業界紙の日本経済新聞が一般紙並みに影響力を持ってきた危なさ

日本経済新聞と言えば業界の太鼓持ちと相場が決まっていたので記事の信頼性など評価していなかった。特に、政府関係の記事に関しては、政府が国民の反応を探るために意図的にリークしていることが通説だったので、日経はまたお先棒を担いだかと理解したものであった。日経新聞と言っても所詮は業界紙なので、バイアスが掛かった記事に関しても軽視していたが、若い世代が一般紙以上に日経新聞を読んでおり、記事の信憑性に疑問を持っていない姿を見ると本当にやばいと思うようになった。TVのCMも旨いのだろうが、新興企業の社長などが社員に日経新聞を読まない奴は駄目だと発言しているのも普及の手助けをしている様だ。社会経験の浅い若い社員にのみならず、ある程度成功した人達まで日経新聞を無批判に信用していると思うと、戦前に軍部のお先棒を担いで国民を戦争に駆り立てた朝日新聞を思わざるを得ない。確かに、日本が競争社会になり、年功序列制度が崩れてきた現代においては、一般社会の記事より、経済専門の新聞の方が有用と考えるかもしれない。然し、人間の成長を促し、大局的に物事を見れる力を養うには、何事も偏らない情報を得ることが肝要なのである。私が20代に海外、特に韓国経済をウォッチする仕事をしていたために、ソウル経済新聞と言う業界紙を読んでいた。日経新聞は海外の経済紙と提携してたかもしれないが、ソウル経済新聞の一面に掲載された記事を一日後に日経新聞の一面に一字一句違わずに掲載されたのを見た時には驚いた。日経新聞の関連雑誌の日経ビジネスに元日経新聞の記者が、ソフトバンクの孫社長に取材すると孫社長は記者を媒介人としか見ないので空しさを感じると書いている誌面を見た。私は日経の元記者の考えかには驚いた。確かに、記事を面白くするために何かを引き出すやり取りも必要なのだろうが、無理に聞き出す内容に真実があるのだろうかと思うと同時に、嘘でない限りは取材した相手の言葉をそのまま伝えるのが仕事だろうとも思った。記者に勝手に解釈されて記事を掛かれては取材を受ける側にとっては危険極まりないことになる。況してや、記者も他の業界や政治家に繋がっていたら余計にリスクが生じてしまう。海外の新聞記事を丸ごと載せている新聞社の記者の言うことではないと笑ってしまった。国民にとって新聞記事は媒介人として何も思惑がなく掲載してくれることが重要であり、記者のバイアスが掛かった記事など読みたくもない。最近の日経新聞を読むと、財務省の言いなりで記事を書いていることが良く分かる。財務省の主張が国家のためになると信じて財務省の政策を支援しているなら、取材源が財務省と書くことだ。財務省を隠して記事を書いていること自体がやましいと言わざるを得ない。一般紙以上に業界や政府の影響を受けて書いている業界紙が、国民に大きな影響力を持つこと自体が国家の先行きに危うさを感じる。新聞記者など耳学問の最たるものなのに、取材先の業界で汗を流した経験もないくせに偉そうな物言いをする記者を見ると反吐が出る。一般紙も酷いが業界の日経新聞はそれ以上に政府の言いなり記事を書いているので、日本の先行きに不安を感じる。

