twitterが東北太平洋広域大地震の災害時に役に立ったのは確かだ。お年よりは全く関与できなかったが、若い人たちやボランティアなどの人達が呼応した影響力は従来にないものと思えた。マスメディアは同じ報道を繰り返すだけであったが、電気などインフラが遮断された地域の人達にもtwitterは希望の光を送り続けた。確かに、庶民が手にしたある意味では大きな力であると思ったが、使い続けている内に色々と気が付いた点があった。twitterが生まれたのは米国である。facebookも米国だ。米国の若者が自分達が使うのが便利な道具として開発されてきた。古くはアップルもそうだ。いまや世界的なアップルも当初はマニアックな仲間が集り、その内に企業化していったのである。アップルの創業者のスチーブ・ジョブスも企業家の顔の他に今でも少年の様な気持ちで自分が欲しい物を追い求めた結果が大きな成功となっている。勿論、少年の様な気持ちで追い求めても成功する訳ではない、スチーブ・ジョブスの様に並外れた妥協しない物づくりの心とデザイン思考が相俟って初めて成功に辿り着けるのである。更に、企業化には能力を評価する投資家も存在しなければならないのだが、twitterを成功に導いた投資家の存在こそ標題に掲げた「twitterのバイアス」である。twitterを利用している誰もが意図的にtwitter上の発言はコントロールされているとは思っていない。良く考えれば、Eメールは米軍が構築した情報伝達技術がベースである。以前からEメールは米国の軍事用サーバーでチェックされていると言われたものだが、中国も正に国外に出るEメールに関して不都合な部分がある時には消している。私も体験的しているので確信をもっているが、米国は中国の様に露骨な干渉はていないが、当然に他の方法で対応している事は確かである。その様に考えると、twitterの中味についても、バイアスが掛かっていることが理解できる。米国を非難したtwitterの拡散を見れば分かる。逆に言えば、米国が意図する方向のtwitterは驚くほど拡散すると言うことである。単なる若者が作ったtwitterとfacebookがこれ程までに広がった原因は米国政府の支援があったからと推測するのは被害妄想であろうか。私の見解を疑うなら自らtwitterで色々な発言を試せば良い。拡散を検証してゆくと反米的な意見は拡散しない。しかし、米国が叩きたい政治家などに対する批判的なつぶやきは驚くほど拡散する。若者の夢を壊すようだが、現実の社会はパワーゲームであり、競争に勝つためには何でもありの国であるので、万事疑うってかからないと遣られてしまう。
六本木ヒルズの高層建物が福島原発の事故による電力不足で節電を強いられる中でガス発電システムのコジェネレーションで評価を受けている。建築した森ビルとしては竣工後に起きた色々な事故の忌まわしい記憶を払拭するのには好都合と思われる。しかし、建物造りを長く行なってきた当社としては、六本木ヒルズの事故などはお祓いでもしないと拭えない嫌な事件である。六本木ヒルズの建設地は土地履歴的には、大名屋敷や寺社があった場所であり、因縁話をすれば、江戸時代の忠臣蔵で有名な赤穂浪士達が死罪を受けた毛利藩邸があった場所でもある。不動産・建築の仕事を行なってくると、多くの非科学的な現象に遭遇し、因縁話を簡単に切り捨てられない経験をする。特に、土地に纏わる話は時系列的に言い伝えられるので良く記憶に残る。私が子供の頃に曾祖母や祖母に聞かされた土地の話としては、所有するのを嫌う土地の存在があった。所有を嫌う土地とは、そこを所有すると何代目かで血族が途絶えるということである。六本木ヒルズの場合、考えられない回転ドアの事故で子供が亡くなったことであり、エレベーターの事故、高層階のレストランの火災など竣工後に多く起きた。又、入居テナントの破綻が異常に多く、縁起を担いだテナントは退出している。