日経「大磯小磯(民主党派遣禁止法案)」(吾妻橋)のコラムを非難する
選挙に「お願いします」の政治家はいらない
選挙で選ばない権利も必要
現行の政治に不満なら選挙に行き投票するのが義務だとマスコミや評論家は指摘する。しかし、現行選挙制度では投票率が低くても必ず選ばれると言うシステムに疑問を持たざるを得ない。立候補者に投票したい人がいないのに選挙に行かねばならないと言う理屈は可笑しい。しかし、この様な意見を述べると、それなら貴方が選挙に出るべきだと抗議され、この種の意見は封じ込められてしまう。議員定数は最大限のことであり、必ずしも定員を満たす必要があるものではないと理解する。少なくても、投票率が40%を割った選挙では当選者を選ばない様な権利を有権者が持つべきである。そうすれば、政治家も今の様に無責任な政治や言動を行なわなくなる。当選者を選ばない不利益は選挙民にあるのだから、私の考えでは選ばない権利を有するのは当然と思える。何時も選挙の時に思うのだが、投票したい候補者がいないのに投票しなくてはならない現行制度は間違っている。逆に、選ばないと議員報酬を支払わなくて良くなり国庫負担が減少すると言う効果が生まれる。立候補者は一定数の投票数を獲得できなければ供託金が没収される現行制度がある。これは自己宣伝目的の候補者を排除する制度であるが、これに最低投票率制度を設けてそれを下回れば当選者を選ばない制度を作る必要がある。そうすれば、投票率が20%台で選ばれた政治家に選挙民に信認されたなど言われなくて済む。政治改革は国民が選ばない権利を有した時に始まる。
スタフグレーションの危険性
金融危機で経済が失速するのを防ぐために各国の中央銀行は紙幣の流通を増やしたために通常の平均2.3倍のお金が出回っているとのことである。経済学者でなくても此れの意味する所は通貨価値の下落によるインフレなのだが、問題は世界経済が縮小スパイラルの危険性がある中でインフレが起きると正にスタフグレーションになる可能性が大きい。それにも況してドルが下落しているために円と同様に対ドルに対して必要以上に通貨の価値が上昇して困っている国も出てきている。100年前の大恐慌の時には世界経済の回復は10年掛かったが、今回は情報化時代で時間軸が速くなっているので世界経済の混乱は当然に短期間で納まるであろうが、問題は金融バブル経済崩壊後の需要回復に見通しが立っていないことであろう。日本の企業も中国の内需拡大の恩恵で輸出が持ち直してきているが、中国自体の経済成長は米国や欧州の景気に依存してきたために、欧米の需要が回復しなければ経済が失速する危険性は高く、日本企業も大きな打撃を受ける事になる。過剰流動性のお金が商品に流れ込んで物価を押し上げる場合、失業率が高く、給与所得が上がらなければ消費は落ち込む事になり、最悪のシナリオとなる。尤も、国からすれば庶民の生活より膨大に増加した国の借金の解決が優先事項と思われるので、スタフグレーションも視野に入っているかもしれない。そうすると、スタフグレーション下での生活防衛に対して有効な手段は何かを考えて事前に手を打つ必要が出てくる。
長屋式住居スタイルの現代版が人気
長屋と言えば今流行している落語の主人公達の住まいである。江戸時代の殆んどの期間は内需主体のデフレ経済であったので、庶民の多くは持ち家でなく長屋に住んでいた。明治維新以降も都会では庶民は容易くは持ち家など持てなかったので、人情味溢れた長屋住まいは存続していたのである。しかし、時代が大分下って昭和40年代以降になると経済成長率の高い伸び率とインフレ経済によって庶民でも持ち家に手が届くようになり住宅ブームが起きている。しかし、昭和50年初頭では未だ大手企業に勤務し且つ結婚していないと金融機関から住宅ローンが借りられない現実もあった。それが住宅ローン専門のノンバンク「住専」が設立されてから持ち家の普及率が急上昇し、核家族化も一挙に進んだ。ところが、バブル経済が崩壊し、資産デフレによる平成大不況が長く続き、給与所得が上がらない時代となって共稼ぎ夫婦が多くなってきた事も一因かもしれないが、全く他人と部屋をシェアする若者が現れた。