メタボ対策で毎日ひと駅前で降りて帰宅するのだが、週末にはその駅ビルの本屋に立ち寄って面白い本があれば購入するのが習慣となった。先週末は購入してまでも読みたい本もなかったので店を出ようとした時に山岳コーナーが視界に入った。時間もあるので偶には山岳の本でも見るかと足を向け、「単独行者」の本のタイトルに惹かれて手に取った。本の主人公は、昭和初期に活躍した伝説の登山家「加藤文太郎」の生涯が書かれたもので、副題に「新・加藤文太郎伝」と記されていた。タイトルの単独行に惹かれたのは、私自身が学生時代に単独登山を多く経験していたからであった。私の山登りは18才になってからであった。東京の高田馬場の下宿先で出会った同郷の小野君に誘われて丹沢山系に足を踏み入れたのが登山に目覚める切欠だった。その後、彼とは秩父山系や南八ヶ岳などを一緒に登ったが、後は大学の同学科の南雲君を誘った以外は常に単独行であった。単独行は若さゆえの無茶であったかもしれないが、大学の山岳部やワンダーフォーゲル部に所属して集団で登山する事を好まなかったので、単独行は自然な成り行きであった。しかし、今考えると指導者もいない登山で何度も未熟さゆえの危険な目にあったことは確かであり、私クラスの登山で大袈裟かも知れないが、現在生きているのも不思議なくらいの体験も有している。今振り返ると、会社経営にも山登りの体験が生きていることは確かで、人生に「if」はないが、それでも私が山登りをしていなければ、現在と違った経営者になっていたことは間違いないと断定できる。その様に思えるほど自然に立ち向かった時の人間の弱さを思い知ったからである。今でも大学の同学科の南雲君と会えば、当時の登山の話が出て貴様の為に死ぬ所だったと酒の肴として皮肉を言われる。彼との登山は二回だけであったが、その二回とも私の無謀な計画で彼を窮地に追いやったことは否定できない。確かに、春山の北八ヶ岳と南八ヶ岳の縦走ではその年には例年になく残雪が多く、硫黄岳から横岳に入り赤岳に到る過程では困難を窮めた。然も、ピッケルもアイゼンも持たずに入山した報いが堪えた。死ぬ思いで赤岳山荘に着いた時に、山荘の主人に我々の軽装を見て驚かれ、山荘の土間に土下座をさせられて説教させられた苦い思い出である。遭難者を探すのには二重遭難のリスクもあり、我々の様な無謀な登山家に対して山荘の主人は腹が立ったのであろう。昭和初期の伝説の登山家の新伝記を読んで、登山の危険さが一方では登山の魅力であることに改めて気が付かされた。人と言うのは危険の中に身を晒すことで存在を確認するのかもしれない。勿論、登山の途中の絶景や登頂時の達成感は何事にも替えられないものであり、北アルプスの槍ヶ岳山頂に早朝一番乗りをして日の出を迎えた壮大なパノラマなどは言葉にならない程の感激である。又、雪渓の下を流れる水と雪渓の氷で飲むウイスキーは一番美味い酒であった。社会人になってからは組合活動で執行入りして文化部長時代に組合員を連れて登山したこともあったが、それも30才を過ぎて辞めてしまった。登山は不思議なもので辞めると急に熱が冷めるものである。しかし、バブル経済が崩壊後に一度山登りを再開したことがあった。多摩山系から始め、丹沢山系、秩父山系と足を伸ばしたのだが、日本アルプス山系には体力的に戻れずにその内に仕事も忙しくなり山登りを辞めてしまった。見果てぬ夢かもしれないが、もう一度北アルプスなどに登り美味い酒を飲んで見たい誘惑に駆られる。
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