六本木ヒルズは敷地内に高層マンション等も建っており、その内の1棟で芸能人が引き起こした女性の薬物死も話題になった。身近なところでは、私が管理しているビルにテナントとして入居していたことがある飲食店の社長がヒルズのマンションに住んでいたのだが、これ又経営破綻してしまった。勿論、大きな敷地に大高層ビルと高層マンションが林立して利用者も多いので、確率論から言えば、根拠がある事件の発生なのかもしれないが、何も起きない縁起の良い建物もあるので、確率論では割り切れない思いが残るのも事実である。私自身は若い頃は無神論者であったが、祖母の危篤で帰郷中の出来事などからこの世には科学では解明できない現象があることを理解した。人や会社によっては悪霊などに負けない強さがあると思われるので一概には言えないが、私自身は因縁の土地や建物は敬遠したいと考えている。運気を逃す原因にもなるからである。
東北太平洋大地震による津波に関して多くの識者は過去との比較を論じているが、この議論では比較データに関して前提条件が抜けている。明治時代の三陸沖の大津波は38m規模であることが地層や崖に残されていた標しで判明しているらしいが、冷静に考えれば明治三陸沖地震から100年以上経過し、この月日の中で強固な防波堤や防潮堤などが造られているのである。今回の大津波には役に立たなかったと言われているが、少なくてもその防波堤や防潮堤があったから今回の被害で済んだとの考え方も出来るのである。その様に考えると、今回の大津波は過去に例がない規模と推定され、近年世界中で起きている災害の大型化と相関する。数年前に米国のフロリダを襲ったハリケーン「カトリーナ」の事を思い出す。このハリケーンは史上最大規模といわれ、ニューオーリンズの大堤防が決壊して大きな被害となった。災害の大型化は温暖化現象によるとの説もあるが、現状では解明されていないのが現実だ。太陽の活動が活発化している影響もあると推定されるが、太陽の活動は周期的なものであるので災害の大型化の原因とするには説得力が弱いと思われる。しかし、間違いなく災害の大規模化は世界中で起きている現象なので、東北の復興計画に対するインフラ復旧に関しても単なる過去の比較と今回の津波の大きさだけで結論付けて行なうのは間違いとは言わないが、配慮が足りないように思われる。況して、財政難が前面に出され、予算ありきから復興計画を立案したのではお金の無駄使いとなる可能性が高い。人類が誕生して1万年、その内科学が発達して森羅万象を解明してきた時間は2千年前後だ。人類誕生以前に滅亡した恐竜の時代もあるが、その滅亡に対する明確な科学的な答えは推定の域を出ていない。話題が飛躍しすぎてSF的な内容になってしまったが、結論から言えば、今回の大津波は過去との比較で論じる以上の規模の大きさであり、この現象は世界的な災害の大型化と相関している恐れがあるので、少なくても復興計画には地球規模の大異変も頭の隅に置いて欲しいと言うことである。日本列島が今回の大地震を機に変動の時代を迎えたならばエネルギーの確保には従来の発想では役に立たなくなる可能性もあり、近代化による社会システムの普及も考え方を改める必要が出てくる。杞憂になって欲しいが、地球が何らかの活動期に入り今後とも大災害が起きると仮定すれば、多くのインフラの大規模化と集中は危機管理に対してはマイナス要因になる。豊かさの追求から生存可能なインフラが必要となると考えれば、少なくてもローカルの強化による東北復興が今後の指針といえそうだ。
