地域活性化の一つとして実業学校の地域化が必要
偶然、ケーブルTVで鹿児島県立鹿児島工業高等学校の100周年記念の行事を放映していたのを見た。行事には工業立国の日本の尖兵として活躍した方々も多く、鹿工(ロクコウ)卒業生として誇りを持った顔が素晴らしかった。校舎の真ん中に立つ古い大きな煙突が学校の象徴的な存在らしい。この番組を見ながら、日本の高校は何時頃から普通高校重視となり、実業高校の入学を敬遠する様になったのかと考えた。少なくても、私の年代は優秀な中学生が実業学校に入学し、卒業後は銀行や造船会社、自動車会社などに入社している。推測するに、大学進学率のアップとともに入試に不利な実業学校が次第に敬遠されるようになったのは理解できる。大学入学に関し入試一辺倒の文部科学省の行政の考え方が実業学校の魅力を損ねたと思われる。本来ならば、実業学校の生徒の大学入試に関しては、推薦入学制度を拡充して大学進学の不利をカバーすべきであったのである。この一例も工業化のために安い労働力を得るために農家から働き手を奪った政策と同じく、若年労働者を産業界に送り出すために実業学校の生徒のカリキュラムを大学進学用に設定しなかったのであろう。過去を遡って非難しても仕方がないので止めるが、良く考えると地域振興には実業学校の活用が必要と思えてきた。勿論、現在の実業学校の専攻課程を今の様に全国的に同じ様なものでなく、地元が必要とする産業や仕事、更には後継者が少ない伝統的な職業にすることである。この専攻課程の改革には、ドイツの様なマイスター制度を取り入れれば有効と思われる。地域再生には先ず働き手の確保が必要で、これには地域ごとに必要な知識を与える実業学校の活用が重要であるのではないかと思う。そう言えば、野球界に三原監督という名将がいたが、監督自身は慶応大学出身にも拘わらず、ご子息は板前になったとのことであった。勝負の世界に身を置いた監督のご子息が実業の世界に進んだのは「言い訳が聞かない世界」の共通性があると思った。
市街地の開発には適正な規制が必要
規制緩和が新たな需要を創出すると言われて久しい。確かに、資金的な裏づけがあれば開発が促進され、有効需要は創出されるであろう。しかし、規制緩和が引き起こすマイナス部分の乱開発に伴うインフレ整備の遅れや競争激化による不正な建築などの面に目を向けた議論は少ない。私が指摘したいのは行政の既得権利を守る事ではないので誤解しないで欲しい。森ビルの社長が都内の高層化の妨げ要因として羽田空港の存在を上げているが、一方で温暖化の対策として地上を緑化するには地下を利用すること提言している。どちらも土地の有効活用を唱えた意見ではあるが、「利用者の基準を何処においている」のか、「地震国の日本で現在の耐震レベルがどの程度有効と考えている」のか、「都内の下水道などのインフラ整備の対応を把握している」のか、大規模開発発言に関して色々と疑問が湧く。もちろん、私も地価の上昇に抑制効果がある建物の高層化に反対ではないが、昨今の大規模開発は地価の安定供給には貢献していないどころか、逆に採算性が見えない土地投機を招いているだけである。デベロッパーとして最も大事なのは、急激な資産価値の上昇ではなく、バランスのとれた開発による建物の供給であり、その供給に基づく経済成長に見合った地価と賃料の上昇を促す事である。もし、建物安全性の強化や温暖化対策にコストが掛かるのであれば一企業の問題ではないので、そのコストに見合う分を行政側に容積と言うボーナスを要求することである。大分前から指摘しているが、森ビルの六本木開発や三井不動産のミッドタウン開発など大手デベロッパーの市街地の開発手法は、クローズド開発である。オープン開発でなけれな地域が潤う事は少ない。日本の行政が作成した都市開発計画は未来志向でなく、現状優先の考え方であるので、今日の様な都内の乱開発は仕方ない面があるが、再度全国の市街地に関しては未来志向で都市計画を立案して適正な規制の下で開発を行なわせる事が重要と思われる。元来、不動産開発は規制の網の中で創意工夫を行なって事業化してきたのである。土地の有効活用を規制緩和だけに依存して行なった結果が金太郎飴的な開発であり、荒唐無稽な需要創出を生み出した。不動産業界には再販で儲ける考え方もあるが、この様な考え方はデフレ経済から抜け出せない危険なものと思われる。市街地開発には金太郎飴的な開発を排除するために適正な規制が必要なのである。
景気回復支援策の新車購入時の取得税の軽減に思う
政府が景気回復刺激策のひとつとして自動車の新車購入に必要な取得税などの軽減に対する予算を計上した。これ以外にデジタルTVなどの購入に対しても購入支援金も出るらしい。経済評論家や野党の国会議員などは購入時期に不公平な政策だと非難しているが、どの様な政策でも平等であるわけがないので、先に購入した人は運がなかったと思うほかないが、問題は自動車税の取得税の課税方法に対する問題点を指摘する人はいない。今回、景気回復に対して自動車税の軽減が話題になったのでこの点に関してグローバル経済に必要なのは何かを問いたい。私が日本と米国の自動車に係る取得税の違いを知ったのは11年前のことであった。不動産ファンドのアドバイザリーで一緒に仕事をする事になった相手が長く米国に滞在していた人で、彼が久し振りに帰国して知人から中古自動車を安く買った話を聞いてからである。彼は、「日本の取得税は自動車の排気量で課税するので中古自動車の購入金額より高い」と怒っていた。私は初めて日米の自動車取得税の違いをその時知り、米国と言う国の課税方式は合理的に出来ていると思った。その後、私の専門である不動産の取得税・固定資産税を調べたら、やはり日本と異なり、基本的に売買価格に対する課税方式であった。勿論、税率には色々な要素が加味されているので金額的には米国も安くないが、売買価格に対する課税方式は現実的であると評価した。日本では不動産取得に際してはデスカウントキャッシュフローの考え方が主流になったが、良く考えるとこの方式は不動産の課税に関して売買価格での課税コストで組み立てられており、時価会計には売買価格での課税方式が不可欠ではないかと思った。米国の方式を単純に導入すると、格言にある様に「仏を作って魂入れず」になる恐れがある。構造改革とは本来課税方式も含めなければ効果が発揮できないと考えるが、どの様な理由があるのか小泉・竹中の似非改革にも触れられてはいない。ちなみに、彼の中古自動車の購入金額は6万円であったが、取得税は10数万とのことであった。彼の怒りは当然と思われる。日本の構造改革は"木を見て森を見ず"の類であり、真の構造改革など行なってはいない。そう言えば、最近竹中平蔵がやたらTV出演して見苦しい自己弁護を行なっている。今日の不況が小泉・竹中以降の政権が構造改革を遣らなくなった事が原因と指摘しているが、そう言えば海の向こうでも前FRB長官のグリンスパンが自己弁護に奔走している。人は正しい事を行った自負があれば自分に対する評価は歴史に委ねるものである。両人とも、何か疚しいことがあるので必死になって自己弁護を行なっているのであろう。この様な人物が重要な地位を得ていた時代とは何か考えさせられる。兎に角、景気回復は企業に委ねるしかないので、企業の足を引っ張る様な法律・制度を改善する事が緊急の課題であると考える。