長屋式住居スタイルの現代版が人気

長屋と言えば今流行している落語の主人公達の住まいである。江戸時代の殆んどの期間は内需主体のデフレ経済であったので、庶民の多くは持ち家でなく長屋に住んでいた。明治維新以降も都会では庶民は容易くは持ち家など持てなかったので、人情味溢れた長屋住まいは存続していたのである。しかし、時代が大分下って昭和40年代以降になると経済成長率の高い伸び率とインフレ経済によって庶民でも持ち家に手が届くようになり住宅ブームが起きている。しかし、昭和50年初頭では未だ大手企業に勤務し且つ結婚していないと金融機関から住宅ローンが借りられない現実もあった。それが住宅ローン専門のノンバンク「住専」が設立されてから持ち家の普及率が急上昇し、核家族化も一挙に進んだ。ところが、バブル経済が崩壊し、資産デフレによる平成大不況が長く続き、給与所得が上がらない時代となって共稼ぎ夫婦が多くなってきた事も一因かもしれないが、全く他人と部屋をシェアする若者が現れた。この部屋をシェアする考えは経済的な面もあると思われるが、一方では子供時代からの寂しさから同居者を好む面も強い様である。そして今、「コレクティブハウジング」、「ゲストハウス」などと呼ばれる住居の一部を複数の人で共有する賃貸物件に人気が出てきた。この住居は正に長屋式住居の現代版と言える代物と思える。確かに、世界的な傾向ではあるが、車を買わないでシェアすることが増えてきており、長屋式住居も正にその延長線上に位置している。この長屋式住居に更に一歩踏み込んだ共同生活方式を取り入れ、その効果を演出できる年齢層で構成すると面白いと考える。無駄な資源の利用を省き、共同生活の楽しさと温かみを子供達が成長する過程で経験させる事が出来れば良い社会が出来るかもしれないと考える。

40%需要減には低価格でなく質への転換が必要

世界的な金融バブルで20世紀経済の大量消費=低価格商品の提供と言うモデルが20世紀末から21世紀初頭に新興国に生産シフトすることで生き返ったが、今回の金融危機で世界中の消費の40%が消失することで進むべき道は低価格路線でなく質への転換が一層明確になったと思われる。20世紀末には多くのメーカーの生産工場が従来の大量生産方式の無駄と従業員の物づくりの意識低下を反省して「島方式」などに転換していたのである。しかし、米国発の金融商品バブルによる過剰消費に対して中国などの低賃金の国々に生産拠点を移転する事で大量生産を行い、質の追求より低価格商品の大量供給に戻ってしまったのである。40%需要減の大消費不況の進行で企業は相変わらず低価格商品の提供を目指しており、現時点では衣料品関係ではその方式が成功している様に見えるが、価値観の多様化の時代に逆行している商品の売り方が長続きするとは思えない。特に、環境と言うテーマが企業価値の目安になる21世紀においては「質」が重視されるようになり、消費者は単に安いだけでは買わなくなると思われる。もちろん、所得底辺層の消費は低価格だろうが、どの業界も低所得者層に絞った商品では利益が取れなくなってしまうと思われる。今は過渡期だから仕方ないかもしれないが、消費需要の減少に対して値下げ対応が主流だが、今回の様な世界的な大不況による危機意識の中では値下げしても売り上げ増には繋がらずに場合によっては利益の減少を招くケースも多いと思料される。このため、全ての業界が質への転換を余儀なくされるものとなり、「質+心」が必要であろう。特に、我々不動産業界はここ数年、短期的な視点に終始したり、物づくりを忘れた会社が多かったので、質とは何かを考えて買い手に対し企画提案を行なうことが必要と考える。買い手に後悔させないアドバイスと質の高い建築物を提供して初めて社会に貢献できる不動産会社と言える。

