皮肉だが、グローバル経済と情報社会に相応しい理想社会は、明治維新ではなく江戸時代の幕藩体制の分権社会と再生社会だと考える。安倍ノミクスは相変わらず金融資本主義の経済成長を進めているが、本末転倒と考えざるを得ない。19世のクラフト(手工業)の時代、20世紀のマス・プロダクション(大量生産)の時代であったが、21世紀はマス・カスタマイゼーションの時代と指摘されている。マス・カスタマイゼーションを実現するには、情報伝達の形を考えれば中央主権や道州制度の導入でないことが理解できる。江戸時代には小規模な藩が貨幣まで製造して他藩との貿易や藩内の殖産を行っていたのである。その社会は消費社会ではなく正に再生産社会であった。小規模の藩が独立して立地にあった経済運営を行ったのだが、情報化社会とは正に小さな行政体が機動的に動くことが必要と思われる。江戸時代の幕府は外交と通貨の基準と防衛を司っていたのである。灌漑事業など土木事業などには豊かな藩を起用して行わせたのである。明治維新後の中央集権社会は産業革命後の時代には必要であったが、資本の移動が自由になり、情報の発達により世界が狭くなった今は、中央集権国家ではなく、分権国家の集合体が理想的と思われる。その点から、日本で言えば江戸時代こそ見習うべきシステムが存在したのである。特に、江戸時代は人と動物と植物が共棲する社会であった。近代資本主義の様に略奪社会でなかったのである。良く人間は爪と歯を持っているので競争社会こそ自然だと唱える理論が横行しているが、必要以上に競争して急激に社会を発展させ、地球のバランスを壊したらどうなるかは触れていない。勿論、急激に発展した科学技術が齎した現代社会を否定することは出来ないので、問題はグローバル経済と情報社会がもたらした効率が生み出した縮小社会を如何に軟着陸させることが出来るかであろう。世界がフラット化する中でどの様に社会が繋がって行くのかを考えて新たな国家像を構築する必要があると思われる。然しながら、最近の政治を見ると、明治維新や戦前の軍国主義的な先祖帰りを唱える人達が多くなってきている。未来が見えない人達に政治を任すわけにはゆかない。冷静に周りを見渡せば、スモールワールドが広がっているのが分かるのである。冒頭に書いた江戸時代のことは、極論を唱えて多くの人に改めて未来の国家像を考えて貰う意図であった。中央集権の強化や道州制の導入は情報化社会には過去の遺物の考え方である。大規模原子力発電もその意味から言えば恐竜であろう。マス・カスタマイゼーションの社会では大規模な装置は不必要なのである。行政も然りである。
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