タイトルに書いた憲法違反になる意見を敢えて取り上げるのは、少なくても伴侶が民間の企業に勤務していれば「景況」に関しても「経費・時間」の考え方に敏感となり、公務員の仕事にもっと民意を反映した行動となるのではないかという指摘である。公務員と言う職業は基本的には民間企業のようにリストラで首にされる心配はない。大阪府の橋下知事と府労組との交渉で垣間見た公務員の現実離れの言動は、中小イ企業の社員から見れば言語道断であろう。確かに、行政は民間企業の様に収益を考えた組織ではない。しかし、収入以上の支出に対する麻痺(足りなければ増税すれば良い感覚)には驚くばかりである。少なくても伴侶が民間企業に勤めていれば収入に見合った支出と言う意識は持てると思う。もちろん、公務員同士の結婚の比率がどの程度か分かっていないが、最近は公務員同士が以前と比べて増えていることは間違いない事実である。公務員の民意との欠如の最大の理由は、公務員の給料が大企業の社員並みに引き上げられたため、公務員を目指す人たちの動機が国民に奉仕する事でなく、安定した生活になった事が大きなマイナス要因と思える。公務員は貧乏を我慢しろとは言わないが、少なくても民間企業の給与の平均値であるべきである。給料が安いと悪い事するなどと言う議論は話しにもならない。最近は全部と言わないが危険な職業である警察官や消防員まで自己犠牲の精神が失われて来ているのはあまりにも恵まれた老後が待っているからではないか。公務員の給与の高さが、民意から離れる原因を作り、国民を守る職業の公務員が臆病になったのでは税金を納める気力も失う。
低金利の弊害
日本の長く続いている低金利については色々な弊害が出ているが、その中のひとつには不動産開発に関してである。何故、不動産開発に低金利の弊害が出るかと言えば、事業期間中の調達金利が安いので事業計画に対する危機感の欠如が起きるということである。私の若い頃は、不動産開発の事業計画の期中金利は高い時で10%を越え、バブル経済時代には4%台まで一時的に下がったが、数年で直ぐに7%台に戻った。大分昔の話になるが、私が上司にプロジェクトの事業収支を作成するように指示された時に採用した調達金利は7.4%とした記憶がある。この金利は過去30年位の平均金利であったことを思い出す。もちろん、今の時代でもノンバンクから借り入れると6~8%台になるのであるが、低金利の世の中でこの調達金利では事業が成り立たない筈である。今回の都心で起きたミニバブルの地上げ資金には高金利のノンバンクの資金が使われたと思われる。このため、直ぐに更地で転売できれば良いが、そうでなければ破綻は目に見えていた筈である。事業収支計画もまともに立案できないような素人地上げ屋が横行してミニバブルを引き起こしたのであるが、低金利の時代に高金利で調達した事業が成り立つ筈がないのを忘れている。調達金利に鈍感になったのは長く続いている低金利の弊害と思える。
原油高でロシア復活後の世界経済の行方
大国ロシアが原油高で息を吹き返した。今後は冷戦時代とは言わないまでも欧米中心の政策は舵取りの変更を余儀なくされると思われる。ケインズ以降の資本主義経済は成長の実現に試行錯誤を繰り返している。グローバル経済における資本主義の宿命ともいえる「創造と破壊」は想像以上にダメージを受けることも分かった。共産主義時代にエリートとして成長したプーチンは、米国依存のグローバル経済の危うさと、世界標準と言う新植民地主義を見抜いていたのかもしれない。そこに降って湧いた様な資源高騰の原油高が起きてプーチンは失地回復の千載一遇の機会と捉えたと思われる。グルジア問題はロシアの失地回復の始まりとなり、グローバル経済の大前提であった世界平和の推進に陰を落とすかもしれない。この変化は日本にとっては悪い事ではない。地政学的にロシアが強国でなければ日本は米国に政治的な影響を与える事は出来ない。また、今のような無能な政治家の経済政策の失策に対して時間稼ぎが出来るかもしれない。世界標準と言う新植民地主義を遅らせることにもなり、今後は資源を巡っての民族主義の台頭が起きるきりかもしれない。歴史は繰り返すの言葉は生きている。資本主義の停滞に対する「創造と破壊」には戦争も含まれる事を日本人は肝に銘じるべきである。
