ザッケローニ監督で教えられる指導者について

誰もが認識していることなのに積極的には認めたがらない監督と言う指導者に左右されるチームの能力。高校野球が一番監督の優劣が出るスポーツと思われる。勿論、監督としての開花は人によって異なり、大器晩成型の人もいる。私の出身地の茨城では現常総学園の木内監督が有名だが、彼は若いときから高校野球の監督に従事し、花が開いたのは遅咲きであったが、一度甲子園に出てからは甲子園の常連監督になった。長い年月の中で選手を育てる技術や才能がある選手との出会いがあったのだと推察できる。人と人との出会いから才能が開花したケース以外にも人と動物の出会いにもある事を知ったのは30年も前のことである。この出会いは競馬と言う競技なのだが、名馬と言われた地方競馬から上がってきたハイセイコーと言う馬と未だ一流にはなっていなかった吉永騎手の出会いである。吉永騎手がハイセイコーに競馬を教えられたことを雑誌記者に話した事を何かの雑誌で眼にしたのである。確か、木内監督も取手2高で甲子園に初出場を果たした時に言った言葉が、この生徒達であるなら甲子園に行けるかもしれないと思ったと言うものであった。翻って、サッカーがアジア1次予選を突破したニュースが流れていたが、ザッケローニ監督になってからサッカーの日本代表の選手は一皮剥けた様に思える。現日本代表に関しては前日本代表の岡田監督が鍛えてきたチームであり、ザッケローニ監督はその遺産を旨く使っているだけだとの風評も聞かれる。しかし、岡田監督も最初の日本代表監督のお粗末さからリーグの監督を歴任してワールドカップに出場し一定の成果を納める監督に成長したが、今のザッケローニ監督のレベルには到達していないと思うのは私一人であろうか。常勝を求められるイタリアサッカー界で多くの経験を有した結果が今のレベルに達したと思われ、選手もその凄さが分かるから付いていっていると推測できる。ハイセイコーと吉永騎手の出会いと同様に監督が間違っていれば選手は動かないのが自明である。選手が監督の指図に従うのは正しいからである。このことは何もスポーツの世界だけではない。ビジネスの社会でも同じである。正しくなければ人(動物)は付いてこない。

総務省の地方自冶制度の改悪こそ民主主義の否定

鹿児島県阿久根市の前竹原市長の騒動から総務省は首長の権限の縮小を考慮した制度に改悪する準備を進めている。総務省の見解では首長と議会が話し合いで物事を解決するために、首長の専権事項に歯止めを掛けることにしたらしいが、この様な改悪こそ民主主義を崩壊する事になる恐れがある。そもそも民主主義とは誰もが自由に色々な事が出来ることであり、それが厳密的には法律に抵触することであっても民になることであれば断行する事が出来ることである。もし、法律に抵触していると言うことならば法廷に持ち込んで争うのが民主主義の基本である。阿久根市で露呈したのは過半数の支持を得て当選した首長でも少数与党では何も出来ない現実である。総務省が制度を是正するなら首長の権限を縮小することではなく、現行では議会のリコールや専権決議でしか打開できない制度を簡単に民意を問える制度に改善する事である。この総務省の改悪に悪乗りしたのは読売新聞オンラインの記事である。記者クラブの弊害が出た御用記事そのもののであった。国家の経済が停滞し、格差社会の中で役人だけが高級を貪っている姿に国民は怒りを覚えているのである。地方都市の阿久根から火の手が上がったが、その火の手を危険視してマスコミを利用した官公庁労働組合、総務省は潰したのである。片山総務大臣など元は自冶省の役人である。身内可愛さで制度の改悪を進める姿は言語道断である。
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