不動産仲介業の未来

NY在住の知人から日本に居るご子息が不動産管理のプラットフォームの立ち上げに関係しているメールが入り、私に意見が聞きたいと言うものであった。今流行りの直接業者とユーザーを繋ぐプラットフォームだが、登録業者の与信管理や修繕工事のチェックをどうするのか気になった。その様な中で不動産仲介業にもプラットフォームの構築が進んでおり、既存の仲介業者を除いて取引コストを安くすることを謳い文句にしている。このプラットフォームで評価したのは、物件の室内にAIセンサーロボットを配置し、「騒音」や「日照」について環境データが取れることだ。不動産業者として物件を視察する際には騒音と日照が気になるので何度か現地に赴いたものだが、AIセンサーロボットが代行してくれるので買い手や借主は現地に何度も足を運ぶ必要がなくなる。更に、ロボットにカメラをつけて室内を見ることが出来ることも可能としている。今でも物件にWEBカメラを設置して室内を遠隔地から見ることが出来るサービスがある。借り手や書い手は時間が取れる時に物件内を視察できるので相当に便利と言える。物件の内覧に関しては仲介業者が不要と言えるが、残るは物件自体の調査と言える。重要事項に記載する事項に関してはデータ化出来るのはAIによって可能と思われるが、想像力が必要な事項に関しては当面は人の力に依存するしかないと思われる。AIに関しては専門分野の単独の問題は可能だが、総合的なAIの出現の目途はたっていない。この為、現在では、それぞれの専門的なAIを複数設置して統合的な活用を模索している。何れにしても仲介業務の多くが人の手から離れると思われるが、不動産仲介業務がなくなるかどうかはデジタル社会で育った世代が必要と考えるかと思われる。

サービス業の究極的な顧客対応

ホテルなどのサービス業は今回の新型コロナ感染で大きな影響を受けたのだが、その中でも流石に帝国ホテルは顧客の情報を大事に取り扱っていると改めて再確認した。今から34年前の先代社長時代にアーバン虎ノ門ビルの落成式祝賀と開発会社の創立8周年を兼ねて帝国ホテルで式典を開いた。この時は私は取締役統括部長の職責にあり、壇上で出席の方々に会社の後継者としてお礼のご挨拶を述べた。バブル経済の真っ只中であったので、多くの方々の出席を得て盛大に行うことが出来た。しかし、その後はバブル経済の崩壊や先代社長の早い永眠もあり、帝国ホテルで宴を開くこともなかった。当時は開発会社として宴会を開いたので、持株会社である親会社に関しては帝国ホテル側ではあまり認識はなかったと思われる。しかし、現在親会社の後継者になっている甥が子供時代に参加した帝国ホテルでの式典に強い印象を受けていたのか分からないが、この度帝国ホテルで記念式典を開く計画を立案し帝国ホテルに打診した所、34年前の式典の内容を持参して営業マンが来社した。当時の統括部長の私が現在会長になっていることも確認しての資料で、甥の社長は感激していた。正に一期一会の再来だ。確かに、帝国ホテルではないが、同様の格式のあるホテルに先代社長と一緒に車で行ったときに、ホテルのドアマンが私に先代社長の姓を聞いてきたことがある。帰りにドアを出た時にドアマンが名前を告げて運転手を呼んだのを聞いてサービスの仕方に一流は違うと思ったのを思い出した。その後、そのホテルに再度行った時にドアマンは名前を記憶していて再度聞かなくても運転手を呼び出した。新型コロナでサービス業が大きな影響を受けたので、アフターコロナの社会変化でホテルのサービスも変わる可能性もあるかと思いを巡らした。帝国ホテルは建て替え計画が予定されていることが新聞記事に出ていたので、現行の建物で式典が行えれば先代社長に良い土産話になると思った次第だ。

日本語は高文脈言語

日本語は高文脈言語だそうだ。それに対してグローバルな言語としての英語は低文脈言語と言われている。日常使う言語で思考も形成されるので、言語文化の違いで意思疎通が図れない場合も起きそうだ。日本では"忖度"が話題になるが、英語の言語を使う人にとってはではありえない世界だ。もっとも、日本語を使う日本人でも地域差があるのは確かだ。それを理解したのはパートナーとの出会いだ。私は出身が茨城県北部だが、パートナーは広島県出身だ。茨城県に北部を加えたのは茨城県の中でも違いがあるからだ。実は茨城県北部の人達は、明後日のことを明日明後日と表現する。当然に一昨日を昨日一昨日と表現する。この表現は正に英語の表現と同じだからだ。明後日は英語で「The day after tomorrow」、同様に一昨日は「The day befor yesterday」、英語圏の人と同様に茨城人は忖度しない県民でもある。反対に広島県人は忖度の典型的な県民だと思われる。以前に、一級建築士で故郷の建設会社に転職した人から聞いた話では、「のう↗)」、「のう→」、「のう↘」の3通りの言い方で通じるらしい。その知人は転職前に長く東京の会社に勤務していたので、転職して最初は戸惑ったらしいが、改めて余計なことを言わずに通じる文化を思い出したらしい。勿論、広島県人は比較的に口数が少ないが、上記の3通りで全てが通じるわけではない。私の経験では、義兄と義姉の会話で尾道ラーメンが食べたかったのに日本蕎麦屋に連れられてしまった出来事があった。然し乍ら、日本人は古来「沈黙は金」、「雄弁は銀」の表現があるので、私の様な茨城人は日本人としては少数の部類かもしれない。過去に米国人の女性と結婚し米国から帰国していた秋田出身の知人に、関さんと出会って「沈黙は金」と言うのは間違いだと気が付いたと冗談で言われたことがある。知人は米国人の女性と結婚して口数が少ないから大変ではないかと思っていたら、知人の奥さんが彼の事を余り話さないので困ると言っていた。英語圏の人は無口ではないのだと思った次第だ。そう考えると、中国人は良く喋るので、英語圏の人達とは相性が良いのではと思ったが、中国語自体は饒舌な言語ではないと思われる。ビジネスでは互いに理解しないと商談にならないが、茨城人は忖度も出来ない上に媚びないので生き方は下手で、事業家としては大成した人は少ない。英語圏に生まれたら成功していたかもしれないが。