東北太平洋大地震から1ヶ月以上経過してマスコミ報道と違う動きが東京では起きている気がする。尤も、4月の時期特有の動きなのを誤解しているのかもしれないが、少なくても飲食店は懸念された様な売上げの落ち込みにならないのではないかと思われる。確かに、3.11直後は自粛ムードで飲食店には人が少なかったかもしれないが、都心に限れば計画停電や余震で何時電車が不通になるか分からない状況では帰宅が早くなるのは当然と考えられる。しかし、余震は続いているが、地震に対する馴れの感覚と計画停電の取り止めなどから多くの人の生活が通常に戻りつつあり、次第に冷静になると消費の落ち込みによる経済悪化の懸念の方が気になり、自粛ムードに反対する意見が出てきた。この流れが飲食店の賑わいに繋がってきている様に思える。確かに、今回の大地震や原発事故を見ると、明日の運命など誰も分からないと言う思いが強くなったのではないかと思料する。年金受給の不透明さや高齢化社会による経済悪化などの予測から、リーマンショック以降は老後の事を考えて外食などの消費を控えてきたのが実情であった。しかし、大地震以外でも交通事故や通り魔に遭遇しないとは断言できず、刹那的とは言わないが一日一日を悔いのない生き方をする考えに変えたことが飲食店の妙な賑わいになっている気がする。勿論、個人の生き方以外に大災害後のビジネスの今後の動きに関する情報を求めて人の交流を増やしているのも事実であり、その動きも飲食店の賑わいを後押ししている面がある。何れにしても、以前はインフレで見た目の給与が上がった事や豊かな社会でない中で育った世代は将来に対する不安がなく思い切り消費にお金を注ぎ込んだのが経済成長を促したのである。今回の大災害で日本人の考え方が変われば社会が変わるかもしれない。期待したいものである。
統一地方選挙が行なわれているが、立候補者の相も変わらない「お願いします」の連呼が不愉快だ。職業政治家とすれば生活が掛かっているので「お願いします」は普通なのかもしれないが。議員の報酬は税金である。住民の為に働いて初めて得られる報酬だ。日本語の解釈では、「お願いします」は自分の為の言葉である。朝の通勤者に呼びかけるなら、「お願いします」でなく「私は・・・・・を実現します」と言い方であろう。その政策に賛同した選挙民が票を入れるというのが選挙であろう。百歩譲って、足早に通る通勤者に主張を聞いてもらえる時間がないと立候補者が言うならば、端的に理解してもらえる標語を作るべきであろう。今日の立候補者の公約で評価できるのは、議員定数の削減と報酬の削減である。財政難の陥っている自冶体で最も必要な事は経費削減である。現役の議員は現行の報酬を減額されると政治活動に支障が来たすと言うが、それなら立候補しなくて良いと言うのが選挙民の声だ。今の議員が365日政治活動を行っているかと言うと大半が何もしていないのが実情だ。借金過多の財政の自冶体にした現役議員などは立候補を辞退すべきなのに、平気な顔をして立候補してきて当選後4年間自分の生活の為に報酬を得ているのである。議会制民主主義は職業政治家の登場で議員の利権の場になってしまった。議員の他に仕事を持つ事でその経験が生かされるのは議会制民主主義と考えるが、職業政治家の出現で若き頃から政治活動しか経験がない議員が多くなり、政治に知恵がなくなった。悪く言えば、議員と行政マンである公務員との区別がなくなり、議員など居なくても良くなっているのが現実だ。良く考えれば、下は市町村議員、中間に県(都・府・道)議会議員、上に国会議員がいるのだが、議員活動で重複している部分が多いので、それぞれの議員数を大幅に削減しても住民にとっては何等困らない。逆に必要な人達は議員ではなくボランティアの扱いの地域の民生委員であろう。議員を減らして民生委員を増やして手当てを支給したほうが余程世の中の為になる。