財務官僚主導の日本は日露戦争の旅順攻撃と同じだ

現代日本の社会を見ていると、日露戦争の時の乃木希典と配下の参謀が行った旅順攻撃と同じ過ちを犯していると思わざるを得ない。日本人の欠点の最たるものは、目的を目的化して他が見えなくなるということである。財務官僚が野田総理を洗脳して断行しようとしている消費税大幅アップなどはその典型的な事例になると思われる。財務官僚が日本の政治を主導する限り、日本国民は正に旅順攻撃に向かわされる攻撃将兵と同様に死地に行かされることになる。学問中心主義のエリート教育の弊害が頭の固い柔軟性がない人間を指導者に育成してしまう。学問エリートは机上の理論を組み立てるのは旨いので、論理的には反論できない様に見える。然し、実戦(実践)を経験してきた者から見れば、本質を見ていないで枝葉末節に拘ったものであることが直ぐに分かる。木を見て森を見ずの類である。先日放送されたNHK「坂の上の雲」で日露戦争の二〇三高地攻撃に対する児玉源太郎と乃木の参謀との遣り取りに興味深い部分があった。児玉が攻撃に際して大型大砲を15分間隔で砲撃することを指示した時に、砲兵参謀が攻撃将兵を誤射する可能性があり、天皇の御子を天皇の砲弾で殺すことは出来ないと反論した件である。それに対して児玉は、此れまでの無謀な攻撃で多くの将兵を殺したのに何が誤射するから出来ないと怒って言った言葉が印象的で、正に現代社会では"公平"と"平等"とかの言葉に置き換えれば同様の理屈で全てが反論できない状況となっていることが理解できる。その為に毎年3万人の自殺者が出ている社会が改善もされずに放置されてきているのである。サラ金予算の仕組みも変えずに消費税だけ上げる遣り方は正に無謀な旅順攻撃と同じである。太平洋戦争においてエリート軍人は国民を消耗品として考えていたが、現代社会の財務官僚も同様ではないかと推定できる。学問エリートの政策などに従わないことがグローバル社会で生き残る方法であり、無能な政治家に対する反論である。現状維持の消費税アップなど言語道断であり、行政の大改革と国会議員定数の半減なくして断固消費税など値上げさせてはならない。財務官僚の「公平」や「平等」と言うインチキ言葉に騙されてはならない。

"坂の上の雲"に見る人間教育の問題点

NHKが年末に特別番組を組んで放送している司馬遼太郎「坂の上の雲」のドラマが3年目の今年で完結編を迎えている。昨日は乃木希典の旅順攻撃の場面であったが、この戦では人の教育と言うものを考えさせられる。乃木は吉田松陰も教えを受けた人物から幼少の時から学問を学び、乃木の書いた文章や詩は天才的であった。一方、乃木の窮地を救った児玉源太郎は、毛利藩の支藩である徳山藩の中級武士の子供として育ち、幼少の頃に身内の暗殺死体を一人で処理するなど学問では学べない経験を有している。幕末の戊辰戦争には二人とも10代で参加しているが、二人とも多くの戦場を経験した訳ではない様だ。しかし、児玉源太郎の方は明治期に起きた多くの騒乱の鎮圧に参加して手柄を立てている。又、児玉源太郎は明治陸軍に教師として招聘したドイツ人将校メッケルから多大な評価を受けている。学問主体に作られたエリートの乃木と幼少の頃から逆境にあって実務で頭角を顕した児玉との差は歴然であった。乃木と配下のエリート参謀が正攻法の作戦しか立てられずに多くの将兵を突撃だけで死なせたのだが、児玉は機転と戦争における非常さの中での最小限の被害で勝利すると言う考え方で作戦を立てる柔軟な思考の持ち主だった。この様な柔軟な思考は幼少よりの実践の中で培った能力と思われる。翻って、現代社会の指導者を見ると、正に学問主体の乃木の様なエリートしか見当たらない。乃木は確かに頭がよく学問の能力にも秀でていたのだろうが、今言われている地頭の良さは養われていなかったと推定できる。学問が出来る者には良く見かけるのだが、融通が利かない頭でっかちと言う欠点である。今の日本は幼少の頃から塾に通わせられて正解だけを追い求める子供が指導者になっている。現代社会の悲劇は、日露戦争の時の無謀な旅順攻撃を何度も行った乃木と配下の参謀の様なエリートが、国などの指導者に君臨していることである。日本社会は非エリートから這い上がった優秀な人物が度々国を救ってきた歴史があるが、近代社会になって教育一辺倒の人材が登用されるようになってからは国家の方針に間違いが生じてきている。その最たるものが官僚政治である。昭和の陸軍が無謀な戦争に走ったのは、幼年学校から入学した学問エリートの参謀たちが支配したからである。知識があっても知恵がない輩が偉そうに国の進路を決めている姿に慄然とする。財務官僚などはその筆頭であろう。並みの頭でも子供の頃から勉強すれば一流大学には入れるのである。一流大学イコール頭の良さではないことを認識しなければ日本社会は良くならない。知恵がない学問エリートを評価しないことが良き社会を作る最も重要な点だ。
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