アッシュ・ペー・フランスが発信するデザインとアートとプロダクトの合同展示会のお知らせ
財政赤字が政治の本質を勘違いさせている
財政赤字は予算の正しい使い方で陥ったのならば増税で解消することは当然である。問題は官僚の天下り先のためや政治家の選挙のために費やされた無用な予算の為に赤字になったのなら増税で解消など言語道断であり、その根を絶たないと再度赤字財政になるので増税など認めるべきではない。官僚も政治家も国民が過剰な要求をしたので財政赤字に陥ったなどと昨今は考えているらしいが、国民の大多数はサラ金財政なども求めてはいなかったし、何の対策も打てないで1000兆円近くの借金を国がするとは思いもしなかった筈だ。国会議員どもは自分の選挙の為に甘い言葉で国民に道路や橋などの建設を安請け合いして来たにも拘わらず、自分の責任を否定をするかの様な国民は国家に甘えてばかりで厳しさが足りないなどと放言している。此処での議論は過去に遡ることではないのでこの批判はいったん矛に納めて次の議論を展開したい。国も地方も箱物や過剰なインフラの投資で軒並みに財政難に陥っている。この現象は何も日本ばかりでなく世界的な問題だ。金融資本主義的な考え方はこの様な財政難から生まれてきたといっても過言ではない。国家や地方自治体が財政難に到った理由は色々とあると思われるが、今の問題は国家や地方自治体の財政難の解消の仕方である。行政も民間企業と同様にバランスシートを作るべきだとか企業の経営的な手法で支出を大幅に削減する方法とかが指摘されている。又、平行して運用益で支出過剰な分を補填する金融商品に投資する方法も提案されている。確かに、財政難を解消するには支出を大幅に減らして増税しか方法がないのは確かだが、最近の政治の動向を見ると財政難解消が目的化し、政治が行われていない危惧を感じる。無駄な支出を削減するのは当然なのだが、良く分析すると縦割り行政の中でバランス良く支出を削減しているので、本当に必要な所にお金が回っていない面も出てきている。又、制度を変えたことにより、弱い人達に皺寄せが出てきている面も多く見られる。
政治とは何かと問われれば、弱者の救済なのである。資本主義の中の競争社会にあって誰もが勝者になれる訳ではないし、社会は無用の用の様な存在があって初めて成り立っているので、そこに政治が必要なのである。企業経営者は弱者など省みることはないのである。無用な支出を切り捨て不要な社員を辞めさせて黒字経営になれば名経営者と呼ばれるのである。然し、政治家は企業経営者とはことなり、不法な競争を監視し、企業が切り捨てた弱者の再生や老後の仕組みを作ることなのである。尤も、企業経営者の中にも優れた人がおり、企業人でありながら政治家としての素質を兼ね備えて経営にあたった者もいる。戦前では、カネボウの中興の祖といわれている武藤山治、渋沢財閥を作った渋沢栄一、戦中戦後に出光興産創業者の出光佐三などである。ちなみに、松下政経塾を作った松下幸之助は先の人物と比較したら企業人としては上かも知れないが、政治は飽くまで企業の為と考えた人物なので、私の中では高い評価をしていない。翻って、最近話題の橋下大阪市長はどうかと言うと、彼も本質的には政治家とは言えない。その理由としては、彼の政策は金融資本主義的な考え方が根底にある様に見れるからであり、政治の本質を理解しているかどうか疑問だからである。勿論、私は大阪フィルハーモニー交響楽団の解散に反対している橋下市長は文化を蔑ろにしていると批判している人達とは考えを事にする。全国で最大の生活保護者を抱えている大阪市に対して文化云々の批判は当らないと思うからである。文化を守るには行政のアシストは必要だが、基本的には豊かな社会になって尖閣諸島の購入に短期間で5億円以上も寄付金が集まる日本なので、どうしても必要なら多くの人の寄付により財団を設立して守れば良いのである。全部税金で守る必要はない。大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽家たちも大阪市の職員に甘んじた為に採算を度外した演奏活動しか行わなかったと推定されるので、楽団員にとっては不幸なことと思われる。私は自助努力を怠るものを救済しろとは言わない。問題は財政赤字解消が目的化した政治が横行するのを懸念するからである。政治の世界は数の必要性を痛感するが故に小沢一郎の様な選挙に勝つだけを目的化した政治家を生み出したのである。同様に、財政赤字解消だけを目的化した政治家の出現は貧富の差を生み、犯罪を増やすだけだからである。日本人は世界にも類を見ない80%の国民が中流意識の社会を実現した国である。インフレ経済でない低成長経済において同様な社会を実現する政治を考える必要があると思料する。