欧米の自己都合による会計基準緩和

日本では今回の金融危機における緊急避難的な会計基準を緩和する事に対して景気の変動で基準を変える事は良くないとの声もあるが、本家本元の米国の節操にない会計基準緩和について緩和反対者はどの様に考えてるかを聞いてみたい。グローバル経済とか金融資本主義とか会計基準の標準化などは、所詮自国の利益を考えての理論であることが今回の金融危機で良くわかったであろう。欧米諸国の政治家の頭の中身は、100年前の植民地時代と変わっていないのである。驚いたのは、欧米が大手金融機関を救うために導入した「負債評価益」と呼ばれる会計ルールである。この債権評価に対しては企業の選択性としているたために不透明極まりないルールとなっている。尤も、日本の様に実体に即さない教条主義的な会計ルールの導入では企業が潰されるので、正に欧米の様な臨機応変さが危機克服には必要なのかもしれない。何れにしても欧米の外交は、クラウゼヴィッツの戦争論のとおりであり、邪魔な相手を叩くためには手段を選ばないことを自覚する事が必要である。特に、日本には米国に盲従する大学教授や評論家や金融マンや政治家などの売国奴が大きな発言権を持っているので余程注意が必要がある。

耐震性指標PMLの評価と日本の耐震基準の相違

耐震性指標としてのPMLは米国で生まれたものだが、その定義は「対象施設あるいは施設群に対し最大の損失をもたらす再現期間475年相当の地震が発生し、その場合の90%非超過確率に相当する物的損失額の再調達価格に対する割合」である。PML評価は、不動産証券化や不動産ファンドを組成する際の不動産購入時に対する耐震性を判断する際に専ら使われている。このPMLは既に日本の不動産売買に利用されているので今更議論するテーマではないが、金融危機以降の米国の対応を見ていると米国基準など信用しない方が無難と思えてきたからである。また、最近、知人の会社の売却物件で驚いたのは、日本の耐震基準よりPMLの数字評価の方を上位に置いて旧耐震基準の建物に対してリフォーム時に耐震補強を行なっていない事実に遭遇し、本当にその様な考え方で良いか疑問をもったからである。確かPMLの算出も確率統計を利用しての評価であり、計算式の詳細は知らないが、評価の数字を見る限り建物の構造的な強度より、建物が存している地質データの方が優先していることは間違いないと思われる。米国もロスアンゼルスなど西海岸は地震が多いのでPML評価を全く否定するわけではないが、PMLを無批判的に受け入れるのもリスクが大きい事を知るべきと考える。もちろん、古い建物をリフォームする場合には限定した工事予算の中で何を優先するか決めなくてはならないが、その場合にPMLで耐震評価が保証されれば内装工事に予算を多く使えるので仕方ない事でもある。しかし、日本の建築基準法の改正では旧耐震の建物に対しては耐震補強工事を行うように定めているので、PMLの評価を優先して耐震補強工事を行なわないで良いという事でないことは念頭に置く必要はある。

官僚と同次元でしか物事を考えない情けない既成の政治家

官僚と政治家の違いは本来はスケールの違いである。それが憲法や法律の解釈に縛られて身動きできない政治家を見るにつけ、今のこの国には政治家がいないと情けなくなる。ソマリア沖に展開している海上自衛隊の護衛艦の活動に国内法の適用で対応させる官僚と政治家に関しては世界中の笑い者であろう。威嚇射撃をするにも相手側に怪我を負わしてならないと言う規制は、波の荒い海上の威嚇射撃に関して無知な人間の考え方である。乗組員を犯罪行為で裁かれないために威嚇射撃も行なえないならソマリア沖に護衛艦を展開させるべきではない。馬鹿な官僚や政治家が海上自衛隊の展開行動に対して行過ぎないようにと箍を嵌めたのであろうが、そのために護衛艦自体を危険に晒すなど言語道断であろう。国民の生命財産を保全するのが国家の役割だが、日本の官僚、特に外務省など海外では国民にとって何の役にも立っていない組織であるので、構造改革で解体縮小する必要がある最優先の省庁である。憲法や法律は国益以上のものではないし、国民の生命以上のもでもない。憲法や法律などは幾通りの解釈も可能であるし、超法規的な考え方も国益を守るためには必要なのである。それが憲法や法律を自分達の責任逃れの都合の良い解釈で国民の利益を損なっている官僚と同レベルの政治家などは必要ない。今度の衆議院選挙では、国民の利益など考えていない自民党と民主党の議員には投票しない事が重要であり、投票するならば新しい政党の候補者や無所属の候補者に対して行う方が、国民を嘗めきっている官僚と政治家に鉄槌を加えることになるのである。私はその様に衆議院選挙を考えている。
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