2011年以降は実務家復帰の元年になるか!
昨今の日本ではデジタル社会とグローバル経済のために実務家よりパフォーマンスが旨い人と英語が話せるだけの人を中心に動いてきたが、その人たちでは何も解決しない事が分かり、漸く真の実務家達が登場して来る社会になりそうだ。幾つかの会社ではその傾向が現れてきている。勿論、英語を話す能力は必要とされると思うが、経営のトップに就く能力としてはプラスαで良いと考える。今求められる経営者像はクリーンであり、頭でっかちの管理部門を縮小して現場第一主義と顧客第一主義に戻すことが出来る人であると思われる。特に、IT社会では軽視されがちになってきている現場主義の復活であると考えられる。昨今の日本企業がすべての面で決断が遅いと悪評される原因のひとつには決断できないサラリーマン経営者の存在だが、それを助長しているのは肥大した管理部門の悪影響と考えられる。何故管理部門が肥大したかはそれぞれの会社によって原因は異なるのであろうが、情報化社会になりデータ重視が現場担当の人間を少なくし、管理部門に人を多く配置することになったと考えられる。勿論、データとその分析が重要なのは理解するが、現場の経験が浅い人や机上で考える管理担当ではデータ分析が正常に機能するかを考えれば一目瞭然である。データは飽くまで過去の数値であり、将来の参考にはなるが条件が変われば大きく内容が変わるリスクもある。情報化社会になり、人間の不完全性から経験と勘を軽視される様になったが、大きな事故に繋がる予兆はデータ分析では発見されないケースが多く、効率化の社会では必要以上にチェック機能に資金を投じられないので、サドンデスの予兆を発見するには日常的な人間のチェックしかないのである。特に、システムなど実務家を入れて作ったものでなければ機能しないことも知らない人が多いのも今の社会のリスクのひとつである。何れにしても、2011年は厳しい経済情勢を予想されるので、企業の経営者には経験を有した実務家が登場する年になる予感がする。
良心を失った社会
今朝のTVニュースで又検事が不正を行なった事が知らされた。最近は嫌になるほどその地位に相応しくない者が就いている事実を知る事が多い。電車に乗っても性質の悪い顔付きの者が多く、公共の場で自分勝手に振舞う人ばかりである。何故、この様な社会になったのかを考察すると、やはり20年前のバブル経済崩壊に辿り着く。良く考えると、少なくてもバブル経済崩壊前までは比較的能力がある人や上に立つのに相応しい人が地位を得ていたと思われる。ところが、未曾有の経済バブル崩壊後は上に立つに相応しい人が過剰融資や投資の責任を取って戦犯として退陣し、その後に上に立った人は地位に必ずしも相応しい者ではなかったと思われる。もちろん、業界によってもバブルの後遺症が違うので一概に言えないが、少なくても人間的に器量が小さい者が地位を得たと思われて仕方がない。政治の世界でも実力で権力を奪うのでなく、仲良しグループの盥回し政権の樹立が相次いでいる。この様な社会を見ると誰もが俺でもその様な地位に就けると錯覚し、気が付いたら真面目に仕事するのが馬鹿にされる社会になって行った。インチキ、嘘八百でもそれを見抜ける人達が相応しい地位に居ないので、可笑しげな人物がTVや成功者として評価され、誰もが一攫千金を狙う社会になってしまった。この結果、成功者になれず必要以上に不幸感を持つ人々が増え、他者に対して敵愾心を持つ社会が現出した。本当に今の社会は弱いもの虐めの現象ばかりであり、犯罪までもが同様である。自分の不遇を嘆くなら本来は政治家や官僚や財界人に矛先が行くはずなのに、現代の日本では自分と同様な者に刃を向ける負け犬根性の犯罪者ばかりとなった。先日、茨城県取手市で20代の青年が自分の人生を終わらすと言って刃物を振り回したが、やはり矛先は自分と同じ一般市民に対してであった。この現象を良く考えると、旨い事を遣った奴が良い思いをしていると勘違いしての行動と思われ、能力や努力による違いと思わないために起きる事件と解釈できるのではないかと推察する。このため、怒りの矛先が権力者に行かないで、一般市民が犠牲になる事件が多発すると考えると今の世相が良く分かる。しかし、この現象は良心を失った社会としか言いようがなく、何時になったら地位に相応しい人が地位に就く社会に戻るのかと思ってしまう。
阿久根市の市長リコールに見る日本人の愚かさ!
