今回の金融危機における企業と政治の役割

日本の世界的なメーカーは金融危機と円高に対してリストラと生産調整に着手した。この対応に対してリストラは当然なのだが、マスメディアは一斉に非難を開始した。利益を追求する企業に公共的な性格の会社と同様な雇用維持の要請を求めても仕方ない。馬鹿な政治家も手ぶらで企業に雇用の維持を要請しているが、そんな理屈が通る分けもない。今回の様な金融危機に対する世界同時不況に対しては、企業に雇用維持を要請するなら租税特別措置法によって雇用を維持する企業に何らかの優遇策を与えるべきである。また、政治家としてはその政策でも救われない失業者に対して公的な事業を起こして職を与えるべきである。日本の各メーカーは今回の金融危機に伴う需要減と円高に対して強い危機感を持っているが、国内で活動している企業や政治家と官僚は危機感に温度差がある。来年は間違いなく世界同時不況になると予測されるが、その様な世界経済は戦争時を除いては約100年前の大恐慌時だけだと言うことを認識し、輸出企業の様に取り組むべきである。極論から言えば、戦争時の様な統制経済が必要になるかもしれないのである。日本の社会は何時頃からか対応型の社会と言われ、先んじて何かを行うシステムでなくなっている。今回の様な不安定な世界経済に対応型の政策を踏襲したら破滅に突き進む事になる。何れにしても、今回の危機を乗り越えるには国内の富の活用は必須であるので、政治家は国民の信頼を取り戻すべく先駆けて今回の不況の痛みを受ける対応を促したい。また、個人の資産を狙った詐欺紛いの存在に対する取締りを徹底して規制緩和によって悪質化した社会の風紀を改善し、個人投資家が安心して投資できる環境を構築することも必要と思われる。

今更ながらに思う自然界の摂理

最近、無農薬でリンゴの栽培に成功した人物の本を読んだ。リンゴ栽培には農薬が必要と言う定理を覆して見事に無農薬のリンゴ栽培に成功した人の我が闘争を書いたものであった。この本で改めて自然界が摂理でコントロールされており、人間の歴史はその摂理に挑戦し続けてきた存在ということであった。リンゴの無農薬栽培は自然界の摂理との戦いを人間に影響が少ない材料で行うことであるが、その方法で生産者として生活出来る水準までにリンゴを大きくする事は労働力の掛け方ひとつ取っても並大抵の事では出来ない。特に、自然界は多くの要素で形成されており、常に予測しがたい環境が発生すると同時に総ての生き物には耐性作用の進化が起きるために、それ等の現象に対応するためには長年のフィールドワークによる経験しか方法がないのが現実である。然も、その積み重ねを続けても克服ではなく共生でしかない。今回の世界的な金融危機も自然に反したからなのではないだろうか。私は何も宗教論を語る考えはない。狩猟民族と農耕民族との文明の違いを論ずる考えはないが、間違いなく言えるのは狩猟民族は自然を克服する行為を前提とし、農耕民族は自然との共生を前提としてきたことである。日本の構造改革では規制緩和が経済の活性化を促進すると考えられているが、規制緩和によって自然界の変化の流れ以上の現象が生じると反動が起きるのではないかと思えてならない。建築基準法における規制緩和などが良い例である。尤も、現在の様な縦割り行政は自然に反した組織であるので、その決定が誤った方向に向かうのは当然なのかもしれない。なお、グローバル経済が自然の摂理に反しているかどうかは分からないが、少なくても人間が作り出した時間が地球と言う天体の持つ時間を越えた場合には大きな反作用が起きる可能性は否定できない。企業も然りであろう。自然の摂理に反した行動を選択すると淘汰される。

グローバル経済における「事業の選択と集中」の危うさ

効率の良い経営と言う事で、ここ数年は会社経営において「事業の売却と集中投資」を行った会社が業績を伸ばした。しかし、この手法は一定の条件でしか通用しないことが今回の金融危機で思い知らされた。確かに、企業にとっては、余り利益を生んでいない事業に投資を続けることは、経済合理性の観点から見ても良い判断とは言えないかもしれない。しかし、現時点で考えた事業が企業の将来を支えてゆけるかどうかは過去を見れば一目瞭然である。経営には経済合理性も必要だが、未来を予測出来ない中で、過度な事業における選択と集中はリスクを抱えることになる事に気が付いた人は少ない。グローバル経済が金融経済の短期的な収益を重視して行われたことに問題点があった様に思える。この問題点と、金融経済は短期的な視野で物事の判断を行っていることである。メーカーの経営には短期的な視点も大事だが、中・長期的な視点とのバランスが欠かせない。特に人材育成を考えると金融機関の様に必要に応じて人材を市場に簡単に求めれらないからである。どの事業が会社の将来の大黒柱になるかを予想するのは難しい。金融機関と違って物づくりの現場には色々な経験を有した人材が必要であり、その人材を確保してゆくには事業が必要なのである。どうも近年の経済合理主義には、中国の荘氏の「無用の用」の考え方が不足していると思われてならない。

株主優先の弊害

企業は誰の者かと問われれば、株主と言うのが一般的である。しかし、この株主が曲者である。会社を起業した創業者の株主や会社発展のために増資を引き受けた株主については分かるが、問題は株を市場で購入した株主の存在である。特に、日本の総会屋と間違えるような株主である。米国の自動車のビックスリーが経営難になった一端も株主優遇の配当制度である。日本企業の強さは株主配当より設備投資を優先した経営システムで、それが常に競争力を維持できた秘訣でもあった。しかし、株主配当重視と言う考え方は、企業の設備投資の考え方が米国流になると言う事であり、将来に備えた資産を常に活用する必要があり、従業員については軽視した経営になることでもある。勿論、従業員の中に経営陣は入っていない。経営陣は株主に多くの配当を約束する代わりに、自分達は高額の報酬を得るのである。今回の金融危機が引き起こすと予測される需要減に対しても株主配当を守るために従業員の削減から始めるのである。幾ら予測できなかったとは言え、今回の金融危機に対する見通しについては従業員の責任ではなく、経営陣の責任である。本来ならば先ず経営陣から報酬の削減などを行ってから、従業員の解雇を考えるのが順番である。そう言えば、日本航空の現社長の事がニュースのなっていた。彼は電車で通勤し、報酬に関しては自分の同じ世代の方々をリストラで解雇したことからと言う理由で1000万円以下に抑えていると言う事である。実に立派な経営者である。この社長の経営の確かさは、今年春に増資を行って手元資金を確保した事であろう。時期がずれていたら実現しなかったとも言われた増資規模である。グローバルが良くて日本式が全て悪いと言う考え方はナンセンスである。昔の日本は政治は二流だが経済は一流と言われたが、今は政治が三流で経済は二流とワンランクダウンしたと思う。顔つきで人物が分かるが、今は地位と顔が合わない者ばかりが跳梁跋扈している。

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