脱原発派と原発再稼働派の不毛な二極化

日本中を二分して脱原発か原発再稼働かで不毛な議論が行われている。日本人はどうして冷静に過去の出来事を分析して今後に生かすことが不得手な国民なのであろうか。一つの理由としては、マスメディアが国民に対立を煽る記事を流していることも無縁ではないが、日本人は深く物事を洞察すると言う習慣に欠け、直情的に判断する傾向が強い気質にも起因しているのかもしれない。正に、風土で培った気質であろうが、地震、津j波、火山、台風など自然の驚異に晒されてきた日本人は情報化社会以前では、生き残るには風評などで素早く動くことを余儀なくされてきたからでもあると思われる。勿論、自然による影響の他に人工的な明治以降の教育制度も一因と考えられる。

何れにしても、脱原発を唱えている人の多くは、福島第一原発事故に対する結果だけの判断であり、自然災害の地震に対して原発の怖さを強調するだけである。私は原発再稼働派ではないが、今回の福島第一原発事故がなぜ起きたか。何故、多くの人的ミスによって被害を拡大させたのかを国民に周知徹底させることが重要であるとの認識を持っているからだ。脱原発派の中で悪質なのは小泉純一郎と思われる。理由は高レベル放射能の最終処分場が造られていないことを理由にしているからだ。福島第一原発原発事故による反対ならば、同様に東日本大地震に見舞われた東北電力の女川原発、東京電力の福島第二原発、日本原子力発電の東海第二原発が無事だった事で原発全体の問題でなく、福島第一原発の特殊性に議論を転嫁できる可能性があるからだ。

福島第一原発事故の対応の誤りを明らかにすることは、今の日本社会が陥っている問題解決能力の欠如に光を当てることになり、原発だけでなく、日本の再生に役に立つものと思われるので、単なる脱原発や原発再稼働の議論に集約しては欲しくないからだ。その様な意味では、小泉元首相のワンフレーズの脱原発は、日本社会を危うくするものであり、日本を間違った方向に導く悪魔の囁きだ。

福島第一原発事故は遡れば電力自由化問題に迄行くつくものである。経済産業省が電力自由化に舵を切ったことにより、東京電力は老朽化した福島第一原発の稼働延長を強いられたのである。又、大地震による津波の影響の懸念が起きたにも拘わらず、日本原電の東海第二の様に防波堤の嵩上げ工事を行わなかったのは、電力自由化に備えた資本効率の問題が裏にあった。円高による国内工場の多くの移転にも拘わらず、電力供給に関して電力会社に設備投資を求めてきた経済産業省の責任は重いのである。勿論、政治家を使って電力行政に立ち向かってきた電力会社にも責任はあるが、経済産業省の電力行政は木を見て森を見ずの類であったことが、一番の問題点であったことは確かだ。

翻って、福島第一原発事故に戻れば、東京電力の経営者の国民を考えない対応、更に管首相を筆頭に解決能力と統治能力を失った対応が被害を拡大させた事実は重い。それが管元首相の様に事故の間違った対応の責任も取らずに脱原発の旗頭になった無責任さが今日の日本社会を作ったのではないか。この批判無くして脱原発はあり得ないのである。特に、事故時の対応に議事録を取らせなかったのは、後から責任を追求されないためなのは確実であり、これが為に当時の事故処理の貴重な情報が将来に活かされないと言う馬鹿げたことにもなっているのである。

日本を変えるのは、今起きている脱原発か原発再稼働かなどの二者択一の不毛な議論ではなく、何が事故に際して問題であったかを徹底して議論することが重要である。特に、事故の調査に関しては、多くの委員会で報告書が取りまとめられているので、その報告書を基に脱原発の議論を進めるべきと思われる。何も知らない者が直情的に運動を進めること自体が国家の危機であり、その様な意味では、日本は多くの分野で国家の危機に遭遇している。

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