行政の財政問題に会計学を持ち込むのは正しいのか

中央官庁や地方の自治体に財政検証に関して会計学を採用する事例が多くなった。会計学といってもBS(貸借対照表)・PL(損益計算書)を予算の中に取り入れろと言う主張だ。この主張は借金ばかりを強調するのではなく、資産も公表して財政の健全化を見るべきとの事なので、一見すると正しいように思ってしまう。しかし、文芸春秋に矢野財務次官がばらまき政策を批判した投稿に対して元財務官僚の高橋洋一と言う人が"矢野財務事務次官は会計を知らない"と言って投稿記事をメディアで非難した。高橋洋一は会計上で見ると国には膨大な資産があるので1000兆円などの赤字国債は問題ないと発言した。これに対して、メディアのMCの方が資産と言っても道路など直ぐに換金できないものが多いのではないかと意見を述べた所、高橋洋一は金融機関から資産を担保にして借りれば良いとの回答であった。確か、高橋洋一は日本維新の会のアドバイザーとして有名な方で、その他の地方自治体のアドバイザーにも名前が出ていたことを思い出した。財政検証に行政が破綻するかどうかの目安に資産を確認しておく必要はあるかもしれないが、一つ大きな誤りを犯しているのが分かった。それは資産があれば金融機関は金を出すと言う昔の時代の考え方で話していることだ。バブル経済までは担保主義で金融機関は貸し出していたが、現在はその反省を踏まえてキャッシュフロー重視になっているのにである。日本国は収入約50兆円に対して支出は100兆円と言うサラ金財政を行っている。企業で言えばキャッシュフローが大幅なマイナスであるので、もし資金を借り入れたとしても金利と元本返済には資産を食いつぶして凌ぐしかないのだ。高橋洋一は更に財政投融資にも言及していたが、過去の財政投融資の資金源は郵便貯金であったことを忘れているのかと思った。郵政民営化で財政投融資の資金は何処から出ているかだ。維新の会は明治維新の再生を狙ってのネーミングなのだろうが、明治期は民間資本が少なかったので国家資本が事業の本を作り出して民間に払い下げたのだが、令和の時代に国家の資産を売却すると言うことは国民の生活に負担を掛けることだ。明治時代とは全く状況が異なる。行政は赤字でも金融機関は金を貸すだろうが、それは甘えに過ぎない。1000兆円の赤字国債発行に問題ないと言うならば、企業と同等の目線で物事を判断するべきだ。話にならない議論で国民を騙すには国家反逆罪だ。

財務官僚の政党ばらまき政策の批判は正しい

財務省の矢野事務次官の文芸春秋に寄稿した与野党のばらまき政策の批判は正しい。日本の国家予算は税収の倍の予算を組んでおり、いわゆるサラ金財政だ。これが通用するのは貿易収支が長年黒字だったからでもある。新型コロナ対策で財政負担が大幅に増えている中で予算のばらまきをされたら国家財政は破綻する危機に直面する。勿論、赤字国債など日銀が買い取れば良いとの議論もあり、一般国民にばらまき政策に対して楽観視させる輩が財務省OBにもいるので、そのリスクは見えなくなっている。矢野次官の発言はウィズコロナとアフターコロナで経済を回復して行くには財政出動はやむ得ないと見ていると推測するが、今牽制して置かないとその金額が膨大になると懸念したからと思料する。自民党の高市政調会長は矢野事務次官の発言に激怒したらしいが、確か高市議員は松下政経塾出身の政治家であり、その点から言えば同時に発言した企業預金に課税を含めて松下幸之助の意図に反した政治家となっている様だ。高市議員の様な政治家を憂いて松下政経塾を私財を投じて作ったのに、"親の心子知らず"に成長して松下の顔に泥塗ったのでは幸之助も浮かばれまい。松下電器もパナソニックになったので、松下幸之助の恩顧に報いる人達は少なくなったと思われるが、それでも志がある人がいれば高市早苗を今回の選挙で落選させるべき行動を取るべきと思われる。選挙の度に候補者の土下座するする姿を見るにつけ、この輩が選挙民の為に働くわけがないと思ってきた。しかし、今はそれより性質が悪く、国民の血税を食い物にする国会議員ばかりと言う現実だ。選挙で碌でもない候補者は落とすべきだ。

