小泉改悪のひとつとして建築確認申請の民間委託があるが、改悪前では起きなかった耐震構造強度不足の問題が相次ぎ、各地で行政庁と民間審査機関に対して賠償裁判が起こされている。この裁判結果は予想とおり、行政庁などが責任を逃れる判決であった。行政訴訟は勝てないと言うセオリーがあるが、今回の耐震構造強度不足に関しては最終的なチェックを行なう機関として責任がないと言うことになり、日本の建築物に対する信頼がなくなる問題なので看過できない。裁判官は実務経験がないなために、専門知識を要する裁判においては権威者が作成した意見者などに左右される事が多い。更に、行政訴訟の場合には、裁判所は行政を擁護する思想が蔓延っているので公正さが欠けている面が強い。建築確認申請に関する規制緩和は米国の圧力から準備も整っていないうちに実施した最悪のものだが、特に建築確認申請においては、行政レベルでは審査しきれない高層化建物が増大したにも拘わらず民間委託にした無責任さには怒りを抑えられない。民間委託を前提に国交省はチープな構造計算ソフトの使用を義務付けたために、建築設計の自由度まで奪う結果となっている。先日blogで書いた行政も技術が分からないゼネラリストが実権を握っているために軽薄な社会システムになりつつある。耐震偽装事件が起きた後には構造に関しては別な観点から評価基準を模索したのだが、何故耐震偽装事件が起きたかも検証せずに場当たり的に行政の責任を回避する遣り方は今後も同様の間違いを引き起こす懸念がある。社会に安心感を与えるには行政が最終的に責任を持つことなのである。現在が不安な社会になっているのは政治家と官僚が無責任な社会を築いたからである。本来なら、耐震構造の強度不足に対する責任は最終的なチェックを行なった行政や民間審査機関が受けるべきものであり、如何なる理由があろうとも逃れられないのが社会の重みである。先般、無縁社会を指摘したTV番組が放送されたが、それを生んだのは無責任社会そのものである。小泉改悪の中のもうひとつの事例として裁判期間の短縮化がある。裁判官の出世に裁判期間の短縮化が基準となり、裁判官は十分な審議期間を与えずに直ぐに和解を勧める様になった。その結果、和解に応じない方に不利な判決を出すようになり、裁判所において正義が失われた。この様な社会が行き着く先はテロだけである。米国社会がテロに怯えるのは正に正義が行なわれていないからである。日本も遅かれ早かれ米国の様にテロに怯える社会になるかもしれない。そう言えば、耐震構造強度不足裁判の判決と期を同じくして北海道の一級建築士事務所と所属する一級建築士が耐震構偽装の嫌疑で登録抹消されたために起こした裁判は、登録抹消を回復させる判決であった。確かに裁判の常道「疑わしきは罰せず」であるが、両方の判決は整合性を取った様に感じられ、正義が消えた瞬間である。
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