金融資本主義が日本を席巻し、日本企業は「選択と集中」、「効率経営」などに邁進した。確かに、日本企業は資産の有効活用が少なく資本の効率が悪い面があったのは否めない。また、多くの不採算部門の事業もインフレ時代は省みられなかったが、デフレ経済に入り、重荷になったのも事実である。更に、自己資本と比べ借入金過多の経営もデフレで継続できなくなって来たのも事実である。しかし、効率経営しなければ生き残れない民間企業と異なり、準公共事業会社として赤字経営にならない電力会社が安全を無視して効率経営に邁進したのは誤りと言える。JR西日本の事故も効率経営から起きた悲劇である。顧客より株主優先した結果が多くの乗客の人生を奪った。福島第一原子力発電所の事故を起こした清水社長は経営の合理化・効率化で出世してきた人らしい。福島原発に対するIEAの調査による安全弁の設置に関しても直ぐには実行せず再度の勧告でしぶしぶ実施したとの情報もある。今回の福島原発事故でこの弁がなかったらモット最悪な結果となったと推定されている。ここ15年で起きた工場などの事故は効率経営の結果で起きた安全に対する配慮を欠いたものが殆んどと思われる。安全とは、孔子・荘氏の「無用の用」である事と思料するが、欧米かぶれの経営者は省みもしない。清水社長がトップに立つまでにどの程度の経費を節減したか知らないが、誰が考えても福島原発事故で発生する賠償額の方が格段と大きいと思われ、効率経営の大きなツケとしては痛すぎる結果だ。清水社長と言う人物は東京電力の使命を忘れた最悪な経営者であろう。勿論、社長に登用した現会長も同様な責任があることは言うまでもない。
西日本からの勢力が関東東北の勢力を平らげて日本統一を成し遂げたのだが、その後幾たびか関東東北地方で反乱が起きては鎮撫されてきた。日本は外見的からは単一民族の国家なのであろうが、近年のDNAの研究で分かったのは、日本人が出アフリカから枝分かれした全てのDNAの継承者であり、内面的には単一民族とは程遠い人種であることだ。私の故郷は北関東の茨城県北部である。江戸時代は水戸徳川藩35万石の領地だが、その前は守護大名の佐竹藩の領地であった。他県人から見ると、茨城県と言ったら水戸黄門であり水戸徳川藩であるが、土着の人々にとっては長く続いた佐竹藩に対する思慕は深く、水戸徳川藩は進駐軍の位置づけであった。特に、佐竹藩の出身地である常陸太田市周辺の民は心からは水戸藩に靡かなかった。それでも水戸徳川藩には土着の多くの人が藩士として召し抱えられたので、水戸藩士の気質は関東武士そのものであった。水戸藩が全国的に有名になったのは、江戸時代末期の「桜田門外の変」と「坂下門外の変」の井伊大老の暗殺と安藤老中の暗殺未遂の事件である。水戸っぽと言われる性格は正義心が強く短気なことである。明治維新後も茨城の青年は5.15事件の犬養毅などの要人暗殺事件を起こしているので、水戸人の近代史は暗殺で血塗られている。この5.15事件が2.26事件と繋がってくるのだが、軍部を揺るがした2.26事件は東北地方の貧しさと旱魃による女性の人身売買を悲憤慷慨して起きたことである。2.26事件後には日本は中国侵略に邁進することになったのである。近代史で東北が日本の方向を変えた瞬間が2.26事件とも言える。私の浅学な知識で歴史を論ずるなどおこがましいが、今回の東北太平洋大地震による東北地方の復興が正に2.26事件と同様に今後の日本の進路をかえるエポックになるのではないかと思えて仕方がないからである。ちなみに、先に触れた佐竹藩は、今回の原発事故のエリアも勢力範囲であり、仙台の伊達藩と死闘を繰り広げた場所が相馬地域である。今でも方言的には、茨城県北部といわき平及び相馬方面とは同じである。私が子供の頃の盆踊りの民謡は相馬盆唄であった。今回の大地震と津波、更に原発事故は日本人の生き方まで変える様な出来事になると考えられ、それが東北地域に端を発した事に意味があるように思われて仕方がない。近年、国が赤字国債の発行で900兆円もの負債を抱えたので地方都市の公共投資などは無駄なものとして取り扱われる様になったが、日本の工業化や経済成長のの犠牲になって来たのは常に地方なのである。日本の農業が何故駄目になったかは、今の中国と同様に経済成長の為に多くの若者を地方から奪ったからであり、そのために農業が犠牲になったのである。危険な原子力発電所も同様である。