環境経営における不動産開発

先日の日経新聞のWEB版で大手M不動産が既存ビルを解体して建て替えるのではなく、改修工事で持続可能なビルに取り組んで行くと書かれた記事を見ました。自動車がガソリン車から電気自動車に全面的に変わることなどと方向性が一致していると思われます。今後の企業経営はSDGs(持続可能な開発目標)を取り入れたESG(環境・社会・ガバナンス)経営が求められてくることになり、環境経営を度外視して会社経営が成り立たないことを意味しています。コロナ以前から環境経営は求められてきておりますが、環境に対して障害になっていた米国と中国が二酸化酸素問題に前向きになり、一挙に欧州の先行組と歩調を合わせる流れになりました。日本も菅首相の時に二酸化酸素の削減を表明しており、岸田首相も環境に対する政策は追随するものと見られています。この様な変化の中でM不動産が既存ビルに関して改修工事で持続可能なビルに取り組むことを打ち出したことは今後の街づくりに大きな影響を及ぼすことになりそうです。昨今の不動産開発は過去には考えられないほど建て替え期間が短くなっており、資源の無駄遣いの議論にもなりかねない状況でした。ポストコロナが容易ではなく、ウイズコロナが続くことも予想される中でテレワークなどが緊急避難的でなく、継続的に根付く様相を見せており、新築高層ビルの入居者として大きな比重を持ったIT企業がテレワーク併用でオフィスの縮小を計画する様になり、新築ビルの需要の見通しが悪くなったことも既存ビルの改修工事に舵を切り替えることにした要因と言えます。しかし、それ以上にESG投資が今後の主流になる見通しの中で、環境経営を打ち出さないと株式も購入されず、株価が上がらないと言うリスクも増加したこともあります。都心の不動産開発もESG投資などの流れを読み誤ると、新築に建て替えてもテナントが入らないと言う現象も生じないとも限りません。環境経営には入居するビルに関しても評価の対象になる可能性があります。今年のノーベル賞には地球の気候を予測する数式を発明した日本人の科学者が受賞しており、この受賞は画期的なものでした。世界中が二酸化炭素削減による地球温暖化を防ぐ方向に正に舵を切ったと見ても間違いではないと思われます。時代の先を読むことが生き残りの前提です。愚か者は後を追います。ビルのオーナーにとっては悩ましい問題です。

中国の大手不動産会社の危機の行方

韓国、中国の経済成長に関しては日本を真似て始まった。経済モデルは日本だった。勿論、韓国と中国は経済成長の開始時期が異なるし、政治形態も違ったので日本を真似たと言っても大きな違いはある。韓国の場合は、軍事独裁政権が対峙する北朝鮮に勝つために国を豊かにする必要性があり、米国の保護下で資金を日本に求めた。世界的に植民地に対する賠償責任など有り得ないのに日本が応じたのは米国の要請と国防の観点から韓国の経済成長が欠かせないと判断したのではないかと推察される。一方、中国は共産党政権を維持する為には国家の経済的な豊かさが必要との認識から経済力を蓄えた日本と国交を回復して資金の調達を確保した。日中戦争終結時の中国の政権であった蒋介石国民党が戦争に対する賠償金を放棄していたので、その後の中国を支配した共産党政権では戦争賠償請求は難しいと判断して無償と有償の経済協力金を得る実利的な選択をした。中国の経済成長は二段階に分かれるが、一段階の時には企業の債務不履行があり、日本企業はダメージを受けている。しかし、天安門事件以降は積極的に投資を行ったのは日本だけであったので、日本企業の進出は多くなり、企業も多くが日本企業に学んだ。中国は韓国と異なり、二段階目の経済成長時に日本のバブル経済崩壊を見ている為にその研究を行っている。バブル経済の発生と崩壊には米国の金融政策が絡んでいることを見抜いており、新自由主義の経済がハゲタカファンドと裏表であることも研究している。しかし、上海出身の江沢民は米国に親近感を持ち日本を敵視教育を進めたので、米国との対立の芽は生まれなかった。その後の胡錦涛は親日的な傾向があり、日本と中国の交流が深化したが、その時に起きたのが尖閣諸島問題であった。東京都知事の石原慎太郎が仕掛けたのだが、中国嫌いの石原が米国の加担して日中の対立を画策したと推察される。米国の誤算は次の習近平が米国に対する危険性を持っていることを分析できなかったと思われる。習近平は日本の小沢一郎と交流の機会があり、米国の他国を支配する方法を聞かされたと推定される。習近平は米国留学した多くの中国人学生が米国のCIAに資金援助などを受けている事実や思想的な洗脳を受けていることを日本の事例を参考に学んだと思われる。江沢民との決裂は正に米国を信用する江沢民に対する危機感と思われる。前段が長くなったが、習近平は開放された経済を進めて行くと日本と同様に経済バブルの崩壊が起きてハゲタカファンドにより企業が食い物にされることを察したと思われる。既に政権中枢までに米英の手が入り込んでいるのに驚愕してと考えられる。その後に大きく方向転換を行ってきたが、腐敗汚職摘発による政敵の駆除に時間が掛かり、企業の支配下に漸く踏み切った時に今回の大手不動産の経営危機が起きたと推定される。正に時間との勝負であったが、軍事的な活動に目を逸らして国内の企業体制を強化する途中であり、その終息に興味が持たれる。現時点の情報では大手不動産の資産を他の国策会社に購入させて軟着陸をさせる様な方向だが、別な大手不動産の危機も流されて来ており、過剰な借り入れで急成長してきた不動産会社の危機が連鎖反応する可能性もあり、国際的な金融危機を招かないで終息させることが出来るのか興味がある所だ。一つの答えとして習近平が唱える"共同富裕"だ。お金を溜め込んだ金持ちに不動産を買わせることを条件に企業の活動を保証するものだ。富を多く吐き出した人ほど今後の企業活動を保証される暗示は中国の救世主になれるのか。今後の行方に興味がある。上記の内容は私の全く個人的な意見であるので、SF小説的に読んで頂ければと思う。