この部屋をシェアする考えは経済的な面もあると思われるが、一方では子供時代からの寂しさから同居者を好む面も強い様である。そして今、「コレクティブハウジング」、「ゲストハウス」などと呼ばれる住居の一部を複数の人で共有する賃貸物件に人気が出てきた。この住居は正に長屋式住居の現代版と言える代物と思える。確かに、世界的な傾向ではあるが、車を買わないでシェアすることが増えてきており、長屋式住居も正にその延長線上に位置している。この長屋式住居に更に一歩踏み込んだ共同生活方式を取り入れ、その効果を演出できる年齢層で構成すると面白いと考える。無駄な資源の利用を省き、共同生活の楽しさと温かみを子供達が成長する過程で経験させる事が出来れば良い社会が出来るかもしれないと考える。
40%需要減には低価格でなく質への転換が必要
欧米の自己都合による会計基準緩和
日本では今回の金融危機における緊急避難的な会計基準を緩和する事に対して景気の変動で基準を変える事は良くないとの声もあるが、本家本元の米国の節操にない会計基準緩和について緩和反対者はどの様に考えてるかを聞いてみたい。グローバル経済とか金融資本主義とか会計基準の標準化などは、所詮自国の利益を考えての理論であることが今回の金融危機で良くわかったであろう。欧米諸国の政治家の頭の中身は、100年前の植民地時代と変わっていないのである。驚いたのは、欧米が大手金融機関を救うために導入した「負債評価益」と呼ばれる会計ルールである。この債権評価に対しては企業の選択性としているたために不透明極まりないルールとなっている。尤も、日本の様に実体に即さない教条主義的な会計ルールの導入では企業が潰されるので、正に欧米の様な臨機応変さが危機克服には必要なのかもしれない。何れにしても欧米の外交は、クラウゼヴィッツの戦争論のとおりであり、邪魔な相手を叩くためには手段を選ばないことを自覚する事が必要である。特に、日本には米国に盲従する大学教授や評論家や金融マンや政治家などの売国奴が大きな発言権を持っているので余程注意が必要がある。
耐震性指標PMLの評価と日本の耐震基準の相違
耐震性指標としてのPMLは米国で生まれたものだが、その定義は「対象施設あるいは施設群に対し最大の損失をもたらす再現期間475年相当の地震が発生し、その場合の90%非超過確率に相当する物的損失額の再調達価格に対する割合」である。PML評価は、不動産証券化や不動産ファンドを組成する際の不動産購入時に対する耐震性を判断する際に専ら使われている。このPMLは既に日本の不動産売買に利用されているので今更議論するテーマではないが、金融危機以降の米国の対応を見ていると米国基準など信用しない方が無難と思えてきたからである。また、最近、知人の会社の売却物件で驚いたのは、日本の耐震基準よりPMLの数字評価の方を上位に置いて旧耐震基準の建物に対してリフォーム時に耐震補強を行なっていない事実に遭遇し、本当にその様な考え方で良いか疑問をもったからである。確かPMLの算出も確率統計を利用しての評価であり、計算式の詳細は知らないが、評価の数字を見る限り建物の構造的な強度より、建物が存している地質データの方が優先していることは間違いないと思われる。米国もロスアンゼルスなど西海岸は地震が多いのでPML評価を全く否定するわけではないが、PMLを無批判的に受け入れるのもリスクが大きい事を知るべきと考える。もちろん、古い建物をリフォームする場合には限定した工事予算の中で何を優先するか決めなくてはならないが、その場合にPMLで耐震評価が保証されれば内装工事に予算を多く使えるので仕方ない事でもある。しかし、日本の建築基準法の改正では旧耐震の建物に対しては耐震補強工事を行うように定めているので、PMLの評価を優先して耐震補強工事を行なわないで良いという事でないことは念頭に置く必要はある。
官僚と同次元でしか物事を考えない情けない既成の政治家
省エネ・温対法・地方自冶体環境条例改正により貸ビル業に求められる負担増
