療格差がなく国民は積極的に医療機関に掛かるので、感染拡大と死亡率は抑えられると推定される。また、効果があると言われる200万人に投与出来る「アビガン」も準備されているので、副作用は兎も角緊急的には感染症の拡大阻止には有効だ。この為、今後は感染拡大以上に緊急対応に対する経済的な影響に対策が移ると思われる。医療格差はないが所得格差は米国の後追いした日本なので、その影響の方が大きいと推定される。貯えも少ない非正規雇用などの人達にとって仕事がない状況の方がウィルスより怖い。今回のコロナウィルス対策では官僚から人事権を取り上げて媚を売る官僚を出世させたツケが回ってきた。台湾の祭政権でも見習えと言いたい。

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