日本人の先送り体質の弊害
自民党の選挙対策のような景気対策が出た。行政マンレベルの頭しかないと言うか、行政マンにコントロールされている今の国会議員に期待出来ないのは自明だ。此処まで来る前に手を打つべきなのだが、日本人の底流に流れている「先送り」が優先されて何も遣らずに来たツケは大きい。先見の明があれば、今年の春に期限切れとなった石油特別会計の割り増し税を再度延長する様な愚は犯さなかった筈である。1兆円の税を得るために数兆円の減収を引き起こす責任は重い。NHKの大河ドラマ「篤姫」にも末期の徳川幕府の官僚が目先を優先して「先送り」の政策を行っているのが表現されているが、現代の政治も正に同じである。日本の経済停滞は全てが目先の事ばかりの措置で、一向に将来像が見えない不安から来ている事に対し誰も眼を向けないからである。今の日本には政治家が存在せず、政治家と言う官僚ばかりが跳梁跋扈していている。小泉の様なインチキ改革の反動で真の改革まで見えなくなってしまった。政府の御用学者や嘘八百の金融マンなどは小泉改革を中断したから日本経済は悪くなったと言ってるが、小泉改革は、「道徳の欠如」を生み出したばかりでなく、「正直者は馬鹿を見る」と言う世の中にしたことが、日本経済低迷の大きな原因である。信用されない政府が何をやっても効果が出ないのは当たり前である。景況で生活の影響を受けない制度に保護されている官僚の意見に従った政策では、ますます国民が政治と乖離するだけである。政治家が太り、官僚が太り、痩せるのは善良な国民だけである。
物価高で投資信託に走る年金生活者のリスク
余計なお世話の地価公表
今朝のTV報道で地価が下落傾向にあることを流していた。これは公的機関の調査によるもので今は3カ月毎に地価の動向を調査して国民に知らせるシステムとなっている。行政と言うのは一回制度が出来るとどの様な状況でも実施に拘る習癖がある。今の経済状況で地価の下落情報がどの様なマイナス効果を与えるのか考えていない事に腹が立つ。財政難と言いながらこの様な経済情勢が悪化してきている時に無用な調査費を使って公表するのは言語道断である。百歩譲って地価情報を公表するなら住宅地域だけとし、商業地域などの地価公表は行う必要がないことを理解すべきである。本来、土地は購入者自身の価値判断で決めれば良い事で、誰もが仲良く同じ価値を共用する類のものではない。土地を全て投資として考えさせるから可笑しくなるのであり、同じ土地でもその上で行う事業によって当然に価値が異なるのに何故統一した価値に帰結させるのであろうか。住宅であっても然りである。誰もが「成城」や「田園調布」に住みたいと思うわけではない。住みたいと考えるだけの人の価値でしかないのが土地である。それを投資として喧伝するから土地の騰貴が起こるのである。況してや、行政が此処の土地は高いよ、此処の土地は安いよと公表して自然な取引に介入することは、街の再開発に歪みを生じさせる原因にもなってしまう。財政難の今日、余計な予算を切り、財政を健全化する事が行政の責務と考えろ、と言いたい。
ビルの防災用品の備蓄記事に思う
民業を圧迫する無用な独立行政法人
新しい建築士制度の疑問!
