田中角栄の亡霊

田中角栄は功罪相半ばする政治家と言える。しかし、官僚に餞別等の名目で金銭を与えた事によるお金に対する官僚の堕落と教育行政にお金で解決する政策を齎した事に関しては、「罪」の最たるものと言える。尤も、新潟県人にとっては、特に田中角栄の選挙区の人々にとっては今でも雪国を豊かにしてくれた感謝すべき人であるので、私の田中角栄批判には反発するであろう。今回のタイトルで"田中角栄の亡霊"としたのは、今日の日本人の金権主義や教育現場の退廃が"田中角栄"と言う人物を介在して起きているからである。田中角栄と言う男は、「人は金で動く」を信条として実践してきたと思われる。他人が形成した人生観を批評する立場にないが、田中角栄に限っては政治家であり、然も総理大臣にまでなった人物だから批判する権利が私にはあると思う。日本の官僚は一部を除き表面的には金銭的な価値観とは無縁を装うって来た種族である。それが田中角栄が「禁断の実」のお金で官僚を操縦法したことによって官僚のお金に対する執着が一挙に噴出してしまった。その後の官僚については、大蔵省(現財務省)の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」の通り、お金に堕落した姿を見るだけである。この官僚の堕落以上に深刻になっているのは教育行政現場である。先頃、大分県の教育現場での不祥事が報道されているが、この種の話は今や何処の県にも起きていると思われる。田中角栄は高度経済成長期の日本で教育現場に質の高い教師を得るには高額の給料を支給する必要があると誤解したことである。戦前に教育された師範学校出身の教師が立派だったのは国の費用で教育を受けたことに対する恩返しの意味があったからである。高い給料に引かれて教師になった者に高い教育の理想を求めるのは間違いである事に誰でも気付く事である。質の高い教師を育てるのは高額な報酬でなく、人を育てると言う高邁な理想を持って教育現場に立つ者を育てる制度を作ることである。その後の教育現場は政党の離合集散の影響を受けて更に間違った方向に流されてしまったのは悲劇と言うしかない。最近、日本にいながら日本の教育を受けず、インターナショナルのスクールで学んだ若い経営者にお会いしたが、素晴らしい考え方の持ち主であった。改めて教育とは何かを考えさせられた。ちなみに、私の母は戦前に教師の道を選んだ人ですので、今の母親のようには子供に甘くはなかった記憶がある。

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