税収18億円、市職員等報酬25億円の改善を目指した鹿児島県の阿久根市長がリコールされた。リコールの理由の一つに議会と対立してイレギュラーな市政運営を行なったことが挙げられている。なお、市長の改革は賛成だが、急激過ぎるので議会と市職員の合意を得て段階的に遣るべきとの方々がリコールに賛成したらしいが、この様に考える人は何も理解していない人々であろう。利害関係者が話し合って着地する案では何等の改善は期待できない結果しか生まないのは歴然である。このリコール騒動で子供の頃の記憶が蘇えってきた。亡父は若い頃に政治家を志し、田舎の議員として頑張っていた。家庭を省みないで議員活動に注力していたので、家族は犠牲を強いられた記憶がある。その様な亡父に対して選挙民が下した判定は、亡父が若い頃労農党に属し、農地解放運動を率先して行なったことが亡父の改革に危険的な思想の持ち主として拒否であった。亡父が議員として無償で頑張った姿を見ていたので、無能力者や金で当選者を選び、亡父を二度も落選させた出生地に対して私は今でも何か尽くしたい気持ちにはなれない。市民所得の平均が200万円なのに市職員の給与の平均が700万円と言う馬鹿げた状況に対して市民が下した判定が僅差と言えどもリコール成立では遣り切れない。このリコールを成立させた背景には、マスコミ、官公庁労働組合、県、更には総務省などの阿久根市政に対する非難発言である。しかし、この発言でリコール票を入れた選挙民は一部の利害関係者以外は馬鹿としか言葉が出ない。市が破産財団の指定を受けて初めて分かる愚かさであろう。何れにしても阿久根市長は全国の自冶体に一石を投じた事は確かであり、期待はずれの片山総務大臣など百害合って一利なしである。所詮は元自冶官僚の小役人である。
財務省主導の政策では国家が滅ぶ
法人税率5%引き下げに対して相変わらず減収分の財源確保をどうするかと言う議論が出ている。一見すると当たり前の議論に思えるが、この予算の考え方が場当たり的な弥縫策となり、日本経済や社会の停滞を招いている。最近、国家の経営に企業会計の考え方がないから駄目なのだと言う声が主流になり、多くの自冶体で貸借対照表(B/S)や損益計算書(P/L)、更にはキャッシュフローなどを導入している所が増えてきている。しかし、これ等の議論の前に、予算が単年度主義と言う問題点が横たわっている事に手を加えないと枝葉末節の議論が横行することになる。また、国家百年の大計とは言わないが、少なくても20年後の日本の在り方で予算を組む長期的な対応が必要であり、その考え方で初めて計画期間中の事業の見直しで先の企業会計が生きてくるのである。幾ら優秀な頭脳を持っていても単年度予算主義に縛られている内は場当たり的な処理しか出来ず、凸凹を調整する能力しか発揮できなくなるのである。勿論、長期的な視点で政策を行うのは政治家であり、官僚ではないと反論が出るかもしれないが、行政の事務を取り仕切っている官僚以外に真っ向勝負できる組織や機関がないのが今の日本である。然も、官僚は頭が良いから各種委員会を設けて有識者が重要な政策を政府に上程した様に誤魔化しているから尚更始末に悪い。今の日本人はNHKドラマの"坂の上の雲"や史実に正確でない"坂本龍馬伝"などを見て英雄を待望しているが、戦後教育を受けた日本人に期待できる訳がない。昔の役人には天下国家を考えて清貧に甘んじていた者が多数いたが、今は大企業並みの報酬と生活の安定を求めて就職した間違ったエリート意識持ち主ばかりだから国が良くなる訳が無い。財務省の官僚は小泉を担いで国民のためにならない構造改革を断行したにも拘わらず、再度民主党政権に取り入って再度間違った道を進もうとしている。財政改革優先の財務官僚主導では日本経済や日本社会は没落するだけである。増税など断固反対である。日本国内に富があるから増税議論が起きて相変わらず政治家や役人が無駄使いをするのである。減税などを税収が不足するなら不要不急な事業支出を止めるべきである。仕分け作業で問題点になった事業の多くが閣議決定されない現状を見る限り、現内閣にも期待できない。国民は豊かになり怒りを忘れてしまったが、今怒りを上げないとウィキリークスで暴露された様にシンガポールの役人に馬鹿にされる二流国家になってしまう。
現状の政治体制を産み出した"タテマエ"社会の悪弊
日本の社会は文系・理系のアンバランスが停滞の原因!
