スマート化はIT技術を駆使して効率の良いサービスを提供する事だが、公共投資のスマート化になると意味合いが違ってくる。小泉・竹中時代の構造改革は民営化や規制緩和を通して公共サービスの効率化と財政健全化を達成する意図があったようだが、財務官僚達が小泉・竹中を利用して行なおうとした事は公共サービスや公共投資を効率よくするために国民を主要都市部に集中させる狙いがあったと思えてならない。確かに、山間僻地や離島などに国民が生活していたのでは、インフラ整備に金が掛かって仕方ないのは誰でも分かる事である。しかし、公共投資を削減し、医療制度を改悪し、地方自治体の補助金を削減して納屋に鶏を囲い込むような行為は社会を数字でしか見ない頭でっかちの考え方であろう。今年度の税収が20兆円減少して30兆円であったのは如何に小泉・竹中時代の構造改革が先祖返りの様な輸出依存型の経済構造になっていたかの証明でもある。竹中如きは今でもTVに出て構造改革を中断したからだと自己弁護に終始しているが、自分の不動産投資に失敗した様な似非経済学者に国政を任せた小泉の無能さを忘れてはならない。今再び、財務官僚は鳩山政権で日本の構造改革を進めようとしているが、人間不在の政策など成功しない事は明らかである。真の改革とは、国民の自助を促す規制緩和であり、縦割り行政の弊害を廃止した公共投資の実現であり、税率の引き下げである。膨大な赤字のために消費税を上げなければならないと言う詭弁を信用しない事が大事である。税収が多いから行政は無駄を作るのである。税率を下げ、「私立為業」の精神で構造改革を進めれば自ずから国の赤字は消えるのである。政治家などにお金を与えると浪費するばかりで財政が窮地に陥る。税収が大きくなければ身の丈にあった政策となるのである。明治時代はお金が無かったから無駄も出来なかったことを肝に銘じるべきである。