日本の経済成長の為に産業界の要請で電力料金が安くなる原子力発電所の建設を邁進したのである。都会の人達は地方の犠牲の上に自分達の豊かさが築かれているのも忘れ、地方に対して切捨て論まで出てきたのである。都市の豊かさと快適さは地方がリスクなどを代行しているから得られていることに漸く今回気付いたと思われる。日本が物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさを持てる様な国づくりを行う事が求められてきているが、正に東北の復興が今後の日本の針路を決めることになるのではないかと思われる。
日本のマスメディアは相変わらず悲観的な記事を書いている。電力不足による生産の影響や東北地域の生産工場の復旧の懸念などは報道されなくても誰もが分かる。国民が本当に知りたいのは、電力不足に対処する前向きな方法や地震による工場の早期復旧に向けての情報を得られることだ。尤も、他人の褌で仕事している記者連中に想像力を働かせて復興に参考になる報道を期待する方が間違っているかもしれないが。報道の酷さは紙面やTVに登場させている専門家と称する人達の胡散臭さもある。マスメディアが意図的に選んだ専門家など信用するに足らない。然し翻って世界を見れば、リーマンショック以降は先進国の景気対策で金融緩和した過剰流動性で投機マネーが暴れまくっていたが、世界の工場の部品供給者となっていた日本が大地震と二次被害にの原発事故で世界経済にブレーキを掛ける役割となり、予期せぬ世界経済のソフトランディングに貢献する事になりそうだ。勿論、今回の日本の大災害は景気回復に水を差すとの意見もあるが、加熱した資源争奪戦争に対して冷静さを求めた効果は大きい。然も、世界で唯一の原爆被爆国である日本が、クリーンエネルギーとして世界中に起きた原子力発電所の需要に慎重さを求める事になったのも天の意思かもしれない。原爆被爆国の日本が原子力のリスクを忘れて海外に原発リスクを拡大しようとした強欲が天の怒りを買ったのかもしれない。この様なことを書くと、オカルト的な狂信者と思われるかもしれないが、建築業界では今でも建築に対しては地鎮祭から始まり、建物の最下部には人柱的な紙人形を捧げて天と地に祈りを捧げるのである。天と地を敬う心があって初めて建築工事が無事安全に行なわれるのである。最近の日本人は神仏を敬うどころか蔑ろにしている面が顕著に見られる。幾ら科学が発達したとは言え、自然の脅威には人智などは及ばない。謙虚さこそが大災害を乗り切る力である。世界中が貪欲になり、神の時間を越える動きにあって、世界中に自然の驚異と人がコントロールできない原子力に対する警鐘をならし、世界経済をソフトランディングさせることになった日本の大災害の意味は大きい。
私は地震の専門家でないので素人意見としてだが、大地震の2日前の3月9日から地震計は、「宮城県はるか東方沖」で連続多発地震を感知していたので、この動きから東北地区の住民に対して地震可能性について警戒広報出来なかったのかと考える。専門家は予知に慎重になるのは理解するが、少なくても異常な動きを示していることが人々の頭にあれば地震発生時の対応が早くなったのではないかと推測される。また、地震が来た時に現在の状況で何が問題かを考える事も出来たのではないかと推察される。勿論、今回は大きな地震であったが、大きな被害を引き起こした最大の原因は地震によって引き起こされた津波であるので、この大津波までは当然に予想できなかったので地震計の異常を知っても被害は変わらなかったと反論があるかもしれない。然し、今回の被災地の中では、津波リスクの高いエリアに住んでいた住民が日頃から避難訓練と避難経路を定めていたので災難から逃れたケースもあるので一概には言えない。東日本では座標が変わるほど水平と上下に移動した大地震であったので、地震計に異常が出ていたのも理解できる。私が疑問に思うのは気象庁が政府にこの異常を伝えていなかったのかと言う事である。もし、政府に伝えていたにも拘らず地震発生には不確定なデータとして握りつぶしていたとすれば大問題になる。今回の大地震に関して地震計の異常な動きについて今更語っても意味がないと指摘されるかもしれないが、私は今度この様な地震計の異常が出た場合には政府はどの様な対応をとれば良いかを考慮すべきだと言いたいのである。同じ様な現象が生じても大地震が起きる可能性は確率的に低くても警戒警報を出す事は重要と考えるからである。