先日、NHKの現代クローズアップで先端医療技術の承認が米国と比べて大幅に遅く、医療現場で支障が出ていることを採り上げていた。日本のある会社が先端医療器具を開発して承認の手続きを進めようとしたら、基本的な問題で立ち往生してしまい、米国の承認に活路を求めて窮地を脱したことが放送されていた。米国の承認システムは専門家を配置し、承認期限を明確にしたもので、承認を受けようとした日本の会社は目を瞠ったそうだ。先端医療の承認現場だけでなく、日本の行政組織は至るところで疲弊しており、今の日本社会の閉塞感は全て行政組織が作り出したと言っても過言ではない。日本の行政組織が疲弊した原因の一つに行政組織の幹部に文系出身が圧倒的に多いことと考えられる。特に、法学部出身者を多く配置した弊害と断定できる。我々以上の世代では情報化に関して文系と理系の出身では大きな差が出てきている。理系の出身者は80歳を越えても常に新しい技術などに興味を持つが、文系出身者は50歳位でもPCなどに関して積極的に学ぶ姿勢に欠ける。公認会計士や弁護士という困難な国家試験を取得した連中でも同様であることを考えると、今の行政組織の重大な欠点が見えてくる。私が大学を卒業して10年位経った後に母校の大学の研究室を訪問した時に教授からカリキュラムが我々が学んだ時にと違い2学科を学ぶ様になったことを聞いた。その理由は、従来の学科単位では新しい時代には通用しないためとのことであった。それから20年以上の時間が経過したので、今の若い方は我々世代と頭の中身が違うと思っている。しかし、米国では古くから大学の専攻途中に大学を変わる事は勿論、専攻学部も変えられる教育システムであり、最近では3学科の学問を学ぶ必要性を打ち出している様だ。推測であるが、米国の映画を見ても非常に科学的であり、あらゆる部門に多才な者が出現するのは文系と理系のバランスが良く配置された社会組織だから、先の先端医療の承認システムに関しても日本が敵わないと考えられる。優秀な人とは一面的な学問しか学ばない人ではなく、多岐にわたった知識を有している人を指すのであり、その様な人でなければ急激に発展する情報化社会の指導者にはなれないと思う。その様に考えると大学で2学科を学んだ人達や更に3学科を学んできた多面的な発想を出せる世代が主要な地位に就くまで日本の社会は停滞すると予想できる。
議会制民主主義の限界は情報開示・暴露で打開できる
改革派首長と地方議会が対立している。もともと地方の首長選挙は市町村を二分して行なわれることが多いので、選挙後に議会の多数を握っている首長の当選でないと議会がスムーズに運ばないケースはこれまでも多かった。地方には自立した選挙民とでも言える存在が少数派なので、首長が改革を行なうのに必要な議員の支持を取り付けることは困難である。先般、市長と市職員の報酬の引き下げを議会で可決したが、議員の報酬は否決した新聞記事を見た。全国の市町村が財政難の折、議員が自分達の歳費だけ減額しないと言う現実を見る限り議会制民主主義の限界を感じる。勿論、先の議員報酬削減の否決結果を見て選挙民は議会のリコールを求めたにしても「自立した選挙民」が少数派の限り、地縁血縁の選挙で再度議員の多くは返り咲いてくるので、意味を持たない絶望感がある。議会制民主主義が欠点を抱えながら存続してきたのは、これ以上の方法が見出せなかったからだが、情報化の時代になってヒトラーが指摘した民衆「群盲像をなでる」の無知から抜け出せる期待が出てきた。先の「自立した選挙民」に成長するためには政治の世界で開示されなかった多くの情報が開示・暴露されることが必要であったからである。最近、世界を驚かせた「ウィキリークス」の米国外交電報文書の暴露などは典型的な「自立した選挙民」の出現には欠かせないと考えられる。日本には、古来より「本音」と「建前」と言う二律背反した言葉があるので、庶民が知らなくても良い事は聞きたくないと言う風潮がある。しかし、この風潮が政治を悪くし、行政の無駄を作ってきたことを選挙民は自省しなければならない。何れにしても、民衆は多くの情報源によって真偽を判断する事は可能になって来たので、アジテーター類の政治屋に騙されない「自立した選挙民」になる必要がある。
ニセモノが横行する時代
