長寿社会の対価

大層なタイトルだと思われそうだが、福祉についての話題ではないし、多くの問題を抱えている介護業界の話でもない。実は日本社会が駄目になった理由のひとつに長寿社会の出現がある様に考えたからである。大津市の中学生のいじめに起因した子供の自殺に対する教師の無責任さやあらゆる所で見られる無責任と自己保身は、生に対する執着の結果と思われるからである。日本人の中高年層は何時から死を忘れてしまったのかと考える。然しながら、死は我々の周囲の至る所に存在しているのだが、健康的な個人レベルでは、死の意識はそれほど身近な問題ではなく、定年やリタイアした後の長い時間の方に関心が強いと見られる。病気や自殺で死ぬ人に対しては不運な出来事と片付けて自分とは係わり合いのないことと思っている人が大半である。尤も、病気で入院した人でも自分が死ぬとは思わないし、思いたくもない筈である。特に、医療技術などの高度な発達で昔なら死んでいた人でも生かされているのは真実だ。一度きりの人生だから急いでこの世からお去らばしたくない気持ちは私も同様だが、長寿社会が人生で大事な物を失ったことも事実と思われる。その失ったものとは、人は死に直面して初めて人は真剣になれるし、人生の重要な場面に遭遇したときに立派な判断が出来ると思うからである。この事に言及しているのはアップルの創業者の一人で、IT界に偉大な業績を残して50代で亡くなったスチーブ・ジョブスである。彼は自分が死ぬと言うことを忘れずにいるといると、大きな人生の選択をする時に助けてくれる重要なツールになること述べている。ジョブスは、死を意識していると、外部からの期待、誇り、きまりの悪さや失敗を恐れる気持ちなど死を前にすると消えてしまい、本当に重要なことが残ると述べている。確かに、ジョブスが指摘するように死にたいと思う人はいないかもしれないが、人はいずれ死ぬ運命にあることは否定することはできないと。日本人は本来は古来より死生観を持った民族と思われる。自然の中に生命を感じ、人のみならず植物にさえ擬似的に生命を持たせた。生を感じるということは常時死を意識していたという事である。医薬品が発達する前の60年前には結核で死ぬ人も多かった。常に死と直面してきたことにより、他人に対する優しさも生まれてきたのである。しかし、秋葉原事件など無差別殺人に見る様に現代日本は自分の不遇を他者に転化し命まで奪う社会になっている。長寿社会に必要なのはお金と勘違いした多くの日本人が、お金と自己保身に走った姿が他者を省みない社会を生んだと思えて仕方がない。この殺伐とした現代社会が長寿社会の対価としたなら人は長生きしている意味さえない。地震、台風など自然の不条理な災害で生命を絶たれてきた日本人が培ってきた死生観が科学技術の進歩により失われていた所に、千年に一度の東日本大地震と未曾有の原発事故が起きたが、日本人が死生観を取り戻したとは言えないようだ。野田総理が決断する政治などと言っているが、死を忘れた政治家連中が良い選択の決断など出来るわけがない。政治家や官僚に目を開かせるには死を意識させる方法しかない。

  • entry536ツイート
  • Google+

PageTop