今年11月28日から「新しい建築士制度」がスタートする。この制度は建築士の構造偽造事件に端を発して制度の見直しが行われた結果である。この制度の見直しは、役人の失態を民間に転化する以外の何物でもない事は承知の事実である。先の事件は犯罪である。建築士の知識不足や経験不足などから起きた事ではない。一番の原因は、建築基準法の改正で民間に建築確認審査の委託が可能となった審査期間の制度やシステムに問題があったからである。私は民間に建築確認審査を委託すること自体を否定するものではない。問題は小泉政権時代に民間に委託するに際しての検討を十分に行っていないために起きた事件であると言う点である。建築確認の内、「意匠」、「設備」に関しては民間委託でも良いが、構造に限っては役所でも建物の大型化によって審査が困難になってきていたにも拘らずその事を無視して審査能力が劣る民間に「構造」の審査まで委託した事である。尤も、国土交通省はそれに気付いていたから「構造ソフト」を開発を民間に委託して構造設計士にその使用を半ば強制したのである。しかし、この結果はご存知の通り、ソフト自体の欠陥によって構造偽造事件が発生し、マンション販売業者に対する社会的な信用不安が起きたのである。今回の事件で改善しなければならないのは建築士制度ではないのである。その前に民間審査機関の会社に対する査察の強化やスタッフの審査能力などの研修強化制度の確率である。また、「構造審査」に関しては別途現在設置されている建築関係の財団法人や独立行政法人に再委託するシステムを構築すべきである。今回の構造偽造事件により構造審査に硬直性が生まれ、自由な発想による建築物の設計に支障が出てきている。役人の責任逃れの制度の確立が民間の自由な発想を縛り、高コスト化に繋がれば何のための建築確認の民間委託化と言うことである。今回の新建築士制度が役人の天下りの増加に繋がる事は目に見えており、事件を逆手に取った自己増殖である。このため、本末転倒な建築士の講習だけで建築犯罪を防止できない事を知るべきである。
中国冷凍餃子事件に関する報道タイミングの疑義
北京オリンピック開始直前にタイミングを見計らった様な「日中間の冷凍餃子事件に関する情報」を新聞各社が報道をした。この報道の情報源は政府高官からの情報として流されたものだが、本情報は洞爺湖サミット時に中国から報告されたものであり、現時点で公にしない事を日中間で合意したものであった。政府間の合意を簡単に記者に暴露した政府高官とは誰かと言う所だが、リークしたタイミングを考えると今回の一連の中国冷凍餃子事件の真相が見えてくる。最初に事件が起きたのは胡錦濤国家主席の来日前であり、今回はわざわざ北京オリンピック開始前のタイミングを考えた上での報道であった。結論から言えば、冷凍餃子事件は日中間の交流を妨害したい勢力が仕組んだ事件と考えれば分かり易い。今回の報道は語るに落ちたとはこの事かと言うのと同時に、日本人が簡単にマスコミ報道で動かされ易い国民と馬鹿にされていることである。冷凍餃子事件の初期報道では、冷凍餃子を作っている工場が一部報道では前近代的な画面が流された。しかし、実際は清潔な近代的な工場であることが報道され、最初から悪意のある報道であった。今回の様な事件が起こせる組織は世界の情報機関では、米国のCIA、イスラエルのモサドなど限られてくる。平和ボケした日本人は会話で政治的な問題が解決すると考えているが、軍事産業と言う巨大な企業が存在する限り、地域紛争はなくならないことを肝に銘じるべきである。冷凍餃子事件を画策した勢力は、今後は中国の格差社会と役人の腐敗、更には民族対立を煽って分裂を画策してくることが予想される。この画策に邪魔な日本人や日本企業に対しも日中の離反を働きかけると思われる。クラウゼビッツの「戦争論」は未だ現代に生きている事を日本人は考えるべきである。「外交の延長は戦争」であることをである。そうでなければロシアとグルジアの紛争など起きない。
外資導入と騒ぐマスメディアの馬鹿さ加減
選挙で「お願いします」と頭を下げる議員はいらない!
選挙民が当たり前のように聞いて不思議に思わない議員選挙に立候補した人達の「お願いします」の言葉がある。議員と言う職は、選挙民のために犠牲的な精神で働くから税金で報酬なるものが支払われるのである。自己犠牲に「お願いします」と言う言葉が出るのは誰が考えても可笑しいのである。「お願いします」は自分のための言葉であるから、この様な言葉を言って当選して議員になった人に期待できる訳がないと思うのは私一人だけであろうか。私の亡父は若い頃地方議員の職にあった。4年毎の地方議員や地方首長の選挙に出た時の亡父の演説では一度も「お願いします」と頭を下げた事はなかった。身銭を切って選挙を行い、議員として村を良くする活動をするのだから「お願いします」は支援者が言う言葉であり、立候補者が言う言葉ではないとの自説を断固として曲げなかった。後年、同郷の国会議員が選挙の時に夫婦して土下座したTV報道を目にした亡父の悲しげな哀れむ様な顔を今でも忘れられない。亡父は気性が荒い上に正論を唱えたので反対者も多く、然も若いときに農地解放運動などの活動を行った事が旧地主階級から嫌われて政治家としては燃焼し切れなかった面がある。しかし、生涯を通して弱者に対して優しく、地方政治に対する情熱は尊敬に値するものであった。私は今の時代こそ亡父のような議員立候補者が出て来る事を期待したいものである。選挙で「お願いします」と言う言葉は聞きたくない。