人でも物でもニセモノが社会を跳梁跋扈している。ニセモノが横行した背景には大学のビジネススクールのMBA資格者に由来するという説もある。その理由の一つには、ビジネススクールのカリキュラムが「科学的・学術的な業務モデル」で組まれており、多くのMBA出身者が会社の重要な地位に付く様になってより実務的・専門的な事柄が軽視された結果であると言われている。しかし、この現象はここ十数年の出来事であり、私の知る限りは年配者のMBA資格者は実務的・専門的な事柄を重視していた。昨今のニセモノの横行に関してはデータ重視の統計的な手法が重要な地位を占めてきた以降と考えると辻褄が合うことが分かる。この背景にはパソコンの性能向上によるデータ分析手法が金融資本主義の効率経営と相俟って実務家・専門家軽視となる若いMBA資格者の出現があったと考えられる。ニセモノの出現はMBA資格者を始めとしてあらゆる専門職に出現し、その結果社会にニセモノが横行し、人々は"ホンモノ"を探すようになった。しかし、始末が悪いのは物なら見分けるのに苦労はしないが、人間のニセモノは容易に見分ける事が出来ないので困ることになる。勿論、当の本人はニセモノと思っていないかもしれないので更に厄介である。尤も、物の中には"ホンモノ"の"ニセモノ"もあることに気が付いている人もいる。これが何かと言うと、ブランド品の製作を新興国などに発注した結果、新興国の更に下請け会社が"ホンモノ"を"ニセモノ"として闇で売るのである。グローバル経済が生んだマイナス面であろう。何れにしても、何がホンモノで何がニセモノかを見分けるのは簡単ではなく、プレゼンテーションが旨い人や会社に仕事を任せている間はホンモノよりニセモノが横行する時代と思われる。
裁判員制度の導入で法律の根底にある常識が活かされる
子供の頃父親から法律は常識である。法律に触れるかどうかの判断は常識なことかどうかを判断すれば大きな間違いがないと指摘された。それ以来、大学で法律を専門的に学んだ訳ではないが、人生において誤った判断はしていない。裁判員制度の導入で世間が喧しくなっている。法律家と称する裁判官の判決より裁判員の方が死刑判決が多い事を指摘して世界の趨勢から逆行していると批判している人もいる。人の生死を左右する判決には法律の専門家に任せるべきとの論調もある。しかし、良く考えると裁判で訴訟を行なった人が少ないから今の裁判が常識に欠けた裁判官によって多くの判決が出ている事を知らないで言える批判が多いと思われる。小泉改革の悪しき一例として裁判の効率(スピード化)がある。効率よく処理した裁判官が出世できるシステムに変えたことにより、刑事事件においては犯罪者の量刑が軽い判決となり、民事事件においては和解を受け入れなかった方に重い判決が出るよになった。驚くべき事である。それが一審に関しては、裁判員制度により刑事事件に関しては是正される可能性が出てきたから、社会人として常識に欠けた裁判官の判決よりはましになると思われる。勿論、裁判員制度が定着し、弁護士も裁判員制度に慣れて来ると米国の様に弁護士の作為的な演出で裁判員の理性的な判断を誤らしてしまう可能性もない訳ではない。しかし、現状では裁判員の判決の方が裁判官より常識に適った判決になると思われるので、裁判員制度を支持したいと思う。そう言えば、最近、裁判官が裁判員の死刑判決に対し、被告人に上告を勧めたことが報道されていた。この裁判官の発言に対してマスコミは裁判官のコメントを掲載していなかったので発言に対する前代未聞の理由は分からないが、この行動にも裁判官の非常識が分かる。マスコミなどは裁判員が下さした死刑判決に対して被告人の上告により裁判員の心の負担が軽くなることを考えての発言であると解釈していた。私はそれは事実なのかと考えてしまう。反省のない凶悪犯の被告人なら延命するために当然上告が予想されるので、裁判官の発言は蛇足と思われる。このため、推測でしかないが、この裁判官が死刑反対論者と考えれば、裁判員の判決が裁判官の判決より死刑の場合が多いことに対する警鐘の意味で発言したと解釈すれば理解できる。死刑反対論者の裁判官が凶悪犯を社会に戻して再度悲劇が起こるケースを考えると憤りを感じる。若い頃に凶悪な殺人を犯す人は遺伝子的に異常がある人であると書かれた本を読んだことがあった。もしそれが科学的に事実なら医学的に改善しなければ再犯の可能性がある訳なので、単なる法律論で片付けられる話ではない。裁判の世界に効率を持ち込むより、医学的や科学データ的、更に遺伝子的な判断材料を持ち込んで判決する方が重要と思われる。この様な意見は人権的な問題として反対を受けるが、犯罪者に人権があるかと言いたい。被害者の家族を考えたら犯罪者の人権など擁護するに値しない。