廃業のお知らせ

取引先の設計事務所の所長さんから廃業のお知らせが届いた。先代社長の時に専ら取引していた事務所であるが、当社の社員旅行やゴルフコンペに参加していただいていたので、仕事以外の相談事などで私の代になってからも所長さんが時々訪ねてきてくれた。10年以上前にお会いした時に事務所を閉める話をしていたが、その後も仕事を続けていた様だ。私が20年以上前に外貨取引ファンドを行った都市銀行のOBの人にオフィスの一角を提供していたので、当社の取引先にもファンドの案内状を送付していたからか、私も外為に詳しいのではないかと勘違いしての外貨預金の信託投資の相談であった。相談事は円高になると投資が損する仕組みが分からないと言った内容と記憶している。外貨ファンドの投資と輸入の円高有利が区別付かない質問であったが、私の知識も相談を受けるには不足していた。所長さんは年齢とともに仕事量も減少してきたので留保している資金を投資に回したい意向であった。81歳まで仕事を続けて来たのを思うと投資も成功したのかと推測した。お知らせには1979年に事務所を開設して42年が経過し、年齢も81歳になり知力体力とも衰えを感じたのでと書かれていた。昔ならば引退していた年齢だが、高齢化社会と医療技術の発達で81歳まで仕事が出来たのは幸せで喜ばしい事だと思った。私の若い頃、取引先銀行のコンサル会社の研修で、後継者の問題が取り上げられたことがある。この時には、65歳が経営者の衰えの境であり、その前に意見の対立は避けた方が良いと指摘していた。確かに、当時は65歳になると記憶が弱くなり、役員同士で同じ話を何度もしていた記憶がある。健康は個人差があるが、今の高齢者は元気なのは確かだ。私も生涯現役を唱えているが、伴侶の介護もあり、先行きは不透明だ。人の賞味期限は声を掛けられる内は大丈夫な様なので、知識の更新をしながら知力体力の維持を続けたいと思う。

成功した指導者は危機意識が高い

企業経営も政治家も官僚も成功した指導者は危機意識が高い人だと言われる。危機意識が直面する難題に対して克服するエネルギーを生み出すのかもしれない。確かに、事業における創業時は何時倒産かと言う環境の中で危機意識があり、その危機エネルギーが不可能を可能にする力になると思われる。勿論、新規事業などのすべてが危機意識で成功する訳ではないが、楽観視した意識では何事も成功に結び付くことはないと断言できる。ある企業の監査役が若い取締役に対して必要以上に大騒ぎすると指摘していたが、これも危機意識の差であると思われる。何処の企業も監査役には現役を終えた経験者を迎えるのだが、業務執行から離れると危機意識が少なくなり、若い業務執行の取締役が意識した問題案件の将来に及ぼす影響に対する懸念を理解できなくなるのかもしれない。翻って、日本国の菅首相について指導者としての危機意識を見てみると、新型コロナ(COVID-19)対策や横浜市長選で判断する限り、現役を退いた経営者と思われるほど危機意識が低いと思うのは私だけであろうか。私が学生時代に社会人の方と将棋を指したことがあった。私が将棋に強いわけでも好きな訳でもなかったが、お互いに時間があったので将棋を指すことになったのである。この将棋は私が完敗したのだが、この時に社会人から私の敗因を指摘されたことを菅首相の新型コロナ対応で思い出した。正に敗因の理由は攻めと守を中途半端にして臨んだことであった。新型コロナで難しいのは経済対応と言えるが、新型コロナの沈静と経済に対する影響を出来るだけ少なくすることは、二律背反なのは誰でも分かることだ。新型コロナに対する楽観論が中途半端な対応になり、結局は両方とも叶えられない結果となる。菅首相は若くして政治家の秘書となり、その後地方議員から国会議員になった人であるので、事業化の様な危機意識はないと思うが、政治家は選挙に落ちたらタダの人になるので、危機感は少なからず醸成されたと推定される。尤も、何回も当選を重ね、政治家としても要職に就けたので、上記の監査役の様に金銭的にも恵まれて危機意識が希薄になったのかだ。馬齢を重ねても金銭的に不安定な場合には危機意識はなくならないと思われるので、最近の政治家や官僚や企業経営者が危機意識が少なくなったのは恵まれている為かと考えて仕舞い、それ以上に国家観がないのかもしれないが。