国土交通省の無用な配達物
「特定住宅瑕疵担保責任の履行の確保等に関する法律」の施行に伴う「重要なお知らせ」として国土交通省から当社に送付されてきた。法律の対象者である「建設業者」と「不動産業者」の全部に送ったと見られ、財政難で消費税アップの必要性が問われている今日にこの様な無用な配達物に予算を使うとは言語道断である。無用なと言ったのは、業界を通して既に熟知している内容に拘わらず、送られてきたからである。もし、法律の徹底を考えての事なら他に安価な方法が幾らでもあるはずである。そう言えば、小泉政権時代に竹中平蔵の側近が官庁の印刷物を知り合いの会社に随意契約で発注する様にごり押ししたとの記事を読んだ事があるので、今回も同様な理由があるのかもしれない。かって、政府の税調の会長を務めた元慶応大学学長の加藤何某が、TVの討論会で司会が役人の人件費や国会議員の経費の削減などの可能性を聞いたところ、この元学長はこの種の費用を削減したところで高々6000億円だから意味がないといったのを思い出した。確かに、何百兆円と言う赤字国債の現実から見ると無駄な努力と写るのかもしれないが、古来より誰もがこの様な考え方で無駄使いをするならば財政が成り立たない事を指摘されているのである。この様な愚かな政府サイドの御用学者が政府税調の会長を長く務めていたのだから国の財政が破綻するのは当たり前である。なお、今回の施行された「特定住宅瑕疵担保責任~」は住宅価格を高くするだけで本当に購入者に必要な法律かどうか分からない。喜ぶのは保険会社と中小住宅販売会社が駆逐されて競争相手が少なくなる大手住宅販売会社である。保険会社と言えばこの法律で役人の天下りの受け入れ枠を増やす事になると思われので、この法律は役人が天下り先をつくるためのお為ごかしと思える。
現在の不動産会社の危機は経験不足から来たもの!
日本のバブル経済崩壊後の中でも生き残ってきた不動産会社が、世界的な住宅ローン債権に対する信用不安から発生した金融収縮で破綻寸前である。不動産証券化が不動産市場を活性化させたのだが、現物売買では考えられないリスクが内在していた事に気付いた経営者はいなかった。不動産の証券化は金融機関の不動産貸付リスクを分散するために開発された手法の面が強く、決して不動産業者の保有リスクを軽減する目的で開発されたものではない事に早く気付くべきであった。不動産業者にとっては不動産の現物が証券化の手法によって新しい金融商品になると言うマジックが、不動産業に精通した人ほど大きなチャンスが到来したと感じたと推測される。しかし、バブル経済時に金融機関から長期資金を借り入れ、そのローンが抵当証券であった経験があれば不動産証券化に対して絶対的な信頼を置く事はなかったと思われる。誰も今は言わないが、日本にもバブル経済時に「不動産抵当証券」と言うリスク分散型の商品があったのである。現在の不動産証券化商品は単なるペーパーだが、日本の不動産抵当証券は購入者が持分に応じて不動産に抵当権を設定したので米国の不動産証券商品より遥かにリスクが軽減されたものであった。この商品が何故葬り去られたかと言えば、バブル経済後半にはこの抵当証券の発行を引き受ける金融機関がなくなり、中に浮いた形で崩壊したからである。実は今回の危機に苦しんでいる不動産会社はバブル経済当時、住宅産業に従事していた会社か或いは新興会社である。もちろん、新興会社の大半はマンション開発・販売で急成長した会社である。賢明な方は既に気付かれたと思うが、住宅産業は土地を購入して建物を建てて販売するので、資金需要の大半は短期資金の借り入れである。先に説明した抵当証券は貸しビルなどの建築資金の借り入れに必要な長期資金の範疇である。バブル経済時にビルの開発を推進した会社は殆んど消えたのだが、住宅産業に特化していた不動産会社は不動産の長期保有と長期資金の借り入れの必要がなかったために生き残れたのである。今回はそれが裏目に出たのである。不動産証券化商品は引き受けてがいないと成立しない事と、不動産の現物取引と異なり、他の金融商品と同様にクレジットクランチによってマーケットが収縮するということである。不動産証券化商品の登場で不動産取引が半永久的に続くと錯覚した会社は厳しい時期を迎えることになる。高校時代に暗証させられた「平家物語」の冒頭部分の下り「祇園精舎の鐘の声~」が聞こえてくる。
歴史を忘れた日本人!