尖閣諸島購入を巡る寄付金に対する疑問
石原都知事が尖閣諸島の購入を米国で宣言して以降、東京都には購入資金に対する寄付金が寄せられ、現時点で4億円に上るという。マスコミなどは領有権に対する日本政府の弱腰に対する国民の憤りが寄付金の形で現れたと言う報道をしている。しかし、私はこの俄か愛国心に対して全てがマスコミの報道する様な善意の寄付とは到底思われないのである。尖閣諸島は中国がどの様に主張しようが日本の領土であることは疑いもない。中国としても尖閣諸島の領有権を主張しているが、韓国の竹島占有の様な強引な手法を取ることは国際法上難しいのは確かである。今回の展開を冷静に分析しないと戦前に間違った方向に導かれた事の二の舞となる。先ず石原都知事が尖閣諸島の購入をこの時期に宣言した理由である。然も、米国において何故宣言したかであることを考える必要がある。石原と言えば、三男か四男か知らないが、選挙に落ちて浪人している息子がいる。先の都知事選の出馬や今回の新党に対する動きも全ては可愛い馬鹿息子の為といっても間違いはないだろう。その様な時期に尖閣諸島購入問題に言及したと言うことは、裏で何かの取引があったと考える必要がある。尖閣諸島問題はに日中間の大きな政治問題になっている。この問題に火をつけるのは日本と中国との政治的な関係以上に企業における経済的な関係に影響を及ぼすことは目に見えている。敢えてその様な問題提議を地方政治家である石原が行うことは国家に対する越権行為である。先ず、この様な問題を分析する時に必要なのはマスコミの動きである。日本のマスコミは間違いなく米国の情報戦略に組み込まれているので、石原都知事の尖閣諸島購入に対してどの様な報道姿勢かで判断できる部分もある。面白いのは尖閣諸島購入宣言に端を発した寄付金である。いち早く取り上げて報道するところを見ると、石原都知事の発言には外国勢力が絡んでいると分かる。東京都に要請したいのは、奇特な寄付者の氏名公表を是非行って欲しいことである。国際謀略に石原都知事が加担していなければ公表できるし、逆に寄付金が疑わしくないと分かれば、今の時代に身銭を切ってまで愛国心を持っている人達に敬意を表したい。日中間で紛争が起きれば得をするのは日本人ではない。外国勢力である。中国の経済に奥深く進出し他国の追従を許さないほど先行利権を有している日本を外国勢力が黙ってみている訳がない。民主党の前原誠司が起こした尖閣諸島における中国漁船の拿捕も京大の米国シンパの流れを汲む事件である。日本人は明治維新の時には優れた人達が国際謀略を乗り越えて国を守ってきたが、大正、昭和と変わり、島国の悪い面が出て国際謀略に弱くなった。況して戦後の平成の時代では、外国勢力に利用される国賊紛いの政治家や官僚、そして学者で溢れている。勿論、日本国民を無防備にしてコントロールしているのは米国だが、それに一役買っているのは電通など広告会社とマスメディアだ。最近の動きとして日本における中国シンパに対する攻撃が激しくなってきていることから、欧米諸国は中国に対して人権問題で揺さぶる計画であり、それに日本を尖兵として遣う考えと推測できる。尤も、フランスではサルコジに変わり社会党の大統領が出現したので中国に対する欧米の中国に対する足並みが揃うかどうか不明だ。何れにしても、東京都は尖閣諸島購入に対する寄付金の氏名を公表し、外国勢力の謀略に乗じていない事を証明すべきだ。
過去を語ることの大切さ