空の文化

近年の政治家・官僚の劣化、情報化時代のSNSの虚偽情報、研究者の論文偽造、学者の補助金横領など一般人から相当の地位のある人達のインテグリティの欠如は枚挙にいとまがない。新型コロナ下での東京オリンピック開催は国民を無視したばかりではなく、感染対策に知恵も出ない無能さには呆れるばかりだ。尤も、菅首相は息子が利権の真っ只中にあるのに国会で知らぬ存ぜずで押し通せる政治を見るにつけ、社会倫理の喪失は25年前のバブル経済崩壊後の後遺症と思われる。金融機関などは最たるもので、お客に無理やり貸し付けた資金を鬼の様に回収した姿は社会全体に不信を拡散させた。真面目に対応した会社は潰され、嘘八百で押し通した会社は生き残った。バブル経済崩壊後に米国から導入された金融資本主義とグローバル経済、更に経済界の経営者の劣化による非正規雇用制度の受け入れは今日の少子化を加速させた。この様に書き進むと悲観的過ぎると言われそうだが、日本人と言う民族を振り返ると、日本人が変質したのではなく、本来持っている資質ではないかと思われる。仏教伝来の前は神道が日本人の魂の源である。その神道の御霊は空なのである。空とはある意味後出しじゃんけんが出来る存在なのだ。DNAの解析が進み、日本人の源流を探る書物も多く出て来ているが、それと別に言葉体系から探る研究も進んでいる。日本語は最後に結論を出せる言語で、その様な形式は韓国語も似ている。しかし、学者の研究では日本語は何処の系統にも属さない為に言語からでは源流をたどれない様だ。勿論、半可通の私の見解は間違ってる可能性もあるのでご承知願いたい。そのことを付け加えないと虚偽情報の発信者の類に分類されてしまう。しかし、伊勢神宮の社殿から市中に祭っているお稲荷さんの祠まで中は空なのである。私が指摘しているのは祠に収まっている御霊のことでお札の類ではない。御霊は空なのである。日本の文化は内と外があるが、内の御霊は空であり、外は無駄がない引き算された様式美である。前者は何にでも変わることが出来ることを意味し、後者は何を意味するのだろうか。自然風土の厳しい中で培われた文化であるので、表面的には情けなく見えるが、実際にはどの様な逆境にも生きる力を持った国民性かもしれない。新型コロナに対しても無能な政治に期待することなく、自身で克服する知恵を持っと居ると思われる。それが空の文化・・・・・・・。

自然の摂理

新型コロナウィルスが変異種の出現で沈静の兆しが見えないが、変異種の中でもデルタ株は感染力が強く、然もワクチン接種者の罹患率が高いと言う情報に驚くと同時に、近代農業における害虫との戦いに見る自然の摂理と同様なのかと考える。近代農業における害虫との闘争は最初は害虫を全滅させる強力な農薬の開発で幕を開けたが、その結果、害虫は農薬に負けない強力な害虫となって人と対峙した。翻って、江戸時代の前近代の農業においては、経験の知恵で害虫に一部の棲み処を与えて共棲することで害虫の被害を防いだ様だ。勿論、大群のバッタの出現は害虫の絶滅対策から生まれたのか全く違う理由で発生したのかは浅学の身であるので分からないが、米国などで起きる蝉の異常発生などを見る限り人間とは関係ない自然の摂理かもしれない。しかし、此度の新型コロナウィルスは地球における人間の急激な増大とは無縁とは思われない。細菌やウィルスは近代になって公衆衛生の成立のよって克服されてきたが、細菌やウィルスは本来はローカルに影響するものであった。それが今から400年以上前の大航海時代によりグローバルに拡散した。コレラ菌、ペスト菌がインド、インフルエンザなどが中国などに人口の多いエリアで出現したのも自然の人口抑制とも言えなくもない。顕著なのは梅毒などは太平洋の島の風土病であったのがマゼランの世界一周の船旅で乗員がり患した結果グローバルの病気となった。島の風土病の理由は過剰な人口の増大を防ぐ意味があったと推定される。何れにしても、ローカルの風土病は人の行動により移動させられて世界中に拡散し、地球規模で人口抑制が働いた。それが現代では食糧生産が増大し、医療技術や医薬品の開発が進んだこともあり、地球の人口が冷戦後のグローバル経済によって急速に増大し、今や75億人になった。その結果、グローバル経済活動を一時的にも減少させる新型コロナウィルスの出現であり、自然の摂理が働いた結果と思わざるを得ない。何時の時点で人間は自分たちが地球の創造主の様に思いあがったのであろうか。尤も、進化続けて他の生物と異なり、地球の支配者となり得たのは自然の摂理とは違うのだろうか。新型ウィルスの被害は文化(含む宗教)の違いの公衆衛生の考え方で大分異なる様相になっているが、それもデルタ株の出現で被害の平等化の減少が起きつつある。大規模戦争がなくなって久しいが、その代わりに異常気象と感染症によって人の淘汰が行われていると言ったら顰蹙を買うのであろうか。アマゾンやテスラの創業者が宇宙に飛び出し、短い時間だが宇宙旅行を経験している。マイクソフトの創業者のビルゲイツは今回の感染症について予測していた。鋭い感性でベンチャー企業を成長させた人達は地球の未来に悲観的なのだろうか。今回の新型コロナで生活が一変するアフターコロナを指摘されていたが、アフターコロナよりウイズコロナの生活が長く続くと推定され、職場もファースト、セカンド、サードの三か所になり、新生活と言われる価値観が変わった社会の出現で感染症を克服すると思われる。

