最近は英語教育に何処も彼処も取り組んでいる。それ自体は私も別に否定はしないが、外国語と日本語と言う捉え方ではなく、日本語と英語を考えた場合にその違いに驚くと同時に日本の外交交渉、特に米国との交渉に言語の違いによる誤解が生じているのではないかと言う懸念が生じる。特に、カナダのケベックの大学で日本語を教えている日本人が書いた本「日本語に主語はいらない」と米国の出版会社が日本の小説家が書いた本を翻訳する場合の困難さを書いた本「日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題」を読んで考えさせられた。否、私がこの年までそれが分からなかったことの対する無知について考えさせられた。驚いたのは現在の学校教育の日本語の文法が明治期に英語の文法を土台して作られた事実だ。日本人として教育の場で日本語教育の文法を学ぶ過程で感じた違和感が思い出された。フランス語やイタリア語も主語を使わない習慣があるが、それは日本語と異なり動詞の変化の多様性で省略が可能なので有り、日本語に主語が要らないのは言葉の成り立ちからくるものであるからだ。翻訳に関する本では、日本語は自由自在過去現在未来を言葉の流れの中で使い、比喩や隠喩も多く使われるが、英語では過去や現在や未来に関して厳格なルールがあり、論理的な展開が求められる言語で有る為に日本の小説を原文のままに訳すと意味が通じないと指摘されていた。この為、相当な意訳や文面の省略が行われていることに愕然とした。明治以降の米国人の日本人観が二枚舌や狡賢いと言った見方は言語の本質的な違いから生じた誤解による可能性も否定できない様だ。米国人と中国人は日本人より信頼性が高いのは中国語が時制がないことはあるものの、日本語より中国語の方が米国人にとって分かり易いのかもしれない。そう言えば父の大学時代の同窓生が定年退職後に夢をかなえるために中国に行ったのだが、その時に中国語を学ぶ際に英語から中国語を学んだ方が分かり易いと言った話を聞いたことがある。子供の時から英語を学ぶと日本語から英語に翻訳する必要がなくなるから誤解のない会話が成立するかも知らないが、文化や宗教の違いからくる異文化の問題があるので、本当に互いに理解できる関係になるかどうかは難しいかもしれない。米国でトランプが再度大統領として就任するが、政治家としてではなくビジネスマンとしての発想で考える思考の持ち主の上、言葉の壁が立ちはだかるので、石破首相でなくても対等に渡り合うのは大変だと思ってしまう。