今の職業政治家は正に公務員だ。政治資金規正法により多額な政党助成金を政党が受け取り、個々の議員は報酬の他に十分すぎる秘書手当てや調査費が支払われ、一等地に議員宿舎まで用意されている。若手議員などはこの待遇でも政治活動には資金が足りないと不満を言っている。900兆円の赤字国債を懸念しているのにである。この様な有様を見ると、政治家が公務員化し、国民の声など聞こえなくなっている事が分かる。今回の大地震の対応や原発事故では2種類の公務員が対応したために政治が機能していない。このため、世界から日本の政治の無能さを嘲笑されているのである。自民党の故人となった三木武夫と言う職業政治家が政治の浄化を目的に政治資金規正法に取り組んだのだが、本人もこの制度が政治を公務員化させるとは考えなかったと思われる。尤も、三木武夫と言う議員は、病気で寝たきりになり国民のために仕事が出来なくなっても在職50年を超えると国会に写真が掲示されるので、自己利益のために寝たきりで報酬を貰い粘った議員であった。少なくても、議員報酬くらいは国に返せと言いたい最低な議員が作った政治資金規正法など所詮、国会議員を堕落させるものであった。政治を国民に取り戻すには、先ず、政党助成金の廃止と政治資金規正法の改正である。企業と癒着した汚い政治家は汚職で逮捕すれば良いので、企業献金の禁止など解除すれば良い。議員が政治資金を集める行為が世論を知る事になり、結果的に政治に反映されるのである。政党助成金や過剰な報酬などを与えれば公務員化する議員が増えるだけでなく、今回の大地震の災害復旧中に民主党の長島議員(元逗子市長)に様にボート遊びを行なうような輩が議員に出てくる。政治家が公務員化して駄目なのは、公務員より実務が出来ず、能力が低いので税金をドブに捨てていると同じだからである。日本人は記者クラブ制度の官製報道のマスコミに乗せられてクリーンな政治を求めたが、実際には官僚に頭が上がらない政治家が生まれただけであり、まんまと官僚に国民は騙されたのである。政治とは清濁併せ呑む器量があってこそ国民のためになるのである。奇麗事で腹は満たされない。
与野党の政治家もマスコミも米国債(70兆円規模)の売却に触れない。表面的には二つの理由からと推測できる。ひとつは、10兆円もの米国債を売却してドルを円に換えると円高を招くと言う理由だ。ふたつは、今回の災害に米国がtomodachi作戦を展開して日本を支援してくれたことによる義理立てからである。裏面的には、当然にこの災害を利用して従来の財政再建に必要な大増税を行なう算段だからだ。災害対策の全てが遅いのに公務員給与5%引き下げを官公庁労働組合の承諾を得て国会にザル法の公務員改革案を国会に提出する早さは、大増税に対して国民の目先を誤魔化すためである。先の米国のtomodachi作戦などは、中国の防波堤になる日本が沈没したら困るので米国の冷徹な政治によって行なわれているものであり、日本のお涙頂戴とは訳が違うのである。為替が政治で動いている事が明確に分かったのは、円高が必要な時に円安に動いて来たからである。勿論、この考えには当然反対意見が出ると推察するが、リーマンショック以降の円高などマスコミが報道している資金の安全な避難先としての日本などではないのである。その様に思わせる報道をしているマスコミの罪は大きい。私が言いたいのは米国債70兆円の内の10兆円の売却である。7分の1も未曾有の大災害に使えなければ国民のためにならない資産と言う事になる。もし、復興財源として米国債の売却が行われないならば、今後の増税など認めるべきではない。大災害を利用して増税を企てるなら政治家も役人も命を捨てる覚悟で行えと言いたい。国民に対し大災害で消費が減少するのを承知で敢えて更なる痛みを伴う政策を実施するには当然に命と引き換えでなければならない。公務員の給与5%引き下げなどで誤魔化されるものではない。勿論、国会議員定数の半減も引き換えに行なうのでなければ国民は承知しない。