アートの出会い

昨今のビジネス書にはアート思考やデザイン思考が取り上げられているが、私がアートを意識したのは結婚後と遅咲きだ。大学受験の時に父が経営に参加していた会社に建築設計事務所があったので、建築学部でも受けてみようかと考えたことがあった。余り自分の事で父に相談したことがなかったが、建築学部受験の時には理由は思い出せないが意見を聞いた。すると即座に、俺と同じでお前は絵が描けないからやめた方が良いと指摘した。。一度たりとも父兄参観日に来たこともなく、学校の成績などに関心がない父と思っていたので、私の絵の才能がないことを見抜いていたことには驚いた。確かに、絵心どころか絵を最後まで描けた記憶がない。美術と音楽はテストで100点でも実技で並の成績にされたので、余計に嫌いになった。大学は理系に進んだのだこともあり、アートに関しては接点がないままに社会人となった。それが、偶然に結婚相手が美術系の才能がある一家で、次兄が一級建築士で、ワイフはデザインを専攻していた。仲間と脱サラして専門誌を立ち上げた時に、ワイフに出版物の表紙の絵をデザインして貰い、初めて絵を描く才能を見た。ワイフは結婚後にデザインの仕事を辞めて専業主婦になり、その後は女子寮の食事を作る仕事に就いた。デザインを学んでいたためか先天的かは知らないが、料理の盛り付けは実に見事であった。女子寮の経営者にも評価された様だ。一流シェフと言われた人でも盛り付けが下手な人がいるが、味は良くても盛り付けが良くないと旨くても感激がない。見た目だけで不味ければ詐欺にあった様な気がする。ワイフは美術館に行くのが好きで、最初は一人で行っていたが、その内に私も同行するようになり旅先でも美術館に必ず立ち寄った。様々な作家の作品を鑑賞している間に不思議とアートに対する理解が深まり、脳の働きも創造的な面が強化された様な気がしてきた。今はコロナで自粛しているが、沈静化すれば美術館で芸術作品を見て回りたいと思っている。アートは見るだけでも効果があるので、自分で描ければ更に創造力が増すのかもしれない。残念ながら手先が不器用なために鑑賞専門であるが、ワイフとの結婚でアートに出会い、仕事に良い影響をもたらしていることに関しては、私にとっては幸運であった。「東京芸術大学美術学部(究極の思考)」の本を読んで自己を振り返った次第だ。

風邪に効く薬はない

最近まで風邪に掛かり医師の診断を仰ぐと必ず風邪に効く薬はないと判で押したように言われた。そして処方箋は対処療法の熱を下げる薬のみで、助言は身体を休めて自力(免疫効果)で治すというものであった。新型コロナウィルスに対するワクチン接種が始まったが、本当にワクチンは効くのか過去の事例を考えると疑心暗鬼だ。勿論、遺伝子操作などのない時代の言葉だったので、現代は風邪に効く薬も出来るのかもしれないが。風邪のコロナウィルスは変異が激しいので、経済的に合わないので作られなかった可能性もある。何せ医学薬剤的な知識を持たない者が考える類なので、真実とは程遠い推論かもしれないが、新型コロナウィルスワクチンは従来の風邪には効かないことはNY在住の知人の報告で分かった。知人は白内障の治療を受けるために新型コロナのワクチンを接種し、猛威を振るった感染症が収まりつつあるNY市内の眼科を訪れた。また、知人の奥さんも不要不急な用事でNY市内に出かけたとのことだが、知人は咳の酷い風にり患してしまった。知人は奥さんからうつされたと主張してるが、奥さん自身は別に体調は悪くないそうで、感染経路は不明だ。咳の酷い風邪で思い出したが、2年前の年末から年初に掛けて咳の出る風邪を引いた。熱は出ないが、咳がひどく、治ったと思ったら直ぐに戻り、感染力が強く、会社の近くの人達に感染した。知人にも同様な症状なので再発するから気を付ける様に電話で話をした。何故、この様な事を書くかと言えば、ワクチンを接種した高齢者が俺は大丈夫とばかりの振る舞いをしているとの話を聞いたので、通常の風邪には効果がなく、風邪は万病の本なので、ワクチンを接種したからと言って全てに安全ではないことと変異種には効くかどうかは未だ分からない状況を理解した方が良いと思ったからだ。感染症が鎮静していないのに東京オリンピックが開催されそうだが、結果次第では歴史に残るオリンピックになりそうだ。過去の東京オリンピック中止後には大きな戦争が起きたので、その轍を踏まない為に是が非でも東京オリンピック開催に邁進するのかどうかは分からないが、太平洋戦争と同様に誰もが否定的であったのに止められなかった太平洋戦争の二の舞にはなりたくないものだ。菅総理は耳順の年齢を10歳以上越えているが、仄聞するところでは未だその域には達していない様だ。

