人と神 言葉の評伝「立花隆」を読んで

立花隆は私の故郷の茨城県と縁があるジャーナリスト・作家なので興味があったが、初めて知ったのは政治家の田中角栄の金脈を文藝春秋で暴いた時であった。立花隆に関しては父から故郷が生んだ農本主義者の橘孝三郎の孫として聞いた記憶があるが、実際には父親が従兄弟同士であり、孫ではない事を知った。橘孝三郎は戦前に軍人と右翼が起こした5.15事件に関わった人物だ。立花隆はペンネームで本名は橘隆志であることも知ったが、生まれは長崎県であるものの、幼児の時から高校1年まで水戸に住んでいたので、故郷の著名人として扱っても良いと思った。特に、立花隆の母親は私の生まれた寒村の隣町出身であることも興味を持った。伯父に関しては興味がなかった様で残された資料の中に言及したものがなかったのは残念であった。立花隆は過去より未来に興味があった様であり、田中角栄の金脈で政治に関わったが、政治に関しては興味がなかったのかその後に「日本共産党の研究」以外に政治を論じたものはない様だ。立花隆の興味は根源的なものに移っており、私自身は立花の著作はあまり読んでいない。今回の評伝で「宇宙からの帰還」や「臨死体験」などの著書があり、人間の体験の影響の問題を扱ったのが大学に入り直し、哲学を学んでから書かれたものであることを知った。今回の評伝を読む前に立花隆が書いた前衛音楽家の武満轍の伝記である音楽創造への旅を読んでいるが、同署は長い間出版されて来なかったのを立花のパートナーの死を契機に世に出されたものであることを知った。今回の立花隆を論じるのに人(哲学)、神(キリスト教)、言葉(音)のタイトルで示している通り、立花の内面から分析しているのに納得させられた。両親が無教会派のキリスト教徒であり、子供の頃から大きな影響をうけて育った為に神の存在に関しては哲学を学ぶ必要があったのだろう。以前に井筒俊彦の著作を読んだが、立花が井筒の影響もうけている事が書かれており、井筒の場合には仏教の影響からイスラムのスーフィズムの研究に進んでいるが、子供の頃から宗教に触れていると何かしらの啓示を受けて探求することになるのかと思った。人を論じた本で評価が高いロシア文学に影響をうけたのも立花と井筒は共通している。尤も、立花は武満徹の音楽に言葉の深さを感じたのは井筒と違っているが、井筒が研究したイスラム教の祈りは音楽的な響きもあり、仏教の読経も同様であるので、言葉(音)と捉えても良いかもしれない。音は人の耳では消失するが実際には遠くまで無限に響いていると言われている。言葉は共通なものではないと言われるが、それは言葉を心に響かせるには言葉自体より音の響きが必要なのかもしれない。立花が若い頃にキリスト教に対して抱いた排他主義は同じキリスト教でも正統以外は異端として排斥することに疑問を抱いたからではないかと指摘されている。宗教以外でも正統以外は異論として排斥されるのが社会の現実なのを見抜いたが故の悩みであったのかと思われる。立花が最終的に言葉に行き着き、その言葉の音に関して何かの啓示を得たのかもしれない。

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