2大政党政治、大連立が必要だとと言った言葉がマスコミ人からも良く出る。良く考えると、戦前の日本は2大政党が政権を奪い合っていたのを思い出した。また、マスコミ人が大連立は世界の流れと言っているのを聞いて大政翼賛会と言う政党の結集した歴史を忘れたのかと思う。勿論、戦前と現在は政治システムが違うと言うのだろうが、問題は日本人の頭の中味が大きく変わったのかと言うことと、歴史の反省なくして前進は出来ないと言う現実である。自民党の単独政権が長かったので政治の腐敗が起きたこと、及び適度な政権の交代がないと民意を反映した政治が行われないなどの理由によって2大政党政治を目指し、選挙制度を小選挙区制度に変更した事は記憶に新しい。しかし、戦前も小選挙区制であったが、その弊害も大きかったことに対しての検証が抜けていたように思われてならない。中選挙区制の良さは、地元利益中心の政治家でなくても当選する可能性があり、その事が国際社会の中で日本の姿などの大きなテーマで選挙を戦えた政治家を育んだ。日本の高度経済成長は戦後の多党連立の混乱期から単独政権になって開始したことを忘れてはならない。多くの政治家とマスコミ人は55年体制はアンシャンレジームと言って簡単に葬り去ったのだが、世界で最も安定していた日本の政治体制を評価し、恐れていたのは日本と競合していた国々であった。工業社会から知的財貨社会に変化してきた事に対する対応の緩慢さを槍玉に挙げて日本社会に最適なシステムを自ら壊してしまった愚を犯した。小選挙区制度は目先しか考えない政治家達を生み出し、マスコミは混乱した政治を憂いて大連立の結成を促している。大連立よりは55年体制の自民党単独政権の方が、野党の批判勢力がいて社会のセーフガードが有効に働いた筈である。歴史を学んでいれば今日のような愚は犯さず、55年体制を刷新する方法が幾らでもあったと思われる。米国の改革が何のために行われてきたかは為替の変動相場制に移行せざる得なかった歴史から多くのことを学べた筈である。企業人となった学生時代に優秀な友人達も歴史となると皆お粗末くらいの認識しかないのが今の日本人である。
田中角栄の亡霊
田中角栄は功罪相半ばする政治家と言える。しかし、官僚に餞別等の名目で金銭を与えた事によるお金に対する官僚の堕落と教育行政にお金で解決する政策を齎した事に関しては、「罪」の最たるものと言える。尤も、新潟県人にとっては、特に田中角栄の選挙区の人々にとっては今でも雪国を豊かにしてくれた感謝すべき人であるので、私の田中角栄批判には反発するであろう。今回のタイトルで"田中角栄の亡霊"としたのは、今日の日本人の金権主義や教育現場の退廃が"田中角栄"と言う人物を介在して起きているからである。田中角栄と言う男は、「人は金で動く」を信条として実践してきたと思われる。他人が形成した人生観を批評する立場にないが、田中角栄に限っては政治家であり、然も総理大臣にまでなった人物だから批判する権利が私にはあると思う。日本の官僚は一部を除き表面的には金銭的な価値観とは無縁を装うって来た種族である。それが田中角栄が「禁断の実」のお金で官僚を操縦法したことによって官僚のお金に対する執着が一挙に噴出してしまった。その後の官僚については、大蔵省(現財務省)の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」の通り、お金に堕落した姿を見るだけである。この官僚の堕落以上に深刻になっているのは教育行政現場である。先頃、大分県の教育現場での不祥事が報道されているが、この種の話は今や何処の県にも起きていると思われる。田中角栄は高度経済成長期の日本で教育現場に質の高い教師を得るには高額の給料を支給する必要があると誤解したことである。戦前に教育された師範学校出身の教師が立派だったのは国の費用で教育を受けたことに対する恩返しの意味があったからである。高い給料に引かれて教師になった者に高い教育の理想を求めるのは間違いである事に誰でも気付く事である。質の高い教師を育てるのは高額な報酬でなく、人を育てると言う高邁な理想を持って教育現場に立つ者を育てる制度を作ることである。その後の教育現場は政党の離合集散の影響を受けて更に間違った方向に流されてしまったのは悲劇と言うしかない。最近、日本にいながら日本の教育を受けず、インターナショナルのスクールで学んだ若い経営者にお会いしたが、素晴らしい考え方の持ち主であった。改めて教育とは何かを考えさせられた。ちなみに、私の母は戦前に教師の道を選んだ人ですので、今の母親のようには子供に甘くはなかった記憶がある。