決められない日本

民主主義は第二次世界大戦後に日本に導入されたと理解している人が多いと思われる。しかし、民俗学者の宮本常一「代表著書(忘れられた日本人)」は足で全国を調査して回った時に集落の人々が民主的な手法で物事を決めている事実に驚いたそうだ。最近読んだ「経済学者達の日米開戦」では日本が勝ち目のない米国との戦争に何故突き進んでいったのかを説明している。その中で軍人達は陸海軍を問わずに米国の経済力を把握しており、その研究も進められていたのだが、問題は明治憲法にあったと指摘している。明治憲法は首相に権限を与えていない合議制の仕組みであり、強力なリーダーシップを持って政治を動かすのが難しかったとのことだ。勿論、天皇制なので、天皇が拒否権を使えば戦争を止めることはできるのだが、天皇制は基本的に追認するシステムであり、拒否した場合にはクーデターによる天皇を変えることも可能性としてないわけではなく、事実、昭和天皇はそのことに怯えていたことが宮内庁の側近の記録によって証明されている。誰もが戦争に消極的だったが、結果的に開戦を決めたのは、民主的な手法の合議制と言えるからだ。何故、この様なことを書いたかと言えば、新型コロナの感染症の対策、東京オリンピック1年先送りの現状について、何も決めてこれなかったと思われて仕方がないからだ。大阪府知事がパチンコ店のクラスター危機を叫んだり、東京都知事が飲食店の運営にだけ強調してクラスターのリスクを指摘するが、1年後の現在でも感染経路に関しては不明確であり、科学的なデータを駆使しての説明が皆無だ。日本が重傷者が少なく、感染拡大も欧米ほどではなかったのでワクチンの供給に関して後回しになったのは当然なので、本当に東京オリンピックを開きたいならば、中国からワクチンを大量に買い付けて早くから国民に摂取すれば、現在の状況にはなってはいなかったと思われるからだ。開催2か月前になって感染症の拡大にストップが掛けられない状況下では、国民の東京オリンピック開催中止もやむを得ずとの声も大きくなって来ている。しかし、ここでも違約金4000億円の支払いが発生するので、誰も積極的には中止を言わない。正に決められない政治だ。残念なのは、大会委員長の森元首相がいないことだ。彼は千駄ヶ谷の新国立競技場の建設に対して金額的に高いと指摘されたときに、高々4000億円と言った人だから中止の時の金額も4000億円で国民の安心を得られるなら安いものだと発言する可能性があったと思われる。尤も、先を見据えての辞任劇かもしれず、真相は藪の中だ。日本社会は外見的に同族と見えるが、実際には多くの地域から渡来してきた人達の集団なので価値観が人によって大分異なる。この為、争いを避けるために聖徳太子は、"和を持って尊し"を前面に掲げたと推定され、近代的な組織の労働組合でも物事を決める際には根回し、「雄弁は銀、沈黙は金」と言った格言が重要視されてきたのだと思われる。一見合理的な民主主義的な合議制の決め方は、非常時には決められない問題が生じるマイナス面もある。決められない日本を卒業しないと世界から取り残される。

犯罪者を美化する昨今

表題の対象者は田中角栄と江副浩正の二人である。田中角栄の場合はロッキード事件で有罪判決を受けたのだが、田中角栄は米国に逆らったので葬られたのであり、えん罪との見方を主張している人達がいる。この議論に百歩譲って米国に仕組まれたことを認めるにしてもロッキードから金を受け取ったのは事実であり、何の為に受け取ったかは議論の余地がない。尤も、法的な問題に言及すると、贈収賄的な行為に直接結びつく具体的な証拠があるのかと言われそうだが、総理大臣の権限は大臣や無任所の国会議員とは違うのである、日本独特の忖度は暴力団に関しては厳しく処罰される法律があるのに政治家に適用されないのもおかしな話だ。話は横道にそれたが、ロッキードから金を貰った事実から目を背けて米国の支配から脱する英雄として評価するのは片手落ちである。過去に聞いた話として新潟県内の工事に関しては民間の工事にまで金を請求する田中角栄と言う人物だ。政治に金が掛かる時代だから仕方がないと犯罪を認めたら法律など誰も守らない。確かに、田中角栄と言う人物は政治家として抜き出ていたのは確かだが、私見では功より罪の方が多かったと思われる。罪は何でも金の世の中にしたことであり、官僚に金を覚えさせた張本人だ。中国の鄧小平が白でも黒でもネズミを捕る猫は良いと言ったが、その結果中国は経済成長を遂げたが、一方では汚職が続出し、見えないリスクを抱え込んだ。田中角栄と言う行動力抜群の政治家を今の時代に望む人達には金融資本主義の時代に金権主義の弊害が見えてないのかと憤りを感じる。次に、江副浩正については、現代のデジタル社会を予測した人物として再認識されており、リクルート事件として世間を騒がせた新株ばらまき行為はえん罪と言わないまでも今なら無罪になったと主張している人達がいる。私は江副は成功した人材広告業に関しては門外漢なので分からないが、多額の借財を抱え江副が居なくなっても会社が存続し借金も返済して事実を見る限り、起業家としては評価できると思われる。しかし、私の事業である不動産業に関して言えば、江副が造ったリクルートコスモスは不正で大きくなったのを見ている。リクルートコスモスの錬金術は簡単な手法だ。高い価格で土地を買っても容積率の緩和を受けて購入以前以上の価値を生み出していたのである。時には、容積率緩和を受けるのを失敗して2層分の空間があるビルも見ている。容積率緩和を受けるには行政側に対して見返りが必要であり、賄賂性が高いビジネスだ。森ビルの2代目社長が東大時代の先輩で知り合いだったので、不動産に対する価値の生み出し方を教わったか見たと推測する。そういう意味で田中角栄も江副浩正も刑務所の壁の上を歩いていた男だ。その事実に目を瞑り、事件に巻き込まれなかったら日本は失われた20年もなく、デジタル社会で世界に先駆けていたと夢想するのは間違った考えと思われる。勿論、二人が逸材であったことは否定しないが、死んだ子の齢を数える様な訴え方は無意味と言わざるを得ないし、良い推定ばかりでなく、もっと悪い事件を起こしたかもしれない。何れにしても犯罪者を美化する風潮は終末論の類だ。