日本では古来より大災害などが起きると「人心一新」して新たな体制で取り組んだ。江戸時代には年号まで変えて危機を乗り切ったのである。「人心一新」の意味するところは様々な解釈があると思われますが、災害以前の体制が持続した場合には責任問題などが邪魔をして復興がスムーズに進まないことを懸念した配慮と考えられる。先人の知恵は今でも有効と思われるので、今必要なのは正に管内閣が辞職して復興内閣を立ち上げる必要があることである。菅内閣が辞職しないとすれば、私利私欲で動いており、国家国民を考えていない証拠である。国民が求めているのは新しい顔である。大災害前の顔が何時までも出てきたのでは過去を振り返って悲しみで前に進めなくなる。今の政治家を見ると本当に小人物しかいない。日本はデフレ克服と財政再建と言う中途半端な二兎を追う政策を進め来たために経済が深刻化した。大災害にも財政再建などと言う戯言が顔を出し、国難に対して馬鹿げた議論を進めようとしている。日本経済の復活に足を引っ張っているのは政治だと言う記事が掲載されていたが、正に当を得たものだ。しかし、大災害の復興に政治が足を引っ張る様では看過できない問題だ。官僚を超えた政治家が独りもいないのかと情けなくなる。福島原発事故は海に大量に汚染水を放流し放射能を拡散させたことにより、今後は国内問題から国際問題に発展してくる可能性が高い。海洋汚染が深刻化すれば賠償問題は天文学的になる可能性もある。国家の叡智を結集して福島原発事故に対応しなければならないのに未だ東電の対応レベルしか見えていない。菅首相は福島原発事故直後の視察に問題が出ているのだから首相を継続して国家的危機に対応しているのは相応しくないのである。国民の声が聞こえない政治家など百害合って一利なしである。「人心一新」を打ち立てた新党を作り、国難を乗り切る政治を期待したい。
日本は世界でも類を見ない災害発生可能性エリアに位置しており、日本国民のDNAには大災害に対する記憶が刻み込まれていると思われる。しかし、現代社会の様に科学が発達していなかった時代での大災害に対する術としては、大災害に立ち向かう意識よりはどちらかと言うとじっと我慢して耐え抜いて記憶の彼方に追いやる方法しか選択はなかったと思われる。日本人は台風一過性民族とも言われるのは、どんな災害でも時間が解決してくれると言う楽観的な考え方でしか生きられなかったためかもしれない。日本には四季があり美しい自然に恵まれているのは、大災害の危険地帯に位置する天の恵みかもしれない。勿論、日本人は自然の驚異に一方的に敗者となっていたわけではなく、その時代で可能な技術水準で自然に対してササヤカな抵抗を行なって来たことも確かである。しかし、喉もと過ぎれば暑さも忘れる諺の様に過ぎ去ったことに執着する日本人は少数派と思われる。長い時間の中で培われたDNAを変えるのは容易ではない。阪神大震災の悲劇は遠い記憶ではないのに今回の東北関東大地震には余り経験が生かされていない。幾ら都市型災害と広域地方型災害と違っても、非常時における組織の対応は同じな筈であると思われるのに平時の対応しか出来ていないのには驚きである。自衛隊を大量に投入すれば非常事態に対応できると考えての事であれば、戒厳令により自衛隊に総ての権限を集中させなければ出来る訳がない。被災地は行政機能も失われていることを想定して素早く手を打つ事が重要なのに情報がないとの理由で官邸は動かない。