私は戦前生まれでないので残念ながら戦前戦中の事は経験していないので経験談として話す事は出来ない。勿論、戦後の事も少なくても1965年以降でないと記憶に残っていないので語れない。人の記憶も年月が経過すると塗り替えられて"虚偽の記憶"が形成されるとの事なので、その事を理解して過去については語るべきと思われる。なお、経験しない時代の記憶でも親などからの情報で記憶されることになるので、先の虚偽の記憶を踏まえても書籍の情報よりは確かな過去の記憶をを入手していると言える。私が過去を語るときは少なくても書籍を通して得た知識ではなく、私自身の経験や身近な人達から聞いた事実を通してである。尤も、身近な人達からの過去の経験だけでは世界観が狭くなるので、ドキュメンタリーの本や過去を記した資料なども渉猟して過去を広げてはいる。しかし、責任をもって言えるのは少なくても私自身の記憶と経験した本人から聞いた記憶と言える。何故、過去を語る事に拘るのかと言えば、最近は余りにも過去の出来事が歪められて伝えられてきている怖さを感じるからである。終戦後に20歳であった人達も今や87歳である。一方で平成生まれの人達は23歳になるのである。過去を語る事は後世の世代が同じ過ちを繰り返さないことに繋がるので大事な事と考える。特に、最近は明治維新に習って改革を推し進めようとする人達が多いが、その人達の歴史認識や当時功績のあった歴史的な人物に対して学んだ形跡が少ないと感じるのは私一人であろうか。維新や改革の言葉は今や安売りの商品の如くチープなものに成り果てている。情報が氾濫する時代にあって偽の情報に惑わされずに知見を育てるのは難しい時代になった。しかも、議論のすり替えの類の情報で溢れている。この様な時代には、それぞれが過去を語る事が重要であり、真実を見極めるのに役に立つからである。地位の高い人や有名人が語ると真実と錯覚する間違いを指摘するにも役立つからである。
関越自動車道で起きたバスの事故に見る小泉改革の弊害
建築確認申請・承認の民間委託で起きた構造偽造事件を始め、小泉改革が社会に害をなした事例は枚挙に暇がない。今回の関越自動車道のバスの事故も規制緩和の弊害が出たと思わざるを得ない。法律の改正で免許制度から登録制度に変更したことで免許制度の利権構造にメスを入れたことは理解できる。問題は規制緩和後の安全などに対する配慮が著しく小泉改革には欠けていると言う事実だ。今回の事故に繋がる運転手一人の問題も法律的には違反でないと言う。どの様な法律かと言うと、道路法による走行距離で決めているとのことの様だ。この走行距離以外に運転手の健康問題や渋滞問題を絡めていれば今回の様な事故は防げたと思えてならない。先の建築確認申請の問題も然りである。準備(=能力)も整わないのに時間軸で規制緩和を行ったために、構造偽造を起こしやすい状況を作り出してしまった。法曹界でも裁判の判決を時間軸で評価する様になったために正義ではなく、裁判官の出世競争に巻き込まれて不正義が罷り通っている。検察然りだ。マスメディアはデフレ社会に陥り、グローバル経済についてゆけない日本に対し、明治維新の改革を期待するかの様に世論を誘導しているが、江戸時代に教育を受けた日本人と現代社会の日本人との人間の質の違いを考えているのかと言いたい。今回のバスの事故を起こした会社の名前は、「陸援隊」と言うのを見ると、明治維新に憧れた社長だと直ぐに分かる。この社長が2002年にバス会社を設立したのを見ると正に小泉改革が産んだ申し子だろう。
小泉改革で良く言われる民営化とは、言葉を変えれば資本主義化と言うことだ。今の若い世代は社会主義と共産主義を混同して一方的に社会主義が悪いと批判している。明治維新で資本主義の欠点を見抜いていた経済人に渋沢栄一がいる。彼は資本主義に論語の考え方を入れることを唱えたのである。現代社会に明治維新と同じ改革が出来るわけがない。その大きな理由は人間の質の問題である。現代社会の日本人は倫理観も喪失し、「他人くたばれ、我繁盛」の連中が金儲けに走っている。尤も、日本人だけでなく世界中の人々が熱に浮かされた様に倫理観なき競争に陥っている。
私自身は規制緩和や競争を否定している訳ではない。問題は規制緩和を主導している人達の人間の質や能力を問題視しているのである。勿論、マスメディアに踊らされて効率主義や安い商品を血眼になって追い求める大衆にも責任はある。この様に書いているのも馬鹿らしいほど、人と言うは忘却することで生きている人種と言わざるを得ない。バスの事故の被害者には悪いが、安いものにはリスクがあると言う現実を突きつけてくれた事例としては少しの期間は人の記憶に残るのであろう。正に、現代の政治は大衆の忘却や表面の姿を変えただけで誤魔かせる中で行われている。維新を唱える前に倫理観について議論しろと言いたい。