日本人に欠ける科学的な思考

読書は専らAmazon kindle をタブレットとスマフォで行っているが、過去には家やオフィスに読むスピードに追い付かずに積読だったが、最近はAmazon kindle ライブラリに保管している状態だ。読書が購入に追い付かないのだが、登山に係る本は興味が強いのか速読出来て滞留がない。今年に入って二人のプロ登山家に関する本を読んだ。一人は遭難して亡くなったので、その登山家と縁が深い人の書いた本と、もう一つの本は、8000m級の14座を全て登頂した登山家が書いたものだ。後者の方は書名が"登山の哲学"であったのに興味が引かれて購入した。両方ともkindle版だ。最初に読んだのはヒマラヤの無酸素登山で遭難した方の伝記的な本だ。他大学の登山クラブに入り山行を経験し、南米の高峰の登山に成功したのを切っ掛けにプロ登山家になり、SNSを駆使した実況登山の草分けの人だった。私は他大学のクラブに入れるとは知らなかったが、コンサルタントをしている会社の女子社員と早稲田大学のクラブの話をしていた時に、彼女は私はクラブだけですと言った意味がその時には分からなかった。後で他大学のクラブには入れること理解したのだが、確かに入学した大学にないクラブに入りたい時には便利だとは思うものの、変わった考え方でなければ無理ではないかと思った。その記憶があったので、多少変わった人であったのかと思いながら本を読み進めたのだが、遭難した登山家の方は演出的な才能が有り、物語を作るのに長けた人と思われた。一方、日本人で初めて8000m級の14座すべての登頂に成功した方は、低学年で祖父の影響で登山を始め、高校、大学の登山部で経験を豊富に積んだ人だ。大学時代からヒマラヤの遠征隊に参加し、登山経験に関しては申し分にない経験者だ。その上、欧州の登山家に誘われて少数グループの登山を経験した事が当時の8000m級の登山を目指す上で欠かせない技術と医療的な知識を得ている点だ。更に、その技術は天気予報に及び当時の最先端の登山技術を取得するチャンスを得たことだ。遭難した登山家は無酸素登山を標榜してエベレストなど8000m級の登山を目指したのだが、14座登頂に成功した登山家の方と比べて無謀と言える登山技術だけで挑戦を続けた姿を理解できなかった。著者もそれを知りたくて伝記的な作品を書いているが、最後に自殺的な登山で遭難した理由に関しては当然に推測の域を出ていないので、謎を遺した結末にならざるを得なかった。正に、科学的な思考がない典型的な日本人のカミカゼ登山と言える。一方、科学的な思考で14座の登頂に成功した方も山頂途中の脳梗塞や雪崩に巻き込まれての遭難も経験しており、科学を持ってしても避けることが出来ない自然の怖さを表現している。彼より先に14座の登頂を成功できる二人の方が遭難死しているとのことで運の良さを指摘する人が多いそうだが、彼自身は運を否定している。8000m級の14座の登頂成功の過程では運などで片付けられない要件があると思われる。それが日本人の欠ける科学的思考だと推定する。今回の登山の本を読んで、以前に知人から聞いたアフリカでの鉱山開発を思い出した。知人はフランスの会社と合同でアフリカのウラン鉱山の開発に参加したのだが、その時に思い知らされたのはフランスの会社の植民地経営の知識を生かした計画だそうだ。彼の属した日本企業は食料などは現地調達条件でで現地に送られたそうだが、鉱山から近い村まで200km以上もあるので到底無理な事だった様だ。日本人には科学的な思考に欠けると言ったが、置き換えると想像力の不足ともいえる。科学的な思考(=想像力)を駆使しても襲い掛かる自然の驚異は運などの一言で片づけられない深い問題が横たわっている。太平洋戦争で想像力の欠如がもたらした犠牲を戦後も同様に継承している姿を見ると余りにも強大な自然の力を知るゆえに科学的な思考が発達しなかったのかと天を見上げるしかない。

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