恐れ入り屋の鬼子母神だが、日本人は事前に想定して物事を決めると言う事には下手な人種である思われる。これは何も災害に対してばかりでなく、全ての範疇で起きている現象だ。後では取り返しのつかない建築物なに関しても楽観的だ。そのため、想定が狂うと対処の仕様がないのが現実である。色々な分野でリスクマネジメントを言われるが、今の日本社会にはそれが根付いているとは思われない。リスクマネジメントは現場を熟知しないと出てこない発想だからであり、日本企業のトップの殆んどが企画畑など頭でっかちの出身のために古来のDNAの欠点を払拭されていないからである。原発事故の東電もトップは正に現場軽視の連中で構成されている。
東北関東大地震による津波を防いだ15mの防潮堤を造っていた村が存在したとは驚いた。その村とは岩手県譜代村である。明治時代の大津波の言い伝えが今は故人となった「和村幸得」村長の脳裏から離れず15mの防潮堤の実現に繋がったとのことである。建設当時は15mの防潮堤に対して反対もあったらしいが、反対を押し切って造った防潮堤が今回の大津波に有効に働き、多くの人命を助けた。県内でも10mの防潮堤を造っていた町はあったそうだが、今回の大津波には効果がなかったので、もし故和村村長が反対の意見を聞いて妥協していたら、他所と同様な被害を出していたと思われる。ひとりの政治家の執念が多くの村民の命を助けたことを考えると政治の本質が見えてくる。政治と現場を考えると、首長や議員の位が上がるほど現場と乖離し大衆迎合的な政治家が多くなる。当選するために信念を曲げる様な人は政治家に向かないが、今の社会では信念を持った政治家など皆無であり、選挙民のために働く思いなど微塵も感じられない。今回の大地震では多くの事を学べる機会であるので、「良い政治とは何か」、「良い社会とは何か」を考える必要があると思われる。日本は地震、台風、津波、火山など天災に見舞われる事が多いので、早く忘れる事で災害に対する痛みなどから回復してきたが、現代社会は災害に対し事前に備える技術が飛躍的に向上しているので、問題は政治が機能しているかどうかと思われる。過去の教訓を生かして来なかった日本人の台風一過的な民族性ではグローバル社会では生き残れない。
TV番組で新聞社の論説委員が日本の報道は悲観的な記事を書いて国民の発奮を促すスタイルだが、その様なスタイルは社会が変わり、国民も性質も変わったので変えなければいけないとコメントしていた。しかし、今回の東北関東大地震及び二次被害の福島原発トラブルを見る限り少しも変わっていない。日本の部品輸出の停滞で世界経済まで影響が出るので大変だと大合唱だ。一方では、「頑張ろう」や「日本は負けない」などウザッタイコマーシャルで一杯だ。報道で先行きの不安が増せば、地震に関係ない東海・西日本まで自粛ムードが広がり、悪循環が起きてしまう。マスメディアの報道などなくても経済に影響が出るのは分かるので、国民が知りたいのは記者クラブ制度でコントロールされた情報でなく、本当の被害や企業の工場生産体制の復旧などの情報だ。大変だとマスメディアに騒がせて国民の知らない間に何等の構造改革を伴わない増税が行なわれる危険だ。財務官僚などは増税の下地が出来たと国民の不幸など省みずに動いている。故事で「」雌鳥が鳴くと国滅ぶ」とあるが、正に日本では「マスメディが騒ぐと国滅ぶ」である。大変だの合唱で増税路線に一直線だ。米国債70兆円を復興に使わずして何時使うのか。今回使わなければ二度と使えない。保険会社や企業が地震復旧の為にドルを売って円に変えるから投機筋が動いて急激な円高になったと報道されているが、投機筋とは米国なのは間違いない。日本国内にお金があるのに海外のドルを売って円に換える企業など居ない。復興予算に米国債の売却報道がないのは一目瞭然だ。増税に対してマスメディアも後押ししているからだ。行政改革と政治改革なくして増税は認められない。