地球温暖化抑制対策として経済産業省の「省エネ法」、環境省の「温対法」、地方自治体の環境条例改正などに伴い、貸ビル業としては多額の対策費用が求められる事になる。貸ビル業は経済の影響を最も受け易い業界であり、百年に一度の大不況と言われる時期に賃料に転化できない環境対策費を計上しなければならない負担は極めて大きい。もちろん、行政側では努力目標位にしか考えなくても事業者の貸ビル業者としては、テナントサービスの必要性から見て対策を進めなければビルの評価が低くなり、賃料にも影響が出てくる恐れがあるので対策を進めなければならない。しかし、米国などを見るにつけ日本の行政の硬直性には驚くしかない。米国などは、今回の危機において早々と会計基準を含めて危機に対応させた臨時措置を打ち出しているのに、日本では「馬鹿の一つ覚え」の様な一度決めたことに対する柔軟性は全く欠如している。「角を矯めて牛を殺す」の類の政策実施が多すぎる。もちろん、行政が考えた補助金制度などがあるが、実際の負担額や適用基準などを考えると意味を成さない代物である。日本の行政組織の欠陥は以前から指摘されている縦割り行政であるので、行政を横断する政策の場合には関係役所のスタッフで構成するプロジェクトを立ち上げて行なうべきと考える。尤も、その様なプロジェクト方式は行なわれているかもしれないが、問題は参加してくるスタッフが自己利益の追求だけに終始して成果があげられないのであろう。デフレ経済やスタフグレーションにおける政策の遂行に対しての知識がなく、何時まで経ってもインフレ経済の頭の行政では企業が潰されてしまう。極論から言えば、現代の行政組織はガン化して正常な社会システムを破壊して来ている。ガン細胞を殺すには除去するか栄養源である血液を遮断するかであるので、行政組織のガンを殺すためには血液である予算の大幅削減を行う事が必要である。行政組織は国民や国民の生活を維持する企業に対する裏方であるが、何時の間にか自分達の方が偉いと勘違いし、理論専攻の政策を強引に国民や企業に押し付けてくる。グローバル経済になって時間軸が速くなった時代には新しい行政組織に変える必要がある。私も温暖化に対する対策は必要と考えるが、問題は企業活動と整合性を図る必要があり、目標数字を企業に押し付ける方式には賛成できない。
官の暴走は全ての政治家の責任
役人の勝手な振る舞いを見ると日本には本当に政治家がいないと思う。司法・行政・立法の三権分立は小学生の教科書にも出てくる基本であるが、近年、司法もいい加減になってきており、立法に至っては行政のチェックどころか役人の言いなりである。野党の政治家が与党に対して官の暴走に対して批判しているが、政治家は与野党問わず調査権を有しているので、与党でなくても仕事は出来るのである。政権を取らないと官僚が言う事を聞かないと言う輩は与党になっても何も出来はしない。今の政治家は本当に胆力のある者がいなく、喧嘩も出来ない者ばかりである。与野党問わず、今回の衆議院選挙では2世議員の事を問題にする様だが、確かに辛い職業なら子供は後を継がないし、親も子供に後を継がせないであろう。今の国会議員が如何に仕事をしなくても多額の報酬を得られて威張っている事が出来る証である。先日、北海道選出の国会議員と話す機会があり、彼は道会議員から上がってきただけあって見識があったが、党の中では少数意見として扱われてるのが歴然であった。彼とは小選挙区制度が政治家を駄目にし、中選挙区の方が立派な政治家を作ることで意見が一致した。情報化時代に多様化した世界に2大政党が適合しなくなった時に日本は、小選挙区制を導入して党に従うだけの政治家を作り出す事になった。その結果が、似たような自民党と民主党と言う2大政党を生み出しただけで国民には何等利益をもたらしていない。然も、今日的な世界情勢では大連立が必要とマスコミなどが言い出したが、戦前の大政翼賛会の反省があって戦後の政治があった事と、否定した55年体制のことは忘れたのかと言いたい。歴史的な観点からすれば、55年体制前の民主党の鳩山一郎と自由党の吉田茂の争いを投影したような彼等の孫である現代の民主党の鳩山由紀夫と自民党の麻生太郎の戦いは、民主党が選挙に勝って政権を取り、自民党との大連立となるならば悪夢としか言いようがない出来事になる。今求められるのは既成政党の交代でなく、官の暴走に鉄槌を下す真の政治家を目指す人達の出現である。