冲方丁の光圀伝を読んで

冲方丁の「光圀伝」を読んだ。この作家は「天地明察」と言う本を書いた作家だが非常に博識だ。歴史小説は若い時は読んだが、年を取るに従って理由はないが余り読まなくなった。徳川光圀公、本名より水戸黄門の名前で親しまれた水戸徳川家の二代藩主である。長い期間に亘ってTBSTVで放送された典型的な勧善懲悪の水戸黄門ドラマで有名になったが、私自身は江戸時代の領地区分から言えば水戸藩の領地の出身にも拘わらず興味がなかった。理由の一つは出身高校の所在地が旧領主の佐竹藩の発祥の地であり、応援歌にも徳川でなく「佐竹源氏の白幡~」などの歌詞があることと思われる。それ以外にも、水戸光圀公の父親の時代に徳川に反抗する多くの民を殺した事が領民の心の中に残り、水戸徳川は占領軍的意識が潜在的にあるかもしれない。そうは言っても、私の母の母親の実家は水戸徳川に使えた武士の家系であり、母は時代錯誤的に平民出身の父に対して良く、私は士族の出だからと父に腹が立つことがあると言っていた記憶があり、水戸徳川家とは関係ないわけでもない。特に、明治時代には私の曽祖父が水戸家所有の山林の管理を請け負って木材切り出しで貢献し、水戸徳川家から銀時計を賜った経緯もある。この銀時計は祖父が戦前に満州から引き上げる時に馬賊に取られたと言われ、私は見たことがないのだが、幕末の時に水戸家の領主が徳川幕府の名代でパリの万博に行く途中にローマ法王に謁見したときにローマ法王から賜った銀時計であったらしい。今残っていたならば家宝に値する価値があったと思われ残念である。話は横道にされたが、今回光圀伝を読む考えに到ったのは、故郷の歴史上の人物に対して余りにも無知であることを思ったからであった。又、茨城の地に文武両道の教えが生きているのは、旧佐竹藩と言うよりは、水戸徳川家の教えと理解したからであった。光圀伝は歴史小説だが史実に基づいて書いていると言われ、読むにつれて徳川光圀公の偉大さに驚いた。同時に、日本人の欠点も余すところなく書かれており、太平になった世の徳川幕府を見ると、正に現代日本の政治家と官僚を表わしていると思われた。わが母校の近くに光圀公が隠居した西山荘や水戸徳川家の歴代のお墓のある瑞龍山も遠くない場所にあったことを思い出した。記憶では高校生ながら水戸藩主の隠居家屋の西山荘の粗末さに驚いたものである。光圀公は若いときには派手な衣装で江戸市中を徘徊し、暴れん坊であったと言われている。その後、文事に目覚めて学問を学び、当代一流の学者にも引けを取らないほどであった様だ。現代日本の政治家や高級官僚に欠けているのは武道の稽古で養われる胆力であり、当時の学問である論語、朱子学なのど「義」や「考」の教えであることが分かった。私自身は光圀伝を書店で見て不思議と迷いなく手に取り読むことになったのは何かに導かれた様な気がした。この時代のこの年で光圀伝を読んだ事が、今後のわが人生に大きな影響を齎すのは間違いない。光圀伝は自分が歩んできた生き方を振り返り、今後に生きる指針となる歴史小説と思われた。
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